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冷凍されたオシドリとチューリップ人の王国

趣味で書いている小説用のブログです。

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虹よ、契約の虹よ〈17〉

七章 聖所で会おう、神殿の中で(2/3)



 2.

 霧の日、魔女は生まれた。霧が少女を魔女に変えた。日付は覚えていない。霧のことは覚えている。
 アイリーン・クドウ。日本人の祖父と、アイルランド人の祖母と。聖公会(アングリカン)信徒の父と、公教会(カトリック)信徒の母と。各人の背景やちょっとした生活様式の違いが幼い魔女を苦しめたわけではない。むしろ彼女を苦しめたのは、互いを無条件に受け入れる寛容、意見と価値観の食い違いを受け入れる忍耐、絆を繋ぎ留める慈愛、そういったものだった。
 父の教会にも行った。母の教会にも行った。祖父の祖国に行けば神社や寺院も拝んだ。だが、これを信じよう、あれを信じよう、という決断は、初めから彼女の手に委ねられていた。何を選んでも家族の愛を失うことはないとわかっていた。
「ママ、私はどの教会に行けばいいの?」
 十二月二十五日の夕、母は七面鳥を切り分けながら愛情深く答えた。
「教会の違いなんてのはね、大した問題じゃないのよ。同じ神様を信じているんですもの。どちらでも好きな教会で洗礼を受ければいいわ。ママとパパは、私たちの親が行く教会に行って、それを今でも続けてるだけ」
 この回答は、むしろ彼女を傷つけた。三十年も前の両親がそうであったように、彼女もまた幼くて、何でも親に決められたい年だったのだ。
 魔女になる日が来た。
 その日は霧が出ていた。カーラジオが戦争を報じていた。戦争のことはよく知らない。だが霧のことはよく知っている。それは目をふさぐもの、とりわけ前進する意志がある者の目をふさぐものだ。山の中の道を、一家の車はのろのろと進んでいた。日が暮れかけており、白い闇が黒い闇となるのも時間の問題だった。両親は、緊張して無言だった。彼女は後部座席でじっと黙っていた。
 夢を見はじめたのは、どの時分からだったろう。座席越しにタイヤの震動を感じながら、夢の中の彼女もまた、深い霧の森を、車に乗せられて進んでいた。だから、声が聞こえたときも、それを夢だと思わなかった。
 そのとき彼女の意識は車を抜け出し、森の中の一本道を突き進んでいた。霧の左右に次々と木々の枝が現れ、ぶつける直前に避けねばならず、しかし突き進むことをやめられない、恐ろしい体験だった。
 声がした。
「あそこに悪魔がいるよ」
 彼女は七歳だった。ちょうど自分と同じ年くらいの男の子だと思った。
「気をつけて。心の声を聞くんだ。帰って、パパとママに教えてあげて」
 そこで霊体の突進は終わった。
 気がつけば、彼女の精神は、大人の男の体の中に入っていた。青いチェックのシャツに、白い夏物のジャケットを着ていた。太っていた。太い指が煙草を一本出して口に運び、ジッポの火をつける、その一連の動作が見えた。やがて男の思考が彼女の意識に流れ込んできた。
(あの車は地元の人間じゃない)
(抜け道を知らないようだ)
(必ずここを通る)
(エンストしたんだ。助けてくれ。乗せてほしいんだ)
(断られはしない)
(ガキを殺して……男を殺して……女のほうは楽しんでやってもいい……)
(ウェールズでは女はお預けだったからな)
(だが四千ポンド稼いだ)
 流れ込む邪悪の温度に彼女は凍り付いた。
 いきなり、一家の車の中で目が覚めた。
 停まって。
 目を開け、訴えた。
 停まって!
 そのとき、霧の向こうから、手を振りながら人が近付いてきた。彼女は悲鳴を上げた。その人物が男性で、太っており、青いチェックのシャツと白い夏物のジャケットを着ていることを確認したのは、逃げて、逃げて、逃げて! と、ひとしきり叫んだあとだった。男が運転席の窓を指で叩いている間も、彼女は泣き叫び続けた。
 開けちゃ駄目! 悪魔が入ってくる! その人、悪魔だよ!
 どんな葛藤を経たかは知らないが、父は猛スピードで車をバックさせた。男の姿が霧に薄れていく。完全に見えなくなった後、まず一発、続けて二発、フロントグラスに銃弾がのめりこんだ。
 自分を助けてくれたその声をもう一度聞いたのは、三年半後の真冬の教室だった。算数の授業が行われていた。
 スミス先生は、四十代の男性教師だった。しばしば子供たちに厳しい罰を科すことで恐れられていた。問題の答えを黒板に書きつけるチョークの音がいきなり止まり、顔を伏せていた彼女がぎくりと顔を上げると、先生はじっと彼女を見ていた。
「ミス・クドウ」表情を強ばらせ、スミス先生は慇懃な口調で命じた。「ノートの下のものを見せなさい」
 教室ではしばしば、友人たちの間で授業中に手紙を回す遊びが行われた。教師が厳しいほど興奮と楽しみが増す。だがツケを払わねばならなくなったようだ。そのとき手紙はちょうど、彼女のノートの下にあった。
 手紙を書いたケイトリンと、彼女とケイトリンの間に席を置き、手紙を回してきたオルウェンもまた、強ばった顔で彼女をじっと見た。声が聞こえたのはそのときだった。
「何もないって言ってごらん。何もありませんって」
 先生は、硬直している彼女を教壇からじっと見下ろしていた。
「信じて。ノートの下には何もない。君は何も隠していないんだって。先生に言うんだよ。信じさせるんだ」
「先生」それは賭けだった。「ノートの下には何もありません」
 先生は、じっと……恐らくは嘘をついた罰について……思案しているようだった。やがてチョークを置くと、教壇を下り、彼女の机の前に来た。
 そしてノートを取り上げた。
 もちろん手紙はそこにあった。先生の目が手紙の置かれた机に注がれている間、彼女は怒りが下るのを恐れていた。先生が微動だにしないのを、手紙の文面を読んでいるからだと思ったのだ。
 だが先生は首を傾げながら手に取ったノートをめくり、挟まっているものがないか調べ始めた。そのとき、一つの真実がスッと胸に入ってきた。
 先生には手紙が見えていないのだ。
 同時に一つの才能について自覚を強いられた。
「失礼」先生は手紙の上にノートを戻した。「先生の思い違いだったようだ」
 職業魔女になりたい、と、帰って両親に告げた。
 二人がショックを受けたのは明らかだ。だが拒絶はしなかった。
「十二歳まで待ちなさい。お前はまだ子供で、考える時間はたっぷりあるのだから」
 十二歳になった。サマーキャンプでの出来事だ。不可解な出来事の立会人となったのは、またしても最も仲のよい友人のケイトリンであった。
「あの子を止めてあげて!」
 ちょうど、マス釣りのルアーを釣り針に仕掛けているところだった。その切迫した警告があまりにはっきり聞こえたので、実際に真後ろに誰かがいるのかと思ったほどだ。振り向くと、水辺から少し離れたところでバーベキューが行われている様子が見えた。ケイトリンはコンロのそばの折り畳みテーブルの上でタマネギを切っていた。友人と談笑しながら野菜を切るその姿から目を離さず、彼女は待った。何かが起きるはずだ。そのうちケイトリンは、野菜をコンロのそばへ運び始めた。ザルを持ち歩くケイトリンに、グウェンドリンが途中で話しかけた。お調子者の女子だ。その声は聞こえなかったが、何かおもしろい冗談が交わされたらしい。
 背を仰け反らせて笑うケイトリンは、放置されたロープが足に絡んでもすぐには気付かなかった。ロープを右足に引っかけた状態で、左足を前に出す。その左足がロープの束を踏んだ。そのままの状態で、ケイトリンは右足を前に出した。
 一連の出来事が、釣り針に手をかけたままの彼女にやけにゆっくりと見えた。
 ケイトリンは、左足にかかる自分の体重で固定されたロープに足を取られ、つんのめって前のめりに倒れていった。
 燃え盛るコンロへと。
 止まれ!
 気付いたときには言葉を発していた。それは声ではなかった。人間の耳に聞こえる声では。
 周囲の人間が顔をひきつらせ、その場に凍りついた。だが、その瞬間に誰もが予測した惨事は起きなかった。
 ザルが落ち、野菜が土にぶちまけられた。
 ケイトリンは、体を四十五度前に傾けた姿勢で止まっていた。とても自分で自分を支えられぬ体勢、コンロに近付けた顔が火傷を負わないぎりぎりの距離で。
 男子が二人、両側からケイトリンの肘を掴み、まっすぐに立たせた。その後、ケイトリンは動けるようになったようだ。頭を軽く振りながら、何かを呟いた。
 親や教師からつまらないジョークを聞かされたかのような、生ぬるい笑いが全員の口から放たれた。戸惑いながらバーベキューは続けられ、解釈困難な出来事について、誰も話題にしようとしなかった。
 職業魔女になる、と、帰って両親に告げた。彼女には分別があった。あの森の中での出来事と、サマーキャンプでの出来事を両親に打ち明けはしたが、手紙の件は言わずにおいた。
「十五歳まで待ちなさい、ああ、お願いだから」もしその件まで告げていたら、両親はきっぱり反対していたかもしれない。「お前はまだたったの十二歳じゃない。将来を決めるには早いのよ」
 だがその嘆願も、彼女の自分自身の才能に対する自覚を弱めはしなかった。時に教師の目をそらしたり、時にちょっかいをかけてくる男子を遠ざけたり、動いている物を止め、飛んでいない鳥を飛ばし、枯れかけた草に実を結ばせる。それを何故、自分自身の力と思わずにいられよう。
 十五歳になった。
 十八歳まで待ちなさい。
 いいえ、ママ。その手にはもう乗らないわ。ママ、私には魔術の才能があるの。悪い人ばかりじゃないわ。しっかり社会に貢献してる魔女や魔術師たちはたくさんいるって知ってるでしょ? 特別な才能なの。才能が神様からの頂きものなら、使わずに済ますなんてできるわけないじゃない。
 両親と神学的な問答をしたことはない。そのときでさえしなかった。二人は約束を守った。娘に一度好きにさせてみようと判断したのだ。ただ、黒魔術には手を出さない、それだけを条件として娘に受け入れさせた。
 十六歳になるまでに、北欧に渡った。語学を勉強しながらの魔女修行だった。
 ラップランド魔女同盟。四年後に、そこに加入した。日本での仕事を任されたのは、祖父から教わった日本語の心得が僅かながらあったからだ。
 こうして彼女は日本に来た。大日本神政国。列島、二つの都と二人の王を頂く不思議の国に。
 六つの派遣先が提示された。
 東国の首都、東都五市(とうとごし)または皇都。
 東国の横濱三市(よこはまさんし)。
 東国の浪越三市(なみこしさんし)。
 東国の川内二市(せんだいにし)。
 西国の首都、阪都五市(はんとごし)または京都。
 西国の神戸二市(かんべにし)。
 彼女はそのどこでもなく、高千穂を選んだ。だが結局、浪越に来た。
 彼女はアイリーン・クドウ。
 魔女。

 霧と森の魔女は、浪越司教座聖堂の前を通りすぎていった。公教会に対する思いは複雑だ。この道の先達たちを迫害した虐殺者であり、母と共に通った懐かしい故郷のようなものでもある。だがここには昨日の男がいる。物怖じしない、優しげなようでいて、有無を言わせぬ物言いをする男。若く、そして、実力主義者だ。たった一人で送り込まれただけあるというものだ。そういえば、あの男の名を知らない。調べておくといいだろう。また会うことになる気がしていた。
 アイリーンは一人の女とすれ違った。事務員だわ、と思った。主婦で、子供がいる。高校生の娘と、中学生の息子だ。カンは魔女にそこまで教えた。果たして事務員は、八時五十分、浪越司教座聖堂の司祭館へ吸い込まれていった。
 四階の司祭室では、椙山光(すぎやまれい)が無表情に机の天板を見つめていた。足を組み、左の肘をつき、頬杖をしている。もう十分か十五分ばかし、彼はそうしていた。
 眉根が寄った。
 それも少しのことで、彼は頬杖をやめて右手の指で眉間を揉むと、思い切ったように机上の聖書を引き寄せた。
 無作為にページを開いた。目に飛び込んできた聖句はこうだった。

「神殿で会おう、聖所の中で。聖所の扉を閉じよう。
あなたを殺しに来る者がある。夜、あなたを殺しにやって来る」

 椙山は無表情にページを見つめ続けた。だがそれもやめ、開いたときよりは丁寧にページを閉じると、椅子から立ち上がった。そして、黒のスラックスとシャツの上からカソックを着た。カソックには襟から裾まで三十三個のボタンがある。それを腰まで閉める。腰には既に『主の御前の騎士団』の標準装備品であるブックベルトが巻かれていた。小袋にロザリオが、筒の三本の小瓶には聖水が収められている。手を後ろに回し、ベルトに聖書を装着した。角が金具で補強された、革張りの上製本だ。差し込み式のカラーを差し、最後に紫色のストラを首にかけた。町に出るのだ。
 一階の事務所では、出勤してきた事務員の田中美奈実が早速電話対応を行っていた。
「いえ……すみませんが、そういう取材はお断りしておりまして……ええ、そうなんですよ……」
 土曜日の魔害発生から三日が経つ。教会には未だかつてなく問い合わせが増えていた。報道関係者が多いが、興味本位のものも少なくない。
 ガラス窓越しに、田中が物言いたげにこちらをじっと見ていた。椙山は足を止め、電話が終わるのを待った。
 受話器を置くと、田中はすぐに椅子を立った。事務所とホールを仕切るガラス窓を開ける事務員に、椙山のほうから挨拶した。
「おはようございます」
「おはようございます、椙山神父。昨日なんですけどね」
「はい」
「夕方の五時ちょっと前くらいに中学生の男の子から電話がありまして」
「中学生?」
「宮ヶ浜中学校って言ってましたね……でも名前は教えたくないみたいで」
「私にご用の人ですか?」
「はい。何でもこの前の魔害は自分のせいかもしれないと」
 椙山は曖昧な笑みを浮かべた。それだけでは、自意識過剰な思春期特有の思い込みと変わらない。
「何故そう思ったんでしょうね」
「人からもらったウィジャ盤をやったからだとか……」
 椙山が苦笑すると、田中も合わせて愛想笑いをした。
「教会に来る気配はありますか?」
「一応勧めたんですが……来るんでしょうかねぇ?」
「大事にしたくないなら来ないかもしれません。電話番号を控えさせてもらってもいいですか?」
「どうぞ」
 椙山は事務所に入っていった。窓の向こうの通りは、曇天の鉛の影が覆うばかりだ。梅雨明けが待たれた。
 同じ曇天の下、アイリーンはパンが入った紙袋を抱えて傾斜路(ランプ)街を下っていた。坂の下には海が深淵の大口を開けて待ち構え、その面(おもて)には蔓草のように霧が這っていた。アイリーンは海から顔を背けて路地に入った。
 赤煉瓦のビル。一階に会計事務所と保険屋の窓口とラーメン屋が入り、二階に喫茶店とマッサージ店が入っている。二階の角がアイリーンの事務所、その真上が住居だった。
 裏手の共用廊下に入ると、ちょうど雨が降り始めた。灰色のコンクリートの床が、濡れて黒ずんでいく。肌寒かった。自然空調が効きすぎではないか。だが切ったら切ったで蒸し暑く不快だろう。
 階段を上ると雨音が大きくなった。あっという間に土砂降りだ。先ほどまで持ちこたえていたのが嘘のように、すべてのものを濡らしていく。
 二階の端のドアの前に立ち、アイリーンは右手の親指を鍵穴に押しつけて呪文を呟いた。鍵が開いた。
 室内は、雨のせいで暗かった。部屋は2LDKで、入って右の六畳の洋室が事務所。左手の風呂場は大量のハーブを干すのに使っていた。湿気がたまらない。浴室の換気扇を回す。廊下を進んでドアを開けると接客スペースだ。カウンターキッチンのある応接には、客の好みにあわせて出せるよう、様々な種類の紅茶とコーヒーが置かれている。隣接する十二畳の洋室は、護符や書籍、ポプリ、ハーブティーを販売する店になっていた。自分で作ったものもあるし、問屋で卸したものもある。少数ながら委託販売品もあった。
 店舗と応接に、オレンジ色の照明をつけた。カーテンを閉めてしまいたいが、そうすると飛び入りの客が入らなくなる。今日の予約客は二組。一組は大学のサークルで、学祭の出し物にする小道具を作ってほしいという相談だった。自動でゴミを拾い集めるゴミ箱がほしいのか、勝手に火がついたり消えたりするランプがほしいのか知らないが、カタログを見ながら相談すればいいだろう。来店予定は十一時からの一時間。もう一組は零細企業の総務で、魔術による遠隔透視を防ぐシステムを作ってほしいという。こちらは十五時から。どちらも難しい仕事ではない。
 パンの袋をテーブルに置く。バタークリームの甘い匂いが中から漂っていた。小鍋に湯を沸かす。コーヒーが飲みたかった。コーヒーメーカーもあるのだが、豆を挽く心の余裕さえなかった。マグカップにインスタントコーヒーの粉を入れ、熱湯を注ぐ。マドラーでかき混ぜた。
「おいしくなぁれ……おいしくなぁれ……」
 魔法の呪文ではない。暗示だ。暗い顔つきのままそう唱え、冷たい牛乳を加えて適度にぬるくする。
 一人きりでテーブルについた。コーヒーを口に運んでも、味がわからない。胸がむかむかしていた。パンを口に運ぶ気も起きず、壁に掛けた黒いとんがり帽子と箒にぼんやりと目を注いだ。子供向けのイベントの出演依頼があった際に使う衣装だ。しまおう。今日の客は子供じゃない。
 アイリーンはテーブルの上で指を組んだ。禁止されている魔術を行っていながら、神に祈ろうというのではない。その資格は自分にないと思っている。
 ただ、才能は使うためにあり、どこでも、今いる場所が、それを使うために派遣された場所だと信じている。信じたい。
 目を閉じた。ぎゅっと眉根が寄った。自分がなにをしようとしているのかアイリーンにはわかっている。
 手を出さないほうがいい。関わりあうべきではないのだ。黒魔術師を敵に回した場合、どのような苦痛と死が待ち受けているかは知っているつもりだ。
 うまくやりなさい。自分に言い聞かす。やるのよ。看過すれば自分の生活基盤を失うことになる。そのためには才能の行使が必要だ。
 アイリーンの眉間の皺が消え、優しげな顔になった。力を抜いて集中し、同業者たちによって市内に張り巡らされた魔術の網を辿る。
 緑の葉の触れ合う音がした。同業者のマツヤマ・ミヤコだ。パンジーの手入れをしているのだろう。気付かれぬうちに離れる。次はイトウ・ハナ。新聞をめくる音がした。離れる。水早区で仕事をしているのは自分を含めこの三人だ。だが網は浪越市内に広がっている。
 注意深く、網の中でも鍵をかけられた箇所を探す。
 浪越にいる魔術師。悪質な奴らだ。同業者などでは決してない。奴らが市内に連絡網を張ろうとしても、仕事仲間の誰一人として気付かないわけがない。仲間はみな優秀だ。たとえば中央区に住むアキヅキ・シノは、この連絡網の保安点検員だ。水早区に住むチェ・スンエはベテラン中のベテランで、よそ者に対しては恐ろしく鼻が利く。あるいは彼女たちならよそ者の居所までをも突き止めているかもしれない。今アイリーンがしようとしているやり方を試した後ならば。
 もしも自分が『奴ら』だったら、一から連絡網を作ろうとはしない。既にある物を改造し、鍵をかけて隠匿したほうが楽だ。
 鍵のかかった箇所は二十六もあった。大半がフェイクだろう。だがむしろ、やりやすい。すべての鍵を間隔をあけずに攻撃すれば、どこかに隙ができる。そして、アイリーンには十分にその技量と魔力があった。
 本当に運が良かった。
 たまたま入り込んだ隠蔽された領域が『当たり』だった。
〈憑依者はどこに行った?〉
 それは何語でもない。男の声でも女の声でもない。だが男だとわかった。
〈私は昨日貴様に問いかけた。まだ答えを聞いていない〉
〈申し訳ございません。現在捜索中です〉
 二人目は女だ。
〈つまり、見失ったままだというのだな〉
〈はい〉
〈何故見つからん〉
〈介入があります。加護が〉
 男が悪態をついた。
〈学校には行っているのだろう〉
〈張り込みました。ですが肉眼でも見えないのです〉
〈教会へは〉
〈近付けません。まっすぐ歩けなくなるのです〉
〈教会を見張れ〉
 沈黙。
〈できんか〉
〈……いいえ、決して〉
〈やれ〉
〈はい〉
 物言いたげな沈黙。
〈マスター。お願いがございます〉
〈何だ〉
〈三日前に死亡した同志の遺体を警察署から盗み出す許可をください〉
〈何故だ? 捧げものの『豚』なら足りている〉
〈マスター。あのとき駅で死んだのは私の妹です〉
〈立場をわかって言っているのか〉
 再びの沈黙。
 女が答えた。
〈申し訳ございません〉
 会話が終わった。

 ※

 雨がようやく小降りになったのは午後一時になってからだ。昼の聖務日課を終え、昼食をとり、椙山はもう一度見回りに出かけていった。十七時半からはバチカンの本部で行われる講習会にオンラインで出席しなければならないが、それまでの時間はあいていた。
 教会に帰ったのは十五時手前頃だった。
 五百円のビニール傘を振って雨粒を払い落とし、司祭館の外側の扉を開ける。二重扉の間に置かれた傘立てに傘を入れ、内側の扉を開いた。
 予期せぬ客が待っていた。薄暗い一階のホールに、おさげ髪の少女が座って待っていた。ガラス窓からこぼれる事務室の明かりも届かぬ場所で、入り口をじっと見ていた。膝丈の黒いスカートに白い長袖ブラウスという格好で、椙山を見て立ち上がった。
「椙山神父様」
「日野さん、こんにちは」歩きながら、椙山はにっこりした。「今日はどうしたの?」
 平日の昼間だ。学校があるはずだ。
「少しお会いしたくて。あ、学校は休んでいるんです。昨日と今日と。気分が乗らなくて」
「そうだよね。あんなことに巻き込まれたんだもの。お母さんは心配してない?」
「軽沢に帰ってこいと言われてます……でも大丈夫です。どこにいても同じですから」
 暗い笑みを浮かべ、その後本当に暗い顔になった。椙山はとりあえず電気をつけた。
「僕を待っていたのかな。随分待ったんじゃない?」
「いえ、さっき来たばかりですから。それに教会自体に来たくて来たんです」
「この教会は居心地いいかな? いろいろ違うから、馴染んでくれるといいんだけど」
「静かで素敵な教会だと思います。建物も、ステンドグラスもきれいで……」
「嬉しいです。それはよかった。ところで、ここじゃなくて部屋でお話をしましょうか?」
「大丈夫です。ありがとうございます。本当に、顔を見たかっただけですから」
 小柄な晶の顔をそっと覗き込むと、彼女はぎこちなく目をそらした。椙山は小声で尋ねた。
「渡したメダイはちゃんと持ってるかな?」
 晶はブラウスの襟元から、チェーンに通した銀の護符を出した。死の天使サリエルの眼の護符だ。元通り、ブラウスの中にそれをしまう。その間、椙山の顔は見なかった。
 椙山は頷いてから切り出した。
「何か心配ごとがあるね」
 黙り込んでしまうのを受け、声を潜めた。
「心配ごとはあって当たり前です。怖い思いをしたのだから。今、何が不安なの?」
「私……」口を開いて目を伏せる。「この間の件は、私のせいじゃないかと思うんです」
「魔害の件?」
「はい」
「どうして」
「あれは私を狙ってきたんじゃないかって」
 椙山は小柄な晶の顔を見下ろしたまま、視線を注ぎ続けた。
「どうしてそう思うの?」
「わかりません……変ですか?」そして笑い、「変ですよね。被害妄想かもしれません。私はおかしいのかも」
「どうしてあんなことが起きたのかはわからない。この先もわからないままだと思う。でも、君が責任をとらなきゃいけないことは何一つないよ。これだけは言える」
「それに……」
 上目遣いの視線を受けた。
「言ってごらん?」
「私……椙山神父様、私のこと、悪魔憑きだと思いますか?」
「わからない。ちょっかいをかけられているのが事実だとしても、憑いているかまではわからないんだ。慎重に判定ないといけない。この前話したとおり、精神科医の協力も必要になる」
 今のところ、協力を約束してくれた医者はいない。
「医師の派遣を騎士団に頼むことになるかもしれない。でも大丈夫。君には異変に立ち会ったお友達もいるわけだし、君自身が異変を起こしたわけじゃないよね。部屋が滅茶苦茶になれと思ったから部屋が滅茶苦茶になったとか、そういうことなら別だけど」
「そうじゃないんです」
「じゃあ大丈夫だと思う。あまり気にしたり、怖がったりしないで。悪魔は恐怖や不安が好きなんだ」
 晶は頷いた。
「一つ、伺いたいことがあるのですが」
「うん」
「悪魔憑きと精神病って、どうやって見分けるんですか?」
 明の目をじっと見ながら瞬きをすると、彼女は付け足した。
「私、最近、嫌な考えがすぐに頭に浮かぶようになったんです。心の中に、嫌な声がずっとしてるみたいで……」
 優しく尋ねてみた。
「その声はなんて言ってるの?」
「……とても言えません。私には、私がおかしくなってきてるのか、他の要因があるのか、わからくて怖いんです。それに、神父様、こんなことを言ってはいけないのかもしれませんが、実際に悪魔祓いの儀式が行われるまでに何ヶ月も審査が必要なのは、誤った判断が多いからだと……」
「そうだね。それは事実です。悪魔祓いの儀式の強行は、治療が必要な精神疾患の患者に対する虐待になりかねない。でも今は、どうしようもないことは考えずにいなさい。不安を育てることはないよ。今度嫌な声が聞こえたら、黙れって言ってやりなさい。それで、もうそれ以上は相手にしない。仮に悪魔が君の中にいるんだとしても、君のほうが強いんだっていう気持ちを持つんだ。動揺してはいけないよ」
 不安の残る顔で、別れの挨拶をして晶は帰っていった。
 その後ろ姿が無性に心配だった。
 悪魔や悪霊が囁き、人を堕落させたとしても、悪魔は人間に責任逃れをさせない。悪魔という他者から心に悪の種を蒔かれたとしても、それに水をやり育てるかどうかは人間の責任だ。
 晶はどうするだろうか。
 彼女の姿はもう、二重扉の外側にあった。

(黙れ、だってよ。偉そうに!)
 教会の敷地を出ていく晶の心に思いが浮かんだ。
(ほら、思った通りだ)
(ろくなアドバイスをもらえなかった)
(アドバイスどころか門前払いの扱いだろ、あれは)
 晶は足を早める。教会の斜め向かいの修道会を通り過ぎた。
(ことの重大性がわかってないんだ)
(私のことを馬鹿にしてる)
(私のことはどうでもいいんだ)
 違う。違う。晶は心の中で叫ぶ。苦しげに顔をしかめた。本当に何でもないんだ。何でもないのよ。専門家が言うんだから。
(専門家って言ったって、若すぎるじゃない)
(ろくに経験もなさそうな……)
(やっぱりほら、私のことなんてどうでもいいのよ。誰も気にしてなんかないんだ)
 そうだ。大したことないんだ。重要な存在だとか、大事な件だなんて思われてなくて、誰にも思われなくて、きっと私はどこかでひっそりと死んで……それで終わり……。
 あの人が助けてくれないからだ。
 あの人は私を助けない。そんな力はない。誰にもない。なのに何? あのありがたぶったアドバイスは。
 憎い。
 憎らしい。
 そうだ。
 あの男、死ねばいい……。
 そこで、晶ははたと足を止めた。
 今のは何?
 私が自分で思ったことなの? 私はこんなひどいことを平気で思う人間なの?
 自分の心に問いかけるほど、焦りはひどくなっていく。
 思ってない。私じゃない。私じゃない。私があの人を憎む理由なんてないじゃない……。
(何言ってるの?)
(私が自分で思ってるんじゃない)
(ほら、思ってる)
 汗が額に浮いた。梅雨の湿った風が吹くと、それが流れ落ちた。目にまで垂れるその汗を、晶はぬぐいもしない。
(これが私なのよ)
(嫌な奴。ひどい奴。残酷な奴。あーあ、人をなんだと思ってるんだか)
(価値がないのよ、私なんか)
(生きてる意味なし)
(生きてる価値なし!)
 頭の中のその声が大きな笑い声に変わったとき、晶は黒い雲が待つ坂の上へと全速力で走り出した。

 ※

 強く降ったりやんだりしながら、雨は一日降り続けた。シャワーを浴びても、聖書を読んでも、椙山は眠れなかった。雨音は聞こえなくなっていた。雨雲の鈍い光が障子に滲んでいた。畳に敷いた布団の上で寝返りを打つ。目は開いていた。
 様々な単語やイメージの断片が、頭に浮かんでは揺らめく。今、煙のごとく頭に充満する単語はこれだった。
〈復元された真理の教会〉
 ここから歩いて十分ほどの距離にその支部がある。
『前に言った、晶ちゃんのお母さんが入っていたのがそれなんです』
 土曜日、真為(まなせ)は言った。そのいかにも純粋で天真爛漫な顔に、そのときばかりは影が落ちた。
『晶ちゃんと明奈ちゃんは、だから、あの教会をよく思っていません。たびたび家にやってきて、お母さんからお金を取っていく人たちだったって言ってました。あ、明奈ちゃんのことはわからないです。今どうしてるのかな……』
『ケイト、見て!』
 町ですれ違った復元教会の女性宣教師たちの声と顔が連想された。よい若者たちなのだろうと思う。彼女たち自身は。
 何故こんなことが気にかかるのかわからない。日野晶を巡る一件に、復元教会は関係ないはずだ。頭の片隅には他の課題が頑なにうずくまっている。日本における協力医師をどう見つけだすか……本部から送られてきた反社会的魔術結社のデータの山の中から、この件に関わっている連中をどう抽出するか……どう渡り合っていけばよいのか……それに、任地での協力者は一人として作れていない。
 だが、頭を占めるのは相も変わらず復元教会のことだった。そういえば彼らは自分たち以外の教会を悪魔の教会だと思っている。悪魔。教会。悪魔。悪魔。悪魔。
 椙山は布団を払い、身を起こした。とりとめもない連想がうるさすぎた。寝癖のたった髪を指で梳き、電気をつけずに障子を細く開けた。
 窓の向こうでは、糸のような雨が世界を濡らしていた。ずっと下の街灯が、それをきらめかせていた。
 それから、隅のちゃぶ台に置かれた司祭室の鍵と懐中時計をとると、パジャマのまま部屋を出た。廊下の床には、消火栓の設置場所を教える赤い光と、非常口の緑の光が頼りなく伸びていた。極力音を立てずに襖を閉め、暗い階段を下りていく。自分に割り当てられた司祭室の鍵を開けると、蛍光灯を点けた
 目を細めてたたずみ、やがて眩しさに慣れてくると、壁に吊したカソックに袖を通した。目を部屋の隅々に走らせて、おかしな物がないか確かめる。
 懐中時計の蓋を開け、その文字盤に鋭く呼びかけた。
「エリエゼル!」
 文字盤が開いた。その後ろに隠された電子偵察システムが、室内に電波を放ち、すべての電子機器をスキャンする。不明な電波や霊波を放つ物がないことを確認すると、システムのごく小さなライトが緑色に変わった。
 この盗撮・盗聴を防ぐための処置は、夕方にオンラインで講習に参加した際にも行った。騎士団の規則で、これをしなければ任地からバチカンに接続できないことになっているのだ。
「エリエゼル、登録端末を本部に接続。ソディ神父に取り次ぎを」
 その日本語の命令で、机の上のパソコン本体が起動した。ファンが回転し、その隣の高さ三十センチほどのポールが淡く発光した。椙山は椅子にかけ、パソコン本体に接続された集音マスクを顔にはめた。これも盗聴防止措置の一環であり、マスクを装着した状態でなければパスワードを解除できないようになっている。
 ポールの一番上の光点に指を当て、その指を右下へとおろしていくと、緑色の光の板が形成された。ウィンドウだ。続けて巻き型の無線キーボードを広げ、そのタッチパネルに指を滑らせた。自分でプログラムしたセキュリティシステムを解除し、呼び出しへの反応を待つ。応答結果はこうだった。
『assenza(不在)』
 その下に、メッセージを表す封筒のマークがあった。タッチパネルでクリックする。

『親愛なるレイ。要望の件、人を不可視にする悪魔の一覧表へのアクセス権が君に発効された。パスワードは末尾の通り。このメッセージを閲覧してから一時間以内に使用しなかった場合は無効となる。またダウンロードした場合、十五日後にデータは端末から削除される。再度の閲覧を希望する場合は新たに申請許可を出されたし。また欧州において確認されたこれら悪魔及び召喚魔術師との戦闘記録をシスター・マリア・ステラがまとめた。併せて送付する。
 追伸。ヒックス枢機卿は君からの報告に相当の関心を寄せている。健闘したまえ。君の師範・アレッサンドロより』

 椙山はしばらくパソコン操作を続けた。最後にメッセージを削除すると、キーボードとウィンドウを片付けた。
 ファンの回転音がやむと、時計に針が一秒ごとに動く音が響くのみとなった。
 パソコンに、一枚のメモ用紙が猫のマグネットで留められていた。携帯電話の番号が走り書きされている。椙山はそれにじっと目を注いだ。真剣な眼差しを机の上の懐中時計に移すと、手に取り、再び呼びかけた。
「エリエゼル」システムは主人の声を聞き分け、文字盤の裏に隠された姿を現した。「地下市特別管理区分、第一級侵入禁止区域に結界を突破し侵入せよ。突破後、位置情報をそこに置き換え、今から言う電話番号を呼び出しなさい」
 これには一分ほどかかった。端末には円形の窓が備えられており、中に針が一本ある。命令遂行状況を示すものだ。針は五分の一ほど進んだところで五十秒以上も止まった。結界の突破に手間取っているのだ。だが、それが終わるとたちまちぐるりと一周し、ランプが赤から緑に変わった。
 システムと同期した椙山の携帯電話が呼び出しを始めた。やがて、誰かが出た。
「もしもし……?」
 怯えた少年の声だった。椙山は黙り続けた。少年も黙っている。ただ、漏れ聞こえる息の震えが大きくなっていく。唾をのむ音の後、少年が話した。
「もしもし……あの……」
 可能な限り低く恐ろしい声で、椙山はそれを遮る。
「何故しゃべった」
 ひぃ、と上擦った声を上げ、少年は電話を切った。
 椙山は満足した。これだけ脅しておけば、喜んで教会に相談しに来るだろう。来なければ探して訪ねるまでだ。
 電話と懐中時計を内ポケットにしまい、今度は木製のロザリオを取り出した。オリーブの木の珠を連ねたもので、この温かい質感が気に入っていた。
 司祭室の電気を消し、暗い階段を下りる。二階は聖家族の小聖堂になっている。その天井が高いため、階段が長い。小聖堂の重い木の扉には、細長いステンドグラスがはめ込まれている。その模様の大部分はぶどうの実とその蔓で埋められており、下部には白い祭壇に置かれたカリスとチボリウムが並んでいる。祭壇には赤で『AΩ』と描かれている。西日が射す時間帯には美しい光を廊下に落とすステンドグラスも、今は暗く冷えていた。
 扉を引いて開けた。聖体(ホスチア)を収める聖櫃の横で、真っ赤な光が丸く闇に浮かんでいた。聖体ランプだ。
 小聖堂には五枚のスリット窓がある。すべてステンドグラスだ。祭壇と聖櫃の後ろにある中央のステンドグラスは十字架上のキリスト。あとは左から順に、新約聖書の四福音記者を象徴する生き物の図柄となっている。すなわち、マルコを表す獅子。マタイを表す人間。ルカを表す雄牛。ヨハネを表す鷲。
 大聖堂にあるのと同じ木製ベンチが、左右に四列、前後に七列並んでいる。背もたれ部分にミサのパンフレットや典礼聖歌集を置けるようになったものだ。
 扉を閉め、椙山はただ静寂に耳を澄ませた。扉から祭壇へまっすぐ伸びる通路をベンチの最前列まで進むと、通路の真ん中でひざまずいた。ロザリオを握りしめ、頭を下げる。彼は呟くように祈っていたが、やがてほとんど身を投げ出してひれ伏す姿勢となった。
「主よ、どうか私に問題解決に必要な霊感をお与えください」
 ロザリオをたぐり、その十字架を握りしめると、小さな声でロザリオの祈りを唱え始めた。
 ロザリオは、多くの日本人には馴染みのないものだ。それは数珠に似た道具で、円形の紐やワイヤーに、木やビーズでできた珠が繋がれている。珠の数は五十五個。結び目を挟んで、一個と十個の組み合わせが五つだ。まず珠が一個しかない箇所に指で触れ、主祷文を唱える。これは福音書の中で、救世主が弟子たちに直伝した父なる神への祈りだ。異端を除くすべての教派の教会で重んじられている。次の、珠が十個ある箇所では天使祝詞(てんししゅくし)を唱える。カトリック教会に長く伝えられる、聖母マリアに捧げる祈りだ。一回唱えるごとに指を隣の珠に動かし、計十回唱える。次の結び目まできたら、締めに栄唱を一回唱える。
 このように、主祷文を一回、天使祝詞を十回、栄唱を一回唱えることを、『ロザリオを一連祈る』と表現する。ロザリオ一連を五回続けたら一環だ。円の外側には珠が四つと十字架が一つついている。
「Pater noster, qui es in caelis」
 一心に祈り続けた。
「Sanctificetur Nomen Tuum」
 祈りに集中するうちに、神経の昂りが鎮まっていく。
「Adveniat Regnum Tuum……」
 その声にようやく安らぎが滲み始めたのは、三連目のはじめの主祷文を唱え始めたときだった。
「Fiat voluntas Tua」
 主なる神の優しさと愛情が、心に注ぎ込まれてくる。その心地よさに、笑みさえ浮かべた。祈っている間には、何も怖くなかった。
「Sicut in caelo, et in terra」
 必要のない不安、必要のない事項、そうした雑物が取り払われていく。磁車を追う車の窓から見た光景が消えていく。殺されてホームの屋根から転落していく女の姿が消えていく。自分を取り囲んだ対魔機動隊員たちの姿が消えていく。自分を化け物呼ばわりした人々の声が消えていく。あの大きな三角形の陣も、忌々しい魔法陣さえ消えてく。
「Panem nostrum quotidianum……da nobis hodie……」
 あとに、怯えた晶の顔が残った。
 真為の笑顔が残った。
 平沢の、控えめに気遣う優しげな顔が残った。
 そして、復元教会が残った。
「Sed――」
 思わず祈る声が切れた。
 ぱちりと目を開く。
 手許を見た。いつの間にか、ロザリオを一環終えようとしていた。
「……Sed……libera nos a Malo……」
 最後の一言を力強く言い切る。
「Amen」

(聖所で会おう、神殿の中で)
 朦朧とした意識。闇の中、文字が浮かんでは消える。
 明るさを感じた。晶が前にいてしゃべっていた。
「あなたを殺しに来る者がある」
 未だ見たことのない開放的な笑顔を浮かべて、気さくに話し始めた。
「ねえ、だから椙山さん。隠れましょう。殺されてしまいますよ」
 じっと見上げてくるその目は、異様にぎらついていた。獣のように……。
「隠れるわけにはいけないよ」
 椙山は晶を不憫に思った。その目の奥にいるものを、どうにかしてやりたかった。
「ネヘミヤが何て答えたか知ってるね。ネヘミヤ記六章十一節だ。彼はね……」
「起きなさい」
 しゃべっている最中に、平沢に声をかけられた。晶の顔が急にぼやけていく。
「起きなさい。椙山君」肩を揺すられ、「こら!」
 体が強ばっている。腕を枕にし、椙山はベンチの上で横になっていた。すっかり眠り込んでしまったらしい。平沢が、腰を屈めて顔を覗き込んでいた。
「どうしたんだ、こんなところで。びっくりするでしょうが」
 ぼんやり瞬きを繰り返し、その目を見返した。次第に頭がはっきりしてくる。眠気に呻きながら足を床に下ろし、体を起こしてベンチに座った。平沢が重ねて聞いてきた。
「どうしたんだね?」
 ムクドリが鳴いている。五枚のステンドグラスは朝に染まっている。キジバトも鳴いている。ヒヨドリも鳴いている。平沢は答えを待っていた。
「大丈夫です……祈っていたら寝てしまいました。大丈夫です。何でもありません」
 微笑みかけたが、愛想笑いであることは見透かされていることだろう。平沢の表情は晴れない。
「大丈夫なんだね?」
「はい、平沢神父」
「じゃあ、服を着替えてきなさい。もう五時半だ」
「はい」
 頷いて廊下に出る。開け放たれた非常扉から吹く風が、小聖堂へと流れていく。椙山は目をこすり、大きく伸びをした。無理な体勢で寝たせいで、節々が痛い。
 風と朝日を求めてベランダに出た。
 雨上がりの夜明けの風は、優しく湿っていた。光の中で目を細めた。寝不足のはずだが、清々しい気持ちだった。
 梅雨明けだ、とわかった。昨夜の雨を最後に梅雨が明けたのだと。
『わたしの立場にある者は逃げることはできない』
 夢で晶に言いかけた聖句を、胸に唱える。
『わたしのような者で、聖所に入って、なお生き長らえることのできる者があろうか。わたしは入らない』
「私は入らない」
 声に出し、見えない何かに宣告した。この先に待ち受ける何かに。
「逃げも隠れもしない」
 直射日光が痛い。
 いよいよ夏が始まろうとしていた。





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