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冷凍されたオシドリとチューリップ人の王国

趣味で書いている小説用のブログです。

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虹よ、契約の虹よ〈10〉

四章 地に偽りの光満ち(1/2)



 1.

 声に気付いたのはパジェットが先だった。弱々しい女の呻き声で目を開けるも、まだ柿崎は目を覚ましていなかった。彼女は土に直接横たえられ、丸めた制服のジャケットが枕代わりに頭に敷かれている。パジェットの制服だ。柿崎自身のそれは頭から流れた血で汚れている。当然、着せたままだ。体には井田の制服が掛けられており、井田は夜明け前に出て行ったまま、まだ帰ってきていない。
 蒼白で張りつめた空気の中、パジェットは柿崎の頭をじっと見た。眠りが浅い状態にあるのだろう。目を覚まさせてやったほうがいいかもしれない。彼女の顔半分を、オオミズアオの黄緑色の翅が覆っていた。それは痛々しいほどの従順さで、髪に埋もれた傷口を舐めているのだ。顔の上を這い、地を這い、女主人の回復を待っている。
 一秒ごとに世界が明るくなっていく。ブナの木立の中にパジェットたちは身を隠していた。少し離れたところに山道があり、夜が明けた今、木立も道からパジェットたちを隠しはしない。柿崎がまた呻いた。すると、パジェットに寄りかかり、膝を抱えて眠っていた乙葉が顔を上げた。乙葉もまた、今し方目覚めたパジェットがしたように、柿崎を注視した。この最年少の仲間の命がまだあり、良くなってはいないが、悪くなってもいないことを確認すると、体をパジェットから離した。その分パジェットの左半身が寒くなった。
 乙葉は目をこすり、立ち上がった。柿崎のもとに歩み寄り、額に手を当て、脈を取ると、頷いて戻ってきた。パジェットはその間ずっと木の根元に片膝を立てて座っていた。
「夢を見たわ」
 黎明の鋭き矢は、まだこの世界に届かない。乙葉の顔色は夜明けそのままに青かった。
「井田君はまだ帰ってきてないのね」
「ああ」
 再び隣に座り込む妻に尋ねてみた。
「どんな夢だ?」
「二十年も前の事件の夢」と、囁いた。「倫世教団の夢だった」
 パジェットはシャツの胸ポケットから片眼鏡を出して左目につけると、目線を乙葉へ動かした。
 倫世教団は紛う事なき破壊的カルトだった。重度の精神疾患を患った男を教祖とする彼らは、世直しを掲げて東都で無差別テロを行った。二十年ほど前に、通勤客で賑わう電車の中で毒物を散布したのだ。
 多数の死傷者が出た。
「何年か前、あなたと出会う前、倫世教団の新来者向けの教育ビデオを見たことがあるの。資料として、図書館の要閲覧許可の書架に残ってた」
 乙葉は一度ぎゅっと目を閉じた。再び開けてもパジェットを見ず、視線を土に注いでいる。
「教祖が宙に浮いたりとか、奇跡を見せつけてるアニメだった」
「見たのか」
「興味本位だった。子供の頃はわからなかった。どうしてあんなことをしたんだろうって。きっと頭がおかしい人たちなんだと思ってた。同じ人間じゃないって」
「それで?」
「最後にこんな場面があった。二人の信徒が夜の都市の中で懸命に布教をしてるけど、誰も聞いてくれない。そのときに、人々の中を浮遊している教祖の姿を見つけるの。親しみを込めて呼びながら、走って、走って追いかけるんだけど……都市の中に……人の中に消えて……見失ってしまう」
 パジェットは待った。
「凄く寂しかった」
 乙葉は言う。
「あんな風に消えてしまう……自分を守ってくれると思っていたもの。こんな自分でも愛せると思ったもの、信じたい、信じるって、自分の存在を賭けたもの……ううん、そんな大それたものじゃなくても、当たり前だと思ってたもの。家族とか……社会の中の居場所とか……それはぜんぜん確かじゃなくて、消えていっちゃうんだ。確かにあると思ったものは、雑多な物や世俗の光に埋もれて、すぐ見えなくなってしまう」
 パジェットが黙っている間、乙葉は膝を抱く腕に力を込めた。指先が硬直し、白くなっている。
「それを見て私、わかったの。あの教団に入った人の気持ちがはっきりわかったのよ」
「消えちまうのはそれが偽物の神だからだろう」パジェットは少し慌てた。「俺たちの神はどの神も、そんな孤独感を植え付けたりしない」
「偽物の神に心を奪われた人たちも、あのアニメで一つの真理を表現したと思う」
「どんな?」
「人はすぐに神から離れてしまうって。感じているつもりでも、見ているつもりでも、一度離れてしまったら、もう見つけ出せない」
 パジェットは奥歯を噛んだ。
「探しても、探しても、よく目を凝らして見ても……世界には、物の氾濫しか見いだせない……」
 返事のしようもなく、パジェットは顔を上げた。
 急に光が目を刺した。熱を伴う光だった。
 じりじりと上る太陽が、消え残る夜を焼き尽くすべく、ブナの木立に鋭い角度で差し込んできたところだった。

 ※

 呪術師・魔術師が戦略的価値を持ち得たことは一度もない。研究と改良を重ねた魔的な武器や道具、薬草の類が戦場に徐々に染み渡ることはあっても、それは石器の時代における青銅器の台頭、戦車軍団の時代における騎馬民族の台頭、鉄器の時代における火薬の台頭を凌ぐ衝撃はもたらさなかった。人が扱う魔術も戦場での補助的なものの域を出ない。それは人間を相手に戦うときには常に敵軍の物理兵器に破れ、妖魔を相手に戦うときには妖魔の力に破れてきた。未だに魔術が火薬兵器より強いと信じている者は、よほど狂信的な者だけであり、それを証明してみせようとする者はいつでも人間社会の敵として打ち倒されてきた。第一人の身で都市一つを壊滅させ得るほどの力を得た人間が、正気を保っていた試しがない。そうした存在はたちまち妖魔に吸収されてしまうのだ。
 そう。そういう人間が存在した例は、相澤序峰が初ではない。異例中の異例、例外中の例外ではあるが。ただ、相澤序峰はまだ妖魔ではない。彼女は人間の行動パターンを保っている。例えば彼女は人間の手下を集める。妖魔はそんなことはしない。三十分もあれば地方都市の主要な区画を破壊するほどの力があるが、無駄な刺激を与えなければそこまでのことはしない。これは、彼女が疲労を感じることの証左だという指摘がある。妖魔は疲れない。
 などと考えている間にも自分の息が震え始めていることに気付き、パジェットは愕然とした。
 相澤序峰が奪ったものはチームメイトの命だけではない。パジェットの自尊心をも砕き、奪っていた。序峰。その名と共に、柚富で出会った青年の言葉が否応なく思い出される。
『あんたにその力を授けたのがどの神様か知らないが、さぞ悲しんで泣いているだろうな』
 彼の言葉はパジェットの心に強烈に刺さっていた。
 この神器、流天目を手に入れたのは、乙葉と出会った直後だった。
 東都の地下市を襲った魔害が二人を出会わせた。聖務防衛軍の兵士だったパジェットは、祈祷官の護衛部隊に所属していた。だが部隊が展開する下町が火災に見舞われたため、部隊は分断された。地上市へ伸びる超高層建築の合間に木造の家々が並ぶ地区だった。燃え上がる四階立ての雑居ビルから飛び出してきた老人が、そのビルの一室を指さして喚いた。女の子が取り残されていると。窓には『占い』とテープが貼られていた。
 パジェットは火の海に飛び込んで、乙葉を助け出した。左目はそのとき悪くした。
 もう視力は戻らないと言われた。
 意気消沈しながら駐屯地の宿舎で横になった。夢で、パジェットは宿舎の壁がくりぬかれているのを見た。その向こうは竹林で、赤い着物の少女が俯き、鞠をついていた。鞠が少女の手から離れ、跳ねた。少女が竹林の奥に駆けていく。パジェットはそれを追った。
 川にたどり着いた。
 月の隣に鞠が浮かんでいた。
 鞠を掴もうとし、水に手を入れて、その水のあまりの冷たさに目を覚ました。するとパジェットは本当に、駐屯地の横手を流れる川辺にいた。
 月が浮かんでいた。鞠は浮かんでいなかった。代わりに沈んでいるものがあった。引き上げてみると、それがこの、擲弾銃型の神器だった。
 それで、パジェットは聖務防衛軍を辞した。神器を腰に引っ提げて、両国同心社に移籍した。戦いの世界でしか生きられぬことは自分でもわかっていた。ましてこのような力を得て、どうして他の生き方ができよう。
 一方で、普通の人間に、突如として要らぬ力が投げ与えられることもある。
 パジェットは、一人だけ憑依者に会ったことがある。大野よしみという主婦だった。大野ともう一人、宮部という憑依者は、災厄対策室の依頼で他の憑依者たちと接触を続けていた。彼女たちを孤立させないためであり、相互に監視させるためだ。
 二ヶ月前のことだ。大野よしみが相沢序峰と年に一度の接触をする際、社に指名されて、パジェットが護衛として同行した。大野と序峰が接触した日の夜、序峰の呪詛が暴走した。
 大野は強い女だった。自分がもはや普通の人とは違うと自覚し、なお普通の人として生きようとした。
 彼女は今、どこで何をしているのだろう?

 ※

 誰かが歩いてきた。井田が山道にいた。気配を隠すつもりがない。今そうする必要があるかないかに関わらず、そうする習慣を付けろと普段から散々言い聞かされているはずなのだが、だらしない歩き方から滲み出て見える捨て鉢な態度から察するに、わざとうるさい歩き方をしているのだろう。子供じみた奴だ。井田は山道を外れて窪みへ下り、ブナの木立の中に入ってきた。
 井田は歩いてくると、何かを報告する前に、柿崎の前に腰を屈めて様子を窺った。柿崎は安らかに寝息を立ててている。もう苦しげな様子はない。それからパジェットの前まで歩いてきて、じっと見下ろした。
 パジェットが立ち上がると、今度はパジェットが井田を見下ろすことになった。
「ちょっと聞いてくれ」
 憮然とした様子で言い放つ。パジェットは答えた。
「言えよ」
「さっき……。ちょっと明るくなりかけた頃だった。ライトを切っても手許が見えるようになったから、石に座ってチョコレートを食べようと思ったんだ」
 非常食の、賞味期限が五年ももつものだ。
「銀紙を剥いて食べようとしたら、誰かが後ろからチョコレートを取り上げた」
「誰が」
「尼さん」
 乙葉がのそのそ立ち上がり、荷物をまとめ始める。
「……それで?」
「声をかけたけど返事をしなかった。暗くてわからなかったけど山寺があったんだ。追いかけたけど山門を閉められた。閂をかけられて、呼んでも答えてもらえなかった」
 パジェットは二度、三度と頷いた。それから、ジャケットを柿崎の体からはぎ取り井田に返そうとしていた乙葉に呼びかけた。
「乙葉。それはもうちょっと柿崎に貸しておいてくれ。井田、そこに案内しろ。乙葉は柿崎を頼む」
「わかったわ」
 不安を胸に抱きながら、パジェットは二人の女たちから離れていった。七月三日、土曜日。彼らはその日の行動を開始した。
 井田の話では、一時間ほど歩いてようやく件の尼寺にたどり着いたという。だがそれは夜の山の中で、足許によくよく注意しながら歩いたせいだろう。明るくなった今、三十分とかからなかった。
 細い参道の先に待ちかまえていた山門は、確かに閉ざされていた。緑の苔がむしている。パジェットは手の甲で山門を叩いた。
「すみません!」門の向こうからは、静かに歩き回る足音が聞こえる。「誰かいらっしゃいませんか!」
 叩き続ける。
 砂利の上を歩く足音が、門のすぐ向こうまで来た。迷っているようだ。叩くのをやめた。
「すみません。道に迷って、助けてほしいのですが」
 閂の動く音がした。ほどなくして、門が内側に開かれた。
 山門を開けたのは、赤紫の僧衣をまとった尼僧だった。頭にかぶりものをしておらず、剃った頭を朝日にさらしている。痩せて小柄だった。六十歳は過ぎているだろう。眉を寄せ、険しい表情を作っているのが痛々しかった。
 門が開ききる前、井田に尋ねた。
「この人か?」
 井田は後ろで答えた。
「ああ」
 門が開ききって、木の軋む音がやんだ。
 パジェットと井田、そして尼僧は敷居を挟んで牽制しあうことになった。尼僧は小さな体のすべてを使って拒否と怒りを伝えようとしていた。だが、あまりに無力な存在だ。逆にパジェットは、どうしたら彼女の拒否と怒りを解けるものかと考えた。この反応は恐怖からきているに違いない。ならば解くのは無理そうだ。舌打ちしたかった。パジェットは流天目を、井田は三枚刃のブーメラン型の神器『火車(かしゃ)』を携えたままだったからだ。
 口を開くと、
「黙りなさい」
 尼僧が言い放った。彼女はすぐに言葉を重ね、パジェットに何も言わせなかった。
「恥知らず。何も言ってはいけません。私はあなた方を知っていますし、あなた方が柚富でどのように振る舞ったかも知っています。あなたたちの血が犬の血ではないのなら、避難している人たちのために持っている食糧を全部寄越しなさい」
 毅然とした口調だ。パジェットは尼僧をじっと見つめた。顔が白いのは、化粧のせいではなさそうだ。体の前で組んだ手が震えているのも、消え残る夜気のせいではあるまい。唇を噛みしめるあまり、上の前歯が見えている。
 パジェットは腰鞄に手を突っ込んで、無造作にチョコレートを突き出した。
「これしかありませんよ。食糧はトラックごとやられてしまったのでね」
 異邦の男にしか見えぬパジェットがはっきりと日本語を喋ったことが意外だったのだろう。束の間怒りが和らぎ、拍子抜けしたようにさえ見えた。尼僧はパジェットとしっかり視線を合わせたまま、そろそろと手を上げた。そしてチョコレートを引ったくった。
「こんなことをお願いするのは恐縮なんですがね」
 柚富での一件を思えば一番言いたくないことを敢えて口にした。
「担架があれば貸していただきたいんですよ。あと、消毒薬とか包帯とか。怪我人がいるんです」
「それはむしろ、私があなた方に頼むことです」
「そりゃごもっとも」頭を掻く。「お車を貸していただくことはできませんかね」
「参道を出て左へ道を下れば、乗り捨てられた車がたくさんあるはずです。運が良ければ麓に下りられるでしょう。麓の町の惨状をご覧なさい」
 口先だけの礼を言い、二人は寺を辞した。尼僧は小刻みに体を震わせながら見送っていた。ようやく参道を抜けるとき、後ろで木の軋む大きな音がした。
 それから二人は乙葉たちが待つ窪地へと戻った。窪地では柿崎が目を覚ましており、横たわったままの彼女の話し相手を乙葉がしていた。
 パジェットと井田に気付くと、柿崎は寝たまま頭を動かした。柿崎と目と目を合わせて歩み寄り、膝をついて顔を近付けた。
「長谷部くん」喉が渇いているのだろう。声でわかる。「ごめんね。ここまで背負ってくれてたんだよね」
「大した荷物じゃねえよ。あと、よかったな。蛾の姫さまも無事で」
「姫」柿崎は右手を顔の横に上げ、柔らかい毛に包まれたオオミズアオの顔を撫でた。さも愛しげに名を呼んだ。
「姫篝(ひめかがり)……」
「相変わらずの溺愛っぷりだな。自分の心配をしろ、虫愛ずる姫様」
「僕は姫様じゃないよ」
 悲しげに抗議する。パジェットは無視した。
「容態はどうだ。正直に言え」
「頭が痛い。あと気持ち悪い」
「吐き気は?」
「ある」
「めまいは?」
「する」
 パジェットは頷いた。
「頭が痛いのは当然だ。だが吐き気は良くないな。さっさと下りて病院行くぞ」
 途端に柿崎は気弱そうな顔になった。もしこれが井田だったら怒鳴ってでも引きずり起こすのだが、さすがに十九歳の女の子に対してそれをする気は起きなかった。
 甘いものだと思う。できない自分も。普段はあんなに生意気なくせにいざというとき弱気になる柿崎も。
「行こう。おい、井田!」
 井田は、一行から少し離れたところで一人で立っていた。右手が火車の持ち手にかかっている。三枚の刃の要(かなめ)に当たる部分に持ち手があるのだが、それをぎゅっと握りしめ、パジェットたちに背を向けて、まっすぐ空を見上げていた。パジェットの心臓が早鐘を打ち始める。乙葉も柿崎も、井田の緊張の波動を浴び黙った。
 不自然に鋭い風が吹いて、ブナの茂みを騒がせた。井田の左手が火車の留め具を外す。葉が揺れ、木漏れ日が乱れた。光、影、光、影、視野が明滅する。影、光、影。そこに赤い残光が見えた。何かが再度飛び交ったのだ。
「井田、よせ!」
 火車を構えた井田が呼吸を止めて振り返る。パジェットは唾を飲み、首を振った。
「ミンタカだ」
 井田はパジェットを見つめたまま硬直していた。と、井田の背景となっている道に、飛び交う炎が落ちてきた。燃え盛る大木が直立したまま降ってきたかのようだ。地が震え、土埃で火の根本が見えなくなった。地に接した火柱は一瞬だけ火勢を強めたが、手心を加えるように細く小さく変じた。大木は若木程度になり、その火からトラックが出てきた。軍事車両だ。頭からゆっくり出てきた黒光りするトラックの車体には、両国同心社のマークが印刷されていた。
 木綿(ゆう)と剣(つるぎ)。木綿剣の紋章。
 トラックを産み落とすと、火は天に立ち上るかのように細く細く伸びていき、消えた。助手席のドアが開いた。女が下りてきた。
 色気も素っ気もない制服に包まれていても、その足はすらりと長く美しく見えた。長身の、筋肉質の女だった。たくし上げた袖から延びる腕は褐色。ジャケットは着ていない。シャツは胸もとがはだけ、黒い肌着が見えている。逞しい首には金の鎖が巻き付いている。細い顎。赤い唇、笑った唇。耳にかかる短い髪も真っ赤に染めている。
 これがミンタカだ。
 年はパジェットと同じだが、入社はミンタカのほうが先だ。本名は知らない。だがミンタカは、パジェットの本名を知っている。
 涼しげな目をしている。その目は笑みを湛えていた。
「やはりか」
 引き締まった声で、開口一番言い放つ。パジェットは代表して前に出て問いかけた。
「何がだ」
「貴様なら死に損なうと思っていたよ」
 歩道へと歩き続けながら、パジェットはため息をつき嘆いた。
「それは悪い日本語だ」
「わかって言ってるのさ」
「そりゃ結構。ついでにまともな会話の仕方も覚えとけ。臭ぇ腸(はらわた)ぶちまけてくたばる前にな」
「どうやら貴様といる限り無理そうだな」
 後ろの物音から察するに、井田が柿崎を背負っているらしい。窪地の斜面を登り、道に上がる。トラックの運転席を見上げると、知らない青年がそこにいた。九州支社の人間だろう。
「で」と、ミンタカを見下ろす。「一足お先にスタコラサッサととんずらしたチームマネージャーが、随分偉そうな口利くじゃねえか。まさか俺たちに『助けに来てやった』とかって恩を着せるつもりじゃねえだろうな」
「恨み言ならエリアマネージャーに言ってくれ。私は彼の判断に従ったまでだ。意志に反して恨まれるのがどういうことか、貴様は知っているはずだろ?」
「意志に反して恨むこともな」
 第一、この女は恨まれて気に病む女ではない。この神経の図太さの他にパジェットが知っていることは少ない。北アフリカのどこかの国の出身だということ。両親は厳格なムスリムだったらしい。本人は拝火教徒だ。いつどこでどのように拝火教と出会い改宗したのか、どういう経緯で日本に来たのか、どこで日本語を学んだのか。彼女の過去は誰も知らない。
「さっさと乗れ。三分以内に山を下りてやるよ」
「三分以内に九州支社まで連れてって欲しいんだがね」
「そこまで長距離の移動はできないよ」
 嫌みを言ってやろうと思ったが、急に気力がなくなりやめた。
 生き残りの四人が収容されると、ミンタカは助手席に戻った。座席に深く腰掛け、満足げに身を委ねた。
「見たろう」
「はい?」
「今のがパジェットさ」
 運転手は「はあ」と言うばかりだ。これでは運転手以外に前線の仕事は務まるまい。
「今の人、日本人なんですか?」
 ミンタカは肩を揺すって笑った。
「言ってやるな。ああ見えて日本生まれの日本育ち、日本国籍も持ってる日本人だ。本名なんて、長谷部武雄って言うんだぜ」
 運転手はまた、「はあ」
 ミンタカは制服の腿のポケットから煙草の箱を取り出して一本くわえ、火をつけた。帰りの通路を開こうとしない彼女にじれ、しかしせかすわけにもいかず、間を持たせるために青年は質問した。
「あの、パジェットって、どういう意味があるんでしょうね」
 煙草を右手の指の間に挟み、唇を離すと、
「癌さ」ミンタカは答えを口にした。「しかも、よりによって人に見せたくない場所を選んで出てくる嫌な奴だよ」
 結局、運転手にとっては先ほどよりも居たたまれない気まずさが車両前部に満ちただけだった。





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Author:とよね
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