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冷凍されたオシドリとチューリップ人の王国

趣味で書いている小説用のブログです。

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グッドモーニング、ママ〈3〉




 3.

 薄墨の曇り空が、ルルエの上にあった。太陽は隠れ、雲の薄いところに光が滲んでいた。ダブルベッドの隅で仰向けに横たわり、眠たげに瞬きを繰り返すルルエの枕の周りには、イチョウの葉が散っている。
 ルルエは虚ろな眼差しを窓に向けたまま、手を動かして一枚イチョウの葉を取った。空の手前にイチョウをかざした。髪についていたのだろうか? 服についていたのだろうか? 起き上がり、呆然としながらイチョウの葉を数えてみた。十枚数えたところでやめた。
 怖い夢を見ていた。暗いところにいた。暗さと怖さだけ覚えている。潮が騒いでいた。他に思い出せることはない。レユニは戻ってきていなかった。まだ見つからないのだろうか。昨夜のうちに見つからなかったなら、二度と見つかるまいと思った。
 起きてスリッパを履いた。素足には冷たかった。パジャマの上に服を羽織り、ドレッサー上の櫛を手に取った。髪を二、三度梳いてみたが、気乗りしなくなり櫛を置く。
 部屋を出た。
 三階の廊下を突っ切り、階段を下り、再び二階の廊下を突っ切って、クロエの作業室に行く。誰の声もしない。子供も大人も、眠っているか、とうに起き出してどこかに行ったのか。
 作業室には相変わらず人の気配が立ちこめているようだ。無言の気配の中でイーゼルの前に立っても、黒く塗られたキャンバスに、クロエの姿は見いだせない。
 キャンバスに顔を寄せたルルエは、塗り重ねられた黒の中に、クロエの息を見いだした。その筆運びを見いだした。指の記憶を見いだした。だがそれはクロエではない。クロエの現状を示しはしない。
 諦めることができず、今度は後ずさり、俯瞰しようとした。
 踵が何かを踏んづけた。部屋の後ろの壁を覆う黒い布だった。この布の向こうに何があるのか、ルルエは知らなかった。
 布を払う。シャッと音を立ててカーテンレール上を布が滑り、パーテーション代わりのそれは、奥に隠された物を露わにした。
 スチールの棚に入った画集や古い画材。カメラとスケッチブック。
 一番手前に照明器具があった。三脚に乗せられた黒い箱型のもので、後ろに回り、重力管の蓋の埃を指でぬぐうと、そこに刻まれた紋章で、ギリシャ製の物だとわかった。ギリシャ語はわからないが、紋章はわかる。芸術を司る九人の女神の姉妹の一柱である、叙事詩を司るカリオペの紋章だ。込められた祈祷の力がまだ生きているかもしれない。電源を入れてみた。生きていた。円筒系の青い光がキャンバスに投げられた。
 ルルエは思い立って、窓の黒いカーテンを引いた。部屋は夜明け前の暗さとなった。青い光が満ち満ちて、白くきらめく埃の舞いが照らし出された。照明器具の後ろに回り込むと、果たしてキャンバスに、塗り潰される以前の絵が浮かび上がっていた。
 海の絵であった。
 描いてくれると約束した通りのものだった。下書きを見せてもらったから間違いない。確かにその絵だ。
 崖の下で描いたものだ。左手から中央にかけて海。ごつごつした岩場があり、右は崖。
 何かおかしなものが描かれている気がして、ルルエは目を凝らした。
 岩場の岩の尖りかたがおかしかった。
 何かが上に折り重なって、岩本来の角を消している。
 だらりと垂れた人間の腕が見えて、ルルエは息を止めた。腕の近くには、頭が垂れている。
 一人ではない。
 死者の上に死者が、その上に死者が、更に死者が折り重なっている。体が奇妙に曲がりくねり、何人かはまだ死の苦しみにあるらしく、空に腕を伸ばしている。
 断崖を飛び交うものは、鳥ではない。
 新たに身を投じる人間たちだった。
 そこで、照明器具の動力が切れ、部屋が闇に落ちた。
 ルルエの呼吸に、上擦った声が混じる。それが大きくなっていく。
 ルルエは走って部屋を飛び出した。
 一番近くの部屋の戸を開け放った。誰かに会いたかった。その部屋のベッドには皺が寄り、誰かが抜け出したままになっていた。
 その隣の部屋も同じだった。
 すべての部屋がそうだった。
 ルルエはスリッパのままホテルを飛び出した。
「誰か!」
 通りに飛び出した。
 秋の涙は尽きようとしている。街路を染めるイチョウの葉々は、踏みしめられて茶色く汚れていた。
「誰か来て!」
 誰も来ない。応じる声もなかった。ルルエは銀杏並木を走り出す。曇天の使者が吹き抜けた。走りにくい。スリッパを投げ捨てた。通りには脱ぎ捨てられた様々な靴が散乱していた。
 臨海公園に着いた。
 何も植えられていない花壇の土に、無数の足跡が刻まれていた。すべての爪先が、海を目指していた。
 公園の奥の崖では、ロープの張られた杭がすべて、海に向かって傾いていた。
 ルルエは上着の前をあわせた。
 何も見たくなかったが、見て確かめずにいられなかった。
 いよいよ杭が近付くと、ルルエは立ち止まった。崖を恐れ、海を恐れ、今日という日を恐れた。それでも見ぬことの恐怖に負け、腹這いになった。両腕を交互に前に出し、前進する。石畳に積もった砂に、ルルエの移動の跡がつく。
 ついぞ崖についた。
 地面がなくなる場所に、ルルエは右手の指をかける。それをとっかかりに、体を崖に引き寄せた。頭が杭で渡されたロープの下に頭が入り、目は崖下を覗き込んだ。
『もしも人間が』
 潮騒が、曇天の下で渦を巻くように響いていた。
『私たちが教えられた通りの存在なら』
 海は、少し荒れていた。大きな波のてっぺんは、岩のようになめらかで、平らで、それが本物の岩にぶつかると、跡形もなくなってしまう。
『人間が、私が思っているようなものなら』
 それでも波は、次から次へと押し寄せてくる。岩を洗い、いつか、砂礫に変えるために。
『たくさん殺そう――』
 岩を洗った波は、黒ずんだ色に変じる。
 赤い泡が立った。水面に長い髪が揺れていた。割れた頭が首を仰け反らせて髪を海に浸し、ねじ曲がった幾つもの腕や足がそれにならっていた。あるいは全身が海に浸り、揺れる波にあわせて岩から遠ざかり、また戻ってきたりしていた。
 死者の上に死者が、その上に死者が、更に死者が折り重なっていた。
 右を見ても、左を見ても、視界の果てまでそうだった。
 ルルエは腹這いのまま後ずさった。崖下の様子が見えなくなっても、その姿勢で後退し続けた。
 素足が花壇の煉瓦に触れ、ようやく体を起こした。黒い長い髪は砂まみれで、黄色くなっていた。
 しばらく座り込んでいた。やがて、目と口をぽかんとあけたまま、ホテルへ引き返し始めた。
 誰にも会わなかった。
 戸が開いたり閉まったりする音や、路地でビニールを動かす音がすれば、ルルエは立ち止まった。すべて風の仕業だった。
 ホテルまで戻った。
 何気なく、路上から二階を見上げた。クロエの作業室に、黒いカーテンがかかっている。
 ふと、そこにある絵のことを思い出した。
 描かれたものを。ルルエは見た。ルルエは見た。見たのだ。
 目に光が戻って、ルルエは口を両手で塞いだ。そのまま、舗道に両膝をついた。
 秋の涙の最後の一葉がルルエを洗う。かさりと。
 直後、長く鋭い悲鳴がルルエの口から放たれた。





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