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冷凍されたオシドリとチューリップ人の王国

趣味で書いている小説用のブログです。

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虹よ、契約の虹よ〈20〉

八章 憑依者たち(2/3)



 2.

 その出会いが果たされる一時間ほど前、正午、椙山は日課の定時巡回に出た。見習い時代は十二人で小隊を組んで行っていた。悪魔崇拝者や悪い魔術師に対する示威行為だ。同郷の西田潤とはいつも同じチームだった。今は一人だ。
 定時巡回には、椙山はロザリオを二本持ち歩く。一つは紐と木の珠でできた自分の物で、通常の装備品だ。もう一つはワイヤーと黒いビーズでできた予備の装備品で、西田潤の遺品だった。
 世界中の宗教と宗教文化がごった返すこの地区で、椙山はさほど目立つ存在でもなかった。それが先週の魔害以降変わった。椙山の姿を見ると、話していた人は黙る。道の真ん中を歩いていた人は隅に寄る。横目で、あるいは堂堂と、警戒と恐れの入り交じる視線を浴びせる。聞こえよがしに、あれこそ悪魔、と囁く人がいる。かと思えば過度に尊敬の眼差しを向けて英雄扱いす人もいる。手を振って笑いかける人もあり、手を振って追い払おうとする人もあり。椙山が通った後に、玄関先に塩をまく人もいる。家の前を通ってくれるなとの苦情の電話があった。かと思えば、信仰について是非とも集会所で講演を開いて欲しいとの熱い要望も受ける。
 いずれにせよ、椙山は意に介さなかった。自分は何も変わっていないとわかっているからだ。
 海を見下ろす公園で、子供たちが走り回っている。気持ちよく晴れた空を何となく見上げながら歩いていると、左足と腰に衝撃を受けた。目線を下げる。走り回っていた子供の一人が足許で尻餅をついていた。赤いズボンにピンクのTシャツを着ており、女児向けアニメのキャラクターがプリントされていた。
 女の子はみるみる泣き顔になると、「えーん」と声を上げ、涙を流し始めた。
「ああ、ごめんね。ぶつかっちゃったね」
 椙山は心を痛めて片膝をつき、手を子供の頬に当てた。親指で涙をぬぐう。その優しさに甘えて、子供はいっそう泣き出した。
「ごめんね。痛かったねえ」
 すると、母親と思しき女性が全速力で駆けてきた。砂地に両膝をつき、腕に子供を抱えると、椙山にものも言わせず叫んだ。
「申し訳ございません!」
 幼な子の温もりが手から離れる。
「私が目を離したばっかりに、すみません……申し訳ございません……」
「あっ、いえ……」
 椙山はぎこちない笑みを浮かべた。母親はその間にも、子供を抱えて膝で後退する。椙山の顔は見ない。
「許してください……申し訳ございませんでした!」
 そして、子供を抱き上げると、一目散に走り去った。
 呆気に取られて親子を見送り、カソックについた砂を払う。今度はしっかり前を見て、公園を通り抜けた。
 その先の通りでは、新興宗教団体『梯心(ていしん)団』のお清め行列が繰り広げられていた。極右政党『悠久の太陽』党の母体宗教であり、特に外国人とその文化に対する過激で差別的なデモンストレーションが問題視されている。
 先導は黒服をまとった十五人の男女で、背の高い先頭の男が大きな御幣(ごへい)を振っている。といっても、それを扱う資格を有するのは神道の神官だけであるから、似せて作った手作りの物だろう。聖域で清めを受けたかどうかも疑わしい。梯心団の活動を知っているならば、まともな神経をしている聖職者は依頼を受けても断るだろう。
 バサ!
 御幣が振られ、和紙が鳴る。先頭の角刈り頭の男が声を低く響かせた。
「祓いぃっ!」
 後続が唱和する。
「清めえぇっ!」
 十五人の後には街宣車が続いた。黒塗りで、菊の御紋と『義徹梯心団』の文字が目立つ。
 先唱。
「神政国はぁ!」
 答唱。
「我が領土ぉっ!」
 適度な間を置いて、街宣車に取り付けられたスピーカーから女性の声が流れ出す。
『我が国は天照大神の直系である王家によって保たれてきました。五百年前に東王家及び西王家に分かれてからも、すべての祭司の頂点に君臨する両陛下の祈りによって守られ続けております。王家の聖性はいつの世も普遍であり、損なわれることなく、またその国体は世界最古のものと言っても過言ではありません』
 彼らは二十年も前に、この新宗教受け入れ地区から追い出された。それでも嫌悪と差別を撒き散らすべく、まだここに通う。
『耶蘇(やそ)教が我が国において長く禁止されていたのも、国を保護する陛下のご判断に基くものでした。耶蘇教の宣教師たちは、我が国の子供や女性をさらい、奴隷として外国に売り飛ばしていました。また、耶蘇教が禁教となって以来、当時国を悩ませていた、いわゆる悪魔と呼ばれるものによる魔害は完全に収まりました。それは、先週の魔害に至るまで発生していませんでした。このことは何を意味しているのでしょうか』
 デモに加わるのは、意外と中高年が多い。主婦もいる。平日だというのに中学生らしき姿も見える。信徒の子供だろう。黒服を着ていないのは、応援に駆けつけた別の団体か、流れで加わった者と思われた。
『耶蘇教は我が国になじむものではありません!』
 椙山は身を隠すでもなく、また萎縮するでもなく、公園の出入り口に堂堂と立って行列が過ぎるのを待った。じろじろと、無遠慮な視線が浴びせられる。
『敵対する民族は、女子供の別なく皆殺しにする。唯一神の要求に応じられなければ、容赦なく命を奪われ、滅ぼされる。そのような過酷な宗教は、厳しい砂漠という環境で暮らす民のためのものであり、美しく豊かな自然に恵まれ、和を尊ぶ我々日本人には必要のないものです!』
「何をじろじろ見てるんだ!」
 その声は、椙山に向けられたものではなかった。
 声がしたほうを見た。歩道に水色のシャツにスラックス姿の猫背の老人がいた。公園の木立に背を向けて立つ二人の外国人女性にすごんだものだった。
「何見とるかって聞いてんだ、えっ!?」
 二人の女性の胸には名札がついていた。
「日本語がわからんのか!」
 見覚えがある。
 復元教会、『復元された真理の教会』の宣教師たちでまちがいない。
 椙山は公園を出て歩み寄った。デモ隊はこちらを見ているが、関与しようとはしない。首を後ろに曲げて成り行きを見ようとするが、足を止めてまで見ようとはしなかった。
 すぐそばまで行き、
「失礼!」
 低い声で呼びかけた。
「その女性に何かご用ですか?」
 老人は、いかにも不健康そうで、身なりからもあまり裕福ではないとわかる。黄ばんだ白目と濁った黒目が椙山を睨んだ。
「何だお前」
「彼女たちと待ち合わせをしていた者です。あなたは彼女たちにご用ですか? そうでないなら、解放して差し上げていただきたいのですが」
「何だと!?」
 老人はすごんだ。そのまま数秒待った。だが、彼が行きずりの仲間と見込んでいたデモ隊の人間が誰も立ち止まらず、加勢も見込めないとなると、地面に唾を吐き、あっさり離れて列に戻っていった。
 椙山は二人の女性ににっこり笑った。
「大丈夫ですか?」英語で尋ねる。「何もされませんでしたか?」
「私たちは大丈夫です」
 ブロンズの髪の女が、片言の日本語で答えた。とても若く、まだ少女のようだ。表情が硬いが、どうにか微笑んだ。
「ありがとうございます」
「どういたしまして。私は椙山と言います。ランプ街のカテドラルにいます。あなたたちを送って差し上げましょう」
 すると、一人が真顔になって片手を振る。今度は英語で言った。
「私たちのことは気にしないでください本当に大丈夫ですから」
 椙山はその目をじっと見た。
「いいえ。女性たちをこの場に残していくのは気が引けます。行きましょう」
 ちょうど、デモ隊の最後尾が隣を通り過ぎていった。椙山は二人の女性を連れて通りを横断した。
 何度も見たことのある復元教会浪越支部までは十五分ほどで着いた。二階建てのテナントで、二階の窓が開いており、人の気配がする。
 その入り口で椙山は二人を振り向いた。
「あなた方は未成年ですね?」
「十九歳です」一人が言った。もう一人は「二十歳です」
 思ったよりも上だった。椙山は苦笑いした。
「でもまあ、一応あなた方の上長に私のほうからも話をさせていただきます。お邪魔しますね」
 有無を言わさずすりガラスの扉を開け、勝手に中に入り込んだ。
 玄関と廊下を隔てる戸を開けると、すぐ右手側のキャビネットに、何種類かの復元教会のパンフレットが並べてあった。反対の壁は掲示板になっており、英語と日本語が印字された紙が一番上にあった。
「すみません。どなたかいらっしゃいませんか?」
 椙山は呼びかけながら素早く文面に目を走らせた。
『七月十三日(水)の午後四時頃、黒姫市にて女性宣教師が投石を受け、全治一週間の怪我を負うという事件が発生しました。被害を受けた宣教師は東都の日本宣教センターに移送されており――』
 廊下の奥の扉が開き、若い女性が姿を見せた。膝まで覆うスカートにブラウス、きちんとボタンを閉じたサマージャケットという清潔感のあるいでたちで、短い髪は染めたり、パーマをかけたりすることもせず、額で真ん中わけにしている。大学は夏期休暇に入ったのだろうと椙山は思った。その女性が大学生くらいの年に見えたからだ。
 女性は椙山の装束からその身分を察すると、顔と体を強ばらせた。椙山の後ろから一人の宣教師が小走りで彼女に駆け寄って、早口に事情を囁いた。
「おかしな人に絡まれて、お困りのご様子でしたから」
 椙山の声に、女性は動揺しながらかろうじて答えた。
「え、あ、そうですか……」そして我に返った。「いえ、失礼しました。ありがとうございます。助けてくださったんですね」
 廊下を歩いて椙山の前に来る。
「初めまして、ようこそ。岡田恵と言います」
「はじめまして。支部会長様にご挨拶をさせていただきたいのですが、お見えですか?」
「支部会長は私の父です、今……」
 すると、好奇心を抑え切れぬ様子で、扉の向こうから様々な顔が廊下を覗いた。この時間帯に教会にいられるのは、主婦か自営業だろう。男性もいるが、女性も多かった。
 ハイエクソシストだ、と誰かが囁いた。
 部屋の手前の階段から女子高生が下りてきた。萌葱色の大きな襟が目立つセーラー服を着ている。髪をポニーテールにまとめ、気だるげな目をしていたが、椙山を見ると他の大人たちと同じように目を見開いて硬直した。
 部屋の奥から、人を押し退けて痩せた青年が姿を見せた。彼も大学生だろう。いささか軽薄そうな雰囲気で、椙山を見ると興奮して大声を出した。
「うわっ、マジでハイエクソシストだ! すげぇ!」
「こんにちは」
 椙山はにっこりした。恵と名乗った女性が先回りして彼に教えた。
「ケイトたちが絡まれてたから送ってくれたのよ」
「マジっすか! あざっす!」
 そして遠慮なく椙山の前に進み出て、じろじろと視線を浴びせる。
「本物? うわ、本物っぽいな」
「本物ですよ」
「やっぱバチカンから来たんですか?」
「ええ、まあ」乾いた声で笑いかけた。「普通に日本人ですけどね」
 変わった来訪者が案外気さくな性格だとわかると、心惹かれて奥の部屋の人々が廊下に出てきた。女子高生も階段を下りきった。
「北野さん、あなたまだ残ってたの?」
 中年の女性が眉をひそめる。女子高生はだるそうに答えた。
「テスト期間中だし……」
「だったら家に帰って勉強しないと」
「まだりんご吸ってない……」
 と、部屋に入っていこうとする。中年女性はさらに声を投げつけた。
「勉強しないと宣教師になれないわよ。川村君みたいになっちゃうんだから」
「うわ、ひっどい」
 ふざけつつも多少傷ついた様子を見せる青年を、中年女性は見もしない。
 女子高生の返事はこうだった。
「りんご吸ったらやる……」
 猫背の少女は体を引きずるように部屋の奥に消えた。
 入れ違いに、スーツに身を包んだ初老の男が廊下に出てきた。
 髪を不自然なほど真っ黒く染めた、背の低い男だった。胸ポケットに、『支部会長 岡田』の文字がある。
 女子大生の恵の父親ならさほどの歳ではなさそうなのだが、顔には大きな老人斑が浮き、老け込んで見える。眼鏡の向こうの真っ黒い目は底なしの淵のようで、そこからわき出るぎらついたエネルギーが異様なものを感じさせた。
「どなたですか?」
 男はにこりともせず尋ねる。
 椙山は、二人の宣教師とともに事の次第を説明した。その間に、空気を察して一般信徒たちが一人、二人と部屋に戻っていく。
「いや、そうでしたか。ありがとうございます」
 話し終える頃には、支部会長が身にまとう空気もいくらか和らいでいた。
「とんでもございません。突然お邪魔する形になって、驚かせてしまいましたね」
「いえいえ」胸の前で手を振った。「いろいろありますからね。こちらは女の子二人ですし、いろいろ……」
 それで、椙山は入り口に張り出されていた投石の知らせのことを思い出した。
「とにかく、ご親切にありがとうございます」
「いえ。私はそろそろ失礼します。ところで支部会長さん……」
 支部会長の目をじっと見ながら椙山は玄関に向かう。視線の力に引きずられるように支部会長もついてきた。
「何ですか?」
 他の面々はついてこなかった。
 玄関までくると、椙山は廊下と玄関の間の戸を閉めて二人きりになった。
「この街でしばしば悪魔崇拝が行われていることをご存じですか?」
 支部会長は半ば呆気に取られて椙山の目を見返してきた。何故ここでこんなことをと言わんばかりだ。
「はい? まあ、噂に聞いたことはありますが……」
「どのような噂でしょう?」
「誰もが知っているようなことですよ。動物が殺されていたとか……大したことではありません。どこぞの不良たちのしたことがそれと結びつけられているだけでしょう」
「ですが、この街で実際に悪魔が召喚された」
「あなたは何を問題にしているのです? 私たちがそれに関与しているとでも?」
「とんでもございません。情報を求めるのが私の仕事ですから、ただお聞きしたかったのです」
「ああ、そうですか」
 彼が何も知らぬことを察すると、椙山は扉を開けた。
「今後、よろしくお付き合いくださいね。では失礼します」
 椙山は街に出て歩いた。もうすぐ一時になる。
 自分の教会が近付いてきた。思わぬ人物と出会った。まだ量の多い、だが真っ白になった髪の老年の男だ。私服姿だと市井(しせい)の人々と見分けが付かないが、彼はこの東海教区の司教だ。間野司教。教区内での悪魔祓い(エクソシズム)はすべて彼の許可のもとに行われ、緊急時に無許可での対悪魔戦闘を行う権限を持つ戦闘祓魔師も、司教にそのすべてを報告する義務を負う。
 また、椙山にとってこの司教は特別な存在だった。志摩の小さな教会で、椙山に幼児洗礼を授けたのが、当時司祭であった間野司教なのだ。
 司教は運河にかかる眼鏡橋を渡りながら片手を上げた。椙山が微笑んで頭を下げたとき、二人の距離は縮まった。
「間野司教、今日はどうされたのですか?」
「散歩だよ。いい天気だからね。巡回かね」
「はい。今から教会に戻るところです」
「ちょうどよかった。私も橋まできたら引き返そうと思ってたんだ。一緒に歩こう」
「はい」
 二人はしばらく無言のうちに歩いた。やがて、人目が気になるのだろう、司教が囁いた。
「その格好は目立つんじゃない?」
「騎士団の正装ですから。巡回には正装で出向くという規則がございます」
「しかし現地の状況で臨機応変に対応していいんだろう」
 椙山はさも困ったように上目遣いで司教を見た。司教はその目を真剣に見返した。
「平沢神父は君を心配している。私もだ」
「ありがとうございます。そうですね。少し考えます」
「明日からそうしてくれ。今日でもいいんだぞ?」
 その男には、二人は同時に気が付いた。
 日本ではあまり見ることのない巨漢だった。
 二メートルほどの背丈。
 腕の太さは椙山の倍はありそうだ。
 砂色の髪。長らく切っていないようで、襟足は肩に届きそうなうえぼさぼさだ。
 左目に片眼鏡をしている。
 片眼鏡越しの目も、何にも覆われていない右側の目も、まっすぐ椙山を注視している。
 そして、見覚えのある日本の民間軍事会社の制服を着ていた。
 男は歩道の真ん中に仁王立ちになり、道を塞いでいた。
 ただならぬ様子に、隣の司教が息をのむ。椙山は動揺しなかった。
 小首をかしげ、笑みを浮かべた。

 ※

 同じ日、太陽が沈む頃、アキヤたちも浪越に着いていた。階層都市の外れの一画で、まだ架線ゴンドラが現役で使われているような地区だ。ここからは、海と外来宗教受け入れ地区を見下ろすことができる。晶はそこにいる。
 何人か、勘のいい魔女や霊能力者たちが、雑居ビルの屋上に舞い降りた不穏な気配を察知した。だが、巨大な霊鳥と、それを操る者の姿は誰にも見えなかった。
 貯水タンクの上から青年の上機嫌な鼻歌が聞こえる。
「やっぱこんだけ広い都市だと人目が多いよなぁ。ホントに誰にも見られなかった? かなめチャン」
 貯水タンクの梯子の下で、夕日を浴びながら、銅鏡を抱えてかなめが答える。
「早く着替えろ」
 にこりともしない。
「着替える着替える。わかってるよ」
 ジッパーを開ける音。衣服を広げる音が続く。服を脱ぐ音。
「いちいち難儀なもんだよなあ。目立たないようにするてのもよ」
 かなめは声を聞きながら、銅鏡を足許に立てかけて煙草を取り出した。
「オレってただでさえ目立っちゃうし……」
 火をつける。
「ほらぁ。オレってさ、マジヤバいくらいイケメンだろ? でさ、今日はホテルに泊まるよな」
「アキヤ」
 はじめの一口をゆっくり吸ってから、かなめは低い声で話しかけた。
「何故あの子を選んだ?」
「ああ?」化粧品のポーチを開ける音。「どういう意味だ?」
「十年前を思い出せ。呪詛は子供を多く選んだ。君が選んだのも子供だ」
 コンパクトを開いたり閉じたりする音。化粧をせず、考え込んでいるようだ。
 そのうちに、鼻歌が聞こえ始めた。
「別にぃ。オレがあの子を選んだのは、分別がない方が都合がいいからだ。呪詛は関係ないよ。あの子もわけありっぽくて、家に帰りたがってないだろ?」
「本当にそれだけか」
 鼻歌が続いた。声がどんどん高くなっていく。
 女の声になった。
 重いものが、かなめの真横に飛び降りた。サンダル履きの足がコンクリートの屋上を踏みしめ、積もった埃を鳴らす。
 女がいた。
 短い髪をビーズ付きのヘアピンで飾り、ハンチング帽を目深にかぶっている。詰め物入りのブラジャーを当てた胸の間に、オニキスのハートのペンダントが収まっている。
 親指と人差し指で拳銃の形を作った。かなめを撃ち抜く真似をし、ふざけてウィンクする。
 子供の足音が駆けてきた。貯水タンクを回り込み、その壁面に手をかけて、ありかが顔を覗かせた。
 子供の目が二人の女を不思議そうに見つめた。
 明奈がじっとその目を見返す。
「そろったな、美人三姉妹」
 ありかは事態を把握したようだ。
「お兄ちゃん、女の人だったの?」
「他の人には内緒だよ」口に人差し指を当て、腰を屈めてありかに顔を近付けた。「ほら。お姉ちゃんはおっきいお姉ちゃんと大事なお話してるんだ。もう少し鳥さんの近くで待ってな」
 もう一度明奈の顔をまじまじと見つめた後、うん、と頷いて、ありかは駆け戻っていった。
「あーあ、やっぱ着替えても大して変わんないかぁ。ほら、私ってマジヤバいレベルでかわいすぎるでしょ?」
「あの子は成長が遅いな」かなめは無視した。「小学六年生だぞ。そろそろ化粧に興味を示したり、早い子なら二次性徴が始まる頃だ。あの子は子供すぎる」
「遅くていいじゃない。無邪気なほうが都合がいいよ」明奈は肩をすくめた。「私たちは呪詛を破壊する方法を知ってる。でもあの子が知る必要はない」
「すべてが終わった後、あの子が自分がしたことを知る日は来ないかもしれんな。だが何をしたかもわからんことで人の一生を滅茶苦茶にするつもりか?」
 明奈は貯水タンクに目をやって、その向こうにいるはずのありかと、霊鳥・白夜白蓮の姿を思った。鳥は子守りをしない。鳥に心はない。明奈の意志を映すだけだ。
『私に心はあるわ』
 呪詛が明奈の心に囁いた。
『黙れ、美黄泉(ミヨミ)』囁き返す。『呪詛に還れ』
 それから、その命令を自ら阻害してしまったことに気がついた。名を呼ぶべきではなかった。もう呼ぶまい。
「明奈、聞いているのか」
「聞いてるよ」
 肩の力を抜く。
「一体どうしちゃったの? お姉ちゃんだって復讐のためなら何でもするつもりでしょ? 違う?」
「私個人の復讐はどうでもいい。君の目指す結末を迎えられるならね」
「じゃ、このまま行くよ。ありかにはもう元の暮らしに戻れないって刷り込むよ。行くあてをなくすんだ。それから……」
 まっすぐ前を見た。
 音もなく、赤い大きな太陽が海に没していくところだった。
「……ううん、とにかく晶とクロエの居場所を押さえよう。ルルエは浪越に着いてるかな」
「どうするつもりだ?」問いかけながら、かなめは煙草を足許に落として踏みにじった。「クロエが呪詛を回収できるから、ルルエは君を殺せるぞ。気をつけろ」
「わかってる」
 明奈は唇を結んだ。
 偽体者。
 彼女のカウンセリング記録をかなめが入手した。明奈も目を通した。偽体者。
 皆無神クロエはまだ人間を憎んでいるだろうか?

 ※

 際限なく食べる男だった。
 確かに、接待費として計上するから好きなだけ食べてくれと言ったのはパジェットのほうだ。それでも最初に季節はずれのあんこう鍋を食べさせた。それから鮭、いくら、舌びらめ、数の子、つぼ貝の寿司を二貫ずつ一人で食べ、次に鯛茶漬け。それでしめるかと思いきや、それが始まりだった。
 まずはマグロの盛り合わせ。季節の魚の盛り合わせ。アワビのステーキ。海藻サラダ。海ぶどう。サザエの壺焼き。大あさりの醤油焼き。あさりの酒蒸し。タコの唐揚げ。ふぐの刺身。鯛の煮付け。蟹入り茶碗蒸し。そして今、うなぎの白焼きを一本丸ごと平らげたところだった。
 その細身でよくぞこれほど、と思うのだが、無理をしている様子はなく、満腹になる気配もまだない。
「伊勢エビ頼んでもいいですか?」
 天使のような笑顔で椙山光(すぎやまれい)が尋ねた。
 黒い司祭平服を脱いでしまえば普通の若者に見えた。二十五歳。パジェットより二つ、乙葉より一つ年下だ。カーキ色のカーゴパンツにショッキングピンクのTシャツという出で立ちで、胸には黒字ででかでかと『I LOVE MY LORD』と書いてある。Lの字だけ緑色だった。
「大丈夫ですか?」
 思わず尋ねた。隣に座る乙葉も、目で同じことを尋ねている。大丈夫なの?
 これは絶対に経費で落ちないだろう。食事だけでこの量なのに、酒代も加わる。身銭を切ってカードで払うしかあるまい。
「何がですか?」
 椙山が尋ね返す。
「いえ、そろそろお腹のほうが苦しくないのかと……」
「魚がお好きなんですね」
 乙葉が間に入った。
「はい。海を見て育ちましたから、海のものは何でも好きなんです。どれも故郷の味です」
「そうなんですね。ご出身はどちらですか?」
「志摩です」
「あら。お近くですね」
「はい。同じ東海大管区内ですから。長谷部さんはどちらからいらしたのですか?」
 乙葉は微笑みを絶やさず答えた。パジェットは頭の中で食費の勘定をしていた。
「東都です。私も夫も」
「そうですか。じゃあ、同じ東国ですね」
「椙山さんは海外で何年間お勉強されたのですか?」
「中学校を卒業してすぐ渡欧しましたから、見習い期間を入れて十年です。今年の春に日本に赴任しました」
「ええ、春にニュースの報道を見たことがあります。先日の魔害ではご活躍されましたね」
 椙山は微笑んだまま首を横に振った。
「私のような立場の者はごく潰し扱いされているべきです。それが一番平和でいいんですよ」
「それは我々も同じです」
 パジェットが相槌を打つと、椙山は赤茶色の目でじっと視線を合わせてきた。それから「あはは」と声をあげて笑った。
「柚富から東国に戻ってきたばかりでしてね」
 そう切り出すと真顔になった。
「すぐに護衛の仕事で浪越入りですよ」
「そうだったんですか」
「つかぬことを伺いますが、十年前の例の災厄のとき、椙山さんはもう欧州にいらしたんですか?」
「はい。ですが、報道されている通りのことは知っています」
 パジェットは盃を遠くに押しのけた。
「憑依者の中にキリスト教徒がいることはご存じですか?」
 椙山はまじまじとパジェットの顔を見つめた後、油断のならない笑みを浮かべた。
「いいえ、初耳です」
「災厄当時にはキリスト教徒ではなかった。憑依者となった後から洗礼を受けた。何故だと思いますか?」
「さあ。何故でしょうね」
「わかっていらっしゃるのでは?」
「ご質問の意味がわかりかねますね」
「日野晶(ひのあきら)のことです」
 椙山は動揺しなかった。それが気にくわなかった。
「椙山さん、あなたが彼女と接触していることは既に把握しております」
「そうでしたか。ならば、別に何も悪いことをしているわけじゃないこともご存じでしょうね」
「もちろんです」二人は互いに視線をそらさなかった。「あなたが我々に隠すことは何もないことも」
「長谷部さん」
 優しく呼ばれた。
「何でしょう」
「もう一度、政府の神器携行許可証と社員証を見せてください」
 黙って要求に応じると、椙山は顔写真付きのそれを昼に会った時より丁寧に検(あらた)めた。個室のぼんぼりにかざし、指で撫で、透かしや細工を確かめている。
「……確かに本物ですね」
「何なら社員番号をお教えしましょう。この場で両国同心社にお問い合わせいただくこともできますが」
「いいえ、結構です」
 座卓の向こうから二つの身分証明書を返してきた。
「ところで長谷部さん、日野さんのことでしたら、彼女はもっと早くから守られているべきだったと私は思います。もちろんあなた方を責めているわけではございませんが……」
「いえ、面目ない話です」声を落とした。「彼女は今どちらに?」
「あなた方が知っている通りの場所です。とくに避難はしていませんよ。日野さんに会いたいということですね。私が場を用意しましょう」
 パジェットが目を見開くと付け加えた。
「ただし、私の立会いのもと、私の所属する教会で、という条件にしてください。あなた方にとっては、対策室の人間の立会いのもとか、私の立会いのもとかという二択になると思いますが」
「その通りです。椙山さんの条件でお話をさせてください」
その返事に、乙葉が素早く反応した。パジェットはためらい交じりの視線を頬に受ける。が、苦情は受けなかった。
 社の指示と違っている。
「我々も椙山さんと同じく、彼女を守る使命を受けています。対策室の人間とよりも、同じ対魔戦闘能力を持つあなたとお話をさせていただくほうが話が早いですからね」
「わかりました、では明日の土曜日に。時刻はこちらから追って連絡いたします。長谷部さん、一つ伺いたいのですが」
「はい」
「日野さんは何に狙われているんですか?」
 それは、むしろパジェットのほうが椙山に聞きたいことだった。
「どういう意味ですか?」
「彼女は狙われている。私の知らない存在に。もしそれが九州の例の憑依者なら、あなた方はもっと早く浪越に送られていたでしょう。ですが、今来た。ということは、例の憑依者が理由ではない」
「まだ腹の探り合いが必要ですかね? 同じことを私もあなたにお聞きしたいと思っていたところですよ。何故日野晶は、異なる教派の聖職者であるあなたに保護を求めなければならなかったのですか? 例の魔害と何か関係が?」
 椙山の指がコールボタンに動いた。
「約束してください」ニヤリとする。「そのことを本人に直接問いただしたりしないと、約束していただきたいのです」
「その必要がない限りは、いいでしょう」
「それと」
 足音が廊下から迫ってくる。
「何でしょう?」
「もうはぐらかさないって」
 個室の襖がそっと開き、着物姿の仲居(なかい)が現れた。
 その途端、椙山はニコニコと笑顔になり、普通の若者に戻った。
「伊勢エビください」

 ※

 その頃、井田善彦は一人で皆無神クロエの所在地に向かっていた。柿崎零韻の寄越した情報が正しいか確かめようと思ったのだ。
 偽体者の皆無神クロエには政府から新しい戸籍が与えられている。山岡陽子。それが現在の名で、この名で絵画教室を開いているという。
 アパートから、まっすぐ海へと運河を下っていく。周囲の地理の把握もかねて、移動手段は敢えて徒歩を選んだ。
 四十分ほども歩いた。ようやく河口にほど近い、絵画教室がある地区にたどり着いた。時刻は八時で、まだ街が眠りにつくような時刻ではない。金曜の夜とあって、運河には観光ゴンドラの明かりがいくつも浮いていた。特別な時間を求める夫婦や若い男女がとなりあって座り、ゴンドラの揺れに身を任せている。運河沿いにはバーやレストランが並び、その合間には帰りの遅い勤め人相手に惣菜やおにぎりを売る屋台がひしめき合っていた。ござを敷いて占いをする者、似顔絵を売る者、小さなテントを張って客を呼び込むマッサージ屋。結構な賑わいである。
 トルコ料理の屋台でケバブを買うクロエを見つけたのは偶然だった。美しい長い黒髪に目を惹かれ、手すりから運河に向かって身を乗り出した。人通りの多い岸辺の中で、間違いなく彼女は皆無神クロエだった。行きがかる人々が、彼女の美しさに目を奪われて視線を張り付かせ、通り過ぎる。
 クロエは岸辺から道路へと、階段を上がってきた。美しい横顔は憂いの影を帯びている。その顔から目を離さず、人混みの中を彼女へ近付いていった。
 肩をつかまれたのは、クロエまであと十メートルというところまで距離を縮めたときだった。強い力で体を引かれた。なにが起きたか理解したときにはもう、暗い路地に引き込まれていた。
 背中を建物の壁に押しつけられた。
 正面に男が立ち、左隣に誰かが立った。井田は表通りからの光にぼんやり照らされる正面の男の顔を注視した。
 まだ若い、地黒の肌の、逞しい男だった。精悍な顔立ちで、細いフレームの眼鏡が、鋭い目を更に鋭く見せていた。
「井田善彦か」
 名を呼ばれたとき、知った顔だと気がついた。
「プロフィール通りの冴えない顔だな」
 もう一人の人物に目を移す。やはり、少女だった。暗くて見えないが、こちらを見上げる大きな目は、写真の通り青い色をしているはずだった。
 正面の男と向き合った。
「瀬名水映だな、試用員(テスター)として――」
「黙れ。何故ここがわかった?」井田の肩を建物に押しつける力を強めた。「同じ会社の社員同士だからといって信用するつもりはない。むしろ同心社をよく知っているからこそ同心社の奴らは信用できん。貴様は皆無神クロエの居場所を知らされていないはずだな」
 もう一人の少女は黙っている。塔上ルルエという名のはずだ。少女越しに表通りに目を注ぐ。人通りは十分に多い。ここで荒事を行うつもりはないはずだ。
「同じ社員ならわかるだろ」ぶっきらぼうに返事をした。「ますます信用されなくなるような理由でわかったのさ」
「だろうな」
 力がゆるみ、男が目の前から離れた。
「あと二人いるだろう」
 井田は背中を壁から離し、姿勢を整える。
「ああ」
「明日の朝九時、そいつらをここに連れてこい」
 青年と少女は路地を離れた。少しして井田も表通りの人混みに合流した。あれほど目立つ二人連れなのに、もう見いだすことはできなかった。
 水映の言うあと二人のうち一人は酔い潰れていた。
「ふざけんな、椙山! てめぇは他人の金だと思って次から次へとむしゃむしゃむしゃむしゃ!」
「えへへ、いいじゃないですか長谷部さん。魚食べましょうよ。おいしいですよ。体にいいし」
「これ以上食えるか!」
 酔った二人の男のそばで、一滴も酒を体に入れていない乙葉は無表情で端末を覗き込み、テレビのニュースを見ているのであった。





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