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冷凍されたオシドリとチューリップ人の王国

趣味で書いている小説用のブログです。

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虹よ、契約の虹よ〈15〉

六章 剣と剣(2/2)



 2.

 家族を、親族を、友を、恋人を、そして自分自身を、助けてもらえる、守ってもらえると思っていた人の、それが裏切られたときの反応を椙山は知っている。
 悲しみは遅く来る。すぐに来るとしても、それは濁っている。怒りで、拒絶で、憎悪で濁っている。悲しみが透きとおるまでの時は長い。
 殴られたことは二度ある。罵られたことはもっとある。だが辛いのはそんなことではなかった。
 次こそは。次こそは。
 そう心に誓っても、その誓いは再び破られて、また人を裏切ってしまうことも、彼は知っていた。

 携帯電話が鳴ったのは、地上市へつながる螺旋階段を上りきったときだった。ワールド・ワイド・ウェブへの自由な接続を許可された特殊な端末だ。
 画面には『平沢神父』の文字がある。息を弾ませながら通話ボタンを押した。
「椙山です」
『椙山君、どこにいる?』
 平沢の切羽詰まった声は、都市の喧噪にかき消されそうだ。半年に一度の訓練通り、人々は鍵を差したまま車を乗り捨てて、無言のまま近くの建物に逃げていく。バタン、バタン、バタン。せわしなく車のドアが開き、閉じられる。
 椙山は一番近くの信号を見た。
「潮見坂の大交差点です。楠塚の前の」
『よし。近くだな』
「平沢神父はどこに」
『水早西市民病院の近くだ』信徒の見舞いに行く途中だったのだろう。『教会の車だ。非常用道路を使わせてもらう。楠ビル六階の南駐車場に上がりなさい。そこで君を拾う』
 楠ビルはすぐにわかった。車用道路が四本。軽車両と舗道がそれぞれ二本。縦横に入り組むそれらの道を挟んだ向こう側に、一抱えもある石碑がある。その碑の左隣の建物に、看板が出ていた。白い外壁のビルだ。
「わかりました。すぐに向かいます」
 すっかり人気のなくなった歩道から車道へ、椙山は飛び出した。車の間を縫い、分離帯を越えて軽車両用道路へ。左に向かって走る。信号を越え、反対車線の軽車両道路へ。そしてまた分離帯を越えて車道に飛び出す。
 何をもたついているのか、どこかで男が苛立った声を上げている。「おい、早くしろよ!」女が言い返している。「だって、スカートが――」
 道の反対側にたどり着いた。石碑の前を走り抜け、楠ビルのガラス扉の取っ手に手をかける。
 既に鍵がかかっていた。暗い廊下に人がぎっしり詰まっており、不安そうに椙山を見ていた。
 すぐ横に外階段があった。ドアを離れる。外階段には鉄格子と格子状のドアがあった。格子を掴んで前後に揺する。閂(かんぬき)がかかっていたが、格子の隙間から手を入れると外すことができた。
 甲高い音を立てて、閂がコンクリートの地面に落ちた。赤錆びた閂を、椙山の靴が跨ぎ越す。靴は隅に埃玉の溜まったコンクリートの階段を、段とばしで駆け上がっていく。
 六階に着く頃にはすっかり汗をかいていた。駐車場と階段とを隔てる粗末な作りの戸を開け放つと、ちょうど教会の車が進入路から滑り込んできて、そのヘッドライトが駐車場内の歩行者通路の手すりを照らした。黒い車だった。椙山の前で一時停止したその車の助手席を開ける。シートに身を沈めると、ドアを閉め切るよりも早く平沢がアクセルを踏んだ。
 ナビは有料螺旋道路(ループ)を経由して非常用道路に乗り込む経路を示している。これが表示されているということは、今この車は魔害対策用緊急車両として認識されているということだ。ループも無料で利用できる。
 三ヶ月前、椙山の着任に合わせて、緊急車両登録の申請を平沢が出したのだ。認可が下りたのは、唯一の対魔戦闘員である椙山が来て一ヶ月も経ってからだった。
「でもなあ」ビルの六階を貫通する道路からループへの分岐へ乗り込んだ。「非常用道路なんて運転したことないぞ」
 ループの検問では、警備員が暗い目でじっと椙山たちの車を見ていた。白地に赤い縞模様の遮断桿(しゃだんかん)が上がる。乗り捨てられた車はみな路肩に寄せられており、どうにか通ることができた。案外冷静に避難できるものだと、こういうとき、椙山はいつも感心する。
 汗が引き、鐘の音に耳を澄ます余裕ができた。低く腹に響く重い音だ。他ならぬ、自分の教会の鐘だった。椙山の息が整うのを見計らって、平沢が声をかけてきた。
「でも君、日本でこの音を聞くのはおかしな気分だろう」
「はい。在学中はいやというほど聞いたのですが」
「私もだ。海外で司牧の経験をしたときには……」
 車がぐらついた。ハンドルの乱れが伝わる。いつの間にか非常用道路に入っていた。後ろから恐ろしいほどの速度で対魔機動隊の車両が追いついてくる。そして、追い抜いていった。十五台あった。
「どこへ行くつもりだ?」
 眉根を寄せる平沢に、椙山は静かに答えた。
「我々と同じでしょう」
 非常用道路の真上には、聖務防衛軍の軍用道路である祈送管が走っていた。そのパイプの緑の輝きを透かして聖務防衛軍の車両が見える。それが向かう方向へ、平沢は車を走らせているのだ。教会は、魔害発生地点を特定する手段を持ってなかった。ただ、鐘が鳴り続けていた。
 日本で最後にこの音色の鐘が響いたのは、六十年以上も前のことだという。それを最後に、キリスト教の系統のものと断言できる妖魔、つまり悪魔は日本で出現していなかったということだ。
 とにかく、この音が告げるのは悪霊の出現ではない。
 悪魔の出現だ。
 もっとも古い国内での悪魔出現の記録は、十六世紀に遡る。十七世紀に起きた戦と東西断裂鎖国、それに伴う宣教師の追放とキリスト教への弾圧が始まってから、悪魔は姿を消した。それが再び現れたのは、十九世紀になってからだった。
 キリスト教の悪魔や地獄が現実のものならば、その教えが広まっていようがいまいが関係なく現れるはずだ、という指摘は繰り返しされてきた。
 キリスト教が弾圧された時代に悪魔が姿を見せなかった事実は何を意味しているのだろう。
 現れる妖魔はどの地域でも同じもので、それが悪魔と認知されるか、怨霊や祟り神に見えるかの違いでしかない、という考え方がある。妖魔は顕現する際、人間側からの認知方法に影響を受けるのか。だとしたらそれは何故か。または、妖魔に確たる実体はないと人間に刷り込もうとする、先方――悪霊、悪魔の策なのか。今でも意見に一致は見られない。
 椙山の目が勝手に左上へ動いた。
 頭の中が、すっ、と白く静かになった。
 目の先に高いアーチ橋があった。磁車の高架だ。縦横に並ぶアーチはそれぞれに番号があり、無線ゴンドラの通路となっているのだが、もちろん今はゴンドラは飛んでいない。
 高架の壁の向こう側に、八両編成の磁車の上部が見えた。レールの上を海へと滑って行く。駅か車庫に急いでいるのだ。
「あっちだ!」
 思わず声を上げたとき、車は分岐を五十メートル先に控えていた。
「平沢神父! 左です! 次の分岐で曲がってください!」
「見つけたか?」
「いいえ。カンです。でも左です。信じてください」
 分岐の直前まで来ても、平沢は迷っていた。だがあわやそれをやり過ごすという直前で、ハンドルを左に切った。
 敵は見えない。
 だが、鐘が鳴り続けているということは、気配はあるのだ。
 鼓動が早くなっていく。顔が熱い。椙山は腰に巻いたブックベルトの小袋に右手を差し入れ、ロザリオを指に絡めた。その十字架を握りしめる。
 敵はまだ目視できない。
 対魔機動隊はこの道を選ばなかったようだ。道は石造りの高架に寄り添うように並走する。次第に高度が増していき、路面が高架に迫る。磁車の路面の真下、石材が描くアーチの向こうに、浪越司教座聖堂の二つの尖塔が見えた。
 そして、それが見えた。
 それはアーチの内側の壁にあった。
 赤黒い染料で描かれた二重円。
 二重円に幾何学模様という様式の魔法陣は、広く人の世に知られるものだ。だからと言って、誰にでも悪魔召喚ができるわけではないが。二つの円の間には、六文字のアルファベットが書かれていた。

『F』
『u』
『r』
『f』
『u』
『r』

 車はその魔法陣の前を通り過ぎていった。
「平沢神父」
「見た」どこかうんざりしたような口調だった。「狙いは何だ……目的もなくあんな所に描くような手間は普通かけんぞ」
 椙山は聞いていなかった。
「どこかに別の三角形の陣があるはずです! 探してください! 敵はそこにいます」
 一度は車を抜き去った磁車に追いつきつつあった。まだ駅に着いていなかったのだ。ひどい徐行運転に切り替わっている。何かを警戒しているのだ。
 いきなり重力に捕まって、体が重くなった。揺さぶられるような衝撃に吐き気を覚えた。車体がみしみし音を立てる。
 敵が近い。
 アクセルを踏み込む音。
 窓の外に目を走らせていた椙山は、ある瞬間息を止めた。目当てのものを見つけたのだ。
 今、車は水早区の臨海アリーナを見下ろす位置に来ていた。プール、スケートリンク、弓道場、柔道場、剣道場、多目的運動場、ゴルフ練習場が入り、屋上が野球場になったアリーナ南館。その野球場の土の上に、ガスバーナーで焼いたような黒い線が引かれていた。その線は観客席を横切ってグラウンドに達し、まっすぐ反対側へ横切ると、およそ六十度の角度で折れ曲がり、再び土と客席を黒く焼きながら野球場の外へ飛び出した。
 線の続きは遙か下の地面にあった。タイル張りの通路を焦がし、アリーナの南館裏手から北館玄関口へ続いている。掃除夫が水とモップで消そうと努力した痕跡があった。人が描いたものとは思えない。魔術によるものだ。
 重力の過負荷の中を、車は威嚇し、唸り、または喘ぐようなエンジン音を立てて進んでいく。拳を押しつけられるような感覚を鳩尾(みぞおち)に受けていた。二人は黙って耐えていた。
 と、いきなり世界の全てが軽くなった。車がカーブに激突しそうになり、平沢が慌ててハンドルを切った。
 耳が痛い。重力酔いをしそうだ。
 アリーナ北館の屋上が見えた。テニスコート、ダンスホール、種目別球技場、器械体操専用練習場が入った北館の屋上はサッカー場だ。その芝生を横切る黒い線は観客席をも焼いて外へ飛び出していく。そして、道を挟んだ先のホテルの屋上で、再び六十度に折れ曲がった。
 その線が向かう先を目で追った。アリーナ南館とホテルを通って正三角形を描くなら、もう一つの角は。
「駅だ!」
 平沢の目が高架の向こうの駅へと動く。
「駅に行ってください、あそこです!」
 平沢は何も言わず、ナビに目を走らせた。非常用道路は、水早海水浴場方面への乗り換えができる市営運動場前駅にも連結されていた。その連絡路へとハンドルを切る。高架のアーチをくぐった。その陰を抜けたとき、明らかに太陽光とは異なる輝きが車の中に差してきた。
「怯まないでください」
 光源は見えなかった。車からは死角になった高いところに何かがある、としかわからない。
「平沢神父、私があなたを守ります」
「相変わらず大した自信と度胸だね。でも私に君は守れんぞ」
「大丈夫です」
 椙山は軽やかな笑い声でそれに応じた。
「はじめから、私に守ってくれる人はいませんよ。私が守る側の人ですからね」
 平沢の物言いたげな目が助手席の椙山に向けられた。だが椙山は、その目に気付いていなかった。
 道なりにカーブを曲がり、駅裏にたどり着いた。車を下りて鎖をくぐり、駐車場に入り込む。土曜日だけあって、朝から利用客が多いようだ。椙山が前に、平沢が後ろに立って駐車場を駅舎へ駆け抜けた。
 駅舎の三角屋根が大きくなってくる。
 腹に響く轟音と共に、床が揺れた。
 どこかが崩れ落ちたのだ。
 駅舎から混乱した悲鳴が怒濤のように立ち上がり、駐車場へと押し寄せ広がった。足を止め、揺れに耐える。だが駐車場に飛び出てくる人がいないところを見ると、駅舎が壊れたわけではないらしい。
「誰だ、変なのを呼び出した奴は!」
 再び走り出す。
「どうせろくでもないモノがろくでもないコトしてるんだろう!」
 椙山は振り向き、微笑んだ。
「大丈夫です。呼び出せるようなモノなら送り返すこともできますよ」
「念のため聞くが、やったことがあるのか? 対悪魔戦闘を、一人でだ」
「単独では初めてです。ですがやるしかないでしょう」
 再び前を向く。
「首謀者がこの場にいればいいのですが。逃がせば必ず同じことを繰り返すでしょう」
 最低でも二対一の戦いをするつもりだと、平沢は理解した。
 いいや。二対二だ。
「椙山君。聖水は私も持ってきた。こんなことに使うつもりではなかったが」
「ありがとうございます。予備として持っていてください。心強いですよ」
「怪しい奴は私が探す、君は対魔戦闘に集中する、というのはどうだ?」
 前を見たまま、椙山は笑みを浮かべて大きく頷いた。
「それはいいですね! 是非見つけてください。とっちめて、修道院送りにしてやりましょう!」
「修道院もイヤだろう……」
 駅舎の自動扉が開いた。正面はバリアフリーのスロープで、コンコースに向かってまっすぐ伸びている。両側の壁際に、二、三列になって人々が身を寄せていた。老若男女関わりなく、呆然とした表情で立ち尽くしたりしゃがんだりしている。その真ん中を駆け抜ける椙山と平沢に、嫌でも視線が集まった。
 コンコースにたどり着いた。左の角に弁当屋。右の角に書店。ドーム型の高い天井は、壁のスリット窓からの光を湛え白く明るい。ここでは、人々はむしろ窓を避けるように中央の彫像の周囲に固まっていた。地響きが微かに続いていた。恐らくは、高架が崩れているのだ。一際大きな轟音と震動があり、赤子が大声で泣き始めた。
 コンコース中央に集まる利用客を守るように、駅員たちが円陣を組んで立っていた。飛び込んできた椙山と平沢を目にして戸惑い、対応を決めかねていたが、椙山が正面の改札にたどり着くと、一人が声を張り上げた。
「待ちなさい!」
 閉じた改札の下に、頭と右腕を前にしてうつ伏せで滑り込む。
「通してくれ!」平沢が後ろで叫んでいた。「彼は戦闘祓魔師(ハイエクソシスト)だ。封鎖区間への立ち入り許可が下りている!」
 改札を抜けるとすぐに立ち上がり、振り向かずに通路を走り出した。
「あれを見ろ!」
 男が叫んだ。角を曲がり、ホームへの下り階段に身を踊らせる。周囲は薄暗がりとなったが、混乱した声は聞こえ続けた。
「天使だ」思わず耳を澄ませた。「天使だぞ」「そんな」「天使が高架を壊したんだ」「どうして」「磁車が落ちる!」
 階段は長かった。最後の女の悲鳴以来、言葉は聞き取れなくなった。混乱が大きくなる。
「落ち着いてください!」ついぞ駅員がメガホンを持ち出した。「墜落防止装置があります! 装置が磁車を支えますから! 大丈夫です!」
 その声も、好き勝手に喚き立てる群衆の声にかき消された。
「主なる神よ」椙山は素早く十字を切った。「御身の示し給いし御摂理(おんせつり)はここに涜聖(とくせい)を以て報いられ、我らこれにて惨禍を被らんとするものなり」
 階段を下り、ホームに出た。ホームの屋根の下にいても、いやに眩しかった。太陽の光などではない、ぎらつく白色光だ。
「さらば我は我が生命を以てこれを償い奉る。我が血潮、我が鼓動、我が呼吸、すべて主の恩寵なればこそ、我はこれを主に返し奉らんとするものなり」
 長いホームを走る。右手に聖水の小瓶を抜いた。祈る声は小さく、早口だった。
「ああ主よ、はじめの人に罪が入り込み御身に背きしのち、人とエデンの間には智天使ときらめく剣の炎が置かれたり」
 ホームの屋根が切れた。
 視界が開けた。
 眩しかった。思わず足を止め、目に右腕をかざす。
 高架の上に、なるほど、天使がいた。ホームの端からは三十メートルほど離れた地点だ。線路上に浮遊し、今、ゆっくりと舞い降りてくるところだった。
 体は白いローブに包まれている。後ろを向いていることはわかるが、その髪は輝きが強く、まともに見ていられない。背には一対の翼があった。遠目にも、その背丈は五メートルは下らないことがわかる。そして、右手に短剣を、左手に秤を携えていた。
 椙山は歩き始める。
「我らと楽園とを隔つ御摂理を、我らと悪魔との間に置かんと欲し奉る。主よ、我が祈りを聞き入れたまえ。主よ――」
 そして、ホームの端へと駆け出した。
 椙山の後ろでは、平沢がようやく追いついてホームにたどり着いていた。ホームの壁と屋根が視界を阻み、彼に巨大な天使の偉容は見えていない。だが、光に包まれた何らかの存在が下りてくるのは感じられた。
 天使らしきものは線路の上を避け、高架の壁の横の空間へと高度を下げてきた。それはまだ、椙山に対して背中を向けたままだった。
 椙山は大きく息を吸い、これまでの囁きとは打って変わった大声で、祈りの句を締めくくった。嘆き叫ぶように。
「――我が手に炎を置き給え!」
 ちょうど、ホームの端に着いた。
 輝きに包まれた天使らしきものは、何かにとどめを刺すように、ゆっくり短剣を振り上げていた。高架は崩れており、磁車は線路上になかった。階層都市の転落事故防止装置に支えられながら、地上に沈んでいくところだろう。降下する天使が、軸のように体を回転させて椙山を振り向いた。そして、わずかに怯んで体を椙山から遠ざけた。
 椙山は聖水の小瓶を頭上高くに投げ上げた。
 小瓶は勢いよく回転しながら空に吸い込まれていった。完全に見えなくなったとき、瓶の砕ける音がした。
 水滴が降ってきた。押し寄せる雲が青空を狭め、僅かな円に変え、ついぞ覆い隠した。直射日光が消えて水滴が見えなくなったとき、水滴とは明らかに異なるものが、曇天の鈍い光を映しながら降ってきた。
 剣だ。
 回転しながら落ちてくる。
 天を仰ぐ椙山の目の中で瞳孔が開いた。
 足を肩幅に開いて立ったまま、うつむき、右手を天に伸ばす。
 剣の柄が、椙山の右手にぴたりと収まった。
 握りしめた剣を椙山が下ろすと、その軌跡に炎が残り、消えた。椙山が姿勢を変えるのを、平沢はじっと見ていた。一面の曇り空の下で、椙山は左足を半歩前に出して立っていた。右手の剣は体の後ろにあり、切っ先はかかとの高さで静止している。ぬるい潮風が吹いて、黒髪と黒いカソックの裾をたなびかせた。
 と、椙山が走り出した。ホームから線路に飛び降りる彼に、銀色の剣のたなびく炎が続く。剣の炎は傍らの異形に何らかの動揺を与えているようだった。椙山は胸の高さの壁に手をかけると、ひらりと高架から身を投げた。
 地上は眼下の遙か彼方にあった。遠い地上市の道路。さらに遠く糸のように見える地下市の並木道。無数の建造物が、天を突く槍の穂先ように、威勢よく奈落からせり上がってくる。
 磁車は天に対して腹を見せながら、一部の車両をビルの屋上に引っかけていた。残りの車両が外壁に沿って垂れ下がり、その重みで屋上に引っかかった車両もずるりと落ちていく。
 翼が椙山の体を支えた。重力変調が起きて、椙山の背後に白い翼が開く。それは見せつけるように目いっぱい広げられた後、跡形もなく消えた。だが、椙山が地へと落ちていくことはなかった。
 剣を振るうと炎が生じ、それが天使の脇腹に傷を刻むと、傷口が燃え上がった。見えない翼に支えられ、二度三度と横薙ぎに斬りつける。
 天使の腕が振り上げられるのを視界の端でとらえ、椙山は天使のローブを蹴った。それには確かに実体があった。ローブの向こうに足があることを感じられた。反動で天使から離れた直後、自由落下が始まった。
 僅かな距離を落ちた。だが、それでも普通であれば大怪我は免れない高さだ。落ちていきながら、椙山は転落する先を見た。ここ、市営運動場前の駅から枝分かれし伸びる、海水浴場方面行きのホームへの連絡路だ。
 そして、そちらのホームの屋根の上に、探しものを見つけた。
 焼け焦げた痕跡。まっすぐ伸び、そして、六十度に折れ曲がる線。
 屈折の外側、つまり、この辺りの区域を利用して作られた三角形の陣の僅かに外側に、魔術師が一人立っていた。女だった。
 連絡通路の屋根に激突する寸前、翼がふわりと体を浮かせた。片膝をついて着地するや、ホームへ駆けだした。天使の短剣が椙山の背後の屋根を直撃し、連絡通路が崩れ去る。
 雨が降り始めた。
 連絡通路の屋根を蹴り、飛び上がり、ホームの屋根に着地する。女は椙山をじっと見たまま後ずさりをした。顔を見極めるには距離が遠すぎるが、それでも目が合っていることはわかった。
 頭上に気配を感じ、直感で飛びのいた。ホームの屋根が砕かれて、横手の線路上にローブをまとった足が下りるのを空中で見た。
 天使の短剣はホームの床にまで貫通していた。ひどい土埃の中で椙山は剣を振った。確かな手応えを感じながら、線路上に舞い降りた。
 小雨は剣の炎を弱めはしなかった。およそ五メートルもの身の丈の天使が、じっと椙山を見下ろしてきた。光の天使を装えど、目が本性を物語っていた。二つの目があるべき場所は暗闇で、いかなる光も反射しない。椙山はその目に挨拶をくれた。
「日本へようこそ」

 ※

 市営運動場駅は対魔機動隊に包囲されていた。コンコースから人は排除され、支線を見下ろす本線の高架の壁には、凍結銃(アイスグレネード)の銃口がずらりと並んでいる。防呪性の高い戦闘服には皮膚が露出する部位がない。ミラー加工された覗き窓が、雨粒と灰色の空を映していた。それをまとう者を守ると共に、それをまとう者の人間性を覆い隠す服であった。
 支線を見下ろすオフィスビルのテラスにも、同じ銃口と服が並んでいた。空には白い烏(からす)が九騎舞い、その騎手が、烏の鞍の上からじっと妖魔を見下ろしていた。飛翔部隊の上に、機動隊ヘリが浮いていた。だがその位置は、むしろライバルの聖務防衛軍を締め出すために陣取っているように見えた。その防衛軍は、今にも地上市に落下しそうな磁車の対応に追われている。
 そのわりに、火を噴く銃口はなかった。全員銃を構えたまま、待機させられていた。
『中隊長、応答せよ』機動隊中隊長、生田誠司の耳の中で、イヤホンが叫んだ。『こちら水早機動隊本部。アイスグレネードの使用許可は下りている。何故発砲しない。どうぞ』
 生田は三十九歳の警部だ。これまでに対魔戦闘の経験は二度ある。月に一度の講習会では戦闘及び指揮のシミュレーション訓練を受ける。他の都市で行われた戦闘の情報を共有し、過去七十年の映像資料を分析・研究する。
 だが、このような事態は目にするのも耳にするのも初めてだった。
 生田は冷静さを保ちながら応答した。
「現場には既に一名、妖魔に応戦しているものがおり発砲できません。どうぞ」
 返事がないが、口ごもる声は聞こえた。五秒ほども間があいた。
『それは何者だ。どうぞ』
「服装からして戦闘祓魔師と思われます。剣を用いてかなりの近接戦闘を行っているため、我々が発砲したら巻き込んでしまいます。どうぞ」
『剣だと……』
 手に取るように動揺が伝わってくる。雨粒が戦闘服を伝い落ちた。頭に、肩に、雨の落ちる感触を受けるのだが、その冷たさはわからない。この鈍い皮膚感覚が、生田は未だに嫌いだった。
 中隊長の指示を待ち、隊員たちは誰も引き鉄を引かぬままでいた。
 アイスグレネードは対魔兵器であり、通常ならば人間に害を及ぼすことはない。
 だが。
『了解した。戦闘祓魔師の配属先に問い合わせる。アイスグレネードを使用した場合、その者に危害を加える可能性があると判断した根拠は何だ。どうぞ』
「憑依反応が出ているためです。どうぞ」
『対象の憑依体はどのようなものかわかるか。どうぞ』
「未知です」生田は淡々と答えた。「神政国警察のデータベースに存在しないものです。どうぞ」

 椙山が路面を蹴ると、体は重力の軛(くびき)を振り払い、軽々と浮き上がった。天使が短剣を右から左へ振るう。それと交差して、秤が左から右へ払われた。そのときにはもう、椙山は天使の頭を飛び越えていた。背後に回り、空中で身を捩って振り向くと、二度、三度と天使の背中に斬りつける。彼の背に、時折翼が見えた。天使が右足を軸に振り向く。椙山は天使の腰を蹴って大きく後方に退避した。
 椙山のの真上で短剣が横薙ぎに払われた。直後、鼻先で、同じ刃が縦に閃く。紙一重でかわして着地し、間を置かずに再び斬りかかっていった。
「何だあいつ……」
 椙山の様子を見ているのは対魔機動隊だけではなかった。玉砂利が敷き詰められた、聖職者以外の立ち入りが禁じられた本殿の前庭。その池にぼんやりと遠く行われる戦いが映し出され、雨がその映像を更に不鮮明にしていた。
 池のほとりに立つのは、浅葱 (あさぎ) 色や紫色の袴を身に着けた神官と、特別に立ち入りが許可された巫女。
「あの男、どうして疲れない? 人間の運動量じゃないぞ」
 それ以前に人間の動きではない。高く飛び上がったかと思うと、滞空して顔や胸に斬りつける。その度に炎が生じて彼の体にも触れるのだが、熱いと思っている様子はなく、また炎が彼の衣服や皮膚を害しているようにも見えなかった。
 そして、ホームの屋根には女がいるのだが、椙山以外の誰にも姿が見えていなかった。

「お前」
 剣から生じる炎に包まれながら、天使は暗黒の目で椙山を見下ろした。しゃがれた低い声が放たれた。
「私はお前を知っているぞ。何故こんな所にいる。何故――」
 左手の秤が椙山を空中からはたき落そうとした。その鎖と天秤皿があげる唸りを聞きながら、ホームに着地する。
「――お前が人間どもの中にいる?」
 背筋を伸ばして立ち上がると、右手の剣の切っ先を下に向け、左肩をすくめた。
「何のことだかわからないね」
「お前も私を知っている」
 ふと真顔に戻ると、助走をつけてホームから飛び上がった。短剣の下をくぐり、懐に飛び込む。
 敵は刻まれながらも苦痛の気配を見せることなく語り続けていた。
「天使」低く、冷たい声で。「だった頃の……」
「君はまだ天使の姿が自分に相応しいと思っているのかい? 自ら手放しておきながら?」
「黙れ。私の姿が何だという?」
 雨脚が強くなってきた。地には雨音が、天には雷鳴が満ちた。
「お前が私の知るあの者だとしたら、何とか弱く惨めな姿に落ちぶれたことか。今のお前の姿ときたら、堕落した我々よりも惨めではないか!」
 天使の姿が後ろに遠のく。椙山の剣が空を切った。
 そこに短剣の一閃がくる。
 剣を体の前にかざし、刀身を左手で支えた。
 天使の短剣は、それでも椙山の身長と同じくらいの長さがある。それを剣で受けた。
 鉄と鉄が打ち鳴らされる甲高い音が響いた。
「何故お前が」
 剣が折れることはなかったが、凄まじい力を受けて体が弾き飛ばされた。
「人の世に落ちてきた」
 線路に叩きつけられるという手前で、くるりと身をよじって受け身の姿勢をとる。
 天使からは遠く引き離された。倒れた姿勢から、腕をつき、立ち上がろうとした。紫色の閃光と共に、太い雷が椙山の真上に落ちてきた。
 二度。三度。四度。五度。
 雷撃がしつこく注がれる。その轟音に混じるのは、天使の姿をした悪魔の高笑いだった。
 小さきものに苦痛を与え、命を奪い、踏みにじる。その喜びに身を震わせる、残虐な高笑いだった。
 雷の一撃が、ホームの屋根を直撃した。三角形の陣の外には出なかったが、続く一撃が、陣の描かれた板材の上に落ちた。
 板材が変形し、陣に破れ目が生じた。
 事態に気付いた女魔術師の体を、短剣の切っ先が裂いた。血の帯をなびかせながら、女は地上に落ちていく。その血の帯は、彼女の手の代わりにホームの屋根を掴もうとするかのようだった。だが、すぐに見えなくなった。強化ガラスの壁の向こう側に、べたりと赤い血が残った。
 天使の姿が高く空に浮き、変容を来たした。
 白い輝きに包まれた体が赤色(せきしょく)を帯び、蹄を持つ四つの足が伸びてきた。鞭のように垂れるのは、炎に包まれた尾。枝分かれする左右対称の二本の角は、天を呪う意志を湛えている。
 そこにあるものは、もはや天使ではなく、雄鹿の姿だった。その尾と後ろ脚は対魔機動隊が展開するオフィスビルの真上に、前脚は大通りを挟んで支線の線路の真上に、頭は本線の線路の真上にあった。対魔機動隊のアイスグレネードが一斉に火を噴いた。雄鹿の体の周囲で炸裂する弾頭は急速な熱交換を行い、魔性の炎の熱気を冷気に変えていく。だがそれは、悪魔の体そのものを凍結させるに至らなかった。
 雄鹿はこの世の生命ならざるものの視力をもって、先の戦闘祓魔師の死体を線路上に探した。
 椙山はいた。
 二本の足で、しっかりと、線路を踏みしめ立っていた。
 六つの翼がその背にあり、うち二つが頭を包み、二つが足を包み、二つが体を守っていた。
 白く透き通るその翼は、悪魔に姿を見せつけると、溶けるように消えていった。悪魔は確かに椙山と目を合わせた。
 彼はかすり傷一つ負っていないどころか、雨に濡れてさえいなかった。

 ※

 ショッピングセンターの屋上駐車場に展開する対魔機動隊員の頭上に、大粒の雹(ひょう)が降り始めた。地獄の雄鹿の巨体の影が、機動隊員たちの体を覆う。次いで人影が降ってきた。機動隊員たちは雄鹿にアイスグレネードの銃口を向けたまま、後ろへ飛びすさるように撤退した。
 筋肉波打つ雄鹿の脚が駐車場の地面を踏みつけた。炎の尾に撫でられた鉄柵が赤熱し、歪む。
 天を仰ぐ雄鹿の目に、白い翼が焼き付けられた。間もなく椙山の手の剣が、固く盛り上がる雄鹿の肩を襲った。剣は恐ろしい切れ味で、肩胛骨ごと鹿の体を裂いた。その苦痛に雄鹿が吼える。雄鹿は角を振り回し、それに椙山の体を引っかけようとした。それが叶わぬと、再び身を翻し、駐車場の鉄柵の外へ飛び出した。椙山が追い、宙を舞う。悪魔と祓魔師は、次第次第に地上に近付きつつあった。
 一心に敵を追う椙山は、空の一角が明るくなるのを頬で感じた。

 戦いが行われる地点の東。海上、長い欄干でつながれた浮島へと、割れた雲から光が降り注いだ。浪越市の最大聖地・熱田の宮は、慈悲深い太陽の女神の腕に抱かれた。
 海上の森に囲まれた本殿の真上で、宙に浮かぶ何かが太陽光を反射した。それは日の光を十分に集めると、一直線に宙を滑り始めた。海を渡り、水早区へ、異国の魔物との戦いが行われる地区へと、ある強固な意志をまとって空を裂いていく。その正体は、目視で見極めるには輝きが強すぎた。それでも都市に住む勘の鋭い者は、それが何であるかがわかった。光が届かぬ場所にいても、それが来ることがわかった。

 戦場では、雄鹿の脚が、無料環状道路(リング)の最上層に乗り捨てられた車を踏み潰していた。後脚が路面に罅(ひび)を入れ、燃える尾が観光バスを薙ぎ払う。追って舞い降りた椙山の剣が閃き、それに応えて燃える尾が閃いた。炎と炎が乱れ舞い、それは尾の攻撃を躱(かわ)した椙山が離れた地点の車の上に着地するまで続いた。
 雄鹿が飛び立とうとしたとき、椙山は一瞬のうちにその真上に移動していた。雄鹿の首筋を裂く剣が、鹿の巨体を路面に叩き落とした。
「オレの車ぁ!」
 どこかで誰かが叫ぶ。百貨店の連絡通路から、レストランの窓から、駐車場から、いくつもの目が椙山を見下ろしていた。戦いながら走り抜けるとき、椙山は少し高い位置にある歩道からの声を聞いた。
「あれが……主の御前の騎士……?」
「悪魔だ」
 椙山は剣を振るい続ける。
 子供が泣き始めた。行く手から、明らかに椙山に向けて混乱した女の怒声が浴びせられた。
「来るな! 化け物!」
 逃走を続けていた雄鹿が低く身を屈めたかと思うと、空に吸い込まれるように高く飛び上がった。
 椙山は足を止めた。
 瞳孔は開いていて、もはや何の感情もない。息一つ乱していなかったが、カソックの裾とストラの端が激しい運動の余韻に揺れていた。雹を降らせる黒い雲と、小さくなる雄鹿との姿を、椙山はじっと見上げた。それから、同じ高さへ上がる道筋を見出さんと、目を辺りに走らせた。
 逃げ遅れた人々がこちらを見下ろす歩道。百貨店のテラス。レストランの窓枠、百貨店を貫通する道路の壁。そこから道路を渡り、向こうの建物へ――。
 そのように、頭の中で素早く道順を組み立てているときだった。
「大神様だ!」
 畏怖に満ちた声が空気を変えた。
「大神様が通られる!」
「拝跪(はいき)しろ!」
 歩道の上の人々が、ばたばたとひれ伏していく。見えなくても音と気配で分かる。
 椙山は走り、跳んで、近くの車のボンネットを思い切り踏みつけた。左手を高く上げ、歩道に向かって更に跳ぶ。重力が弱まり、翼が跳躍を助けた。左手が歩道の手すりを掴んだ。身を持ち上げ、足をかけると、十数人の人々が身を守るようにうずくまり、顔を伏せていた。手すりを蹴り、歩道の真上にある百貨店二十階のテラスの庭園まで飛んだ。九時二十分を指す時計の足許で、振り返り、何が来るのか確めようとした。
 雲の下、鋭く光るものがある。
 まっすぐこちらに飛んで来る。
 距離が縮まるにつれ、その尋常ならざる速度が理解できてきた。それは建物と建物の間をまっすぐ裂き、椙山の目と同じ高さを突き進んできた。それが通り抜けるとき、椙山は身を引き、剣を持ったままの右腕を顔の前にかざした。後には風と、怒りの気配が残った。腕で作った影の下からその正体を見た。
 剣だった。
 浪越の聖域に祀られる神の御神体(ごしんたい)は剣である、という知識はあった。それは椙山の眼前を通り過ぎると急激に角度を変え、立ち並ぶ高層建築物の真上に位置する雄鹿へと、吸い込まれるように突進した。
 剣が雄鹿の体を刺し貫いた。
 神剣、草薙剣(くさなぎのつるぎ)。
 剣そのものではなく、霊体だ。剣と呼ぶには大きすぎ、また輝きが強すぎた。それは雄鹿の体の正面、雄鹿の逞しい胸から尾の付け根までを貫通し、見えるところはもはや柄と切っ先のみとなっていた。
「主よ、我が祈りを聞き入れ給え――我らに平安を与え給え――」
 雄鹿の前足が空を掻くのを、椙山はひたと見据えていた。
「主よ、御身の力強き援助を伏して願い奉る。我を強め給え。我を悪魔に勝たしめ給え。我は御身の恩寵たる世を、凶悪なる悪魔より守らんと欲するなり」
 そこでは霊的なせめぎあいが行われていた。雄鹿は尾を振り回し、四肢を掻き、身を捩り、頭を振り回して剣から逃れようとしていた。だが剣は見えない何かに雄鹿を縫いつけ、空中に止めているようだ。
「我らの助けに御身のみ使いを向かわせ給え! 鎖によって悪魔を縛り、地獄に送り返し、世から除き給え!」
 椙山の右腕が上がる。
 剣がまっすぐ雄鹿に突きつけられた。
「天使と」
 長い鎖が高層建築物の間から立ち上り、空中で螺旋を描いて雄鹿の後ろ脚に巻き付いた。それはたちまち脚の付け根まで絡み、締めあげた。
「大天使と」
 地上のまた別の地点から、鎖が伸びてきた。その鎖は雄鹿の反対側の後ろ脚を締めあげた。
「権天使と」
 今度の鎖は前脚を捕らえ、
「力天使と――」
 続く鎖がもう片方の前脚を縛る。
 雄鹿の四肢からは煙が立ち上っていた。動けぬ己の代わりにとばかりに、降り注ぐ雹の勢いが増した。
「――能天使と!」
 どことも知れぬ彼方から、雄鹿の首へと水平に鎖が伸び、巻き付いた。
 確かな手応えを椙山は得た。
 この次で十分だ。
「主天使の天の階級の御取次(おんとりつぎ)によりて!」
 そして、一際太い鎖が、開け放たれた雄鹿の口から首の後ろまでを貫いた。役目を終えたとばかりに、悪魔の体を貫いていた剣が消失する。
「アーメン!」
 全ての鎖が悪魔の体を地へと引きずり下ろした。
 近くの建物にぶつかる直前、悪魔も鎖も見えなくなった。
 雹の勢いが弱まり、すぐに止んだ。
 鎖の音も。燃える尾のはぜる音も。雄鹿の息の音も。雄鹿が建物や看板、道路や車を破壊する音も。またそれを追う椙山がたてる音も、都市から聞こえなくなった。雹が都市を叩く音も、人々の叫び騒ぐ声も、一切なくなった。
 都市は静寂のうちにあった。
 雲があるべきところに帰っていく。晴れ間が見え、それが広がった。雲は太陽の軍勢に脅かされ、速やかに撤収していった。
 そして間もなく元通り、梅雨の晴れ間の快晴となった。空に残ってちぎれ浮く雲も、爽やかに白かった。
 手の中の剣が消えた。きつく目を閉じて、椙山は顔を伏せた。右手を目に押し付けて佇むさまは、眩しくて堪らないというようにも、泣いているようにも見えた。
 やがて静かに手を下し、天に顔を向けた。赤茶色の虹彩の中で、黒い瞳孔は引き絞ったように小さくなっていた。
 せわしない足音が迫りくる。椙山は振り向いた。対魔機動隊の戦闘服に身を包んだ男たちが、十人ばかり後ろにいた。デパートの地上市二十階へのアプローチからやって来たのだろう。二十一階へのアプローチに向かって屈折する地点に佇んでいる椙山を囲み、彼らは半円に広がった。
 一人の男が歩み寄り、手を伸ばせば触れられそうなほど近くに立った。全身の皮膚を覆い隠す黒服に、目にはミラー仕様のゴーグル。椙山の前に出た男は、中隊長の腕章をつけていた。
 椙山はにっこり微笑んだ。
「何でしょう?」
 口はガスマスクに覆われており、唇の動きも見えない。だが、緊張した硬い声を聞いたとき、顔も知らぬこの男の表情が見えた気がした。
「何者だ?」
 その極度に短い問いかたも、警戒心の表れだろう。椙山は微笑みを絶やさずゴーグルを凝視した。
「名前を聞いているのかな?」
 男は明らかにたじろいだ。
 次は質問ではなく、確認をされた。
「ハイエクソシストの椙山光だな」
「そうだといいですね」
 平然と言い放ち、そのまま機動隊員たちが展開する二十階へのアプローチに向かう。
 マスク越しに息を吸い込む音が聞こえた。だが、引き止められるより先に、別の声が緊張を破った。
「椙山君!」
 二十一階部分のテラスの手すりから、平沢が身を乗り出していた。椙山は息をのみ、アプローチを引き返した。二十一階へ続くスロープの途中には、直接二十一階テラスに上がる階段がある。体を斜めにして機動隊員たちの間をすり抜け、階段を駆け上がった。もう、あえて止められはしなかった。
「怪我はないかね」
 対魔機動隊に目もくれず、平沢が早口で尋ねる。
「はい、平沢神父」
 それを聞くや、平沢はものも言わずに踵(きびす)を返し、大股でテラスの奥に向かっていく。植込みの中のベンチに二人の女性がいた。
 一人は川原真為(かわはらまなせ)だった。その姿を見た椙山は、平沢を抜いて走り出した。
 真為と一緒に座る少女が立ち上がった。
 今日は七月九日、土曜日。午前十一時に会う約束をしていた。二人ともあの磁車に乗っていたのだと一目でわかった。服も髪も、もみくちゃにされて乱れていた。それをどうにか整えたという有り様だ。真為ではないほうの、初対面の少女は半袖のシャツから伸びる腕に打ち付けたあとをつけていた。あとで痣になるだろう。十歩の距離で立ち止まり、椙山は少女とじっと目を合わせた。
 少女のほうは、照れくさいか、緊張しているのだろう。目を伏せてしまった。
 おとなしそう、というよりは、少し暗い子だった。ほつれた左右のおさげから、髪が飛び出している。前髪は、顔を隠すには少々短い。大事に抱える鞄には人に踏まれた跡がくっきり残っていた。
「椙山さん」真為が一歩前に出る。それから言い直した。「椙山神父様」
 椙山は真為の視線を受け止めて、小首をかしげて微笑んだ。
「この人ですね」
「……はい」
 少女・日野晶(ひのあきら)は、それでもまだ硬直したままでいた。
 歩み寄り、顔の前に手を差し伸べた。
「日野さん」
 少女の体が震えた。
「はじめまして。椙山です。恐がらないでくださいね」
 前髪と長い睫毛の影の下から二つの目の光が椙山を見上げた。それは椙山の唇のあたりに向けられ、それからそっと目を見上げてきた。
 椙山が少女の視線を捕らえると、少女はもうそれから逃げられなくなった。細い喉が動き、唾をのむ。目の光は次第に前向きな色を帯び始めていった。
 頬に朱が差した。顔色が良くなっていく。姿勢を正した。
「日野晶です。はじめまして」
 惑いながらも手を上げて、少女は握手に応じた。その冷え切った手を椙山は強く握った。細い手だった。
 戦闘祓魔師は力強く宣言する。
「君を助ける」
 日野明奈が晶の命を狙っていることを、椙山光はまだ知らない。





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(本文中のラテン語版天使祝詞はWikipediaから引用させていただきました。また、同じく本文中の『神に逆らう者は追う者もないのに逃げる。』は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』箴言28章1節からの引用になります)


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