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冷凍されたオシドリとチューリップ人の王国

趣味で書いている小説用のブログです。

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他人に個性がないならば、自分にも個性がない。

忙しい時期には小説を書く時間など日に四十五分でも作れればいいほうで、私は始業時間より随分早く職場に行って社員食堂で小説を書いている。そこが一番緊張感をもって書ける場所なのだが、食堂のスタッフが朝早くからテレビをつけていて少々うるさいのが難点でもある。

それで先日、ポメラで小説を書きながら民法のニュースを聞くともなしに聞いていると、気になる二つのニュースが耳に入ってきた。
一つは千葉県で自称主婦(何故こんな変な肩書きになったんだ?)の女性が通り魔的犯行を行ったというニュース。
もう一つは大阪でひきこもりの男性が民家に押し入り、一家四人を殺傷したというニュースだった。
生じた結果の深刻さからまあ当然かもしれないが、大阪の事件の報道に比重が置かれるようになり、自称主婦の件はあまり報道されなくなったように思う。ただ、「襲う相手は誰でもよかった」という種類の別々の犯行が半日以内に起きたという点が非常に印象的だった。

「誰でもいいから殺したかった」という犯罪行為自体は目新しいものでないにしても、普通の感覚では、「殺したい」「包丁をもって襲撃したい」と思うとき、その対象は自分にそう思わせた人物に向かうのではないだろうか。
例えば引きこもりの人なら「オレを引きこもりに育てた親が憎い」とか、精神疾患のある人なら「私をこの病気にさせた家庭/職場/学校の奴らが憎い」とか、その正当性はともかくとして、心はそのようによく知っている、身近な他者へ向かうものだと思う。
ところが責任能力が問えるかどうかさえあやふやなレベルで『病んで』しまうと、どうやら心は目の前にいる身近な他者をすっとばして、漠然とした概念としての他人、つまり全く知らない赤の他人に向かってしまうものらしい。

それにしても殺しておきながら「誰でもよかった」とは凄い言い草だが、考えてみれば「誰でもいい」とは「(自分の悪意の対象となる)その人物に個性など必要ない」ということだ。個性が必要ない、ということは、その人は存在しなくてもいい、ということでもある(殺人者が「殺すのは誰でもよかった」と言うのと、ブラック企業の上司が「お前の代わりはいくらでもいる」と言うのは根っこの部分で繋がっていると思う)。

憎い相手を殺したということならば、「相手の個性から発露される発言・行動などによる結果を承服できずに犯行に及んだ」ということでもあるから、かなり間違った行為ではあるものの、前提として相手に個性があることを認めている。自動的に、相手の個性から生じた結果を承服できない自分の個性も自分で認めていることになる。

では、殺す相手に個性を認めていないとなると、殺した自分に対しても個性を認めていないことにならないだろうか。
自分と他者との間に、自分とその他者との関わり合いから生まれた感情が置かれないというのはそういうことだ。
感情が置かれぬままに、殺人という行為がなされた。その点が、非人間的な犯行であると思わされる理由だろう。

知っている人に対してであろうが、知らない人に対してであろうが、他人に個性があることを否定するとき、自分の個性をも否定することになる。そういう個性の否定が人の心に広まったとき、社会は大混乱だろうなあと思ったおはなしです。


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