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冷凍されたオシドリとチューリップ人の王国

趣味で書いている小説用のブログです。

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今日も世界は美しい〈2〉






 2.

 どうしよう。
 どうして思い出せない漢字というのは、こう頭の中で自由自在に変形するのだろう。ぼんやりした輪郭は頭の中にあるのに、内なる目の焦点を合わせようとすると、たちまち形を変えてしまう。
 目を上げる。
 塾の教室だ。
 白い文字盤に黒く丸い縁の、素っ気ないデザインの時計だ。
 残り時間五分。
 だが直美のテスト用紙は、最初の一問しか解けていない。できる問題からやろうとした結果だ。そしたらもう残り五分。最初に解いた一問さえ、もはや自信がない。かろうじて零点を免れるかどうか……。
「おまえ馬鹿じゃねーの!」
 男子が大声で嘲笑う。直美は顔を上げた。
「中川――」
 気がつけば、全員が直美の席を取り囲んで冷たい笑いを浴びせている。
「こんな問題もわかんねーの!」
 正面に立つ男子の両目から、ふっくらした蛾の尻が突き出ていた。
 緑色の卵をぽろぽろ生んでいる。それが直美のテスト用紙に垂れ落ちる。
 顔の前に突きつけられた指先からは、爪の先から蛾の触覚が生えいずるところだった。
 直美は夢の中でその指を払いのけた。
 その動作で、体にかかる布団をはねのけた。

 ※

 今朝の汁ものは、ジュンサイのお吸いものだ。主菜はホッケの干物で副菜は菜の花のゴマ和え。主食はタケノコの炊き込みご飯。水菜と豆腐のサラダは大きなガラスのボウルに盛りつけ、取り分け用の小型のトングを添える。
 朝日が注ぐ和室のちゃぶ台に、家族六人の食事が揃う。父の雅治は胡座を組んで新聞を開き、長女の海砂と一緒に庭の野菜の手入れをしていた孫の啓太郎は、手洗いを済ませて居間に入ってきたばかりだ。
「ねえ、テレビつけていい?」
 海砂が言い聞かす。
「だーめ。今からご飯でしょ」
 手空きの娘婿の哲也は、母の恵子と一緒に配膳を手伝っていた。
 長男だけがその場にいなかった。
「そういや光がいないな」
 新聞を下げる雅治に海砂が鋭く言う。
「今気付いたの!?」
「時差ボケで寝てるのか?」
「知らないよ。部屋にもいないのよ」
「散歩に行ったんじゃない?」と、恵子。「靴がなかったから」
「ふぅん」雅治は新聞を畳んだ。「時差ボケで寝てないのか」
「そんな馬鹿な……」
 そこへ、いきなり庭に面した窓が開け放たれ、敷石の上に靴を脱いで光が上がり込んできた。
「おはよう! 私は元気だ!」
「どこから入ってんの!」
 海砂が同じくらいの大声で言い返した。雅治が新聞を畳の上にぴしゃりと置く。
「オレが元気か聞け!」
「やだなあ。そんなの見ればわかるでしょう」
「お前のほうこそ見ればわかるよ! っていうかどこに行ってたんだ」
「え? お昼ご飯用にアサリ取ってきた」
 すると雅治は立ち上がり、光に歩み寄ると、自分より背の高い息子の頭を拳骨で殴った。
「あいた!」
「馬鹿野郎! まだ潮干狩りの時期じゃねえ!」
 光は頭に手を当てた。
「ひどいなあ、父さん。虐待だ。うわあ、最悪だ」
「お前歳はいくつだ!」そして、「元の場所に埋めてこい」
「わかってるよ……冗談だよ。拾ってきたのはこれ。啓太郎君、見せてあげよう」
 と、甥の斜め後ろに両膝をついてしゃがんだ。
 光が服のポケットから取り出したのは、色とりどりの貝殻、そして、波に磨かれて角が取れた、美しいガラス玉の数々だった。
「うわあ、何これ!」
 啓太郎が、緑のガラス玉を手に取った。
「シーグラスっていうんだよ。後でわけてあげようね」
「砂がついてるじゃない。啓太郎、食べる前に触らないの。光、手を洗ってきなさい」
 海砂が啓太郎の手からガラス玉を取り上げて、光の手に返した。
「本当にアサリ取って来てないだろうな」
 雅治が疑わしげに庭へと顔を突き出す。光が呆れたように答えた。
「乱暴な上に疑い深いなあ。そんなんだから修道院追い出されるんだよ」
 修道士になりたかったのだ。
「追い出されてなかったら海砂もお前も生まれとらんだろうが! っていうか何でオレにだけ態度が違うんだ!」
「反抗期なんだよ」
「十年も続けてんじゃねえよ!」
「お父さん! 座りなさい!」海砂がちゃぶ台を叩いた。「光! さっさと手を洗いなさい!」
 その言葉に従って立ち上がるとき、光は心の底から呟いた。
「恐い……」
 食前の祈り、そして食事が始まった。
 今日は昼に、伊勢志摩市の教会に顔を出す予定となっている。
「誰が運転する?」
 ホッケの身を箸で切り分けながら、雅治が尋ねた。少しの沈黙があった。雅治と恵子の目が光に動いた。
「えっ? 私に運転させる気ですか?  やだなあ殺す気ですか」
「お父さん、光は免許取ってないでしょ」
 海砂が言う。
「取りましたよ、向こうで。取ったけど剥奪されたんです」
「ああ、そう……」
「お義父さん、あの、僕が運転しますので」義兄がいささか慌てた様子で口を出す。「光君もまだ疲れてらっしゃるでしょうし」
「光の運転危なそうだし」
 海砂の一言に、光は取り分け皿にサラダを盛りつけながら応じた。
「ははは、一家で大惨事」
「お前はホントに神父かこの不謹慎バカ!」
 伊勢志摩市は階層都市ではない。地上市と地下市に分かれていないということだ。十九世紀末、霊的存在からの国民の保護を容易にするため、堅固な城壁に守られた西洋の城塞都市をモデルとした都市整備が日本中で行われた。物理的な壁はないが、国教である神道の神官たちによる厳重な防御が敷かれている。近隣の深い山々には、修験者たちが潜む。光は山伏を見たことがない。熊野の深山幽谷に分け入り、その聖域や集落に留まっても、会うことは滅多にないという。その存在そのものが、ある種の神秘と見られていた。
 山伏を探すよりは、キリスト教人口〇・五パーセントの日本でキリスト教徒を探すほうが易しい。少なくとも週に一度、町なかの教会に集うからだ。
 伊勢志摩市の教会は小さな二階建てで、敷地の西に司祭の住居があり、東側に信者会館が建っている。土曜日の昼、何の行事もないということで、椙山一家の他に出入りする信徒はいなかった。かつて光が世話になっていた司祭も、とうに異動になっていた。今の司祭は、安田という七十がらみの人物だった。物憂い、どこか神経質そうな雰囲気の男で、一家で挨拶をした後、光は二人きりになる機会を得た。
「今朝、海岸の様子を見回って参りました」
 光は司祭室で安田に切り出した。
「海から来るものへの備えは最低限整っていますね。ですが、肝心の集落の防御が薄いように見えます。どう思われますか?」
 話が終わるまで、家族は一階のロビーにいる。
 安田は眠そうな目で椅子に座り、机の上で指を組んだ。
「噂は本当らしいね」
 微かに笑みを見せた。
「どのような噂ですか?」
「戦闘祓魔師として非キリスト教国に配属された司祭は、聖務防衛その他の情報をバチカンに送ると」
 光は淡く微笑むに留めた。
「私心なくして任に当たる身とは言え、気になるものは気になりますよ。家族が暮らす場所ですからね」
「はぐらかすのもうまいと来た」
 二人はくすくすと笑いあう。
「政府はあれで十分なつもりでね。国家の自給自足率の低下を声高に嘆くわりに、一次産業従事者が暮らす地域への対応はあの通りだ。有権者のほとんどが都市にいては仕方がないとはいえ……」
「なのに、守りの固い都市部のほうが実際に妖魔の襲撃対象とされやすい」
 安田が頷く。
「まったくその通りです。十年前では信じられん。全国どこの都市でも年に二回はSレベルの警報を聞く」
「十年前」
「災厄を覚えているかね」
 それは、光が日本をでた直後に起きた事件だった。
 軽沢という都市にいた七人の女性に、突如、何かが憑依した。その何かは、世界のどの神話や宗教でも語られぬものらしい。
 従って、対処方はない。
 どの宗教の祓い清めにも効果がなかったのだ。
 それが何かはわからない。わからないまま、今もいる。ただ、便宜上、それは『厄神』と呼ばれ、憑依を受けた人たちは『憑依者』と呼ばれていた。
「ええ、もちろん」
「こんな噂があってだね。七人の憑依者が移動する先々で、妖魔の襲撃が起きると」
「どのような根拠があるのでしょうね」
「根拠などありゃしないよ。言いたい人は、そう言うのさ。大体誰が『憑依者』かなんて見てわかるはずないんだから。みんな噂だの、都市伝説だの、迷信だのが好きなんですよ」
「そうだ。迷信といえば」
 光は床に置いたメッセンジャーバッグから漫画の小冊子を取り出した。机の上に置き、そっと差し出す。直美が光の部屋に忘れていったものだ。年長の司祭の目が冊子にそそがれて、眼光が鋭さを帯びる。胸の前でぎゅっと腕を組み、体を前に倒して冊子を覗き込んだ。
「日本では、こういうものがごく当たり前に流通しているのですね。これに関しては十年前と変わらないようです」
「これはどこで?」
「知り合いの伝手(つて)で入手しました。現状を知るにはちょうどよいかと」
 安田は腕組みを解いて冊子を手に取り、最初から最後までめくった。そして光に返した。
「迷信は信仰に取って代わるものではない」鼻でため息をついた。「恋のためだろうと、何だろうと同じだ。こういう安直な手段で、現実を自分でどうにかできるという考え方は……まあ、子供のうちだけで終わればいいんだがね……」
「魔術師や職業魔女に憧れる子たちは後を絶ちませんよ」
 それは、訓練を積んだ魔女や魔術師たちが、対魔戦闘においても実際に力をふるっているからだ。そうでなければ、魔術・まじない・霊媒を禁じるキリスト教は、欧州全土をはじめとする世界でもっと勢力を持ち得たことだろう。
「ではそろそろ」
 光は座ったまま頭を下げた。
「おや。もう帰られますか?」
「はい。明日の朝家族とミサに参りますが、いずれまたお邪魔させてください」
「私のほうが浪越に行くでしょう」
 安田が微笑む。二人は立ち上がった。
「いつでもいらっしゃい」
 光は微笑みを返した。

 ※

 おまじないの本がない。
 気がついたらなくなっていたのだ。
 従兄弟の部屋に忘れてきたのかもしれない。直美はよく覚えていなかった。思わず光の部屋を飛びだしたとき、手に取っていったような気もするし、取っていかなかったような気もする。
 母親に頼んで椙山家に電話してもらおうかとも考えた。椙山家に忘れただけならいい。だがそうでないなら、従兄弟に「君はちゃんと持って帰ったじゃないか」と言われたら、にも関わらずどこにもなく、本がどういうわけだか消えてしまったのなら。そう考えると怖いのだ。誰にも言えなかった。
『魔術は代償を要求するんだ。軽い気持ちでやったからって、代償まで軽くなるわけじゃない。』
 従兄弟の声が、頭の中に重く充満していた。
『重い重い代償を……きっちり支払わされるんだ』
 直美は中身をぶちまけた鞄の前に座り、キャラクターもののビニールの財布や自転車の鍵、これまた漫画雑誌の付録の手帳やカード入れの類に目を注いでいた。昨日使って、洗濯機に入れ忘れたままのハンカチもあった。
 どうすればいいかわからないまま漫然と座り込んでいた直美だが、やがて諦めの心境になると、体を動かして財布や鍵などを鞄の中に戻しはじめた。
 ハンカチを手に取り、部屋を出た。まだ闇を恐れる時間ではない。夜は遠い。階段を下りた直美は、にも関わらず、無意識に廊下の電気のスイッチを探る自分に気付いて驚いた。廊下は暗かった。階段を下りている間に何時間も経ったかのようだ。
 甘い匂いが立ち込めている。オーブンの稼働音がするので、母親がケーキを焼いているのだとわかった。
「直美、あいつ元気ないな」
 テレビのバラエティ番組の音声に混じって、台所と続きになった洋間から、父親ののんびりした声が聞こえた。少し早い反抗期らしく、このところ父親の姿を見たり声を聞くだけで無性にいらいらするのだが、今は聞いていると安心できた。
 両親のところに行きたいが、足は竦んだままだった。この暗さは何だ?
「中川君のことがそれだけショックだったんだろうねえ」
 母親が言う。
「あいつ、でもこないだ何か言ってたぞ。中川君がウザいとかムカつくとか」
「そんなこと言ったって幼なじみでしょう。事故にあってびっくりしないわけないんだから」
 だから、ケーキを焼いてくれているのだ。直美の心を晴らすために。
 足が震えてきた。目の周囲が熱くなったが、涙は出ず、反対に、心は寒々としていた。
「明日、ミサの前か後にお見舞いに……」
 母親の声が闇の中に遠ざかっていく。そしてついぞ消えた。
 耳を澄ませて声を探すことはできなかった。本能が拒否していた。だが、そうする必要もなく、かつ、かつ、という音が、暗がりの中から聞こえてきた。
 大きな爪を持つ生き物が、床を歩いている音だ。
 廊下の長さよりも遠いところから。
 こちらに来る。
 直美は暗がりを見つめながら、ゆっくりと後ずさった。二階の窓から光が注ぐ階段まで戻ると、後ろ向きのまま一段上り、陽光に勇気づけられて、体の向きを変えた。
 廊下に背中を見せた途端、恐怖は耐えがたいものとなった。
 背中を見せて逃げるもの。それは狩猟本能を刺激する。愚かな真似をしている。わかっていた。だからこそ、階段を上りきるまで逃げるのをやめられなかった。
 上りきり、振り向いて、一階を見下ろした。
 暗がりなどなかった。
 子供部屋に駆け込む。戸を閉め、呼吸を整える。南西向きのこの部屋は、家で一番いい部屋だ。両親が直美のために与えてくれたのだ。
 窓の向こう。世界は美しかった。春の日差しは海にも里にも等しく降り注ぎ、山は緑。その緑を背景に、近所の民家の庭先で、子供たちがじゃれあっている。畑は新しい苗が根付くのを、まどろみながら待っている。サギが畑の土をつつきながら歩き、虫をついばんでいる。
 深呼吸したとき、左目に鋭い痛みが走った。
 思わず左手を当てると、掌を睫毛(まつげ)が素早くこすった。
 信じられない早さで瞬きをしている。しかも止めることができない。
 眼球が内側から押し出されるような感触があった。
 右手で学習机の引き出しを開けた。ラメ入りのプラスチック製の卓上ミラーを取り出し、開く。
 鏡を覗き込むと、何か黒いものが映っていた。
 髪だと気付くのに、少し時間がかかった。
 自分の後頭部が映っている。
 鏡の中で後ろを向いている自分も、手に鏡を持っており、呆気にとられた表情が映し出されていた。
 その顔に、さっと影が差した。
 どういうことか、理解した。
 後ろに何かが立っている。
 存在を証明するように、床板がぎしりとなった。
 気がつけば叫びだしていた。
 よく、パニック映画などで女性が金切り声をあげるのを見るたび、大袈裟ではないかと思っていた。大袈裟ではなかったのだ。叫ぶときは叫ぶ。それは止められないのだ。
 部屋から逃げ出すには、背後に立つ何かの横を通り過ぎなければならなかったはずだ。が、気付いたときにはそれを済ませていた。
「直美! どうしたの!」
 部屋どころか、運動靴を突っかけて、家の外に飛びだしていた。玄関口で母が叫んでいる。
「直美!」
 直後、サイレンが鳴り始めた。
 早鐘混じりの低い唸り。大音量で高くなり、低くなり、再び高く盛り上がる。
 警戒レベルS。
 すぐそばに、妖魔がいる警告。
 そして、覆ったままの左目は、痛みを増していくばかりだ。
 陽光と春の美しさが、何を保証するというのだろう。走りにくい。足に突っかけたままの運動靴を、走りながら脱ぎ捨てる。
 直美は坂を駆け下りていた。海へ。息は喘ぎ、心は助けを求めて叫んでいるのに、誰にも見られたくない思いのほうが強いのが不思議だった。
 目が痛い。
 耐えられない。
 何かが出てこようとしている。何か――。
「助けて」
 祈りの言葉なら朝夕唱えている。
 にもかかわらず、口から出てこない。
「助けて、助けて、助けてください、助けて、助けて、助けて」
 荒い息の下、掠れた声で訴えた。
「助けて神様助けて、助けてください! 神様、神様、神様、マリア様、神様、マリア様、マリア様、助けて、助けて――」
 唾をのむ。
「助けてください!」
 民家が点在する小さな村に、もはや出歩く人は誰もいない。直美の声は誰にも聞こえない。
「助けてください、神様、マリア様助けて……憐れみたまえ」
 坂を下りきった。一車線の道路に出る。直美は走り続け、海に出ると、どういう衝動なのかも自分でわからぬまま、堤防に沿って走り出した。コンクリートの堤防を削りだして作った階段に出くわした。
 砂浜へ。
 直美は、自分が海原を目指していること、それは自分の意志ではないことに、ようやく気がついた。
 堤防沿いの車道の真ん中で、椙山家のワゴン車がブレーキをかけた。止まり切らぬ内に、後部座席のドアから光が飛びだした。
 不快なサイレンの中、車は走り去り、光は堤防に飛び乗って、その上を走り出した。流木や海草が打ち上げられた砂浜を、よろめきながら、少女が海へと走っている。
 走りながら、光はカーゴパンツのポケットから銀の懐中時計を引っ張りだした。鎖は長く、時計をそのまま口の前まで持ってこられるほどだった。
 時計の竜頭(りゅうず)の横にある、小さな赤いボタンを押す。時計を裏返した。まもなく、小さなスピーカーから男の声が聞こえてきた。躊躇い混じりの緊張した声だった。
「こちらは浪越司教座聖堂。椙山神父か?」
 間野司教の声だ。時計は、緊急時のみ使用される司教直通の通信装置を兼ねていた。
 浪越司教座聖堂は光の配属先だ。正式な着任はあさってだが、間野司教とは面識があるし、互いに相手をよく知っている。
「緊急。典礼儀礼書がさだめる緊急時の対応ガイドラインにより、ただ今より悪魔祓いの儀を執り行います。場所は位置情報をご参照ください。以上」
 一方的に告げ、通信を切る。
 懐中時計をしまうと、今度は腿のポケットに右手を突っ込んだ。そして、中から木の珠を連ねた数珠(じゅず)のようなものを取り出した。指に絡めて持つそれの先端には、十字架がついている。ロザリオだ。
「主よ、憐れみたまえ」
 直美に注ぐ光の目は真剣だが、特に力んでいるというわけでもない。唇が素早く動き、抑えた声による祈りが続けられた。
「神よ、願わくは我を救いたまえ。神よ、疾(と)く来たりて我を助けたまえ」
 手すりのない階段の中ほどまでくると、そこから砂浜へと身を投げ、着地した。
「聖ミカエル、私をお助けください」
 直美による切れ切れの祈りが、光の耳にも聞こえてきた。
「聖ガブリエル、お助けください、どうか――」
 光は柔らかい砂地を駆けながら、ロザリオを握りしめる。直美は背後の光に気づいていない。光もまた祈り続けていた。
「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、万軍の神なる主。主の栄光は天地に満つ。栄光は――」
 直美との距離は、十歩にまで縮まっていた。そのとき、直美が砂に足を取られ転んだ。波が風とともに来て、直美の手を洗った。
 投げ出された両腕を体に引き寄せ、直美はうずくまる姿勢となった。
「聖ラファエル!」直美が絶叫した。「私を助けてください!」
 その叫びの影で、光の祈りが締めくくられた。
「――栄光は父と子と聖霊に」
 その瞬間、光の心が消えた。助けたいという思い。緊張。ほとんど意識が無になった。両目から感情が失せる。
 胸の内に、白い閃光が現れるのを光は感じた。
 体が勝手に動く。
 ロザリオを握りしめて、右手を大きく振り上げる。
 振り下ろした。
 ロザリオが直美の背中を打ち、十字架が押しつけられた。
 直美の体が緊張で強ばる。小さな背中が弓なりに反れ、首が後ろに倒れる。
 凍る唇と見開かれた目が、光を見上げた。
 黒い涙が左目から流れ出る。
 光のロザリアの十字架が、直美の額に押しつけられる。
「主よ! 主よ、憐れみたまえ! 御身(おんみ)の僕(しもべ)たる椙山直美を癒やしたまえ!」
 直美の体から風が放たれた。浜辺の砂が円形に散り、波に接したその砂は、濡れて形を消してしまう。
 波打ち際にひざまずく直美の体の周辺に、半円形の風紋ができた。
 あたりに、甘ったるく脂っこい腐臭が立ち込めた。
 左目の黒い涙が絶え、直美の体から力が抜け、座り込み、うなだれた。
 犬のようなうなり声が、二人に向けられた。風紋の外側で、二人の周囲を回っている。海に入り、陸に上がり、徐々に範囲を狭めてくる。
 生臭い風が吹いた。二人の髪を乱し、やむ。
 直美が光を振り向いた。その怯えた視線を感じつつ、前方を見据えたまま、光は自信をもって微笑んだ。
「君を助ける」





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Author:とよね
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冷凍オシドリ累計

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