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冷凍されたオシドリとチューリップ人の王国

趣味で書いている小説用のブログです。

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今日も世界は美しい〈1〉





 1.

 電気傘の下で、少女が座りこんでいる。
 カーテンを閉めていた。窓を恐れていた。覗き込む気配がある。
 カーテンの隙間が開いているのかもしれない。
 少女は横目で確かめようとした。
 だが迷い、結局、床に広げた冊子に視線を落ち着けた。少女漫画の雑誌の付録だ。
『ドキドキ☆恋の必勝おまじないマニュアル!』
 少女は十一歳。恋は、まだ知らない。
 梱包用のビニール紐を両手に握りしめたまま、少女は冊子の文面に視線を走らせる。
『紐を用意して九つの結び目を作るだけ! 結び目を作るときには、願い事をしっかり口にしようね!』かわいらしいキャラクターが紐を結ぶイラストがついている。吹き出しの中には台詞が書かれていた。『願いが叶いますように』
 少女は両手をあげる。紐を結びながら、願いを口にした。
「中川君が死んでしまいますように」
 少女の頭上で、風もないのに電気の紐がゆらりと揺れた。
「中川君が死んでしまいますように」
 揺れが大きくなっていく。その振幅が広がる下で、少女は更に紐を結ぶ。
「中川君が死んでしまいますように……」
 その口と、手の動きがついぞ止まった。
 あわせて電気傘の紐の動きも小さくなっていく。
『結び目が九つできたら、好きな人のおうちに隠そう! これでカレの心はあなたのもの!』
 ふと何かを感じて、少女は顔を上げた。
 電気の紐はもう動いていなかった。
 目を手に戻し、結び目を数える。
 九つ。
 少女は立ち上がると、春物のコートを羽織った。夜はまだ冷える。
 部屋の戸を開けて廊下の壁に手を這わせた。照明のスイッチを入れる。廊下の闇は消え失せた。少女は忍び足で、一段ずつ階段を下りていく。一階に着くと耳を澄ませた。両親の声はしない。寝静まっている。窓から差す街灯の明かりを頼りに台所を横切り、勝手口を押し開けた。
 四月とはいえ、夜は冷える。サンダルを突っかけて、滑るように外に出ると、少女はコートの前をしっかり合わせて家の裏の細い坂道を駆け下り始めた。
 どの田にもまだ水は入れられていない。点在する家々は、どれも明かりが消えている。少女は坂道を下りきった。そこに二階建ての小さな民家がある。表札にはこう書かれていた。
『中川』
 その家の裏手に回り込み、少女はずっと握りしめていた紐を塀の向こうに投げた。
 紐はつつじの生け垣に引っかかり、闇にまぎれた。

 ※

 山道を下るうちに、赤松が途切れる。カーブを曲がりきると、眼前に海が開けた。陽光を豊かに照り返す海のそばには、真珠の養殖場がある。海沿いの家々は、養殖会社の従業員の家々だ。
 都市から離れた集落だが、伊勢志摩市の行政区分になっている。農業・漁業区域と都市を結ぶ交通機関は、朝夕に二度ずつ運行されるバス以外にない。都市部のような対魔防衛システムも、当然存在しない。一次産業保護にかかる法案が整備されるにつれて防衛機能も向上しつつあるが、まだまだ、全国どこもかしこもというわけにはいかないのが現状だ。
 都市から離れて暮らす人々を支えるのは、強い自立心と相互扶助の精神だ。
 椙山光(すぎやまれい)を育てたのも、そんな田舎の人々だった。緩やかに下る車道。そのガードレールから段差に向かって身を乗り出せば、二階建ての民家の黒い瓦屋根が眼下で輝いていた。長きに渡り潮の香を吸い込んだその木造の民家こそが光の生家だ。家を囲む塀はない。駐車場を兼ねた広い庭の黄色い砂が、椙山家の敷地を表している。
 庭に、ジーンズに長袖のTシャツ一枚という格好の女が出ていた。髪を茶色に染めているが、頭頂の髪は黒いので、染めてから日にちが経っていることがわかる。忙しくてなかなか染めに行けないのだろう。主婦というのも大変そうだ。その女性の一人息子が庭を動き回っては、公道に顔を出し、きょろきょろと落ち着きがない。確か、今六歳のはずだ。
 前に会ったとき、あの子供は一歳だった。
 五年が経つのだ。
 子供は光の甥だった。
 庭に立つ女性、つまり光の実の姉も、そのたたずまいから歳相応に落ち着きを増したように見える。
 母屋から義兄が出てきた。彼と短い会話を交わした姉は、くるりと後ろを振り向いて、家の上の道に立つ光を見つけた。
「レイ!」手を振って、「レーイー!」
 光も手を振り返した。義兄も笑顔で手を振ってくれている。幼い甥は、庭に立つ母親のもとに戻りながら、どこかきょとんとした様子だった。
 坂を下る間にも、姉・海砂(みさ)の大声が聞こえ続けていた。
「お母さん! 光が帰ってきた!」
 そして、ちょうど光が庭先にたどり着いたとき、開いたままの玄関の向こうからいそいそと母親が出てきた。
 歳は五十代の半ばだが、それよりも若く見える。少なくとも五年前に帰郷したときより老けたようには見えない。
 光は背の低い母親に向かって軽く腰を屈めた。
「お母さん、お久しぶりです」
「あら、まあ」食い入るように息子を見つめる母親は、ますます目を丸くした。「あんたまた親に敬語で……」
 それから思い出したように、
「お父さんを呼んでくるわ!」と、背を向けて家の裏手に駆けていく。「お父さん! お父さんって!」
 何とも言えない愛しい気持ちが込み上げて、光は少しだけ声を出して笑った。
「みんな変わっていませんね、お姉さん」
「光、そんな話し方する必要ないのよ。啓太郎」
 海砂が、隣に寄り添う息子の頭に手を置いた。
「ほら、この人が叔父さんだよ。挨拶しなさい」
 光は二十五歳だった。もう叔父さんと呼ばれる歳なのかと思う。来週小学校に上がる少年は、不審そうな目でじっと光を見上げていた。
 それから、子供特有の高い声で尋ねた。
「おじさん、騎士なの?」
 微笑んだまま甥の表情を観察し、質問の意味を考えた。
 妖魔、悪魔、悪霊(あくれい)。悪霊(あくりょう)、怨霊、物の怪、祟り神。
 呼び名はともかく、人を害する恐るべき存在と、人類は戦いを繰り広げてきた。それは五世紀に始まって、決着がつく気配はない。それぞれの国と地域において行われる、それぞれの文化、それぞれの信仰を用いての戦いだ。それゆえに、世界各国は固有の軍隊の他に、国教となる宗教による非対人戦闘部隊を常駐させている。
 バチカンを総本山とするローマ・カトリック教会常設の対魔戦闘部隊『主の御前(みまえ)の騎士団』も、その一つだった。
 通常の司祭が祓魔師(エクソシスト)としての教育は最低限しか受けていないのと同様、部隊を構成する祓魔師たちも、司祭としての教育は最低限のものしか受けていない。代わりに徹底的に叩き込まれるのが、キリスト教的理解でいう悪魔・悪霊(あくれい)との戦闘法だ。実体を伴い破壊を行う敵への対処法。人間に憑依した敵への対処法。
 教会が定める位階の中で、もっとも殉教率が高いのも、彼ら、実体を持つ悪魔との戦闘に特化した戦闘魔術師(ハイ・エクソシスト)として叙階された司祭たちだ。対魔戦闘で殉死した戦闘祓魔師は、煉獄で過ごす期間が全免償されると教えられる。
 騎士。主の御前の騎士。
 それは、戦闘祓魔師たちに与えられる称号だ。
 光は、幼い甥の前で片膝をつき、目線を合わせて優しく答えた。
「そうだよ」
 非キリスト教国の日本は、カトリック教会による対魔部隊を受け入れていない。
 だから光は日本に帰って来た。『すべての非キリスト教国の各司教区に、戦闘祓魔師を一名配置せよ』という、教皇の命令を実行するためだ。
「これじゃない」と、甥の目が不審から不満に変わる。「お母さん! これじゃない!」
「失礼でしょ!」
 海砂が一喝した。
「あのね、光。この子テレビでしか祓魔師も戦闘祓魔師も知らないの」
「えっ? それでイメージと違うって?」光は立ち上がり、甥の頭に手を置いた。「ははは、酷いなあ」
 確かに、今の光は、ごく普通の若者にしか見えない出で立ちだった。ゆったりしたカーキ色のカーゴパンツに、白い長袖のシャツ。オレンジ色のウィンドブレーカーを羽織り、手には四輪のスーツケースを引いている。靴は安いスニーカーだ。にこやかな顔からは、聖職者、または戦う男らしいオーラは特に感じられない。にこやかな表情のまま甥の頭を撫でてやった。子供が好きなのだ。
 母屋の角から父親が姿を現した。
 日焼けして腹のたるんだごま塩頭の男だ。
「おう、光」
 その目つきも、その口調も、まるで昨日も会ったといわんばかりだった。
 光の肩からも、声からも、力が抜けた。
「何だ。父さんか」
「何だはないだろう、お前。ていうかまた背ぇ伸びたんじゃないか?」
「それはないよ、もう大人なのに。父さんが縮んだんじゃないの?」
 父親は光の前まで大股で歩いていくと、息子の足許から頭の天辺まで視線を這わせ、観察した。
 そして胸に人差し指を突きつけて、こう言い放った。
「かわいくないな、お前!」
「家に上がるよ」
 光は軽く肩を竦めた。
「上がってろ上がってろ! 母さんが茶ぁ淹れてるぞ」それから、「その格好どうにかしろ。ヒヨドリ並みに頭ボサボサだぞ」
 母屋へと歩き出そうとしていた光は、その一言に足を止め、海風に吹かれて乱れた黒髪に手を当てた。
 そして父親を振り返り、ニヤリとした。
「これは頭がボサボサなんじゃなくて、髪がボサボサなの」
 太陽の光がたっぷり差し込む玄関に上がり、三和土(たたき)で靴を脱ぐ。外で父親が「ちぇっ! かわいくねえ」と悪態をついた。
 スーツケースを二階に運び、自分の部屋に横たえる。部屋はよく換気され、ベッドの上の布団も洗濯されたばかりのように見えるが、雰囲気は、光が日本を出た十五歳のときからあまり変わっていない。
「光ちゃん! お菓子があるわよ!」階段の下から母が呼んだ。「下りてらっしゃい!」
 母親の接しかたまで、光が中学生だった頃から変わっていない。時折帰国すると、いつも嬉しそうにはしゃぐ。抑えていても、喜びを隠し切れていない。四つ上の長女にはもう小学生になる息子がいるというのに、長男に対する認識は、十五歳のときからあまり進んでいないのだ。
 それだけ長い間会っていなかったのだ。仕方がないと思う。いまいち自覚が薄いだけで、十年もイタリアにいた。
 菓子は好物のいちご大福で、茶は緑茶だった。「いただきます」と、手を合わせて食べる。どちらも懐かしい、日本の味だった。
「拓実(たくみ)叔父さんがまだ来ていないみたいですね」
 食べ終わった後、食器を重ねながら母親に尋ねた。
「直美ちゃんのね……あ、いいのよ、置いといて。お母さんが片付けるから。直美ちゃんのこと覚えてるでしょ?」
「ええ、もちろん」
 叔父の娘、つまり従姉妹(いとこ)だ。もうすぐ小学六年生になる。
「直美ちゃんと同じクラスの男の子がね、昨日交通事故にあって、夜まで緊急の保護者会があったんですって。その関係でちょっと遅くなるそうよ」
「それは大変ですね。事故にあった子は大丈夫なんですか?」
「それは詳しく聞いてないからわからないけど。叔父さんの家の坂の下に、中川さんってお宅があったの覚えてる?」
「はい」
「その家の子みたいでねぇ。自転車に乗ってたら、畑仕事のトラックとぶつかったみたいで……」
 そこへ、おー、元気だったかという父の声が聞こえてきた。光は母に微笑みかけて軽く頷くと、無言で立ち上がり、団欒の場となっている和室から玄関に移動した。
 父と叔父、姉夫婦が庭で立ち話をするのをよそに、少女が先に玄関にあがり、学校指定の白い運動靴を脱いでいた。
「直美ちゃん?」
 ぼんやりしていた少女は、今初めて眼前の光に気付いたようで、ぎくりと体を震わせた。
 雰囲気が暗い。
 おどおどしている。
 視線はしっかり合っているが、その目は緊張で凍り付いている。
「久しぶりだね」
 光は微笑みながら小首を傾げた。
 最後に会ったときには直美は六歳で、お転婆な少女だった。
 壁に右手をつけ、靴を脱ごうとしたまま固まっている直美に、光は更に言葉をかけた。
「僕のことは覚えてるかな?」
 やっと、直美はぎこちない笑み浮かべ、消え入りそうな声で答えた。
「うん……」
「こいつよう、近所の子が交通事故にあって落ち込んでるんだよ」庭を横切って歩いてきた男が玄関に首を突っ込んで行った。「久しぶりだな」
「お久しぶりです、拓実叔父さん」
 そこへ、新たな客の一団が酒を抱えてやってきた。三人の男と一人の女。
 中学生時代の同級生だ。
 一人が嬉しそうに手を振った。
「スギ!」
 光もすっかり嬉しくなって、満面の笑みで上がり框(かまち)から手を振った。

 ※

 魚を焼く匂い。貝を焼く匂い。野菜を焼く匂い。誰かが焼きおにぎりを作っている。燃え上がる炭の上に醤油が垂れ、じゅうじゅうという音とともに、香ばしい匂いが立ちこめた。
 椙山家の前庭では、近くの親戚や、近隣住民、光の学生時代の友人などが集まって、バーベキューのコンロを囲んでいた。めいめい持ち寄った食材を金網に乗せ、また酒をあけている。
 光は少し離れた場所に設けられた野外用のテーブルに席を取り、瓶に直接口を付けてコーラを飲んでいた。同じテーブルを囲んでいるのは中学校の同級生たちだ。皆、十年経って変わったようでもあり、変わっていないようでもある。
「ねえ、スギもテレビで見るみたいな黒い服着るの? 踝(くるぶし)まである長いやつ」
 長澤が聞いた。かつては女子バスケ部のキャプテンをしていた。今はもうスポーツはしていないという。伊勢志摩市に移り住んで、保険会社の調査員をしているそうだ。
「ん? ああ、あれね。うん。着るよ」
「あれさあ、見た目かっこいいよなあ」
 ビールで顔を真っ赤にした後藤が言う。修学旅行で枕投げをして一緒に廊下に立たされた仲だ。中学卒業後は海洋での仕事を学ぶ専門学校に進んだのだが、海上での事故による心の傷が癒えず、今は農業の手伝いをしているという。
「見たい」と、長澤。
「まだ持ってないよ。教会から支給されるんだ」
「じゃあ神主さんの装束と同じだね」
 光以外の全員が、神道の信徒だった。クラス内には、他に仏教徒が数名いた。キリスト教徒は光だけだった。光以外の全員、キリスト教に関しては、せいぜい司祭の服の見た目がかっこいい程度の認識しかない。
「スギ、すぐ浪越(なみこし)に行っちまうんだろ? 早いよな」
「月曜の朝には向こうにいなきゃいけないからね。日曜日の夕方に出るよ」
「じゃあ、ここにはもう一泊するんだ」
「うん」
 自分の家で、故郷なのに、一泊という言葉を聞くと、旅行にでも来たかのようだ。どこか裏寂しい気分になる。
「おい、光! お前もちゃんと食え」
 いきなり顔の前に紙皿が突き出された。こんがり焼けたコーンと頭がついたままの海老、そしてできたての焼きおにぎり。父の雅治だった。
「ありがとう」
 紙皿と割り箸を受け取った。
「光、お前、帰国してから司教様に挨拶したか?」
「してないよ、朝日本に着いたばっかなのに」国際空港からまっすぐ故郷に帰ってきたのだ。箸を割りながら答えた。「月曜日にちゃんと会えるよ」
「連絡はつくんでしょうね?」
 後ろから寄ってきた母が尋ねる。
「はい。イタリアにいたときから連絡先を受け取っています。何があるかわかりませんからね」
 座ったまま、不安げな母親の顔を見上げた。
「心配しないでください、お母さん。司教様は私にとって父親のような人です」
「オレが父親だ!」
 そんな弟と両親の様子を、海砂は離れたところから見ていた。庭の隅では啓太郎と直美が、去年の夏の残りの線香花火をやっている。夫は二人の面倒を見てくれている。
 弟に関して、海砂には忘れられない記憶があった。
 海砂が十一歳で、光が七歳のときだった。
 夏休み。日曜日。一家は伊勢志摩市の外来宗教受け入れ地区に建つ教会に行っていた。
 九時半からの礼拝の後には、併設の信者会館でコーヒーかジュースが振る舞われる。信徒たちの交わりの時間だ。母がこのサービスの奉仕グループに属していたので、椙山一家は必然的に、その後片付けが終わるまで教会に留まることになる。
 その日、病床にある信徒のためのチャプレットを用いた祈りが、少人数で行われていた。
 直後に起きた出来事があまりに印象的だったので、それがどのように行われていたのかまで記憶に焼き付いている。人間の傷と病を癒やすとされる天使、聖ラファエルに捧げる祈祷だった。
 光は、祈祷が行われる小会議室の戸を細く開け、廊下から中をじっと覗きこんでいた。
 漏れ聞こえる静かな声に打たれ、硬直しているようだった。
 光?
 呼びかけて、歩み寄る。何かおかしなものが見えるのかと、一緒に部屋を覗き込んだ。十人ほどの中高年の信徒が車座になって祈っていた。それだけだった。
 直後、どさりと音を立てて光が倒れた。
 海砂には自覚がなかったが、叫んでしまったらしい。
 祈りが絶え、室内の何人かが立ち上がった。血相を変えた父親が、会館の一階から駆け上がってきた。
 救急車が呼ばれ、光はロビーのベンチの上に寝かされた。熱中症かもしれないということで、両脇に保冷剤を挟まれていた。付き添う海砂が濡れたタオルで額を拭いてやっていた。
 ふと気がつくと、光は目を開けてぼんやり海砂を見ていた。
『光?』海砂は額を拭いてやる手を止め、その焦点の合わぬ目を覗き込んだ。『どうしたの? 大丈夫?』
『ミサさん』
 直後、光が言った。
 今度は海砂が硬直する番だった。
 光の目に光が戻ってくる。
 海砂は強ばった笑みを浮かべ、そっと訂正した。
『お姉ちゃんだよ』
 光は横になったまま、不思議そうに海砂を見上げていた。そのうち確かめるように呟きを繰り返し始めた。
『スギヤマミサ……スギヤマミサ……』そして、『スギヤママサハル……スギヤマケイコ……』
 頭がおかしくなってしまったのかもしれない。それか、弟が弟ではなくなってしまった。海砂は恐怖し、それゆえに、弟の顔に覆い被さるよう身を乗り出した。
『あなたは誰?』
 瞬きし、しばらく黙ってから、光は不思議そうに呟いた。
『レイ……スギヤマレイ』
『違う』答えるというよりは、確かめるようなその口振りに、美砂は思わず否定した。『光じゃない。あんた誰?』
『僕は……』海砂をじっと見つめる目は、何故か悲しそうに見えた。『思い出した』
『何を?』
『誰にも言わないでください』
 海砂は黙った。
 お母さんに言わないで、でも、内緒にしてね、でもない。誰にも言わないでください、とは。光はどこかに行ってしまった。小さい弟、かわいい弟は。
 じきに救急車が来た。一時的な貧血だと診断された。夏の暑さゆえの寝不足が祟ったのだろうと。
 海砂は弟に対してわだかまりを抱えることになった。子供らしく振る舞っている様子を見ていても、どこか、子供を演じているような違和感があった。実際、光は大人びた子だと言われることが多くなった。
 中学校に上がる前には、飛び級が認められるイタリアの高校に行きたいと言い始めた。ラジオ講座でイタリア語を学び始めた。
 本格的にキリスト教を学び、戦闘祓魔師になるという。
 この家を出ていきたいのかとさえ海砂は思った。光が秘密を抱えていることを、海砂が知っているから。
 家系から聖職者が、しかもその花形とも言える『御前(みまえ)の騎士』が出ることを喜んだのは、脳天気な父と、叔父と、当時存命だった祖父だけだった。
 男たちは馬鹿だ。何が『栄えある』御前の騎士だ。戦い血を流して死にゆくことのどこに栄光があるのか。『血と泥にまみれた』の間違いじゃないのか。
 とにかく光は日本を出た。
 遠くに行ってしまった。
 戻ってきても、近くにいても、光は遠い。光は教会のもので、光は神のものだ。命令一つでどこにでも行く。世界のどこでいつ死んでしまっても、文句をつけることは許されない。二目と見られぬ惨たらしい死であっても。それを思うと、胸が張り裂けそうになる。
 夜もいい時間となると、バーベキューはお開きとなった。ゴミをまとめ、入念に火の始末をし、金網を洗う。招かれた客たちも、家族やグループごとに帰っていく。
 その全員に手を振って見送りをしてから、光は自室で荷ほどきを始めた。国際便で送った大量の本や勉強道具が、段ボールに詰められたまま部屋の一角を埋めている。床に直接座り込み、スーツケースを開いたとき、ノックもなく部屋の戸が開いた。
 直美だった。
 二十二時を回っているのだが、眠そうな気配はない。青ざめた顔で、廊下から光を見ていた。
「光兄ちゃん」
 スーツケースから普段着を取り出していた光は、服を床に下ろして微笑みかけた。
「どうしたの?」
「これ……」
 漫画のキャラクターが描かれた小さな冊子を差し出してきた。絵柄で少女漫画とわかる。
「ん?」
 光は立ち上がり、首を傾げて受け取った。
「ねえ、これに書いてあるおまじない、効果あると思う?」
 どうやら西洋の簡単な魔術を子供向けに解説したものらしい。子供向けといっても、案外本格的だ。中には「おまじない」どころでは済まないものもある。
 いつの間にか真顔になってしまった。直美の不安そうな視線を受け、いかにも何でもないというように首を振った。
「これはね、きちんと訓練を受けた職業魔女がやることだよ。この漫画を読んだ普通の子たちがやったって、効果があるとは思えないね」
 笑い混じりで答えるも、直美は浮かぬ顔で俯くだけだった。
「ねえ……光兄ちゃん」
「どうしたの?」
「教会では、魔術とかおまじないをしちゃいけないって教えられるよね。どうして?」
「本当は日本でも資格を持った人以外やっちゃいけないんだけどね」冊子を、積み上げられた段ボールの上に置いた。「やっぱり日本は西洋の魔術に疎いからなあ。子供の遊びだと思ってる。入っておいで。魔術がどういうものか教えてあげよう」
 直美が部屋に入ってくる気配を感じながら、光は大判の冊子を本棚から抜き取った。
「学校では、日本史の授業は六年生からだよね」
「うん。でも塾では始まってる」
「じゃあじきに習うかな。こっちにおいで」
 机の電気をつけると、直美は招かれるまま寄ってきた。
「今から君に見せるものは、絶対に小学校の教科書には載ってない。写真じゃないだけマシかな……でも、気分が悪くなったら、すぐに言うんだよ」
「うん」
「キンサンコって言葉は聞いたことがあるかな? 金色の金、サンは蚕、蛾の幼虫だね。コは、少し難しいんだけど、虫を三つ書いて下に皿。それで金蚕蠱」
 直美は不思議そうな目で光を見上げ、首を横に振った。
「蠱毒っていう、中国から来た古い魔術があるんだ。その魔術の一種だよ。金蚕(きんさん)と呼ばれる虫を飼って、その猛毒の糞を人に食べさせると、その人は死んでしまって、持っている財産が金蚕の飼い主のものになる。だけど、金蚕を飼うには、必ず毎年一人、誰かを殺さなきゃいけないんだ。そんなの嫌だよね。でもこの虫は何をしたって死なないから、飼い続けなければいけないんだ」
 冊子を手に取り、めくり始めた。
「十七世紀のはじめ、今の二都制の基礎になった人間同士の戦争が日本であったんだ。朝澄彦王子(ともすみびこのおうじ)率いる東軍と、朝廷の後ろ盾を得た火荼長苗(ひたながなわ)家率いる西軍がぶつかりあって、そのとき東軍は、火縄銃に金蚕の呪力を与えた弾を使ったんだ」
 そして、あるページを開いて机の上に置いた。
「それがこの結果だ」
 左右のページの上部に、何枚かの絵が並べられている。その絵を観察し、直美は表情を強ばらせた。
 甲冑を着て倒れた武士の右目から、まるで蛹を脱ぎ捨てるように、蛾が生まれ出ようとしている。
 別の兵士は体のあちこちから蛾の触覚をはやしていた。触覚は虫の額にあるものだが、そのようなことには関わりないらしい。そして、顔面には目も口も鼻もなく、蛾に特有のふっくらした腹と尻が、小山のように突き出ていた。
 別の絵の兵士は、体を内側から食い破られて血を流している。
「あまりにも惨いことになった」光は冊子を閉じた。「こうして生まれた虫たちは、賤ヶ岳(しずがたけ)という山に集めて封印されたんだ。誰にもどうにもできなくて、その山は今も忌み地……しかも、第一級禁足地のままだ。無理矢理入ろうとしたら、結界に焼き殺されてしまう。もう誰も金蚕を飼えないようにね。魔術がいかに残酷な結果をもたらすものか、当時の日本の偉い人たちは、みんな思い知ったんだね」
「誰がこんなことをしたの?」
 直美は恐怖に駆られ、尋ねた。
「誰が金蚕の弾を作る技術を持っていたか……。それは、今となっては当の一族と、政府の人しか知らないよ。厳重に隠されているんだ。作り方もね。もう失伝したかもしれないし、それは誰にもわからない。確かなのは、直系はもう残っていないってことなんだ。ひどい……とても君には見せられないくらい、ひどい滅びかたをした。それから長い東西断裂の時代と、断裂鎖国の時代があって……」
 光は冊子を棚に戻した。
「……とにかく、東洋のものでも、西洋のものでも、魔術は絶対にやっちゃいけないってことだけ覚えておいてほしいんだ。黒魔術でも白魔術でも関わりなくね。子供向けの恋のおまじないって書かれていても、悪用できるものはできる」
「したら、滅ぶ?」
「そうなってもおかしくないね」再び向き合い、頷いた。「魔術は代償を要求するんだ。軽い気持ちでやったからって、代償まで軽くなるわけじゃない。重い重い代償を……きっちり支払わされるんだ」
 直美は既に顔面蒼白だった。
「やったのかい?」光は、恐がらせないように優しく尋ねた。「何か思い当たる節があるなら言ってごらん。絶対に怒らないし、誰にも言わないからね」
 そのとき、階段の下から声が聞こえてきた。
「直美、そろそろ帰るわよ!」
 光は目を廊下に動かした。部屋の戸は開いたままだ。
「やってない!」
 直美が叫んだ。
 そして、部屋から飛び出した。





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Author:とよね
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