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冷凍されたオシドリとチューリップ人の王国

趣味で書いている小説用のブログです。

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虹よ、契約の虹よ〈19〉

八章 憑依者たち(1/3)

















セイルから、わたしを呼ぶ者がある。
「見張りの者よ、今は夜の何どきか
見張りの者よ、夜の何どきなのか」
見張りの者は言った。
「夜明けは近づいている、しかしまだ夜なのだ。
どうしても尋ねたいならば、尋ねよ
もう一度来るがよい。」

(旧約聖書『イザヤ書』)















 1.

 トラックの扉が閉まる音。鍵を回し、運転手が運転席に乗り込む音。エンジンがかかり、高いアラームとともにタイヤが舗道を滑る音。
 音の出所は、夕日に沈む水早区の煉瓦通りを一本外れた細道だった。日中には底まで見通せる澄んだ水を湛えた運河は、今はさざなみ一つ立てずに細く横たわっている。ゴンドラ乗り場に客はなく、漕ぎ手の老人が岸辺で煙草をふかしているだけだった。その姿を、前からは夕日が、後ろからはガス灯が照らしている。ガス灯は百年も前から使われ続けているものだが、通りに並ぶ店はどれも現代的だった。パンケーキの専門店からは甘ったるい匂い。コーヒーチェーン店からは苦みのある匂い。それらは日中煉瓦通りを支配しているが、このように穏やかな日暮れどきには、確かに海を遡って潮の香が感じられるのだ。
 裏道から煉瓦通りにトラックが進入してきた。トラックが角を曲がりきると、アラームがやんだ。中央区へ続く大リングの乗り場があるほうへと、重い体を引きずるように進んでいく。
 何人かの子供たちが、同じ角から威勢良く飛び出して大きく両手を振った。
「運転手さん、またね!」
「ばいばーい!」
 すぐに、彼らより少し大きな小学生くらいの子が駆けてきて、彼らに戻るよう言った。
 子供たちが戻っていった先の細い通りに、その教室はあった。
『山岡陽子こども絵画教室』
 三階建ての建物で、一階は駐車場兼事務所。二階がアトリエで、三階が住居だった。地上市と地下市に分けられた階層地帯ではないため、三階建てでも十分に日光を取り入れることができる。明るい教室だった。
 教室の前に、子供たちに囲まれた若い女が立っていた。山岡陽子、絵画教室の主催者だ。長身痩躯だが貧弱ではない。均整のとれた体つきは逞しさを感じさせ、張りのある肌、きらめく目、笑みを浮かべる唇の瑞々しさ、どれもが若さと力を感じさせる。実際に、若かった。彼女は二十五歳。
 子供たちが欠けることなく戻ってくるのを見、陽子は満足げに頷いた。よく通る声で子供たちに呼びかける。
「はい! 撤収、撤収!」
 するとすかさず子供たちの中から声があがる。
「てっしゅうってなぁにー!」
「おうちに帰ることよ」
 駐車場から、または建物の壁際や、少し離れたところから、保護者が子供たちに歩み寄る。大半が母親だった。母親たちは陽子に愛想良く会釈し、子供たちははしゃぎながら別れの挨拶をする。
 一人の保護者が陽子に声をかけた。
「ねえ、先生。展示は、明日の何時頃に行けば見れるのかしら」
 りょうたくん、と教室内で呼んでいる男児の保護者は母親ではない。母親は薬剤師をしており、木曜日のこの時間に迎えにくることができないのだ。来るのは母方の祖母である、品のいい女性だった。初孫の作品が浪越駅プロムナードに展示されるとあって、嬉しくて仕方がないのだ。
「展示品の入れ替え作業は終電の後に済ませるようですね」
 陽子は保護者の目を優しく見ながら答えた。
「なので今夜か……遅くとも始発の前には終わるはずですよ。明日の朝一番で行っても見れると思います」
「まあ」決して若くはない婦人の目が、初々しい薔薇色に染まった。「よかったわねえ、りょうちゃん。嬉しいわねえ」
 やがて、駐車場の車が一台去り、二台去り、陽子は絵画教室の前で一人になった。通りを染めた夕日は色を失い、柔らかい薄闇が都市にしみ込みつつあった。
 最後の車が見えなくなっても、微笑みが消えた陽子の目は、もの悲しげな視線を煉瓦通りに向けて放たれていた。もう彼女を訪ねてくる者はいない、今日は。何かを諦めるように、陽子は踵(きびす)を返して絵画教室の建物に入った。そして、内側から鍵をした。
 この立派な建物は、呪詛対策室の費用で借りたものだ。
 絵画教室もそう。
 玄関は、壁に掛けられた絵が見えないほど暗かったが、あえて電気はつけなかった。何の絵が掛かっているのか彼女はよく知っているし、銅板に記された自分のプロフィールも暗記している。
 最終学歴はアメリカの芸術大学卒となっているが、これははっきりと学歴詐称だ。受賞歴は偽りではないが、ほとんど金で買ったようなものだ。しかも、自分の金ではない。社会での居所を作るために必要だった。山岡陽子の名も、戸籍も……。
 スリッパの音を立てて、リノリウムの床を歩く。事務所の横を通り過ぎ、奥の給湯室に入った。電気をつける。オレンジ色の光を浴びながら、手を洗い、コンタクトレンズを外した。長い黒髪をほどき、背中に垂らす。
 陽子は改めて自分の姿を見た。
 細い体は、この体型を維持できる以上には食べられないようにできているから。
 カラーコンタクトを外した目は、サファイアのように澄んだ深い青。これが彼女の本来の目の色だった。
 美しい容姿。類まれな才能。子供たちからの、また、保護者の間の評判も申し分ない。もはや嫉妬さえされない存在。
 それでいて、ひどく飢えたような切迫した目をした孤独な女。鏡の中の女の名は、皆無神クロエ。
 それが本名だった。
 そのとき呼び鈴が鳴った。
 クロエは体を固くした。給湯室の外の廊下に目を移す。もう一度鳴った。
 音を立てずに給湯室を出た。そのまま隣の事務所に入り、壁に取り付けられたモニターで外を見る。
 思いも寄らぬ人物の顔が映し出されていた。自分と同じように切迫した目の、おさげ髪の少女。
「晶ちゃん」
 モニターの向こうの日野晶が身を乗り出してきた。
『クロエさん――』
 だが言わせなかった。事務所を飛び出し玄関に駆けつけると、鍵を開け、晶を招じ入れた。彼女を建物の中に急(せ)かすと、また鍵を閉め、ようやく電気をつけた。
 まぶしさに目をしばたたきながら、クロエは来客用のスリッパを用意する。
「どうしたの? まあ、上がって」
「いえ、いいんです。寄っただけですから」
 クロエは上がり框(かまち)からもう一度訪ねた。
「どうしたの? 言ってごらん」
「顔を見ておきたかったんです。それだけです……お邪魔してすみません」
 じっと目を伏せている。上目遣いにちらちらとクロエを見ながら、晶は胸にある思いを吐き出せずにいるようだ。
 どうにも不吉だった。クロエは肩の力を抜くふりをした。そして、サンダルに足を入れたまま上がり框の段差に掛け、晶にも座るよう促した。晶は従った。
「椙山さんっていう人からもらった護符は、ちゃんとしてる?」
 晶は頷き、胸に手を当てた。服の下にあるのだろう。
「明奈さんがあなたを狙っていること、椙山さんは知ってるの?」
「いいえ……そこまでは話していません」
「そう」クロエは不憫に思った。「それは不安ね」
「話してしまえれば楽なんですが、対策室も椙山さんにそんな期待はしていませんし、そもそも私がかかわり合ったことで嫌な顔をしていました」
「そうね。もっと融通きかせてくれればいいのにね。クリスチャンですものね」
「プロテスタントなのに、カトリックの司祭と接触する必要はなかっただろうって」
 クロエは困った顔をして、同情を示した。
「ひどいわね、十六世紀じゃあるまいし。そんなの晶さんの自由なんだから気にしなくていいのよ」
 晶は薄く笑った。
「ありがとうございます」
「護衛がもうすぐ到着するって言っていた件はどうなるのかしら」
「明日のお昼になるそうです。あさっての土曜日に、対策室が指定した場所で……」頭を振った。「お姉ちゃんは私のことも殺したいのかな」
「どうでしょう。まさかって言ってあげたいところだけど」
「こんなの悲しいよ」
 晶は作り笑いをやめた。
 素直な子だと思う。晶は、同じ憑依者のクロエの前では悲しいときに悲しげな顔をする。ぽつりと呟いた。
「お姉ちゃんを止めたい」
 それが無理かどうか、クロエにはわからない。そもそも明奈の憑依者殺しの真相も動悸もわからない。だが、その力の独占が目的ならば、実の妹をも殺すだろう。
 そうね、と暗い調子で相槌を打つクロエに対し、彼女にははじめの段階から監視がつけられていたことを思い出した。
 皆無神クロエは偽体者だ。人間ではない。美しい容姿、才能、穏やかな性格、高い知能指数、すべて遺伝子設計によって作られた。人間と同じ体をしていても、人工的に生み出されたものだ。
 偽体者に人権はない。魂の存在が認められないからだ。信仰を持つことも許されない。生存権すらない。
 殺されるべき命だった。だが彼女は抹殺を生き延びた。だから、災厄によって抹殺が不可能となってからは監視がつけられた。人間に刃向かわないように。
 監視の目は、時と場合によっては彼女を守る目にもなり得る。彼女はずっと守られてきた。
 ずるい。
 真っ黒い、冷たい感情が、晶の心にこみあげてくる。
 そもそもどうしてこの偽体者は、偽体者の大量抹殺を生き延びたのだろう。
 偽体者の結束と人間への反抗を阻止するために、彼女たちはその生涯のはじめに徹底した服従と自己否定を植え付けられる。
 製品としての偽体者たちは、専用の特殊な食物を摂取する。その食物に含まれる成分が偽体者の脳内でAニューロンと呼ばれる物質を作り出す。このAニューロンを通して、人工衛星『あかり』に搭載されたマーテルという名の人工知能から意志と指示が送られる。
 マーテルは偽体者たちを洗脳する。マーテルへの絶対服従を強いることにより、ひいてはマーテルを開発した人間への絶対服従を強いるのだ。
 彼女たちに意志はない。
 所詮は操り人形。
 クロエにしたって晶に抵抗できないはずだ。たとえ今いきなり殴りかかったって――。
 そこまで考えたところで、醜い思いは風船のように弾けた。
 晶は体を震わせた。
 いきなり視界が明るくなった気がした。
 隣のクロエが訝しげに顔を覗き込んでくる。
「晶ちゃん?」
 顔が熱くなるのがわかった。はたからみても赤いだろう。ひどい恥で、晶はほとんど打ちのめされていた。
 なんという残酷なことを考えていたのだろう。今まで心に思ったこともなかったのに。
 いつからこんな、嫌なことばかり考えるようになったのだろう。まるで冷たい風を吹き込まれるみたいに。
(吹き込まれてなどいない)
 では、自分で考えていることなのだろうか。
(そうだ。これがお前の本性だ)
(所詮、お前は嫌な奴。この程度の奴)
(醜い、醜い……)
 晶は慌てて立ち上がった
「ごめんなさい!」
 クロエは困惑し、座ったままだ。
「失礼します!」
 ハンドバッグだけ手に持って、ばたばたと外に出ていった。
 玄関扉が自らの重みで閉まっていくのを、クロエは座って見守った。カチャリと音を立てて閉まると、大儀そうに立ち上がり、再び鍵をした。今日はもう、開けることはない。
 晶は情緒不安定になっている。
 心が安定しない苦しみを、クロエは嫌というほど知っている。マーテルによって散々体験させられたのだ。幼い日、胸に渦巻く衝動を何枚ものキャンバスにぶつけた。真っ黒く塗りつぶして、飽きずに黒い絵を描いた。
 今日はもう何も考えまい。昨日までのことも、明日からのことも。
 クロエの絵画教室を飛び出して、晶は煉瓦通りまで駆けた。
 途中、奇妙な二人組を見た。すれ違い様に視界に入っただけで、さして気にも留めなかったのだが、一人は青年で、もう一人は長い黒髪に赤いワンピースの少女だった。
 煉瓦通りに出ると、ガス灯が、その下に佇む女の姿を照らしていた。細いジーンズにTシャツ、夏物の白いケープという出で立ちの真為(まなせ)は、大人になっても少女のように見える。性格の優しさが雰囲気に滲み出ているからだろう。
 真為は足音に顔を上げ、あっ、と声を出した。顔が綻ぶ。
「晶ちゃん。用事終わった?」
「うん」真為の姿を見、晶もやっと安心した。偽りのない笑みを、年上の幼馴染に向ける。
「ありがとう。待たせてごめんね」
「ううん。じゃ、帰ろっか」
 本当の姉妹のように寄り添いあって、二人は運河に沿って歩いていく。その姿を、物陰から、一人の青年と一人の少女が見送った。

 ※

 序峰(じょみね)は夢を見ていた。
 これと同じ夢を見たことがある。
 暗黒の渦を見下ろしている。渦は水でできているのではない。無数の塵のようなものだとわかる。かつて魂だったものの、砕けて壊れた残骸。喜び、笑い、泣き、怒り、ぶつかりあい、和解しあい、生きて死んだもの。ああして渦巻く塵にもはや記憶はない。尊厳もない。個性も人格もない。二度と再び生きることもない。
 ああ、嫌だ。ああはなりたくない……。
 そうは思うものの、視界のごく間近をぱらぱらと黒いかけらが舞うのは、今この瞬間にも自分が砕け、損なわれ、あの塵と同類のものとして落ちていくからだ。
 声を上げて泣き喚く。応える者はない。
 夢と違うのは、もはや目覚める見込みがないこと。そして、意識が明晰であること。
 せめて眠りたい。だが、眠るための瞼がない。肉体がないのだ。わずか一瞬の瞬きの闇さえ序峰は得られない。
 呪詛は十年、同じ景色を見ていたのだろうか。
 そう考えるのは、この光景と同じ夢を見たのが呪詛に体を乗っ取られる直前だったという記憶があるからだ。
 意志に反して視力は渦に近付いていく。無数の人の魂の残骸を凝視する。
 その黒さを透かして、地獄のような景色が見えた。
 焼き払われた都市。
 いまだ火に包まれ、誰も消すものがいない村。
 とりわけ見たくないもの、死体。
 だがそれは自分でやったことだ。
 違う、と声なき声で叫ぶ。呪詛がやったのよ。私じゃない。私はここまでのことを望んでいなかった。ただ、誰にも見張られずに、家族と暮らしたいだけだった。
 家族。
 そこに安らぎはなかった。
 安らぎを見いだそうとするならば、幼い序峰が心を砕いて両親の機嫌を取らなければならなかった。
 極左の母親。極右の父親。一致を願うほど、それぞれが過激な方向に進んでいった。両親が怒鳴りあい、罵りあわない日はなかった。崩壊の最後の一打となったのは、あの災厄であった。序峰は憑依されたのだ。
 ああ、思い出したくない。
 幸せな記憶を探す。日に日に薄れ、失われる寸前の記憶を。
 それはあった。美しい霧島の山並みの記憶が、かすみながら残っていた。
 父と母が政治にかぶれる前、序峰は霧島に連れられてきた。まだ小学校にもあがっていなかったが、はっきりとした記憶が、ある時点まではあった。峠から見下ろす里や町。目を楽しませるいろいろなキノコや鳥。リスもいた。丸太のベンチで食べたおにぎりの味。清い水が走る沢の爽やかさ。火照った体を癒す優しい風。
 それが、ただでさえおぼろげな上、ぼろぼろ崩れて塵になっていく。山が、里が、町が。穏やかだった頃の、父と母の顔が。
 序峰は叫びながら、今霧島にある自分の体を見ていた。
「柚富は征圧したしぃ」
 自分の体を持つものが、ホワイトボードに広げられた地図を前にご満悦だ。
「日田も制圧したしぃ」
 なんと下品な笑顔だろう。知性のかけらもない。
 それは私じゃない! 呪詛よ! 序峰は叫ぶ。虚しく。
 呪詛も叫んでいたのだろう。そして聞き入れられなかったのだろう。序峰と入れ替わるまでは。
「港を……」
 序峰の体は着物に包まれていた。紺色の生地に蛍の乱舞が描かれた模様だ。
 季節外れね。それは六月の着物なのに。
「全部抑えちゃいましょうか……」
「よいお考えだと思います」
 側近の中年男が甲高い声で追従する。
「四国と、本州側をですね、もうこの際全部抑えちゃいましょう」
「天草が後回しになるわね。あそこには、私の名を呼んで悪く言う奴がまだいるわ」
 耳を澄ましているのだ。空間を越える耳、呪詛の耳を。
「僭越ながら、不遜な者の口を封じるのは後回しで構わないのではないでしょうか。政府は怖じ気づいています。まずは本州・四国側の守りを固めてですね、戦線が拡大しすぎると思われるかもしれませんが、序峰様の転移術を用いればさほどの労もございますまい。それから琉球側を人質に取るというのは如何でしょう」
 いかにも簡単に考えすぎだと、序峰にだってわかる。この男は戦術に関して素人か、それ以下に違いあるまい。
 だが序峰の肉体は笑う。
「琉球ぅ」
 序峰の魂は叫ぶ。やめて。
「いいなあぁ。琉球ぅ、欲しいなあぁ!」
 ああ、私が間違っていた。
 高千穂の聖域に監禁されて育てられたことを、とりわけ憑依者の中で自分だけがこの扱いを受けていることを、ずっと不満に思っていた。外界で普通の生活をしている人々を憎んでいた。
 そもそも監禁されたのは、呪詛の強大な力を持つには序峰の人間性に問題があると判断されたからだ。憎んだり、恨むなら、その気持ちはまず八歳にしてそう思われるような育て方をした両親に向けるべきだった。
 愛されたかった。それゆえに、序峰は父も母も憎めなかったのだ。
 やめて。お願いだから。ねえ、その渇望はどこからくるというの? もともと住んでいた人たちに自然を返して。それは私のものじゃない。この先も私のものになりはしない。
 叫びは誰にも聞こえない。
 視界を、黒い塵が流れていく……。

 ※

 雑多。
 それが、浪越という都市に対する乙葉の第一印象だった。東都ほど栄えているわけではなく、阪都ほど洗練されているわけでもない。だが人が多すぎないのはありがたかった。
 三つの区に分けられた浪越三市。その中心地に当たる中央区の浪越駅が、空港からの直行便の終点だった。磁車の減速が始まる前から乗客たちが下りる準備をし始める。網棚のスーツケースが通路に下ろされ、手荷物の紙袋やビニール袋がにぎわしく音を立てる。通路側に座った夫と井田がスーツケースを下ろしたが、早かったようだ。磁車はまだ、様々な趣の建物が乱雑に立ち並ぶ区域から、塔のごとき超高層建築物が林立する階層都市へと飛び込んだばかりだった。
 十分後、磁車は浪越駅のホームに滑り込んだ。
 更に、複雑に入り組む駅内のショッピングモールとレストラン街をさまようこと二十分。ようやく地上市一階南A14番出口の目印であるプロムナードが見えてきた。今の展示は子供たちの絵で、小学校の催しかと思いきや、絵画教室のこどもの作品らしい。かといって、お行儀よく花や果物を描いたようなものではない。町並みや家、家族やペットや花などが、力強く描かれている。どの作品からも描いた子供の個性を感じられる。
「ずいぶんさまよったな」
 井田が感慨深くもどこか他人事のように呟く。パジェットが嫌みたっぷりに応じた。
「優秀な案内人がいたからな」
「記憶違いは誰にだってある」
「だから最初から地図を見ろって言っただろうが。三年も経ったら店が入れ替わったり工事してたりして当たり前だっての」
 ふいと目をそらす井田は、悪びれる様子もない。それどころか不機嫌に、
「疲れた」
「そりゃお前のせいだ」
 話している間にプロムナードを抜け、三人は屋外に出た。
「この辺りにマネージャーが手配した車があるはずね」
 二人がなお言い争いをしようとする気配を感じ取り、乙葉は後ろから声をかけた。パジェットが振り向き、見下ろした。
「おう。これな」
 携帯端末をいじり、車種情報を提示する。駅を出て左手が平面駐車場になっており、そのどこかにチームマネージャーのミンタカが車を置いているはずだった。
「井田、お前も探せ」
「わかってる」
 男二人は早々に、駐車場に入っていく。だが乙葉は気がかりなものを見つけて足を止めた。
 駅舎の壁と駐車場のフェンスの間に、人一人通れるほどの鉄の通路があった。誰も見向きもしないその通路を、黒装束の一団がぎっしり埋めている。駐車場側に背を向けて、壁に何かを呟いていた。
 頭巾をかぶったその頭を乙葉はじっと見た。二台の大型車の間に入っていき、異なる背丈の黒装束を見比べる。五十人か、六十人ほどいた。
「あの」好奇心に負けて、乙葉は小さな声で呼びかけた。「何をしてらっしゃるのですか?」
 誰もこちらを見ない。
 五秒ほど待った。立ち去ろうと思ったとき、正面の三人がゆっくり乙葉を振り向いた。
 その動き方で理解した。
 生きている人間ではなかった。
 振り向いた三人は、般若の面で顔を覆っていた。
 微かな、だがはっきりと耳に聞こえる声で一人が答えた。
「我ら復讐の民。相澤序峰がこの世で十万人を殺すなら、我らは黄泉にて相澤序峰を百万回殺す」
 そして、壁に向き直ると、一斉に足を前に踏み出した。全員の姿が壁をすり抜けて消え、後に何も残らなかった。
「乙葉!」
 どこかで夫が呼んだ。
「どうしたんだ?」
 手配された車を見つけたのだ。黒いスポーツカーの車体越しに、佇む乙葉に目を注いでいた。
「いいえ」
 何も気付かぬ男二人に、乙葉は足早に歩み寄った。
「何でもないわ」
 一行は当面の生活拠点となるマンスリーマンションへと車を走らせた。場所は水早区。外来宗教・新宗教・新新宗教の受け入れ地域だ。護衛対象である日野晶が暮らす高校の寮まで徒歩二分の距離にある。部屋は二部屋。
「おい、井田」
「何だ?」
「お前に一部屋くれてやる」
 井田は運転しながら、信じられないとばかりに首をよじって助手席を見た。
「何を言ってるんだ。部屋は男同士、女同士と決められている」
「はあ?」
 パジェットは威圧を込めて声の音量を上げた。
「ふざけんな、何でお前と同じ部屋でおねんねしなきゃならないんだ。俺はこいつと」顎で後部座席の乙葉を指す。「夫婦なんだぞ。ていうか前見て運転しろ」
「柿崎が合流したらどうするつもりなんだ。俺に柿崎と寝ろと言うのか?」
「期待してんのか?」
 すると助手席に思い切り首を伸ばして
「ふざけるな!」
「危ない!」
 ほぼ同時に乙葉が叫ぶ。パジェットが血相を変えて横からハンドルをつかんだ。力任せにハンドルを切り、交差点の中央分離帯を回避する。
「バカヤロウ、お前!」
「おかしなことを言うからだろう!」
「柿崎のことは合流してからでいいだろうが! っていうか……」
「ハンドルから手をどけてくれ。運転できない」
 パジェットが唖然としていると、ちょうど彼の通信端末が着信を知らせた。
 端末の画面を確認すると、パジェットはケーブルでカーナビに繋いだ。通話ボタンを押す。
 カーナビの画面に現れたのは、噂の人物、柿崎零韻(れいん)だった。
「やあ、元気?」
 にっこり笑って手を振るが、包帯の巻かれた頭が痛々しい。彼女には、端末を覗き込むパジェットの顔しか見えないはずだ。乙葉は席を移動し、助手席の後ろから画面を覗き込んで微笑み、手を振り返した。
「柿崎さん、久しぶり。お怪我の調子はどう?」
「こんにちは、長谷部さん。僕は大丈夫だよ。ちょっと痛むけど、でも元気。井田君はどうしたの?」
「運転中だ」
「浪越に着いたんだね。アパートはどう?」
「まだ見てないさ。これからだ。用意しといてほしい物とかあるか?」
「今は思いつかないな。とりあえずいいよ。それより、柚富で亡くなったみんなのお葬式のこと、何か聞いてる?」
「いいや」
 乙葉も無言で首を横に振った。
「国葬されるんだ。今日の正午から」
 パジェットは唇を結びながら立て続けに頷いた。
「新内閣は国民の神経を逆撫でするのが好きらしいな」
「誰もお葬式に反対なんてできないもんね。表向きはね。それより、護衛対象にはいつ会うの?」
「明日の土曜日だ。今日は周辺を探る」
「関係者リストに載ってた例の戦闘祓魔師には?」
「今日中に接触する」
 井田が会話を気にしてちらちらと横目で見てくる。
「それとね、長谷部君、浪越にいるもう一人の憑依者の情報が手に入ったんだけど、欲しい?」
「欲しい」とりあえず即答した。「どうやって手に入れたんだ?」
「えへへ。気持ち悪いおじさんがまた大事な紙をほったらかしにしてたから、腹いせに画像スキャンしておいたんだ」
「おいおい……」
 柿崎は得意げだ。
「まあいいや、送ってくれ」
「うん。切るね。すぐ送る」
 通信が切れると、パジェットはカーナビからケーブルを引っこ抜いた。データはすぐに届いた。この街のもう一人の憑依者、皆無神クロエ。顔写真、偽名、住所、職業……。
「窓を開けていい?」後部座席の乙葉が尋ねた。「街の空気を吸いたいの」
「ああ」
 端末から目を離さずに答えた。
 車はもう水早区の外来宗教地区に入っていた。様々な装束に身を包んだ宗教団体の関係者たち、信徒たちが、よく晴れた空の下を連れ立って歩いている。意外と車の通りは少なく、自転車と歩行者が目立つ。
「あっ」通行人の誰かが声を上げた。「あの人!」
 それをきっかけに、歩道の声が消えていく。歩道の誰もが黙った。その異様な気配にパジェットは顔を上げた。
 歩道の向こうから、二人連れの男が歩いてくる。
 一人は老齢にさしかかっているが、その男に対してはパジェットは注意を払わなかった。
 もう一人は若かった。丈が踝(くるぶし)まである黒いカソックに身を包み、肩に紫色の頸垂帯(ストラ)をかけている。首から下げた佩用(はいよう)十字架が胸元に目立つ。男は彼を見る周囲の目を意に介さず、隣の男と何やら話し込みながら歩いていた。
「止めろ!」
 命じると、井田が慌てて車を路肩に寄せた。
 パジェットはシートベルトを外し、端末をジャケットの内ポケットに押し込んで、車を飛び出した。
 歩道の真ん中に立ち、足を止める。
 カソックの男もパジェットに気が付いて、彼の数歩手前で止まった。つくづく不思議そうにパジェットを見つめ、少し首をかしげた。だがそれもやめると、何故か、自信と余裕に満ちた笑みを浮かべた。
 それが、パジェットこと長谷部武雄と椙山光の、最初の対面であった。





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