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冷凍されたオシドリとチューリップ人の王国

趣味で書いている小説用のブログです。

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黄昏、星が墜ちる〈2〉




 2.

 日野明奈の一日は、午前四時から始まる。夏はとうに終わり、秋の朝は遅い。肌寒くなってきた。眠る晶を跨いで押入まで行くと、中から畳まずに突っ込まれたしわくちゃの服を取り出し、着る。
 それから牛乳配達だ。
 配達の途中、パン屋の裏口で廃棄のパンを拾うのも日課のうちだった。二時間かけて営業所の自転車で家々を回るのだが、このささやかな稼ぎも十分の一献金の対象とされていた。十日に一日がただ働きだ。馬鹿らしくてならない。
 朝日が地上市の道路の影を濃く落とし、その影と朝の光を交互に浴びながら営業所に帰る。目覚め始めた家々の生活の音、トーストの匂い、味噌汁の匂いを嗅ぎながら家に戻っても、晶はまだ布団でうとうとしているのだ。そして母親はというと、シフトのない日は抗鬱剤をのんで、一日寝ているのが常だった。
 拾ってきたパンを朝食として晶に食べさせ、服を着せて学校に行かせるのも明奈の仕事だ。ただ、二学期になってからいじめが激化しだしたらしく、七時半にもなると「行きたくない」とぐずり出す。以前、力づくで家から放り出そうとしたら大泣きして柱にしがみつかれ、母親には金切り声で「うるさい!」と叫ばれ、隣室の住人からは怒りを込めて壁を殴られたことがある。以来、学校に行かせていなかった。
 そんな晶を明奈は情けなく思っている。クラスの馬鹿どもなんか殴ってやればいいのに。血を見れば黙るのだから。明奈はそうしていた。今ではたまに学校に行っても話しかけてくる者はいない。緊張をもって遠巻きに眺められるだけだ。
「学校に行かないんだったら、家のこと手伝えよ。洗濯はお姉ちゃんが干すから、夕方に取り入れてしまうのはお前の仕事な」
 こう言うと、充血した目に縋りつくような光を湛えつつ頷くのだった。その間にも、母親は台所に背を向けて寝ている。布団の隣のちゃぶ台には、寝る前に読んでいたらしい復元教会の『真理書』、そして聖書が置いてある。明奈はそれに、唾でも吐きつけてやりたいくらいだった。なにが愛だ。馬鹿にしやがって。
「明奈ぁ」
 そのうちに、母親が呼ぶ。
「今日はフジイ薬局のセールだから……行ってきて……」
 一時間後には、明奈は晶と薬局のレジにいる。安売りのトイレットペーパーと、インスタント食品、母親の生理用品や洗剤の類を手に提げて帰宅する。
 それらを片付けているときだ。インターホンが鳴った。
「こんにちはぁ。軽沢市役所児童福祉課のサワタニと申しますけどもぉ」
「帰れ!」
 ドアの向こうにいる女に、明奈は怒ってドアを蹴る。
「帰れ! 困ってなんかない! 大きなお世話だ!」
 それを、サワタニとやらが帰るまで繰り返す。
「お節介! バーカ! そんなに人助けがしたかったら、金くれよ!」
 金。ああ、金! 金さえあれば、お母さんはちゃんとした病院に行ってよくなるのに。金さえあれば、ゴミを食ってるとか服が汚いとかで馬鹿にされなくてすむのに。
「お姉ちゃん、お姉ちゃん」
 サワタニが帰った後、風呂用の洗剤を容器に詰め換えながら晶が尋ねる。
「さっきのお姉さん、こないだ来た時優しい人だったよ」
「騙されんなよ、お前」明奈はきっぱり言って睨みつける。「あいつらはお母さんを取り上げるために来てるんだ。お母さんを取り上げられたら、もう二度と会えないんだよ!」
「やだ!」
 それから、朝拾ってきたあんパンを晶と共に食べる。口の中は口内炎だらけだ。どこで物を噛んでも痛い。
 それから、疲れを感じて子供部屋で横になる。
「明奈ぁ」
 隣室の母が呼んでいる。
 明奈は何もかも嫌になる。こんなとき、母親さえも嫌いになる。嫌ってしまったことで自己嫌悪に陥ることはわかりきっているのに。
「明奈ぁ」
 声が大きくなっていく。明奈は寝たふりを決めこむ。母親が手で畳を打ち叩き始める。ちゃぶ台の物を落とし始める音。晶がぱたぱた走ってくる。
「お姉ちゃん、お母さんが呼んでるよ!」
 ここで我慢の限界が来る。
 明奈は跳ねるように起き上がると、晶の頬に平手打ちをする。乾いた音が鳴り響く。
「いい加減にしろよ! 他人事みたいに! たまにはお前が聞いて来い!」
 晶は責め立てるような目で明奈をじっと見てから、隣室に駆けて行く。
「お母さん、お姉ちゃんがぶったあ!」
 いらいらする。
 どいつもこいつも消えればいい。
 朝起きて、世界中の人間が消えていたら、どんなに清々しいだろう。自分一人だけの世界に行きたい。それか、世界から自分一人だけが消えてしまえばいいのか……。
 晶が戻って来る。目にいっぱい涙を溜めて訴える。
「お姉ちゃん。お母さん、お姉ちゃんじゃないと駄目だって……」

 ※

 四時からは、ミヨシ商店のタイムセールが始まる。歩いて十五分ほどの距離にある食料品店だ。明奈はそれに行かなければならなかった。
 三時半過ぎに、家の玄関を出たときだった。
 アパートに向かって道を渡ってくる砂川夫妻の姿が目に映った。砂川はまっすぐ明奈を見つめながら、道を渡りきり、ちょっとした階段を上って、アパートの廊下に上がり込んだ。相変わらずニコリともしない。そのまま玄関の前で固まっている明奈の前まで歩いてくると、抑えた調子で言った。
「お母さんはいるね?」
 尋ねたのではない。黙らせたのだ。返事をせず、じっと立っている明奈の前で、砂川は勝手に扉を開けた。意味のない微笑を浮かべる砂川夫人も、明奈を見ようともせず後に続く。
「日野さん! ちょっとお邪魔しますよ」
 当たり前のように家に上がり込んでいく。奥で母親が起き上がるのが、布団の音でわかった。明奈を外の廊下に残したまま、玄関扉が閉まる。明奈は迷った末に、家の中に戻った。砂川の黒光りする革靴と、砂川夫人の灰色のブーツが当たり前のように玄関口にあった。
「ですから、断食献金ですよ」
 母親は、敷き布団の上に座り込み、肩にかけ布団をかけている。そして砂川に、「うー」とも「んー」ともつかぬ返事をしていた。
 教会の掟では、第一日曜日は断食の日と定められている。昨日だ。断食によって浮いた食費は、教会に納めるよう推奨されていた。義務ではない。だが、それは十分の一献金が義務ではないのと同じことだ。つまり払えということだ。
 魂の抜けた顔をしている母親に、砂川夫人が窘めるように声をかける。
「日野さん。前を見て、お話しましょ」お話ができる状態ではないと、見てわからないのだろうか。明奈は母親の部屋の前まで戻っていく。こいつら、つくづく頭が悪すぎる。だが、そんな明奈の思いに関わりなく、夫人は語りかけを続ける。「ねえ、ちゃんとしようよ」
「明奈ちゃん」
 いきなり、砂川が座ったまま明奈を見上げてきた。
「昨日、断食をしたよね?」
 明奈は反感を込めて唇を結んだまま、首を横に振った。
「断食をしなかったのかな?」それから、「どうして?」
 なお黙っていると、砂川は埃まみれのちゃぶ台の上の『真理書』を手に取った。教会が独自に使っている教典だ。教会内では聖書以上に大切にされている。立ち上がり、明奈の前まで歩いてくると、左手で明奈の右手をつかんだ。そして、手を胸の高さまで上げさせて、『真理書』を押しつけるように明奈の手に乗せた。
「『真理書』は読んでるよね?」
 直後、『真理書』は明奈の手を離れ宙を舞った。それは砂川の横を掠め、みきの部屋の隅で口を開けている、軽沢市指定の可燃ゴミのビニール袋の中へときれいに着地した。
 砂川は無表情でその軌跡を見ていた。そっと明奈から離れ、一杯になったゴミ袋の前で身を屈め、『真理書』を取り出した。
 それは、パン屋の裏口から拾って食べたウィンナーロールの包み紙の上に落ちたらしい。白い表紙にケチャップがついている。砂川は顔をしかめ、ハンカチを出してケチャップを拭った。赤い長いしみが残った。『真理書』を左手に持ち、明奈の前まで戻ってくる。
 そして、昼頃明奈が晶にしたように、明奈の顔に思い切り平手打ちをした。
 左の頬が痺れ、顔が右に振れた。
 暴力は続かなかった。
 明奈が睨みつけると、砂川の目がその視線を待っていた。大人の本気の悪意と憎悪が、そこに満ちていた。
 その音は、日野みきの、母親としての本性を僅かに刺激した。
「うちの子に何するんですか?」
 思ったより強い口調だった。明奈はそれを聞き届けると、踵(きびす)を返し、家から飛び出した。
 外からの光がほとんど入らない暗い台所に、晶が一人残された。不安と怯えに包まれて、所在なげに立っている。
 砂川が、今度は晶の前まで歩いていった。
 スーツの内ポケットから札入れを取り出す。
 千円札を一枚抜き、明奈にしたのと同じように晶の手を取って、それを握らせた。
「これで、外でお姉ちゃんと遊んできなさい」
「子供にお金を渡さないで!」
 千円札の紙触りと、重ねられた手の皮膚の固さを感じながら、晶は砂川の目の底なしの黒さに立ち竦んでいた。
 動けるようになったのは、砂川が後ろを向いたからだ。
「たかだか千円のことで大袈裟な……」母親のもとへ戻っていく。「それより、明奈ちゃんが何をしたかわかってるんですか?」
 もう家にいたくなかった。晶はすべてを振り切るように、外へと飛び出した。玄関扉が閉まりきるまで、砂川の声が聞こえ続けた。
「甘やかしてるんじゃないよ! あなたが病気だとかウツだとか甘えてるから子供がああなるんだよ! なに平日の昼間から寝っ転がってんの? だからお金がないんでしょうが。働けよ。働きなさいよ!」
 地上市から落ちる光と影の中を、晶は走り抜けていく。アスファルトの道路。左右の建物。一階が病院や商店で、二階以上が住居になっている。
 晶は夏物のサンダルのままだった。春に履いていた運動靴は、もう小さくて履けないのだ。冷たい風が足の指を冷やしていく。右手には、千円札を握りしめたままだった。いらないと言えなかったのだ。突き返せなかった。
 横長の集合住宅の一階、薬局、個人病院、古書店、靴屋、おもちゃ屋、婦人服屋、うどん屋を通り過ぎ、角を曲がって行く晶の姿を見ている者がいた。
 信号待ちの車の助手席から、真為が叫んだ。
「晶ちゃん!」
 その声に気付かずに、晶は姉を求めて駆けていく。
 明奈の居場所には見当がついていた。商店街の中心地、採光広場だ。その上には地上市の道路が造られておらず、頭上にぽっかり空間が開けている。採光広場へ向かう道には、桜並木が作られている。
 桜並木の始点、明神通り商店街の東の端にたどり着く。降り注ぐ道路の影が消える。鋭い夕日が差す時間は終わりを迎え、空は藤紫に変じていた。桜の植木と交互に立てられた街灯が、晶の行く先を示すように、白く点り始める。
「お姉ちゃん?」
 採光広場に着いた。煉瓦作りの円い広場で、中央に、大きな時計が立っている。時計の足許には煉瓦の円いベンチが据えられている。
 明奈はベンチに座り込み、両膝の上に両肘をつき、手に頬を当てて行き交う人々の足を見ていた。
「お姉ちゃん」
 街灯が、明奈を斜めに照らしている。晶は何を言っていいかわからず、ただ不安で、姉を恐れつつも姉を慕ってその隣に座った。
「帰れよ」
 明奈が不機嫌に呟く。晶は沈黙したが、やがて沈黙に耐えきれず答えた。
「お姉ちゃんと帰る。お姉ちゃんはいつ帰るの?」
「あいつらがいなくなったらな」
 晶は頷いた。
 衝動的に家を飛び出した明奈は、大概ここに来る。見つけに来るのはいつも晶だ。母ではない。
 低い、不気味なサイレンの波が、商店街の奥から押し寄せてきた。わざと人を緊張させるために作られた、嫌な音だ。
 遅れて、地上市でもサイレンが鳴り始めた。
「ねえ……」
 晶にぴたりと身を寄せる。明奈は突き放すように応じた。
「いつものことだよ」
『緊急、重力波変調速報。緊急、重力波変調速報』
 機械音声のアナウンスが、サイレンに重なった。商店街の人々が、一斉に足を止める。採光広場にいる人たちも、その場に立ち尽くすままとなった。
 続くアナウンスは、人間の女性の声だった。
『緊急。軽沢地下市南十一番町神明社前観測装置が、中規模の重力波変調を捕らえました。警戒レベルC。警戒レベルC。屋外を歩いている人は、警報が解除されるまで、近くの建物に避難してください。屋内にいる人は、そのまま待機してください。繰り返します――』
 恐い恐い化け物に、重力子は姿を変えるという。重力波変調はその前兆だ。晶はまだ化け物というものにお目にかかったことがない。何が来るのだろう。牙が生えたものだろうか。目が光り、空を飛ぶものだろうか。晶の頭には、絵本で読む鬼や天狗のイメージしかなかった。
 大人たちは動かない。固まって、空を見上げている。
 何かが起こると知っているのだ。
『警戒レベルC。警戒レベルC。屋外を歩いている人は……』
 そのとき、サイレンがやんだ。アナウンスの声もやんだ。
 明奈が、息をのむ音と共に勢いよく顔を上げた。
 サイレンの音量が、先ほどとは比較にならないほどに跳ね上がり、姉妹の体を打ち据えた。今度のサイレンには早鐘の音が混じっている。
 晶は明奈の細い腕にしがみついた。
 一年生の時に、学校で教わった。
 早鐘混じりのサイレンが示すのは、警戒レベルS。
 すぐそばに、人ならざるものが、魔性のものが、いるという告知だった。
 誰か、大人の男の人が悲鳴に近い驚愕の声をあげた。空を見上げる大人たちが、一斉に同じ声をあげ始めた。
 逃げなければならない、という知識はあった。だが、走り出すことはおろか、立ち上がる気にもなれなかった。頭の大部分が鈍磨し、鈍磨していない僅かな部分は、現状を受け入れていなかった。
 何も起きてなんかいない。だって、大人たちは誰も逃げない。お姉ちゃんが言うとおりだ。いつものことなんだ――。
 空を見上げた晶は、藤紫の空に輝く白い光を見た。
 拳ほどの光点だったそれが、一瞬で巨大化し、視界を白く塗りつぶした。
 たまらず目を閉じた。
 直後、体の上に、冷たいものが落ちてきた。
 何かが自分の上に乗っている。
 わかるのはそれだけだった。重みに耐えかね、うつむいた。背中を屈め、膝の上に置いた両腕に額をつけた。
 それは冷たかった。
 頭を、肩を、背中を、強い力で押してくる。
 押しているのではなく、入ってきているのだとわかったのは、その冷気が体内に染み渡るのを感じたからだった。
 嫌だ。嫌だ。晶は拒む。お姉ちゃん! お母さん! 声は出ず、冷気は拒否の意に反して頭の中に、体の奥底に、深くしみていく。
 一瞬、意識を失った。
 それと同じくらい唐突に、意識が覚醒した。
 背筋を伸ばし、顔を勢いよく上げた。体がふらつき、ベンチから滑り落ちて煉瓦の地面に倒れた。腕をつき、体を少し起こした途端、晶はその場で嘔吐した。
 昼に食べたあんパンの欠片が胃液と共にぶちまけられた。冷気も重圧も、もうなかった。消えたか、そうでなければ、すべて自分の体の中に入ってしまったか、だ。
 うめき声が聞こえた。
 ベンチからずり落ちた明奈が、頭を抱えてしゃがんでいた。
 その明奈が顔を上げて、晶の無事を確かめた。それから慌てた様子で周囲を見回し始めた。
 つられて、晶も周囲の様子を見た。
 救急車、救急車だ! と、誰かが声を上げている。サイレンは収まっていた。人々の足の間に、姉や自分と同じようにうずくまったり、しゃがみこんでいる人たちが見えた。
 大人が二人。
 中学生くらいの、お姉さんと呼べる年頃の人が二人。
 晶と同い年くらいの女の子も一人いた。
 自分と姉を合わせれば、七人だ。
 全員女性だった。
 訓練と違って、誰も逃げようとしなかった。座り込んでいる人たちの背中を撫でさすり、助け起こそうとしている。晶と明奈のところにも、大人たちが寄ってこようとしていた。
「晶ちゃん!」
 そこへ真為が飛びこんできた。晶の前に両膝をついたと思ったら、その胸に晶を抱きしめた。
「明奈ちゃん」よほど懸命に駆けてきたのだろう。息を切らし、顔が真っ赤で、前髪が汗で額に張りついているのを明奈は見た。真為が視線を合わせてきた。「大丈夫? 何があったの?」
「わからない」
 明奈は吐き気を堪えて答えた。立ち上がろうとする。膝が震える。それでも立った。
「何が起きたか見てくる」
「明奈ちゃん?」
「空から落ちてきた。何か……上に行けば……わかるかもしれない」
「明奈ちゃん、待って」
 晶を放して立ち上がる真為に、明奈は鋭く言いつけた。
「ついて来んな!」
 胃液が喉までせり上げてきた。体は冷たく、重い。真為が竦むのを見て、気まずくなって付け足した。
「晶を見てて」
 ふらつきながら歩き出す。おい……と、大人の一人が遠慮がちに声をかけてきた。だが、何かただならぬものを感じるのか、引き留めようとはしなかった。
 できるだけ早足で、地上市への傾斜路(ランプ)を目指した。遠くはない。商店街の北へ二つほど区画を抜ければ、そこが地上市への道だ。
 幾重にも折れ曲がるアスファルトの傾斜路と、傾斜路の間の段差に取り付けられた階段。それが通路だった。早足で動くうち、体の違和感にも慣れてきた。やがて吐き気も収まってきたが、階段を駆け上がるうちに、だるさが押し寄せてきた。ひどい倦怠感で、地上市にたどり着く頃には足がふらつき、息も上がっていた。
 まだ明るい地上市、薄暮の地上市を、あてどなく歩いた。
 小学校に行き当たった。
 校庭では、児童たちが野球に興じている。
 遊んでいるのだろうか。それか、試合があるのだろうか。
 涙が出てきた。
 悔しかった。
 どうして、あそこにいるのが自分ではないのだろう? 誰にも遠慮することなく、他に気を取られることもなく、小学校で楽しく過ごしているのが、どうして自分や晶ではないのだろう?
 地上市のことなら多少は知っている。ここは外来宗教の受け入れ区画だ。復元教会に通わされている関係で知っている。教会への道もわかる。
 地下市の、採光広場の真上に来た。そこから覗き込むと、大時計と煉瓦のベンチ、そして人々と、真為と、晶の姿が見えた。
 空を見上げた。何もなかった。空を狭める左右の建造物の壁が、早くも夜に染まっている。
 どうすればいいかわからなかった。何もあてはなかった。
「お母さん」
 無意識に呟いていた。
 明奈は地上市の道路を渡り歩く。家を見下ろせる位置を知っていた。果たしてその場所にたどり着き、建物と建物の間に架けられた歩道から自宅を見下ろした明奈は、そのまま絶句した。
 軍の車両がアパートの前に停まっていた。
 交差された二本の榊に、翼を広げた鶴の紋様。
 聖務防衛軍。
 そのときから、明奈の行動は逃走に変わった。逃げなければならない。何故? 理由はわからないが、直感は逃げろと叫んでいた。晶。晶はどうなる? もう会えないのだろうか。
 またも涙が溢れてきた。今度は後悔から。晶。晶。ああ、どうしてもっと優しくしてやれなかったのだろう。
 外には誰もいなかった。誰もみな、建物の中か、車の中にいるのだ。車道の信号はどれも赤で、車は動かない。
 地上市で唯一知っている場所に、そして、もっとも嫌っている場所に、足が向かっていた。そこしか行ける場所がなかった。
『復元された真理の教会』軽沢支部へ。
 気付けばそこにいた。公民館だった建物を借り上げ、教会にしているのだ。横開きの玄関扉を開けた。抵抗なく開いた。靴を脱ぎ、スリッパも履かずに上がり込む。
「大丈夫よお。私たちは。神の恵みを頂いてるんですもの」
 伊丹夫人の声だ。玄関をあがってすぐ左が、教会のグループ活動会で使われる八畳の和室。右がキッチンシンクを据えた小さな洋室で、奥の一番大きな部屋が礼拝所だった。伊丹の声は礼拝所から聞こえた。
 廊下と礼拝所の間は、細いすりガラスが一枚はめ込まれた木の戸で仕切られている。
「でも、熱心でない人はわかんないわよねえ。日野さんとか」
 そうそう、と別の誰かが相槌を打つのを聞きながら、そっと戸を開けた。
「日野さん、最近調子乗ってますもんねぇ。このままじゃ近いうちに天罰が下るんじゃないかしら?」
 戸が完全に開いた。明奈は、折りたたみテーブルを広げて向き合う三人の女を見た。
 伊丹は明奈の正面に座っていた。
 少しだけ、顔を明奈に向けたように思う。
 だが、張りついたような笑顔のまま下を向き、『真理書』をぱらぱらめくり始めた。
 明奈に背を向けている二人も、気配に気付いているのかいないのか、決して振り向かない。
 後ろで玄関扉が開いた。
「ちょっと失礼しますよ!」
 有無を言わせぬ男の声。複数の足音が、廊下に上がってきた。
 伊丹はやっと顔を上げた。
 笑顔は今にも崩れて泣き顔になりそうだった。頬の肉がひきつり、唇が戦慄(わなな)いているのが明奈の目にも見える。
 男たちの足音が、明奈の背後で止まった。ほどなくして重い手が、優しく右肩に置かれた。
「日野明奈ちゃんだね」
 何故ここに来たのかと、明奈は自分に尋ねてみた。捕まりに来たのか。誰かが助けてくれると思ったのか。
 頷いた。
「少し、おじさんたちと来てもらえるかな」
 ここでようやく振り向いた。
 聖務防衛軍の、白い士官の制服。明奈には階級などはわからないが、胸に輝くバッジや肩の房飾りなどを見て、高い階級にある人ではないかと思った。その男は六十前後に見えた。後ろには、一目で兵士とわかる若い男が二人いた。
 肩に手を置く男の目が案外優しそうだったので、明奈は尋ねてみた。
「何が起きたの?」
「わからないんだ」士官は低い声で答えた。「だから、君に協力してほしいんだ」
 明奈はすぐには答えずに、目を前に戻した。
 伊丹がふらりと立ち上がる。厚化粧に隠れていても、青ざめているのがわかった。あとの二人も首を少しだけ後ろに曲げ、様子を見ていた。
「おばさん」
 明奈は静かに問いかけた。
「私が来てたこと、気付いてたね」
 伊丹はほとんど反射的に首を横に振った。
「いいえ、明奈ちゃん。今気付いたのよ。今さっき――」
 言葉が消える。今度は明奈が首を振る番だった。
「ううん、絶対気付いてた」
 ゆっくり後ろを向きながら、明奈は最後まで伊丹を見続けた。
 それから士官を見上げ、諦めの意を目で見せた。
「怖がらなくていいんだよ」
 二人の兵士が無言のまま玄関を向く。
「明奈ちゃんのためにやることだからね。放っておいたら、何かとっても恐いことが起きるかもしれないんだ」
 明奈は黙って兵士たちに続いた。明奈を守るように、士官が一番後ろを歩いた。
 廊下にはすぐに誰もいなくなった。
「違うのよ」
 電気はついていない。
 部屋からは、廊下は真っ暗に見えた。
「明奈ちゃん、違うの」
 伊丹の弁明が廊下に吸い込まれていく。
 違うのよ……。
 車のドアを閉める音が、外から聞こえた。
 明奈を乗せたその車が、どことも知れぬ所へと、遠ざかっていった。 





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Author:とよね
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