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冷凍されたオシドリとチューリップ人の王国

趣味で書いている小説用のブログです。

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深淵われを見給えり〈1〉





 1.

『高千穂市のみなさん、おはようございます。今日は、鞍嗣(あんし)八年五月一日、日曜日、時刻は午前七時です。神政国の平和を願い、天照大神(あまてらすのおおみかみ)、国と地域を守る全ての神々と、我が国最高の祭司であられる西王、東王両陛下に、感謝と祈りを捧げましょう……』
 アナウンスの後に、雅楽が町中で流れ始めた。高千穂神宮で奉納される舞の音声が、中継で全市に伝えられるのだ。
 目の前に座る女が、テーブルから両手を上げた。その手を胸の前で合わせた。右手の指が左手の指の上に出る形でずれていたのが動き、指先がすっと一致した。窓の外、町中から、拍手(かしわで)を打つ気持ちのいい音が立ち上ってきた。パジェットもまた両手を合わせ、静かに朝の祈りを捧げた。
 パジェットというこの男を見て日本人だと思う者はまずいない。
 金と茶色の中間色のような、肩まで伸びっぱなしのぼさぼさの髪は地毛だ。灰色の虹彩も、生まれつきのものだ。左目には片眼鏡(モノクル)。ただ、黄色人種の血も入っている上によく日焼けしているため、肌の色に関しては、東洋人のように見えなくもない。だが、何よりまず見る人を驚かせるのは、身長およそ二メートルの巨体だった。加えて職業柄、体を鍛えることが不可欠となるため筋肉質である。彼が腰掛けるカフェテラスの華奢な椅子は、今にも砕けてしまいそうだ。顔は老けて見えるほうだが、まだ二十七歳。面構えには貫禄がある。
 この風貌ゆえに、立っても座っても相手を威圧してしまう。望んでそうしているわけではない。町を歩けば注目の的。流暢な日本語で喋れば一層耳目を集める。こう見えても日本生まれの日本育ち、日本国籍も有しているのだが。それでも、本名が長谷部武雄であるという事実には自分でもつい笑ってしまう。パジェットという誓名(せいめい)で周囲に通すのは、そうしたほうが違和感がないからだった。
 向き合って座る女が、赤い唇にストローをくわえた。無糖のアイスコーヒーが吸い上げられていく。
 大野よしみ。三十八歳。主婦。
 美人だった。一つ結びにした黒髪には、まだ白いものが混じる気配はない。両目がグラスに注がれていても、つるりとしたきれいな額がパジェットを見ているかのようだ。細いフレームの眼鏡の奥にある両目はぱっちりした二重で、理知的であるがゆえに冷たくなりがちな雰囲気を和らげていた。
 唇がストローから離れた。ストローの先端に、口紅は残っていなかった。細い喉がこくりと動き、コーヒーを飲み干した。
 ベージュのスーツに身を包むこの女性が、恐るべき呪詛とその身を共にしているなどと誰にわかるというのだろう。言われなければわからない。
 彼女は『憑依者』だ。
 パジェットが人生で始めて出会う『憑依者』だ。
 大野が目を上げた。目線がぶつかりあう。
「続きを聞かせてください」パジェットは目を離さず言った。抑えた声なのは、特に女性と話すときに意識する、相手を萎縮させない知恵だった。「あなたが知っている、相澤さんについて全て」
 ええ、と大野が頷いた。逡巡ののちに、彼女は語りだした。

 ※

 社会主義者の母親と、国粋主義者の父親と。
 左と右の両極端に向かう力に引き裂かれて育った子。それが、大野よしみが捉えた相澤序峰(じょみね)の像だった。
 いつから家庭がそうなっていたか、序峰は覚えていないという。小学一年生のときには、父親と二人きりのときには、母親及び彼女の思想を散々にこき下ろし、「お前はああなってはいけないよ」と説く父ににこにこと賛同していた。また母親と二人きりのときには、やはり父親及び彼の思想を散々にこき下ろし、「お父さんは、反面教師なの」と説く母親ににこにこと相槌を打っていた。そうでなければ家庭というただ一つの拠り所を失うことになると覚え、序峰はそれを恐れた。
 アイデンティティを育むべき時間と幼さゆえの強い精神力は、ただただ日々をやり過ごすために虚しく浪費された。『災厄』の直後にも、八歳の序峰が陽気を通り越して躁病的な態度を示していたことが記録に残されている。無理のある陽気さ。しかし内面はいつもヒステリー寸前で、被害妄想を植え付けられている。
 ちょっとしたことですぐ怒る子。周囲の子供や大人が彼女にそう評価を下したのは、当然の流れだった。序峰は問題児で、いじめられっ子だった。序峰の両親には、学校での問題を解決する能力などもとよりない。だからこそ、本人は学校を自分の居場所にすることを諦め、家庭の平穏だけをどうにか維持しようと心を砕き、歪みを強めていく。
 だから、序峰にも同情すべきところもある。大野はそう言った。
 序峰の出身は、『災厄』の舞台となった軽沢市だ。住まいは地上市だったが、父親が属する右翼団体の活動拠点が地下市にあった。
 災厄の日は月曜日だった。前日の日曜、朝から昼まで、序峰は買い物に行くという名目で、母親が属する左翼団体の集会に連れて行かれた。お父さんには内緒よ、と了解の上だ。翌月曜日は、お母さんには内緒だぞという了解のもと、下校後から夕方まで、父親の右翼団体の集会に連れて行かれたというわけだ。
 日が暮れきってから家に帰れば、母親は怪しく思い、父親を問いつめることになる。序峰が夕方に帰されたのは、その事情からだ。序峰が『災厄』に巻き込まれたのは、軽沢地下市の集会所から地上市の自宅に向か通路の途中にある、商店街でのことだった。
 その後迅速に立ち上げられた対策室のメンバーは、序峰の両親に彼女の養育は不可能であると判断した。あの夫婦は普通の女の子すらまともに育てられなかった。どうして得体の知れぬ何ものかを身の内に飼い、より慎重な心理的・身体的ケアを要することとなった少女を、血の繋がりだけを理由に育てられよう。
 紆余曲折を経て、序峰の教育はここ高千穂市の高千穂神宮の神官たちが引き受けることとなった。親権は父親が持っている。
 序峰は平穏な家庭という幻想を捨て去らざるを得なくなった。かといって、代わりのものが用意されたわけではない。
『お前が憑依者となったのは、お前が特別だからではない。父親が言うように、神に選ばれたわけでは決してない』
 お前は特別じゃない。誰にとっても特別ではない。未だ正体不明の憑依体は、お前を選んだわけではない。誰でもよかったのだ。
 神官たちはそう教育した。
「ちょっといいですか?」
 パジェットは遮った。
「少し聞かせてください……それは、すべての憑依者が同じことを言われたのですか? 選ばれたわけではないと」
「いいえ」大野は少しだけ辛そうに、眉をひそめていた。「彼女に対してだけです。神官たちは子供の教育について学んだわけでは決してありませんし、悪意はなかったと思います。ただ、おかしな育ちかたをしつつある彼女の自我を正すには、それしかないと思ったのでしょう。結局それは、彼女を三つの方向に引き裂いただけでした」
 母から見ていい子である自分。父から見ていい子である自分。そして誰にも必要とされていない、厄介者にすぎない自分。
 神官たちが過ちに気付いたときには、もう手の施しようがなくなっていた。あらゆるカウンセリングの類を序峰は拒否し、育ての親たちが自分を巡って右往左往するさまを見て、ようやく満足を覚えたのだ。
「もしも子供の教育の専門家を、はじめから神宮側が聖域に迎え入れていれば……心からそう思います」
「かつて聖職にあった者として、言葉もありません」
 パジェットの言葉に、大野は黙って首を横に振った。グラスの外側を、水滴が滑り落ちた。
「……そういうわけで、相澤序峰は持つべきでない力を持ってしまったというあなたの昨日の言葉には、私は賛同いたしかねるのです。対応と教育次第で、彼女をその力に相応しい人間に育てることもできたはずですから」
「ええ」
「それに、もう一つ問題なのは、序峰と同じくらいに彼女の父親が変わってしまったことです」
 パジェットは自分のグラスをストローでかき混ぜた。氷がぶつかる音がした。
「峰の会、ですね」
 序峰の父、峰雪(みねゆき)という男は、『災厄』からほどなくして所属の右翼団体を離脱した。それは娘の親権を守るための対応でしかなかったと、すぐに判明する。本性を現したのは、序峰の身柄が高千穂市に移ると決定してから半年後のことだった。
 彼は高千穂市に移り住み、かつて所属した団体より厳選した超保守派の人員を引き抜いて、『峰の会』を立ち上げた。宗教団体としての認可がおりなかったため、保守派の政治団体として通っている。が、実態は序峰を生き神のように崇める独立した教団であり、新興宗教団体の顧問を務める弁護士団をバックにつけてからは、それをカルトと攻撃する向きも強くなった。
 その相澤峰雪が待つ家に、今日、序峰が一時帰宅する。
 外出許可が出た三日の間に、大野よしみは同じ憑依者として彼女に会いに来た。
「峰の会の先鋭化が、各都市で魔害が発生する度に進んでいき……」
 それを憂えてのことだ。先鋭化が進む峰の会と、その会長である父が、序峰にいい影響を与えるわけがない。
 パジェットと大野が会話を交わすのは、高千穂地上市の中心地。地上市、地下市ともに観光地として整備された区域のホテルだ。幾つもの黒い瓦屋根が天に聳(そび)え、塔と塔を朱色の欄干の橋が結ぶ。無数の塔の外廊下の欄干もそれと同じ朱色で、都市の空に彩りを添えている。ホテルの最上階のカフェテラスの窓と同じ高さに、広報パネルが浮かんでいる。
 雅楽の音がやむと、神政国報道局のニュースがパネルに映し出された。音声は届かない。朝の光に染まる鉄(くろがね)の窓枠に、電子の光が浮かび上がる。
 広報パネルより下、二人がいる地上市五十二階より下、地上市一階の路上を、観光人力車が走る。
 車を牽いているのは、逞しい、半裸の初老の男だ。座席に座るのは一人の少女。赤と黄をベースに、色とりどりの手鞠が描かれた、艶やかな着物に身を包んでいる。
 表情はない。
 ただ、神経質そうな目つきからは苛立ちが感じられる。
 彼女が苛立つ理由は何もないはずだ。人力車の男はそう思っている。彼女の近くにいる人間は、いつでもそう思っている。彼女はただいるだけで、周囲に悪い意味での緊張を与える存在だった。いつもだ。
 少女は丸い手鏡を出して、座席に化粧用品を並べ、熱心に化粧直しをし始めた。座席の左手側には紐が垂れ、紐には金の鈴がついている。鈴の輝きが、少女の珊瑚のかんざしに反射していた。
 少女は最後にかんざしを直した。目を鏡から上げると、行く手の道端に人だかりが見えた。
「おまえ!」
 怒鳴りつけるような勢いで、少女は人力車を牽く男を呼ばわった。男はすぐに返事をした。
「はい、何でございましょう?」
 返事を遅らせたり、ましてしないことなど許されない。都市の喧噪や車輪の音で声が聞こえなかったなどという言い訳は通用しないことを、この男はよく知っていた。
「あの騒ぎは何? 何の興業をしているの?」
「はい。蛙踊りとやらでございまして」
「蛙?」
「はい」
 それきり会話を続けない。
 少女は美しい顔立ちをしていた。その顔に苛立ちが際立つや、見えざる怒りの気が男に頭から襲いかかった。
「やっているのはだぁれ?」
「はい、どうも先ほど通りがけに見たときには、異人の女のようでして」
「異人の」
 脅すように声が低くなった。彼女は手鏡をちりめんの鞄に収め、扇子を取り出した。開くと白地に青い波、そして一羽のツバメが描かれていた。それで自分の顔を仰ぎながら、迫る人だかりをじっと見た。
「気に食わないわね」挨拶でもするような気軽さで、少女は男に声をかけた。「呪術か、魔術か……日本の神のお膝もとで……礼儀を知らないのかしらね……それとも、神格もわからないお馬鹿さんかしら」
 男は答えない。
「気に食わない!」
 今度はきっぱりと断言した。
「お前! 蹴散らしなさい!」
「はい?」
 上擦った声で、だが大声で男が聞き返す。
「聞こえなかったとは言わせないわよ。ゴミ共が目障りなの!」
「ですが」
「お前を雇ったのがどういう人間か、お前がどうして雇われたか、お前、わかっているよねえ?」
 人だかりはもう十メートルと離れていない。子供たちのはしゃぐ声。そこから離れようとする母親にしがみつき、「もうちょっと見たいよう」と訴える男の子の声、朝市の買い物袋からネギを覗かせて「後で」と窘める母親の声などが、はっきり聞き取れる距離だった。
 少女は扇子を膝に置くと、左手で紐をめったやたらに引いた。けたたましい鈴の音が、石畳の街路に響きわたった。温泉卵を売る屋台の老婆と、水路で大根を洗う初老の主婦の目が、人力車に釘付けになった。少女は更に鈴を鳴らした。音は人だかりの中心にまで届いた。
「行きな! ほら、お前! あたしがお父様に言って、借金を減らしてやるよ!」
 少女の言葉は鞭のように男の背を打った。もしも鞭があれば、本当に打ち据えていただろう。
 わあ! と男が叫んだ。
 小心者の男だ。走る速度が上がったが、全力を出していないのが座席にいてわかる。
「どいて! どいてぇ! 危ないよ!」
 叫ぶ声は泣き出しそうだった。道に出ていた人たちが、温泉施設の外壁に体を押しつけあうようにして人力車の進路から離れた。音を立てて車輪が舗道を削っていく。
 人の壁が消えて、興業を行っていた白人の若い女と一台の長机が、序峰の目に露わになった。机の上では後肢で立ち上がった蛙がまだ踊りを続けていた。
 職業魔女だ。
 通り過ぎるとき、少女は開けていないソーダ水の瓶を机に向かって投げつけた。それは放物線を描いて蛙の上に落下した。
 魔女の非難の眼差しが、疾走する人力車の後を追ってきた。幼い子供が放つ問い、「ねえ、蛙さん死んじゃったの? どうして蛙さん死んじゃったの?」という泣きそうな声も追ってきた。
 それで、少女はようやく暗い欲望を満たした。
 序峰。少女の名は序峰。

 ※

 八角形のエレベーターホールの中央に、大人の背丈ほどの高さの、柱状の水槽が立っていた。下半分は朱色の柱、上半分が水槽部分で、透明感がある水の中、空気の泡が立ち上っている。
 赤い金魚が二匹、ふくれた腹を上にして、水面に浮いていた。相沢峰雪はつい足を止め、水槽をよく見た。二匹どころではなかった。水草に引っかかっているもの、ポンプの陰にいるもの、みな死んでいる。ただ一匹、黒い出目金だけが底の流木の下に隠れ、じっとして動かない。目だけを動かして辺りの様子を窺うので、まだ生きているとわかるのだが、他の金魚らを死に至らしめたものが峰雪の目に映ることはなかった。出目金の目と顔の動きを追っていくと、中央のエレベーターの扉にたどり着いた。
 と、バチン! と音を立てて、弾けるように水槽の照明が消えた。同時にエアレーションが消え、ただ死の世界となった水槽の表面に、峰雪の顔が映り込んだ。
 灰色の髪を頭に撫でつけ、伸ばした前髪は中央で分けている。口髭を蓄え、その髭もほとんど白か灰色だ。いい老い方をしていると、自分では思っている。その顔が、奇妙にどす黒く見えた。
 峰雪はぞっとし、居たたまれなくなって右手を上げた。人差し指の関節で水槽を叩いた。水草に引っかかっていた金魚が、その振動でゆっくりと浮かび上がった。黒い出目金、瞼を持たず、光る目を世界にさらすこの生き物も、二度と動かなかった。
 どうなっているか尋ねようにも、エレベーターホールには彼しかいなかった。出迎えには一人で行くと、自ら側近に言い渡したのだ。
「良くないな」峰雪は一人、強気な口調で声に出した。「これは良くない。世話役は誰だ。今井か?」
 そこへ、エレベーターの到着を告げ知らせるチンという音が響いた。開いたのは、死の直前の出目金が最後に見た扉だった。
 函の中で、白木の格子模様の内装を背景に、着物姿の序峰が背筋を伸ばして立っていた。それは峰雪を照らす光、峰の会会長を照らす光、会を照らす光、社会の片隅で俯く者を引き寄せ、その者の家や親から金を引き出させ、会に捧げさせる光。
 光が不吉な予感を拭い、峰雪は顔を綻ばせた。口を開けない、慎み深く見える笑みだ。序峰の顔が、ぱっと輝いた。ほっそりした指で口を半ば隠し、「お父様!」と歓喜の声を上げてホールに走り出てきた。
 峰雪は前に進み出て、自分の体で水槽を隠すように立った。
「お父様、お久しぶりです!」
「一年ぶりだね。会いたかったよ、序峰。元気だったかい?」
 父の柔和な目の光を顔に浴び、序峰は舞い上がらんばかりだった。こここそが、自分の居場所だ。ここでなら、愛をもって受け入れられる。お父様なら、びくびくしたり、冷たくあしらうように接したりはしない。序峰が、その父の目の品定めするような光に気付くことはなかった。
「はい、お父様。私は高千穂皇神(たかちほすめがみ)様と瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)様のお膝元で、風邪ひとつ引かず過ごしておりました。お父様の腰痛のご様子は――」
 温もりを求めて、序峰は無意識に父の手を取った。自分がそうしたことに気付いたのは、両手に衝撃を受けてからだった。
 父の目がすっと冷たく尖り、笑みは消え去った。手を振り払われたことを知り、序峰はその場に凍り付いた。
「男女がべたべた触れ合うのは、異国の人間がすることだ」冷酷なほど冷ややかに、父親は言った。「どこでこんな振る舞いかたを覚えたんだ。慎みなさい」
 序峰は孤独を思い出した。
 生まれて死ぬまで一人だと。誰とも通いあうことはない。いてもいなくてもいい存在。別に序峰でなくても誰でもいい、誰にとってもどうでもいい存在。
 ああ、そうだ。
 窓の内から垣間見た、境内を歩く若い男女。それに影響を受けたのだと序峰は結論した。
 そう、あいつらは馬鹿なのよ、と序峰は心の中で言い、憎んだ。馬鹿ども。べたべたべたべたと、それで互いにわかりあっているつもりだろうか? 何のつもりなのだろう? 私とお父様ほど親密な関係であってさえ、そんなはしたない真似は許されないのに。ああ。よりによって、そんな道理のわからない馬鹿どもの振る舞いを真似てしまったなんて。
「ごめんなさい、お父様。嬉しくて羽目を外してしまいました」
 頭を下げた。目線を上げたとき、父の顔には元通りの笑顔があった。よかった。柔和な表情だ。
「反省したなら、いいんだよ。ただし、お前ももう十八だ。慎みを忘れないようにしなさい。万が一にもおかしな男をその気にさせてしまってはいけない」
「とんでもないことです」と、序峰。「お会いできて嬉しく思うお相手は、お父様だけですわ。それに私、普段は大衆の出入りが固く禁じられた場所におります。頭の働きの鈍い神官どもも、その程度の役には立つということです」
「よろしい。安心したよ」
 二人はエレベーターホールから、板張りの外廊下に出た。高い欄干を持つ渡り廊下を抜け、向かいの小塔に向かう。爽快な初夏の風が吹いた。その小塔こそ、峰の会本拠地の中でも限られた者しか出入りできない場所、序峰の居室だった。
「序峰、お前にプレゼントがあるよ」籠目模様の扉を開けながら、峰雪はスリッパに履き替えると、振り向いて言った。「入っておいで」
 小塔の一階部分の壁には、東西南北に大きな窓があり、特に南側は、開閉こそできないものの全面ガラス張りとなっていた。外に比べて暗いということはない。空が広く見える、居心地のいい部屋だった。
「二階に行って、見ておいで」
 その言葉に従って、絨毯の敷かれていない階段を上った。
 二階は畳張りだ。東の窓辺が膝の位置まで高くなっている。そこが寝床だった。寝床の前に小さな机が設置され、何やら大きな箱が、布をかけられて置かれていた。序峰一人では抱えきれないほど大きい。
 序峰は布を払った。
 箱はアクリルのケースだった。
 中に収められた緑色の物体をしげしげ観察し、それが何かを察すると、驚きのあまり言葉を失った。
 やがて、堪え切れぬ歓喜が序峰の顔いっぱいに広がった。わあ、と彼女は声を上げた。
「どうだい? 気に入ったかね」
 後ろの階段を、峰雪が上がって来た。
 それは山々の模型だった。
 霧島連山。
 そう記されたプレートもあるが、プレートを見るまでもなく、序峰にはそうとわかっていた。
 名のある職人が作ったものだろうと一目でわかる精巧さだ。緻密に彫られ、彩色された沢。古びた山小屋。細い登山道……。
 そこは、序峰の幸せな記憶の場所だった。
 いつだったかもわからぬほど幼い頃、仲むつまじかった両親に右の手と左の手を引かれ、ハイキングに行った。霧島。お父さんは途中で何度も「もう疲れたよ」とこぼし、お母さんは「ほら、もう少しだから」と励まし、序峰はというと、石や、キノコや、鳥や、草、目に入る珍しい色や形のものに興奮しながら、疲れも知らず飛び跳ねていた。冷涼な峠に出ると、木のベンチに腰掛けて、おにぎりを食べたのだ。
 この記憶を守ってきた。大事に、大事に……。
 だが今は、山域の大部分を国が占有している。良質な霊晶石の鉱脈が深地下にあるのだ。序峰の気が萎えていく。採掘設備などという無粋な物など模型上にないとは言え、幸せな記憶が汚されたという思いは拭えるものではない。
「この山々は、今にお前のものになるぞ」
 峰雪が、真後ろに来て言った。
「本当? お父様」
「ああ。お前がいて、それができないはずがない。お前がここにいなければ、私は……我々は無力だ。根気強い抗議活動くらいしかできなかった。だが序峰、もう違う。今日からはお前がいる」
「ですが、お父様、私はまた神宮に戻らなければいけません」
「その心配はないよ、序峰。何のために用意したマンションにお前を帰らせなかったと思う?」
 序峰は父の口髭と、左右対称に吊り上がる唇をじっと見た。そして真意を悟ると、すべての不安とと憂鬱が失せ、胸に力強く勇気が湧き起こった。
「お父様!」思わず叫んだ。「私、もうあそこに戻らなくてもいいのね! ずっと一緒に暮らせるのね! 嬉しい!」
 だが、二人の手が触れ合うことはもうなかった。
 序峰は父を愛している。父が果たして己を愛しているかは考えない。
 母親。あれはもういない。あれにとっても序峰の存在はなかったことになっている。





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