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冷凍されたオシドリとチューリップ人の王国

趣味で書いている小説用のブログです。

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虹よ、契約の虹よ〈8〉

三章 七番目の司祭(2/3)



 2.

「主イエスは渡される夜、パンを取り、あなたに感謝をささげて祝福し、割って弟子に与えて仰せになりました。『皆、これを取って食べなさい。これはあなたがたのために渡されるわたしのからだである』――」
 ミサの最中には、聖体拝領という儀式が行われる。
 新約聖書を読んだことのない大半の日本人でも、有名な絵画の題材にもなっている『最後の晩餐』という言葉は聞いたことがあるだろう。これは新約聖書の四福音書に描かれる、イエスが弟子の裏切りによって売り渡される直前の晩餐をことを指す。その晩餐を再現し、聖別されたパンを信徒に授ける儀式を聖体拝領という。また、聖体拝領を行わない教派もある。
 どのようなご聖体を儀式に用いるかは教派によって異なる。キリストの血となるぶどう酒。禁酒の戒律がある教派では、ここでは水やぶどうジュースを用いる。カトリックではカリスと呼ばれる杯に盛られたぶどう酒を司祭が呷(あお)る。
 次にキリストの体となるパン。プロテスタントの多くの教派では、サイコロ状に切った、または単に手で割いた市販のパンが用いられる。カトリックで用いられるご聖体は、それとは全く違うホスチア、または聖餅(ウェファー)と呼ばれるものだ。チボリウムと呼ばれる杯状の皿に保管されるそれは白い小さな円形をしており、普段は祭壇のご聖櫃に収められている。それはミサの最中、信徒に分け与える際に取り出され、今が正にそのときであった。
 ミサの司式を行うのは、司牧(しぼく)経験が今年で三十年にもなるベテランの神父で、名を藤巻という。がっしりとした堅太りで、黒く日に焼けている。造園が趣味なせいだ。
 そのときまで、いつも通りのミサだった。
 ご聖体拝領の儀式の中で、いつも通り一枚のホスチアを頭上に掲げる。白い祭服をまとった助祭(じょさい)がベルを鳴らすと、信徒たちが黙想し、頭を下げる。信徒のすべてが日曜の朝に必ず集まれるわけではないし、これは日曜朝の二度目のミサだ。今ここにいるのは、日曜早朝のミサの倍程度、二百人前後といったところだ。
 その二百人前後の頭越しに、藤巻はそれをみた。
 高い吹き抜けの聖堂内には、祭壇を見下ろす形で音楽堂が設けられている。つまり祭壇からまっすぐ目線を上にやると、音楽堂がある二階の手すり、パイプオルガンのパイプ、聖歌隊の信徒たちの姿と、奥のステンドグラスが見えるようになっているのだ。
 その手すりに手をついて、じっと聖堂を見下ろしている人がいた。
 ステンドグラスで逆光になっているが、雰囲気で男だとわかった。
 カソックを来ている。
 椙山だった。
 普段より、いささか長くご聖体を掲げることになってしまった。侍祭の視線を顔に感じ、藤巻はそれを下ろした。
 ご聖体を掲げた次は記念唱だ。
 藤巻は椙山から意識を反らした。聖堂内に短い祈りの歌が響く。
 司祭の祈り、信徒たちが唱える祈り、そしてまた司祭の祈り。祈りが交互に続き、拝領が始まった。
 聖堂には長い木製のベンチがずらりと並んでいるのだが、拝領が始まると、信徒たちが中央の通路に出て並ぶ。先頭の人からご聖体であるホスチアを受け取り、席に戻るのだ。
 聖歌隊、そしてオルガニストの困惑した目を背後に受けながら、椙山は聖体拝領が終わるまでその様子に目を凝らしていた。
 ここにいるのは必ずしもこの教会の信徒ばかりではない。違う教会の信徒が立ち寄ることもある。カトリックの洗礼を受けた者しかカトリックの聖体拝領を受けることはできないのだが、司祭にいちいち見分けがつくはずもない。全体の雰囲気や、ミサに慣れた様子があるかどうかで見分けるのだ。
 ここに赴任して三ヶ月。普段見慣れない者の姿を、椙山は音楽堂から見分けていた。そのうち六人がご聖体を受け取った。一人は敬虔な信徒らしい。昔ながらの、司祭の前にひざまずき、口にご聖体を入れてもらうというやり方でそれを受けた。五人が日本の現代のやり方、立ったまま両手でホスチアを受け取るというやり方で受けた。
 そのうち三人が、手を口にやる仕草を見せたものの、上から見る限りでは口を開けず、すぐに手を服のポケットに入れた。
 ホスチアを盗み出す。これは黒ミサの準備として行われる行為である。

 ※

 大聖堂の門扉から、一組の男女が出てきた。ミサ終了後には信徒たちの交流の時間があるにはあるのだが、別段精神的な拘束力があるものではなく、それに加わらずまっすぐ帰る信徒も珍しくない。その男女も単なる帰宅組であるかと思われた。見た感じ、別段おかしなところはない。男性は青いポロシャツにグレーベージュのスラックス。女性はヒマワリ模様のブラウスにショートパンツで、ヒールの高いサンダル履きだった。二人は隣あって歩いているものの、会話を交わしたり、互いの顔を見合ったりはしない。しばらく見ていれば、親密な間柄ではないとわかるだろう。
 男女に続いて椙山が出てきた。彼は一定の距離を保ちながら、二人のあとをついていく。
 大聖堂は石畳のランプ街の頂点に立っている。大聖堂を正面に見て左を向けば、港に降りる長い傾斜路(ランプ)がある。その両脇には雑貨店や洋品店、作家物を扱う店やカフェテラス、パン屋、洋食屋といった主に女性や若者向けの店があり、ヨットの白い帆が並ぶ港を見下ろせる。海には浪越の最大聖地である熱田の宮の森が浮かび、石造りの大鳥居と、舟の渡し場、そして中央区に向かってまっすぐ伸びる赤い欄干の橋が見えた。宮の森の向こうの海を、コンテナを積んだ貨物船がなめらかに滑っていく。広い工業地帯を有する対岸の風早区の港に入っていく船だ。林立するクレーンが、遠い港に輝いて見えた。
 右を向けば、ここ水早区の中心地、つまり聖地である水早区星の宮へいたる道だ。すべての道が区の聖域に通じている。道の真ん中には市電が通っているのだが、男女はその停留所を素通りした。やがて道が二股に分かれた。右の道は下り坂。左の道は上り坂。それぞれ地下市と地上市に至る。
 男女は地上市へ進んだ。
 建物が、階層都市に特有のものとなった。地下市から伸びる建物の十五階ないし十六階部分が、地上市の一階となる。ここでは一階にしか見えない建物も、下に長く伸びているのだ。道は橋のようになった。地下市に自然光を落とすための処置だ。歩行者用、自転車用、そして車用の橋状の道路が並行し、または交差し、そのどれからも地下市を見下ろせる。地下市には積極的に街路樹が植えられるようになった。その木の状態が、採光が守られているかどうかの目安となる。逆に顔を上げれば、青空の下、市営の無線ゴンドラが空中に浮遊しているのが見えた。区の中心に向かうにつれ、地上市の建物も超高層になっていく。遠くから見れば無数の塔が並ぶようだ。無数の地上市道路と無線ゴンドラが、塔の森へと吸い込まれていく。
 そして、都市の上には白く透き通る自然空調の紋様がいくつも浮いていた。円形の紋様の合間を縫い、動くように加工された龍が宙を泳ぎ、その下には透き通る光の蝶が舞っている。こうした仕事を請け負うのは、民間のまじない師や職業魔女たちだ。この自然空調のおかげで、都市の空気はからりと乾いて涼しく過ごしやすい。空中の湿気を集めてできた水玉が、地上市の建物の合間を漂っている。太陽を浴びてプリズムとなり、白い壁の近くを通るとき、それに輝きを投げかけるのだ。水玉はある程度の大きさになると自然空調より高く上って気体に戻るようになっている。
 自然空調に描かれた様々な神社の紋を見ていると、ここは多神教の国なのだとつくづく実感する。天地の創造主である一神教の神といえど、ただの外国の神の一柱でしかない、というのが平均的な日本人の捉え方だ。
 椙山光が歩くここ外来宗教受け入れ地区は、日本国外の伝統宗教のみならず、国内外の様々な新興宗教の坩堝(るつぼ)となっている。キリスト教、イスラム教、仏教、ヒンドゥー教、その他様々な伝統宗教。そこから派生した国内外の新興宗教。神道系の新興宗教施設もある。だがこのところ、民族主義的な方針を打ち出す神道系の新興宗教は、ここを離れて都市の中心部へ浸透しつつある。
「ケイト、見て!」
 英語が聞こえた。椙山はゆっくりそちらを見た。
 白人の若い女性が二人、同じ歩道の端から椙山を見ていた。一人は指さしてさえいた。今し方建物から出てきたところらしい。指を指していない方の女性は、雑居ビルの重いガラス扉に指をかけたままだ。二人とも、胸に名札をつけている。椙山は、地上二階建てのこの建物を借り上げている団体を知っていた。『復元された真理の教会』、通称『復元教会』だ。アメリカ発祥のキリスト教系の新興宗教であり、聖書以外の独自の教典を重視することや、神殿儀礼が悪魔崇拝を行うと噂される組織に類似していることなどから、欧州の一部の国ではカルトとして認定されている。それ以外の国と地域でも概ね異端の扱いを受ける。だが、宣教熱心で、自分たちの戒律に対して潔白な面もある。
 名札をつけた二人の若い女性は、アメリカから来た宣教師だろう。復元教会では、十八歳以上の男女は一定期間宣教の旅に出ることを奨励される。
 ちなみに復元教会の教義では、自分たちの教会のみが神の権威によって世に復元された正しい教会であり、ローマ・カトリックを含むそれ以外の教会は全て悪魔の教会らしい。
 それでも珍しいものが見れて嬉しいのだろう。椙山に対して興味津々だ。
 確かに、尾行するにはいささか目立つ格好であった。黒いカソック(猫の毛だらけ)。首から下げた、ラバルムが刻み込まれた十字架。外からは見えないが、腰には『主の御前の騎士団』の支給品であるブックベルトが巻き付けてある。それに聖書が固定されているのだ。聖水を入れた小瓶を三本収納できる筒とロザリオを仕舞う小袋もベルトに付いている。必要に応じていつでも聖水やロザリオを取り出せるよう、カソックの下半分のボタンは閉じていない。そして、紫色のストラ。以上が戦闘祓魔師の標準装備だ。
 椙山は、ストラの両端をひらひらさせて歩きながら、二人の宣教師ににっこり笑って会釈した。二人も笑って会釈し手を振った。尾行を再開する。これ以上気を取られると、対象の二人は人混みに紛れて見えなくなりそうだった。
 二人は市の歴史資料館と文庫、児童館、コンサートホール、図書館や行政相談所なども入った区役所ビルに近付きつつあった。地上市五十八階、四十三階、二十八階、十三階、地下市十三階、といったように、概ね十五階ずつを有料螺旋道路(ループ)に貫かれたビルだ。階層都市の主たる道路は、市ないし区の中心地を回るこの有料螺旋道路(ループ)と、その外周を囲む無料の空中環状道路(リング)に大別される。浪越市には、中央区・水早区・風早区のそれぞれで完結する小リングと、三つの区を結ぶ大リングがある。といっても、海に遮られるせいで、大リングは一部が欠けた円になっているのだが。
 とにかく二人が車を持っていたら厄介だ。ゴンドラでループのある階に上がられ、駐車場からループに乗り込まれたら尾行が困難になる。だがそのようなことはなかった。二人は無線ゴンドラの停留所から地下市に降りていった。それと同じゴンドラに、椙山も人に紛れて乗り込んだ。外来宗教受け入れ地区のこと。そこまで悪目立ちはしない。横三列に並んだ座席には、黄色いターバンを巻いたヒンドゥー教徒、黒いヒジャブを被った女性のイスラム教徒、白いターバンと豊かなあごひげが立派な拝火教徒、オレンジ色の袈裟をまとった剃髪の僧侶なども乗り込んでいる。椙山は一番後ろ、男女は一番前の席についた。
 地下市の底に下りたって、二人はなおも歩いていく。
 彼らは地下市電に乗った。市電は地下市の大通りを離れ、次第に地上市から見通しにくい区画に滑っていった。空を覆う地上市の道路が複雑に入り組み合い、その分地下市が暗くなる。昼夜を問わず街灯が点っている区画まで来た。重力を操作して事故や飛び降り自殺を防ぐ落下物緩衝装置の数が目に見えて減少し、道端には投げ捨てられたゴミが目立つ。ファストフード店の紙袋が線路上にあり、それを踏んで市電は更に都市の暗がりへと進んでいく。
 この辺りは飛び降り自殺の名所になっている。夜も昼も不気味な雰囲気が漂っているということで、忌み地、穢れ地として避ける者も多い。当然それは差別を生み出し、地価が下がり、貧困層の居住地となり、犯罪率が上がって差別が強まるという悪循環がここにある。
 地上市へとまっすぐ伸びる集合住宅内には、未だに地下市十五階と地上市一階をつなぐ階段がない。外壁は塗装もされておらず、何の飾りもなく、住む人間の精神的な健康に対する配慮が一切ない。
 そんな住宅地が市電の終点であった。
 この先は、更に貧しい地だ。というよりは、人が住んではいけない場所になっている。過去に起きた大規模な魔害の発生源であり、未だに重力波が安定しない場所だからだ。日本各地にあるそうした場所は管区所有地となっており、立ち入りは制限されている。だが勝手に住みつく人間をそうそう排除できるものでもなく、浪越地下市においても、ここには段ボールや廃材でできた住居が並んでいる有り様だった。
 男女は手に懐中電灯を握っていた。その光を追って椙山も歩いた。汗と垢、糞尿の臭いが立ちこめ、死臭さえ感じられる。たまに柔らかいものを踏み、ぬちゃっと音を立てるのだが、何を踏んだか見たくはない。うわごとを呻く声。放尿する音や、寝返りを打つ音が、闇の中から聞こえる。ここは採光基準を守る必要がないため、太陽光が一切差さないのだ。蒸し暑く、椙山は汗をかいていた。ひしめき合う家々の中から、椙山へと視線が放たれていた。
 いよいよ市の終端、隧道公設(ずいどうこうせつ)跡にたどり着いた。地下市を囲む壁状の建造物をくりぬいて通路にし、市場にしたものだ。水早区には三つの隧道公設があるが、その一つ、市の東側にあるこの公設は、五十年も前に打ち捨てられている。
 公設を封鎖する鎖や板材は、どういうわけだか撤去されていた。隧道の長さは三十メートルもない。ぼんやりと光の粒子が目に感じられ、やがて矩形(くけい)の出口が行く手に見えてきた。男女がそこへ駆けていく。椙山は目を細めた。外気が頬に触れた。椙山も走り出した。
 隧道を抜ければ、そこは浪越市の外だ。
 放棄された畑に、セイタカアワダチソウがびっしり生えている。イネ科の植物は強い。どこででも生きていける。畑と畑の間には道が伸びていて、その先に農具をしまう小屋が見えた。空にはいつしか雲が広がっていた。灰色と、淡い麦の色の雲だ。細長く、青空が見える箇所があった。上空に風が吹いて、それも隠れてしまった。
 椙山は、細い道を歩いた。生ぬるい風が吹いた。セイタカアワダチソウの葉と茎と黄色い花がこすれあい、椙山を囲んで不吉に囁きあう。
 視界が広がった。予想していたとおりのものを、小屋の手前の開けた場所に見つけた。
 逆さの十字架が小屋の外壁に立てかけられていた。木製のもので、少なくとも浪越の聖堂から盗み出されたものではない。
 木の戸には逆五芒星がでかでかと彫られている。半開きの戸の向こうの床に、聖水盤がひっくり返っている。曇天の鈍い光に照らされて、血を満たした痕跡が浮かび上がっていた。せめて動物の血であればいいのだが。
 蝿が飛び交っている。
 干からびた蛙や、死んだ猫の足と尻尾が奥に見えた。それに蠅がたかっているのだ。更に目を凝らすと、床には血で魔法陣が描かれていた。
 椙山はカソックの合わせ目に指を差し入れ、中から懐中時計を取り出した。純銀の時計で、蓋に丸いガラス窓がついており、いちいち蓋を開けなくても時間を確認できるデザインだ。蓋にはラバルムが、裏にはオリーブの葉をくわえた鳩、そして虹が彫られている。時刻を合わせる竜頭(りゅうず)の隣には、小さな赤いボタンがあった。この赤いボタンを押せば、懐中時計は司教直通の通信装置となる。通話口は裏面、上方向に飛ぶ鳩の、尾羽の下にあった。
 懐中時計を手に持って、田畑の間から、小屋の前へと歩を進める。
 遠雷が鳴った。
 いよいよ小屋の入り口まであと数歩というところで、背後の茂みが勢いよく揺れた。
 その音に振り返った。
 黒い上衣を黄色い花粉だらけにした人物が六人、田畑の茂みから現れて、椙山を取り囲んだ。頭から首までを黒い三角頭巾で隠している。目の部分がメッシュになっているのだが、そこから目を覗き込むことはできない。黒い上衣は、大きな布に穴をあけて頭が通るようにしただけのものだ。首も黒い布で覆い、地肌が見えるところがない。
 大変そうだなあ、と、椙山はのんびり考えた。カソックだけでも暑いのに。
 体の線は隠れているが、体格からして女性ではないかと思われる者が二名。剣呑(けんのん)な空気が漂うも、すぐには襲ってこなかった。
 椙山はゆっくり息を整えた。
 袖で額の汗を拭う。詰め襟の襟元を軽く整え、それからストラを整える。両端を同じ長さに揃え、最後に懐中時計を持ち直すと、堂堂と、歌うように尋ねた。
「ねえ、君たち。聞きたいことがるんだけど、浪越の中高生相手に余計なことを教えて回っているよねえ?」
 返事がないので、微笑んだまま続ける。
「君たちの指導者と話がしたいんだ。いるよね」
 生ぬるい風が彼らの黒い上衣を動かしただけだった。
「用件を言わなきゃ駄目かなあ」困ったふりをした。「君たちが最近ちょっかいをかけてる女子高生のことなんだけど」
「司祭」
 誰かが声をかけた。女の声だった。
 真後ろで、小屋の戸が開いた。腐臭、血の臭い。わっと飛び交う黒い大きな蝿たちの羽音と気配が背中を打った。
 振り向くが、小屋から出てくる者はいなかった。
 中に誰かいるのだろうか。
 見極める間もなく、小屋の外壁と屋根そして柱が上方向に吹き飛んだ。椙山は思わず膝を屈め、両腕を交差して顔と頭を庇った。背後の男女が無言で逃げていく。だが先ほどの女の声は聞こえた。
「死ね」
 硫黄の臭いと焦げ臭さが、他の全ての臭いを覆った。蠅たちが、渦を巻き、小屋と一緒に空へ吸い上げられていく。その先で火が起こり、蝿たちを焼き尽くした。
 小屋の土台と床はきれいに残っていた。描かれた魔法陣の全容を確かめる間もなく、空中の火の中から黒い棒状のものが生まれ出た。それは蹄を持つ動物の脚であり、間もなく胴、長い尾と、首と頭部が現れた。その黒い影が次第に大きくなりながら地に下り、崖から注ぐ四つの岩のように遠くで大地を踏みしめた。
 その振動が椙山の足に伝わり、足の裏を痺れさせた。燃え盛る四つの蹄が、捨てられた田に茂る植物を焼いていく。そのとき初めて、都市が叫ぶサイレンを耳が捕らえた。わざと人を不安にさせ、緊張を与える不気味なサイレンの音程が、上がり、下がり、また上がる。その唸りに早鐘が混じる。最大の警戒レベルを示す、Sランクの警報だ。
「ああ……」困ったように微笑んだまま、椙山は懐中時計の赤いボタンを押した。「やっぱ、こうなるよねえ……」
 燃える蹄のラバが、地面を揺らして駆けてくる。
『椙山神父。何が起きている。無事か?』
 ラバが通った後に、黒い煙が残った。椙山は懐中時計を口に近付け、呼びかけに応じた。
「間野司教、椙山です。典礼儀礼書が定める緊急時の対応ガイドラインにより、ただいまより悪霊(あくれい)との遭遇戦を開始します。場所は位置情報をご参照ください。以上」
『わかった。すぐに聖務防衛軍と対魔機動隊が駆けつける。それまで持ちこたえなさい!』
 椙山は再度ボタンを長押しし、通信を切った。
「持ちこたえろって?」
 懐中時計をカソックのボタンの間から内ポケットに押し込んだ。
「信用されてないなあ」
 ラバはもう、稲田二枚分の距離を残すところに迫っていた。その距離を挟んでみても、ラバの膝は椙山の頭より高い位置にあった。頭はそれより遙かに遠く、燃える両目には瞳がないのに確かに椙山を見据えているとわかる。体から上る黒煙は硫黄の臭いを放ち、体の表面はひび割れていた。ひびの合間から煮えたぎる鉄のような灼熱の流れがかいま見え、赤いしま模様となっていた。そして、槍のような一本の角が額についていた。
「どうするつもりだ」
 先の女はまだ残っていた。
 地獄のラバとの距離は、既に田んぼ一枚分。
 椙山は自信たっぷりに応じた。
「悪霊・悪魔は地獄に送る! 人は修道院送りにしてくれよう!」
 女魔術士は短く嘲笑した。

 ※

「主よ、憐れみたまえ。我は人の子、罪人(つみびと)にして悪霊・悪魔の暴虐の前に如何なる力も持たぬ者なり」
 祈りの句を呟くや、椙山は正面にあるラバの右へ回り込むように走り始めた。
「ああ、主よ。御身の僕(しもべ)なる我・椙山光は、伏してここに願い奉る――疾(と)く来たりて我を助けたまえ!」
 ラバの前脚が叩きつけるように背後に降りおろされた。舞い上がった土を椙山は背と頭に受けた。雑草が生い茂るかつての田畑に転がり込むと、前脚が蹴りあげられた。危うく蹴りとばされるところだった。脚の中に燃える火の熱気が、椙山にまとわりついた。
 雑草の中に倒れ込み、一回転して距離を稼ぐとその勢いで立ち上がった。草がなぎ倒され、青臭さが立ち上る。椙山は走り続けた。その間にも、二度、三度と真後ろや真横に蹄が下ろされ続けた。
 四度目で、角が来た。
 ラバが動きを止めたことに気付いた椙山は、走りながら横目で振り向いた。地獄のラバは頭を低く下げていた。間もなく角を前に突きだして突進してきた。長い睫毛の下では火の目が燃えている。
 十字に交差する畦道の真ん中で、打ち捨てられた青いビニールシートが道祖神に引っかかっていた。椙山はそこで足を止め、踵(きびす)を返し、向き合った。ラバは既に椙山を追って向きを変え、稼いだ距離を縮めてきているところだった。
 椙山は右足でビニールシートを蹴って広げながら、左手で聖水の小瓶を一本ベルトの筒から引き抜いた。
 ガラスの十字架がかたどられた蓋を右手で外した。
 瓶をゆっくり傾けていく。
 硫黄の臭いと熱気に包まれた。
 ラバはもう間近にいた。その膝が眼前にあった。
 ラバが後脚で立ち上がる。
 前脚が上がった。
 その脚、蹄が下ろされるすぐ先に、椙山が立っていた。
「全能の御父、我が祈りを聞き入れたまえ。天使の元后、全ての天使と聖人よ、我が祈りを主に取り次ぎたまえ――」
 ビニールシートの上に聖水が垂れ落ちた。それは飛沫(しぶき)をあげながら、シートの窪みに溜まっていく。
 振り下ろされようとしていた脚が、ぴたりと硬直した。彫像に変じたように、ラバは動かなくなった。
「――天の御父(おんちち)よ、御子(おんこ)、聖霊と共に、悪霊の力を破壊し給え――彼等を地獄の底に繋ぎ給え――」
 聖水が全てビニールシートに落ちた。
 椙山の顎が、いきなり天に向かってあげられた。後ろ髪を乱暴に下に引っ張られたようでもあった。そのまま背を仰け反らせていく。赤茶色の虹彩の中で、瞳孔が開ききった。
 呟かれる祈りは聞き取ることもできない。
 異様な静けさの中で、椙山は姿勢を戻すと、聖水の前にゆっくりひざまずいた。右手が聖水に浸される。
 それから素早く立ち上がった。そのとき、聖水が溜まった小さな窪みから何かが出てきた。
 七股の、赤く燃える鞭であった。その持ち手は椙山の右手に握られていた。そして、椙山の手は、全く濡れていなかった。
 左足を軸に体に捻りを加え、鞭を斜め上に振りあげた。炎の鞭が唸りをあげ、赤い光の軌跡を残す。それは後脚で立ち上がったままのラバの下腹を打ち据えて、鋭い音を立てた。
 ラバが横倒しになった。手首を返し、今度は鞭を振り下ろした。倒れたラバの腹を打つ。ラバは硬直が解けて四肢を腹に引き寄せた。
「殺せ! 殺せ!」
 女が叫んでいる。
「いいことを教えてあげよう」腕を下ろす。炎の鞭が足許で渦巻いた。「聖水盤はね、血じゃなくて、聖水を入れるものなんだよ」
 その声は静かだった。怒りも興奮もなかった。戦いの熱気もなかった。再び左足を軸にして、鞭を水平に振った。それは立ち上がろうとしていたラバの右前脚を打ち据えた。だが再び横倒しにさせることはできなかった。
「……殺す」
 女が呻く。ゆっくり起きあがるラバに、容赦なく鞭の追撃が与えられていた。空を切る鞭の唸りの中で、椙山はその声を確かに聞いていた。
「『殺す』? 『死ね』はやめたのかい?」不意に高笑いが放たれた。「いいねえ! 積極的だねえ!」
 黒衣の女が後ずさる。
 自分が呼び出したものより危険なものが、今、自分の前にいる。そのことに、初めて気付いたようだった。
 悪魔や悪霊を狩る人間が、そこらの悪魔や悪霊より弱いわけがない。
 まして、集団戦闘を基本とする主の御前の騎士団にありながら、一人で日本に赴任してきた。
 彼なら単独での戦闘も任せられる、と。
 それが椙山だった。
 ついぞラバが立ち上がった。体に縦横に裂け目が走り、その裂け目から血のような溶岩が垂れ落ちていた。じゅっ、という音を立て、真下の雑草が消えていく。
「主よ、我は御前にひれ伏し願い奉る。我らを憐れみ給え。我ら主の聖心(みこころ)によりて世にあれど御試みに耐うること能わず――」
 ラバの蹄が土を掻く。頭を低くして、角を見せつけた。鋭く迫った先端は、ちょうど椙山の目の高さにあった。
「――魔術を用いて――」
 ラバの突進と同時に、椙山が地を蹴った。
 女魔術師は間近でそれを見た。
 椙山の体が、ラバの頭を越えて軽々と舞い上がったのだ。見えざる手が彼の体を持ち上げたかのようだった。手はない。代わりに背中に光があった。
 白い光。
 翼だった。大きな、大きな――。
 誰もいない空間に突進したラバの真上で、く椙山がるりと前転しながら鞭を振った。長い鞭がラバの首に巻き付く。ラバの背に着地した椙山が、背負いあげるように、鞭でラバの首を絞めあげた。
「斯くもおぞましき暴挙と涜聖(とくせい)をもたらしたまえり。我はわが血潮を持ちてこの罪を償わんとするものなり」
 ラバが大きく口を開けた。
「父と」
 硫黄の臭気漂う息が口から漏れてくる。ラバはもがき、体を震わせた。椙山はラバの背の上で両膝をついて揺れに耐えたが、ラバが後ろ足で立ち上がったとき、鞭が切れた。
「子と」
 椙山の体が宙に投げ飛ばされた。が、間もなく重力の変調が彼を守った。
「聖霊の御名によって――」
 目の前にあるラバの胴体に、短くなった鞭で左から右へと傷を刻みつける。
 今度はまっすぐ、上から下へと鞭を叩きつけた。
「アーメン!」
 その縦線は、先の横線と交わり十字架を描いた。
 ラバは首に鞭を巻き付けたまま口を開けていたが、声はなかった。体が横倒しになっていく。が、倒れ、大地を再び震わす前に、それは跡形もなく消えた。硫黄の臭いと熱だけが、後に微かに残った。
 不安定だった重力が、いきなり安定を取り戻した。椙山は片膝をついて着地した。手の中の鞭は、ラバと一緒に消えていた。立ち上がり服の埃を払うと、彼は魔術師を探した。
 彼女は畦道の先に立っていた。二十メートルほど距離があるのだが、後ずさり、更に距離を開けようとする。
 頬が上気しているものの、椙山は相変わらず、不気味なほど機嫌が良さそうだった。まるで恋人に対してでもするように、彼はとびきりの笑顔を魔術師に向けた。
「ごめん、待たせちゃったね」
 魔術師へと歩いていく。それに合わせて魔術師は後ずさる。都市の叫びは止んでいた。
「でも、そんなに長くかからなかったよね。ただの雑魚の悪霊だったみたいだし。大体三分くらいかな」
 魔術師の後ろには、吹き飛ばされた小屋の土台と床が見えていた。椙山は前進しながら朗らかな声で続けた。
「怖がらないで。僕たちは、人間と戦うことは許されていないんだ。酷いことはしないよ。ただし……」
 くるりと後ろを向いた魔術師の姿が透明になり、見えなくなった。足音だけが遠ざかっていった。
 言いかけた言葉を飲み込んだ。
 ただし、君に強制祓魔処置が必要な場合は別だけど。
 椙山は、生贄の死骸と魔法陣が残る小屋の床へと足を進めた。
 魔法陣は円かった。二重円の内側に、小さな円と直線、曲線を組み合わせた幾何学模様が描かれている。外側と内側の円の間には、アルファベットが書かれていた。

『G』
『L』
『A』
『S』
『Y』
『A』
『―』
『L』
『A』
『B』
『O』
『L』
『A』
『S』

「へえ」もうここにはいない魔術師に、椙山は呼びかけた。「よりによって、あの殺人狂を呼んだのか。厄介なことをしてくれたねえ」
 警察車両のサイレンが、都市から近付きつつあった。





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