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冷凍されたオシドリとチューリップ人の王国

趣味で書いている小説用のブログです。

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虹よ、契約の虹よ〈14〉

六章 剣と剣(1/2)



 1.

 誰か叫んでいる。
 翼が欲しいのだろうか。天使のごとく飛びたいのか。
 いいや。
 荒れ野に叫ぶ声――主の道を整えよ――いや違う。全然違う。
 助けてと叫んでいるのだ。女が叫んでいるのだ。
 イタリア語だった。
 煙で前が見えない。椙山は口にハンカチを当てて走り続けていた。車が燃えている。車はその前半分を婦人服屋に突っ込んでいた。割れたショーウィンドウの向こうから更に煙が流れ出て、街を覆う煙、他のどこからか流れ漂う煙と合流する。死と破壊の合流。車の窓からは、人の腕が垂れている。赤くただれて微動だにしない。
「レイ! 戻れ!」学友が叫んでいる。「戻るんだ!」哀願の響きすら帯びていた。「戻ってくれ! 無茶だ! レイ!」
 戻れなかった。この呼び声、この叫びを、どうして捨てておけようか。
 路地を曲がる。料理店の換気口から赤い火が噴きだしている。料理店の壁が熱い。路地を挟んだ反対側の建物の壁も熱い。石畳の道も熱い。熱い! 神学校の黒い制服に今にも引火しそうだ。だが方向はあっている。確かに声に近付きつつある。
「ここにいます!」ハンカチを唇から浮かせ、椙山は叫んだ。「どこですか!」
 呼びかけが聞こえ、気が緩んだのだろう。叫びが絶えた。路地を抜けると弱々しいすすり泣きが聞こえた。高いビルから、背後に誰かが飛び降りた。一人。二人。椙山は振り向かない。
 声の主が見えた。
 黒い髪の女だ。倒れていて、下半身は小型トラックの荷台の下敷きになっていた。この状態で意識があるだけでも奇跡だった。女は両腕をついて、できる限り上半身を熱い舗道から離そうとしていた。
 そして、女の前ではベビーカーが横倒しになっていた。
 女は腕を上げた。火傷を負った腕から皮膚が垂れる。ベビーカーを指した。
「助けて……」
 煤けた顔に涙が垂れる。黒い涙が舗道に落ち、すぐに蒸発した。
「お願い、助けて」
 駆け寄ってベビーカーの前にひざまずくと、中に赤子がいた。ベルトが赤子を守ったため、投げ出されずにいたのだ。右半身を下に寝た形で、弱々しく泣いていた。椙山はベルトを外し、赤子を抱いた。
 女を振り向いた。
 トラックをどかす力はない。その後に、赤子と女の両方を抱えて走る力もない。
 女は泣きながら何度も頷いた。指を、椙山が出てきた路地に向ける。
「行って――」
「何であんなことを」
 ジュンが眉を顰(ひそ)めて問う。場面が変わっており、椙山は大学のホールにいる。ドーム状の高い天井に描かれた雲の合間から、無数の天使と聖人たちが学生たちを見下ろしている。アジア人の学友たちの後ろには、中庭の濁った光が滲んでいる。
「ジュン、よせよ」チャンが割り込んだ。「レイは助けにいくさ。そういう奴だって知ってるだろ?」
「それでも、どんなに心配したと思ってるんだ。リーが止めなかったら俺がお前を追いかけてた。お前がしたことは二次災害のもとだ」
「僕たちは人を助けるためにここに来た」椙山は静かに反論した。「助けることを学ぶために。そうだろう、ジュン」
「俺たちは消防士じゃない。救命士でもない」
「ジュン、もういいだろ」
 チャンのとりなしが心苦しく、目を伏せた。
「……なあ、レイ」
 二人の友人の足を見つめる。革靴を履いている。
「レイはいつか、俺たちのことも守ってくれるんだろ? そうだろ?」
 蒸発したように、革靴が消えた。
 息をのみ、目を上げた。そこには誰もいなかった。
 ホールには夥しい血の痕。
 大理石のタイルが煤け、剥がれていた。天井の天使と聖人も煤けていた。
 雲にかすんだ太陽光だけが変わらない。
 軽い物が落ちる音がした。再び目を床にやると、黒いビーズのロザリオが足許に落ちていた。
「ジュン?」腰を屈め、拾い上げる。「ジュン……」
「Ave Maria, gratia plena」ロザリオから声がする。「Dominus tecum……」
 ロザリオはラジオのように続けた。
「……国境線の封鎖作業が開始されました。これに対して同国の対魔軍事組織の一つである高地パンノニア連合は、国境封鎖による難民の締め出しは人道に対する罪であるとして強く抗議しており、他の東ヨーロッパの有志と連携して西ヨーロッパからの難民に対する独自の救済活動を展開していく見込みです。続けて惨劇から一夜明けたミラノの状況を中継でお伝えします……」
「ほくろが三つあったんだ」
 誰かが間近で呟いた。ロザリオの声が消えていく。
 振り向くと、男がうなだれて、倒れた柱に座っていた。
「ここと」男は自分の左胸の下を指さした。「ここと」その左下へ指を動かす。「ここに」次はその左上に。「三角形にほくろがあった」
 はげ頭の両脇に、白い毛が残っている。太った男だった。昨日まで地下鉄の駅の入り口の近くでジェラートを食べていたような男だ。昨日まで親戚や友人とカフェテラスに陣取って、政治談義をかましていたような男だ。とにかくありふれた男だ。
「見なかったかい?」
 それがげっそりやつれている。
 再び左胸の三角形を描いた。
「ここにほくろが三つあったんだ。こういう形に。三角形に。俺と同じだった」抑揚のない声で続けた。「俺の息子だった」
 誰かが後ろに立つ。
「西田潤の母です」
 もう一度振り向くと、いつの間にか日本になっていた。
 黒い着物の婦人が濡れ縁に立っていた。
 濡れ縁の右手側は墓地。左手側は、障子を開け放たれた暗い座敷。
 秋の風が吹いて、紅葉が落ちてきた。それは足袋をはいた婦人の爪先と、黒い靴下をはいた椙山の爪先の間に落ちた。
「潤の教官から伺いました。潤と同期の東アジアからの学生のうち、生き残ったのはあなただけだと」
 黙って頭を下げる椙山に、「あなたのことは潤がよく話しておりました」婦人は言葉を重ねた。「今日はあの子の遺品をお持ちくださったそうですね」
 椙山は右手にロザリオを握ったままだった。今から何を言われるかはわかっていた。痛みと共に記憶に刻み込まれた言葉を忘れるはずがない。
「何ですか、そんなもの」
 婦人の声は震えていた。
「うちは密教の家です。上の子は僧になった。キリスト教が何ですか」
 紅葉がさらに落ちてくる。二枚、三枚。五枚、六枚。八枚、九枚。風がそれらを座敷に押しやって、濡れ縁を苔むす霊園に変える。
「持って帰ってください。そんなものは欲しくありません。あの子の遺品ならもっとましなものが他にあります」
「これは潤さんの祈りの道具です。彼は本当にこれを大切にしていました」
「いいえ、持って帰って」
 霊園の真ん中で、婦人は鋭い悲しみの宿る目を伏せ、墓へと動かした。
「置いていくというのなら、私はそれを捨てます。どうして潤がそんな宗教に走ったのかさえ理解できないというのに……そのせいであの子は代々の墓に入ることさえ許されませんでした」
 墓の前では一人の男が手を合わせ、経文を呟いている。
「教えてください」
 ロザリオを右手に収めたまま立ち尽くしている椙山に、婦人は静かな怒りを淡々と訴える。
「どうして潤は死んだのです?」
「潤さんは」深呼吸し、椙山は覚悟を決めて答えた。「私を助けに来て、煙に巻かれて亡くなりました」
 目を上げる。
 男の拳が一瞬見えた。その拳は何ら手加減することなく椙山を殴り倒した。地に叩きつけられるように倒れるとき、ロザリオの先の十字架が墓に当たった。

 息をのみ目を開けた。
 寝汗をかいていた。畳に敷いた薄い夏布団も汗で湿っていた。窓と障子を開け放しているが、風はそよとも吹いてこない。自然空調はまだ動きはじめていない。だが、朝の空気は爽やかで、汗をかいたのは気温ではなく夢のせいだと思われた。
 スズメが鳴いている。この高層建築物ばかりの都市で、鳥も、虫も、草も、自然を見つけて生きている。
「Sancta Maria mater Dei……」
 南西向きの窓からは、朝日は見えない。仰向けに寝たまま目を細めた。空は優しい桃色で、西のほうは澄んだ薄紫だった。
「ora pro nobis peccatoribus」
 もう一度目を閉じて、瞼に右腕を置いた。
「……nunc, et in hora……mortis……nostrae……」

 ※

 襖を開けた。司祭館五階の廊下には、朝日が斜めの角度で差し込んできていた。東向きのガラスの非常扉が光の入り口となっており、周囲の壁にはベランダの手すりの影が黒く色付いていた。
 椙山光(すぎやまれい)はパジャマ姿で、寝起きの髪はぼさぼさ。彼の居室は司祭館五階の一番手前、階段の真正面にあった。六階も他の司祭の居住スペースとなっており、他にも衣擦れの音、布団を畳む音やあくびの声が聞こえてくる。
 板張りの廊下を素足で歩き、光に身をさらした。まだ朝の六時にもなっていないが、直射日光は痛いほどの熱を帯びている。
 廊下の突き当たりの左側が手洗い場となっていた。どことなく小中学校を思い起こさせる作りの、タイル張りの長い手洗い場で、横並びになった五つの蛇口には、固形石鹸が網に入れられて吊られていた。
 誰がどの蛇口を使うと決まっているわけではないのだが、何となくそれぞれに気に入りの蛇口というものがあり、新参の椙山は一番不人気の蛇口を使っていた。ど真ん中の三番目の蛇口だ。栓をひねると真下の排水口にまっすぐ水が落ちていく。顔を洗い始めると、襖の開く音、併せて抑えた音声が後ろから聞こえてきた。
『これまでに七名が重軽傷を負ったほか、一名の死亡が確認されています』
 襖が閉まる音がして、聞こえなくなった。椙山は洗顔を終えると、手洗い場の端のタオルで顔を拭いた。
「おはよう、椙山くん」
 主任司祭の平山だ。椙山は顔を上げて微笑みかけた。
「おはようございます。何かあったみたいですね。今のニュース」
「魔害だよ」
「また砌沢(みぎりざわ)ですか?」
 ここ数日、砌沢近辺では人死にを伴う魔害が頻発していた。
「いや、砌沢ではなかったようだがその近くだ」と、平沢も蛇口を捻った。「おかしなことが続くねえ」
 椙山は顔を洗う平沢の様子をじっと見つめ、それからガラス扉を開けた。心地よい風が入ってきた。平沢もまた顔を拭いた。
「朝の祈りが始まるよ。服を着替えなさい」
「はい、平沢神父」
「ところで今日は、川原さんと日野さんが訪ねてくる日だったね」
 そのとき、笛の音のような鳥の声がのんびりと聞こえた。ピーヒョロロ、ピーヒョロロロロロロ、と続けて鳴く。トンビだ。この都市部に、珍しいことにトンビがいる。
 平沢は全く気にしていない様子だ。椙山はガラス扉に目をやった。向こうの空にトンビが浮かび、ピンと張った大きな翼を動かすことなくゆっくり円を描いている。
「早くなるかもしれません」
 目を平沢に戻す。平沢はタオルをタオル掛けに戻しながら椙山を見た。
「どうしてわかるんだね?」
「わかりません。直感です。そんな気がするんです」
 トンビは輪を描きながら、明けの空に吸い込まれていった。

 ※

 時間帯によって、異なる寺院、教会、会堂の鐘が順に鳴り響く。外来宗教受け入れ地区の一日は、鐘で始まり鐘で終わるのだ。朝、最も早く鳴るのは仏教寺院の重い釣り鐘。朝五時。朝六時。六時半にはドーム型のモスクの華やかな鐘が海辺で鳴り、七時には浪越で最も大きなキリスト教教会、浪越司教座聖堂の二つの鐘が高らかに響きわたる。
 傾斜路(ランプ)街の頂に位置する司教座聖堂から市電で二駅。
 停留所を降りて横断歩道の前に立てば、道の向こうのランタンに、赤い炎が踊っていた。と、炎の色がその根本から緑に変じていき、完全に緑に変わった。そのときには車道の信号灯が緑から赤に変わっていた。椙山は人ごみに紛れて横断歩道をわたり始めた。
 道の向こうでは、高いアパートのベランダからツタが垂れていた。日陰にあってなお、光を放つように鮮やかだ。アパートの向こうの空からトンビの影が現れて、翼を動かさずに半円を描くとまたアパートの向こうに消えた。
 路地を通り抜け、次の通りに出た。
 そこには日本プロテスタント協力協議会の教会があった。質素で小さな教会なのだが、道に面して設置された鐘は凝った作りのものだった。
 鐘の台座は平均的な成人女性の腰の高さまである。その上はアクリルの背の高い四角柱で、中には歯車や色とりどりのアクリルを用いた様々な仕掛けが見えた。一メートル強の四角柱の上には電波式のアナログ時計、その上に鐘を吊る二段の空間があり、上の段に人の頭ほどの大きな鐘があった。下の段には中くらいの鐘と小さな鐘が並べて収められている。大中小、三つの鐘の隣には撞木(しゅもく)が備えられていた。持ち手には紐が巻き付けられている。紐は四角柱の内側に垂らされていた。
 椙山が装置の前を通り過ぎたとき、時刻は午前八時二十九分三十秒。
 四角柱の内部の空間の天井が開いて、金色に塗られたプラスチックの玉が右上に、銀色に塗られたプラスチックの玉が左上に落ちてきた。それぞれの玉は落下した先のアクリルの板の斜面を転がり落ちていく。玉は続けて落ちてきて、金色の玉は三つ、銀色の玉は六つとなった。すべての玉を吐き出すと、それらを正しい場所に収めていた天井の格納扉が横に滑り、閉じた。
 金の玉と銀の玉は、それぞれに定められた板の上を滑り、すれ違い交差する形となって、今度は金の玉が左に、銀の玉が右に来た。アクリル製の順路は今度は螺旋に変わり、玉は回転しながら下降しつづける。玉は梃子の上に落ちた。梃子の端が玉の重みで下がると、その端がセンサーに触れ、ワイヤーで吊られていた浮遊する天使像を反対の端に落とした。梃子が跳ね上がり、玉は放物線を描いて飛ぶ。落下先は落とし穴になっており、玉は穴にきれいに収まった。ピンクのアクリルの落とし穴の中には杭や障害物が仕掛けられ、それに当たって飛び跳ねながら、玉はようやく床にたどり着いた。
 銀の玉より先に、金の玉が落ちた。床部分も傾斜するアクリル板だ。金の玉は右から左へ滑っていく。その先には玉を回収する穴があるのだが、少し手前の床面に、センサーと赤いライトが取り付けられていた。
 金の玉がセンサーの上を通るとライトが青に変わった。紐が下に引かれ、一番大きな鐘がガラーン! と鳴った。時刻はちょうど八時三十分である。遅れて銀の玉が左から右へアクリルの傾斜を転げ落ちた。一つ目の銀の玉が出口の手前のセンサーを通ると、ライトが黄色に変わり、小さい鐘の紐が引かれた。カーン! と高い音が響く。間をおかずして二つ目の銀の玉がセンサーの上を通り、そのライトを緑色に変えた。今度は中くらいの鐘の紐が引かれ、コーン! と音をさせた。今度はまた金の玉が落ちる。
 ガラーン! カーン、コーン。
 ガラーン! カーン、コーン。
 口を開けて装置に見とれていた幼い少年に、ベビーカーを押す母親が、「ほら行くよ」と声をかけた。
 親子が教会の前から立ち去ると、入れ違いに牧師が出てきて掲示板に書道の半紙を張り付けた。半紙にはこう書いてあった。

〈神に逆らう者は追う者もないのに逃げる。〉

 椙山は道なりに歩き続けていた。やがて通りは地下市へ下りる坂道と、地上市へ上る坂道に分岐した。その分岐に天蓋をかぶった虚無僧が立ち、左手に布施を入れる鉢を、右手に鈴を携えていた。椙山が通るとき鈴を鳴らした。
 リーン、リーン。
 椙山は地上市へと進んだ。そこには道教の寺院があり、奥から腹に響く銅鑼(どら)の音が押し寄せてくる。
 ドワァーン、ドワァーン……。
 それに、どこかの家で布団を叩く音がリズムをつける。
 パン、パン、パン、パン、パン、パン、パン、パン!
 道の向こうからはタイ人の修行僧たちが来る。頭を剃りあげた凛々しい顔つきの少年たちで、椙山とすれ違うとき、流れるような動きで一列になって道を開けた。
 だんだんと、周囲の建物が地上市のそれらしくなってくきた。集合住宅はせり上がる塔の様相を呈し、龍の紋様が白く輝き浮く空が、塔に細く裂かれていく。土と緑に対する憧れは、階層都市の市民が当たり前に持つ思いだ。アパートのベランダの外側にはプランターを入れる容器が据え付けられており、白いサギソウ、薄紫のクレマチス、黄金色のマリーゴールド、水色のゼラニウムなどが暮らしに彩りを与えていた。花々の間を大小さまざまな水玉が浮遊し、虹の輝きをベランダの手すりやその奥の窓、アパートの外壁に投げかけている。小さい女の子が地上市二階のベランダの手すりを握ってしゃがみ、椙山を見下ろしていた。目が合ったので微笑むと、少女もはにかんだような笑みを浮かべ、立ち上がって家の中に駆け込んでいった。
 二つのアパートに挟まれた道を抜けると、車道、軽車両用道路、そして歩道が立体交差する、地上市特有の網目状の道路が目の前に展開された。
 トンビが椙山の目の前で地下市へ下降していった。
 歩道から身を乗り出して目で追うと、トンビは中央分離帯に街路樹が並ぶ地下市の道路を垂直に横切って、一階部分がそれぞれ床屋とパン屋になった建物の間に滑り込んでいった。
「お兄さん。あんた、危ないよ。落ちるよ」
 しゃがれた声がかけられた。振り向くと、背の低い老婆が顔をしかめてじっと見ていた。椙山は照れ笑いで応じた。
「ごめんなさい。でも大丈夫です」
 床屋が入っているほうの建物は、地上市一階では韓国料理屋になっていた。すぐ横に外階段があり、螺旋を描きながら地下市へ続いている。椙山は歩道を渡って階段を下りていった。
 道路の下に潜り込むと、しばらくして再び顔に直射日光が当たるようになった。地下市の日光は地上市では決して見せない顔をする。複雑に入り組む地上市の道路があるために、それに遮られぬ箇所の光は、地上市よりも一層強い意志を持って地下市に降り注ぐかのようだ。太い光の柱、磨きあげたような光の板が、影と影を割って舗道に突き刺さる。塵さえきらめき、美しい。
 光と影に交互に身を染めながら、椙山は路地を進んでいった。
 行く手に女がいた。カバーをつけた右腕にトンビを止まらせて、じっと顔を伏せている。トンビの言葉に耳を傾けているようであった。だが長く伸びる椙山の影が女の足と触れ合うや、我に返って顔を上げた。身を引き、逃げ出す構えさえ見せた。
「良いものをお持ちでいらっしゃる!」
 その声の響きで、相手の動きを制した。椙山が早足で歩み寄ると、その勢いで下半分が開いたカソックとストラがはためいた。そのはためく影が女の足に絡みついた。
 白人の女だった。魔女だ。首にも手首にも、重たげに護符を下げている。足はミニスカートにサンダル穿きで、両足首にも色とりどりの紐が巻かれている。黒いとんがり帽子もなければ空飛ぶ箒もない。左腕にはハーブの束を下げていた。
「怖がらないでください」
 椙山は英語で話しかけ、反応を待った。
 女の背丈は百七十センチほどで、椙山と同じくらいだった。白い肌にはそばかすが浮いている。高い鼻はいかにも気が強そうだ。束ねずまっすぐ垂らした髪は輝く金。灰色がかった青色の目は、まっすぐ椙山を見ていた。
「怖がらないでください」
 今度はイタリア語で言ってみた。
 スペイン語とギリシャ語で言ってみた後、ようやく女がそれに応じた。
「英語で結構よ」拒否を込めた冷たい声だったが、椙山がその目を覗いて笑いかけると、気まずそうに付け足した。「日本語もわかるけど。何の用?」
「朝早くからずぅっとその鳥が飛んでいるから、何かと思いまして。魔女の方ですか?」
「トンビ屋よ。トンビを飛ばす仕事なの」
「魔女の方ですね?」
 硬直して立ち尽くし、しかしじっと顔を睨みつけるのをやめない女に、椙山は肩を竦めた。
「怖がらないで。危害を加えるつもりはないし、これ以上トンビを飛ばす邪魔はしませんから。ただ少しお尋ねしたいだけです」
「何を?」
「何が見えたんですか?」
 女は沈黙するが、心の迷いは伝わってくる。やがて言った。
「情報も商売道具なの。あなたにそれをただでやれって言うの?」
「それは私が何を知りたがっているかをお聞きになってから判断されればよろしいでしょう」
「聞きたくないわ。あたし、あんたの宗教とは波長が合わないの」
「波長が合わないはずなのに見えてしまうものが最近ありますよね?」
 相手の目が揺れ、口許が引き攣った。
「あたしじゃない!」と、大声を出す。「あれを呼んだのはあたしじゃないわ。あたしは黒魔術はやらないよ!」
「わかっています」椙山は宥めるように頷きながら、優しく話を続けた。「その首にかけたメダルの紋章、ラップランド魔女同盟のものですね。あそこは穏健だし、人道支援にも協力的で、悪い魔女は入れない」
「神父サマが知ったような口利くじゃない。良い魔女も悪い魔女もまとめて気に食わないくせに」
 今度は女が頭の先から足の先まで椙山を見回した。
「あんた、戦闘祓魔師ね」
「はい。ですから、人間とは争いません」
「争わないなら知ってどうするの」
「悪魔とは争いますからね。話していただいたほうが、あなた自身の身の安全につながります」
「あっそう」
 女の目が茶色いトンビへと動く。腕が疲れたのだろう。腕カバーとつながった紐をトンビの足輪につけると、椙山から離れ、トンビをパン屋の裏口のゴミ箱の蓋に下ろした。トンビの爪がプラスチックの蓋に当たり、カチカチと音を立てた。椙山は彼女について行った。
「じゃあ聞きなさい。聞く気があるならね。あたし、ちょっと前まで高千穂に住んでたんだけど」
 耳にかかる髪を指で払って、女はうんざりした様子で語り始めた。
「ひどい目にあったのよ。わかるでしょ?」
「高千穂の災厄ですね」
 九州の動乱の端緒となった、憑依者・相澤序峰による大量殺戮事件だ。
「あたし、事件の日の直前、あの女に会ったの」
 目を丸くする椙山に、念を押すように言葉を重ねる。
「例の教祖よ。名前を言っちゃいけないみたいだけど。嫌な女だった。あたしはあいつに前の使い魔を殺された」
「どうしてそんなことに」
「知らないわよ。前の子は蛙だった。かわいい子だったわ。その子を踊らせて興業をしていたの。観光地だし、そこそこ見てもらえてた。だけどそこを通りかかったあいつが瓶を投げつけてその子を殺したわ」
 椙山は敢えて同情の言葉をかけず、悲しげな顔をした。
「何が気に食わなかったのかわからない……でも、そのうちに、ニュースで頻繁にあの顔が流れるようになった。九州から逃げて、同業の日本人に仕事を斡旋されて浪越に来た。そしたら」
 話しながら体を震わせた。
「浪越にも、高千穂で感じたのと同じ気配がある。憑依者の気配が」
「使い魔を飛ばすのは、それを監視するため」
「違うわよ。わかるでしょ? 知ってるでしょ?」
 女の目の中で、恐怖が苛立ちを押し退けた。
「あたしが怖いのは、ねえ……憑依者を狙ってる奴よ。わかるでしょ? 知らないふりしないで」
 そのとき、鐘の音が空を覆った。遠いところから響いてくる。同時に女が指を突きつけた。
「あんたの敵のことよ!」
 二度目の鐘が打ち鳴らされる前に、椙山はくるりと背を向けて、走り始めていた。





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Author:とよね
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