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冷凍されたオシドリとチューリップ人の王国

趣味で書いている小説用のブログです。

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黄昏、星が墜ちる〈1〉




 1.

 今月は断ろう。断らなきゃ……。
 日野みきは勤務先の青果市場の給与明細をマガジンラックに突っ込んだ。電気代の振込用紙と水道代の振込用紙、各家庭の宗教を問わずに支払いを義務づけられた地域の共同祈願奉納料の督促状、そうしたものの中に給与明細は埋もれた。下の娘の絵本が二冊、置き型のマガジンラックの中で壁の役目を果たしており、その壁に挟まれる形で、その他種々の振込用紙が乱雑に突っ込まれていた。この、明らかに支出が収入を上回っている状況。どうにか説得しなければ、とても生活していけまい。
 インターホンが鳴った。みきは畳の上に直接座り込んだまま、身動き一つしなかった。座布団はない。肘をつくちゃぶ台には埃が積もっている。そのときになって、客のための茶も用意していなかったことに気が付いた。後悔したが、もう遅い。隣の子供部屋の襖が開き、娘が玄関を小走りで横切っていく。足音で、下の娘だとわかる。仕切り戸を開け、玄関の鍵を回す音が続く。
 みきの部屋の襖が開き、上の娘が姿を見せた。みきは更に、この部屋が汚すぎることにも気が付いた。レトルト食品や弁当の空き容器を詰め込んだビニール袋が四つ転がっている。その周りには丸めたティッシュ。ごみ箱は溢れ返り、先端が茶色く汚れた割り箸が飛び出している。ここは公営住宅の一階で、窓の外には小さな庭がある。庭には女ものの下着が干したままだ。とても客を通せる状態ではない。何故今まで気にしかなかったのか……。
「お母さん」上の娘、十歳の明奈(あきな)が呟いた。その瞳は嫌悪に覆われていながら、何も直視していなかった。「あいつが来た」
 明奈は髪を短く切っているが、あまり風呂に入らないせいで、脂っぽく見える。穴が開いた服を平気で着ている。自己嫌悪、貧しい者への嫌悪が娘に投射され、みきは瞬間的に、明奈をほとんど憎悪した。そうしている間にも、玄関扉のノブが回り、他者の気配が狭い公営住宅の一室に流れ込んできた。
「晶(あきら)ちゃん、こんにちは」砂川の声がした。嫌な男だと思っている。「お母さんはいるかな?」
「いるよ、お母さんの部屋!」
 七歳の晶は、大人を嫌うことをよく知らない。まだ甘えていたいのだ。晶の透明な声の後、声の主が勝手に上がり込むのが物音でわかった。
「では、お邪魔します」低く囁く女の声。砂川の妻だ。「それじゃ、お邪魔します」別の女。伊丹(いたみ)夫人の声。それに、二つの若い女の声が続いた。「お邪魔しまぁす」
 果たして五人の来客が、台所をまっすぐ横切って、みきの部屋の前までやってきた。
 先頭に立つ、眼鏡をかけた初老の男と目があって、みきはようやく緊張し始めた。『復元された真理の教会』、通称復元教会の軽沢(かるさわ)地区の地区会長、砂川だ。彼は一礼して部屋に入ってきた。みきを見る目には、ほとんど何の感情もない。誰を見るときもそうだ。
 秋物のスーツを着た砂川が、ちゃぶ台を挟んでみきの正面に座る。向かって左隣に砂川夫人が正座した。化粧けのない女だ。その隣に伊丹夫人。一年前、みきを復元教会に――カルトと噂されるその教会に、実際に欧州のある国ではカルト指定を受けている教会に――勧誘した女だ。背が低く、厚化粧。いつでも騒々しい。砂川の向かって右隣には、おまけでくっついてきた婦人部の若い女が二人。
 晶が玄関口から小走りで戻ってきて、部屋の入り口に立っている明奈の横に並んだ。
「明奈、晶……」晶の身なりも、明奈と似たようなものだ。みきは二人にどこかに行って欲しかった。「お洗濯を取り入れて、お片付けしてちょうだい」
 晶はすぐに返事をして、隣の子供部屋に入っていった。窓を開ける音のあと、気配が庭に出て行く。だが明奈はぞっとするような冷たい目で、その場に立ったままでいた。
 その目でみきは、自分がぐるりと敵に取り囲まれていることに気がついた。砂川は敵だ。それ以外の者たちも。五人も必要ないのにわざわざ五人で来た。取り囲むために来たのだ。明奈は敵じゃない。では味方か? そうではないと思う。
「その後の経過はどうですか?」
 砂川が口を開いた。
「肺炎でしたっけね」
「ええ」
「退院はいつでしたっけ?」
 親切ぶった口振りだが、笑顔はない。この男の笑顔は見たことがない。
「こないだの……木曜日です」
「まだ働けないの?」
 みきは浅く頷くにとどめた。砂川夫人が口を挟んだ。
「そりゃそうよ、お父さん。今日の日曜礼拝にも来れないくらいだもの」
 退院からこのかた仕事に行っていないのは事実だが、それは肺炎のせいではなく、長患いとなっているもう一つの病、鬱のせいだった。そして実際、職場のシフトでは、みきの勤務時間は極端に減らされていた。辞めろということだ。
「日野さん。あなたのことで、地方部長も心を痛めてらっしゃいます」
「肺炎のことでですか? それとも礼拝に行かなかったことでですか?」
 みきは棘を込めて言った。
「両方です」と、砂川。「明奈ちゃんと晶ちゃんだけでも、今日、通わせることはできなかったんですか? 明奈ちゃんももう十歳ですし、晶ちゃんも歩いて来れるでしょう」
 その明奈は射るような視線を大人たちに向けたまま、部屋の入り口から動かない。みきは視線を動かして、明奈の真一文字に結ばれた口を見た。それから切り出した。
「もう……教会、辞めたいんです」五人の目、十の目の圧力をみきは顔に浴びた。「十分の一献金も、今月はまだ支払っていません。そのことで来たんでしょう。払えないんです」
 真正面にある砂川の目を、ちらりと見た。この人は何故、こんなにも真っ黒い目をしているのだろう。いつも不思議だった。その黒さに油膜のように白い光が浮き、光を通して、憎しみがみきに降り注ぐようであった。この男が支配欲ゆえに、言うことを聞かないみきを憎んでいるのか、あるいはみき自身の憎しみが、この男の空虚な目に映って跳ね返ってきているのか、みきにはわからない。
「十分の一献金は強制でも何でもありません」砂川はきっぱりと言った。「ですので、あなたには支払いの義務はありません。主はあなたに、支払うか、支払わないかの選択の自由をお与えになりました。どうしてだかわかりますか?」
 じわじわと息が苦しくなってくる。みきは答えた。
「強制された奉仕を、主はお喜びにならないからです」
「そうです。でしょ? 自由なんですよ。神の国に入るのも、入らないのも……」言いながら、ちゃぶ台の向こうから身を乗り出してくる。「……主は神の民に、収入の十分の一を納めるようお定めになりました。聖書に書いてあるでしょう? 勉強したでしょう? それをしないということはね、日野さん、あなたは主の取り分を掠め取ることになってしまう」
「牧師先生は、その解釈は間違っていると仰ってくださいました。入院前にお話しした――」
「いるんですよ、あなたみたいな人は他にも」砂川は遮った後、盛大なため息をついた。「信仰に燃えて入ってくるのに、一つ二つ気に食わないことがあると、やれ牧師がああ言っただの、神父がああ言っただの……」
「ねえ、日野さん」砂川夫人が優しく畳みかける。「もちろんあなたには選択の自由があるわ。それは確かにそう。だけどね、私は私たちの中で、あなただけが神の国に入れないというのがとても悲しいし……それに、あなただけの問題じゃないの。明奈ちゃんと晶ちゃんはどうなるの?」
 みきはじっと俯いた。
 それから、ちゃぶ台の横のマガジンラックに左手を伸ばし、給与明細が入った封筒を取り出した。角が折れ、皺が寄っている。封筒から明細を抜いた。叩きつけてやろうと思ったのに、そんな力ある動作はできなかった。砂川に向かってそっと差し出す形となった。
「今月の手取りです」ちらりと伊丹夫人の顔を見た。下世話な好奇心が見えた。「今月は入院したうえに、手取り五万で生活しなければならないんです。小学生の子供が二人いて、五万ですよ? 税引き前の収入から一割なんて納めたら、とても暮らしていけません。入院費だって払わなきゃいけないのに」
「でも保険金下りるんでしょ?」
 それが砂川の答えだった。
 サンダルを履いた晶の軽い足音が、子供部屋のほうへとせわしなく駆ける。間もなく声が聞こえた。
「お姉ちゃん、お洗濯に虫がついてる! 取って!」
 窓に手をかけ、室内に身を乗り出している様子が目に浮かぶようであった。明奈は立ったまま、砂川たちから目をそらさない。
「あの」というみきの声は、今にも消え入りそうだった。「洗礼の前に見せられたビデオの……あの、困窮家庭の保護プログラム。あれを申請することは……教会を辞めないとしたら、せめて……」
「あれはもっと、本当に困っている人のためのものです」
 ため息混じりの返答に、みきは体が震え始めるのを感じた。
「私だって困っています」声も震えていた。「あなたたちはそういう慈善活動をアピールして……困ったときは助け合うと。それで私、安心して……」
「あなた、とりあえず今、食べる物があるでしょう? 屋根の下に住めて」
「あのプログラムが実際に適用された例があるのですか?」
 返答は冷たいものだった。
「調べてないので、わかりません」
 そこへ再び晶の声。
「ねえ、お姉ちゃん!」
 遊びに行かせればよかったと、みきは後悔を重ねる。日曜日の昼下がりだというのに。陽射しも優しい十月だというのに。晶はどんぐり拾いが好きだった。去年までは。今年はどうだろう。
 晶がサンダルを脱ぎ、子供部屋に上がり込む音。狭い部屋を小走りで横切って、明奈の隣に姿を現した。右手にはリスのぬいぐるみを下げてた。
 砂川が、息の音を漏らしながら立ち上がった。
「晶ちゃん」
 そして、晶の前でしゃがみこみ、頭に手を置いた。
「かわいいお人形さんだね」
 その一言に、晶ははにかんだように笑って、人形を抱きしめた。
「このリスさんは、何ていうお名前かな?」
「お名前、まだないの」
 リスの頭に下唇をつけ、晶が応じる。
「へえ、じゃあ新しいお人形さんなんだ。前来たときには、なかったもんね」そして、一瞬作り笑いを浮かべた。「いつ買ってもらったの?」
「こないだ……」
 幼いながら、感じ取るものがあるのだろう。口ごもり、答えなくなった。
 砂川は立ち上がり、振り向いて、みきを見下ろした。
 厳しい顔。だが、知性がない虚しい顔だ。
「日野さん! こんな愛のないことではいけません!」
 ちゃぶ台の前に戻ってくる。だが座ろうとせず、立ってみきを見下ろし続けている。
「世界には、寝るところもない、食べるものもない子供たちがたくさんいるんですよ! 子供にぬいぐるみを買ってあげる余裕があるうちから、納めるべきものも納めないで、何のつもりですか!」
「まあまあ、お父さん」夫人が、夫の足に軽く手を添えた。「座りましょうよ。日野さんがかわいそうでしょ?」
 そして、みきにはこう語りかけた。
「日野さん。私たちは、あなたを裁くために来たんじゃないんです。私たちは人を裁きません。そうでしょう? ただ、困っているようだから、相談をさせてほしくて来たんです」
 夫人が言い終わらぬうちに、砂川が座り直した。
「考えたんですけどね」と、顔をしかめて言う。「今月は事情が事情ですから、手取りから十分の一を支払ってもらうっていうのは無理? 控除前の分との差額は来月でいいからさ」
 みきは黙り込んだ。砂川が更に、「どうです?」
 自分には何もできない、抵抗できないという無力感が、心の中に広がっていく。
「できない?」
 五千円あれば、明奈と晶にもう少し栄養を考えた食事を与えられるだろう。
「それか、分割にします?」
 あるいは、たった一度だけでいい、好きなものをお腹いっぱいになるまで食べさせてやれれば……。
「日野さん、砂川会長が聞いてるでしょ?」
 伊丹夫人が厚かましい顔を前のめりに突き出してきた。
 払うまで帰らないつもりだ。でなければ、家計にまで介入してくるだろう。つい先刻、晶にしたように、考えつく限り陰湿なやり方で。
 みきは傍らのハンドバッグに手を伸ばした。引き寄せ、財布を掴み取る。心を満たす感情は、悔しさでも、悲しさでもない。生活費を失う恐怖だった。
 薄い財布から、五千円札を一枚抜いた。ちゃぶ台の上を滑らせて、砂川に突き出す。そして告げた。
「……今月の、十分の一献金です」
 女たちが、腹の底から沸き上がるような歓声を発した。
「よかった! よかったわあ、日野さん」砂川夫人が両手を自分の頬に当て、きらきらした目をみきに注いできた。「私、本当に心配していたのよ。あなた一体どうなってしまうんだろうって」
「来月は、払えないかもしれません」
 それは精一杯の反抗だった。だが、効果は見られなかった。
「いいのよぉ。来月のことは来月考えましょ? とりあえず、今、あなたがこうして回心してくれたということが、とても尊いことなのよ」
「あら、待って」両手でみきの給与明細を握りしめた伊丹夫人が、明細から顔を上げず、食い入るように見つめながら異を唱えた。「五千百三十二円よ、あなた」
 苛立ちが爆発し、みきは伊丹夫人の顔に小銭を投げつけた。伊丹夫人は驚き、声を失ったが、小銭が畳の上に散ると、慌てて必要な金額を拾い始めた。
「よく、戻ってきてくれましたね」
 砂川はにこりともしないままだ。光のない黒い目でみきを凝視している。
「私も、ここまで言うつもりはなかったんです。ただね、あなたや明奈ちゃんたちが心配で。本当なんですよ? だって、悲しいじゃないですか。いつか主の裁きが行われた後に、あなたたちだけ私たちから引き裂かれてしまうなんて」
 みきは顔を背け、ため息をついた。
「私たちのことが、今の私にはお金を奪う嫌な奴に見えるかもしれません」
 と、スーツの内側に手を突っ込み、革の札入れを取り出した。
 紙幣をめくる音に顔を上げると、みきの顔の前に、五千円札が差し出された。
「私たちはあなたに、主の御前(みまえ)での責務を果たして頂きたかっただけなんですね。決してお金を取りに来たわけじゃないんです。これでわかってもらえます?」
 返答しかねていると、五千円札はちゃぶ台の上に置かれた。
「これは私からあなたへの個人的な心遣いです」
 すかさず伊丹夫人。
「うわあ。支部会長さん、本当にお優しいですわねえ!」
 このとき初めて、衝き上げるような屈辱を感じた。顔が熱くなり、ほとんど反射的に、目から涙が迸(はし)り出た。その涙をどう受け取ったのか、伊丹夫人が更に言葉を重ねる。
「よかったわねえ、あなた。私たちの教会に来られて。主のお恵みだわ。ねえ? 本当によかったわねえ」
 五人は「日野家のために」と適当に祈り、帰っていった。

 ※

 天気のいい日には、軽沢地上市の螺旋有料道路(ループ)から、軽沢市、及び隣の砌沢(みぎりざわ)市を一望できる。
 軽沢市の中央には、市の守護神、素戔男尊(すさのおのみこと)を主神として奉じる軽沢神宮の鬱蒼たる鎮守の森が、緑の布を丸く広げたように展開されている。その上空にはいかなる道路もなく、また架線もない。
 神宮の北はオフィス街、南西は問屋街、南東は工業地帯だ。各地区の中央には、聖務省の地方分室が入るオフィスビル、市庁舎、警察本部が配置され、それらの建物を貫通して、螺旋状の道路が張り巡らされていた。
 それはあたかも、聖域たる神宮を守る円陣、または、聖域に封じられたものを更に閉じこめる円い牢獄のようであった。
 ループは軽沢市庁舎の三十五階……地上市として数えた場合には二十階……にある公用道路第一エントランスを起点としている。そこから聖務省オフィスビルの三十階、警察本部の二十五階を経て、軽沢市庁舎二十階の公用道路第二エントランスに戻り、再び緩やかな下方向への螺旋を描いて聖務省オフィスビルへ伸びていく。
 地上市から地下市にかけて螺旋を描くこの有料道路の外側に目をやれば、神宮の北西、北東、南に広がる市街地を結ぶ二層構造の空中環状道路(リング)と、双子都市である砌沢市の街並みを、遠く見渡すことができる。
 このように高所から見下ろせば、都市が六芒星、つまり魔除けの籠目(かごめ)の構造になっていることがよくわかる。その紋様を描くように、緑色の光を放つ祈送管(きそうかん)と呼ばれるパイプが走っているからだ。祈送管の内部は聖務防衛軍の軍用道路となっている。
 一方、ループの内側に目をやれば、公用および私用ゴンドラの架線が、建物から建物、建物をつなぐ道路から道路へと張り巡らされている。
 ループ上にある乗用車の助手席に座る真為(まなせ)の眼下を、一台の市営ゴンドラが横切っていった。
 立派な鬼瓦を頂く木造の市営ゴンドラは、ちょっとした倉のように見えた。その屋根に隠された重力管を、真為は交通局職員の案内で見せてもらったことがある。一学期の社会科見学だ。重力管は架線の支柱と中継地にも設置されており、その出力調整や方向切り替えによってゴンドラを引き寄せ運用する。朝と夕に、神官たちが祈祷を捧げる。導きと交通安全の神である猿田彦大神の守護がゴンドラと架線に与えられ、また祈祷そのものが重力管に新たに注入される動力となるのだ。
 真為はゴンドラを見るのが好きだった。デパートビルに遮られ、見えなくなるまで、ゴンドラをじっと見下ろしていた。
 クラスの男子たちは、東都には無線式のゴンドラが運用されていると話していた。深地下では真空管式の高速輸送システムの試験運用が開始されていると。だが、いずれもこの国の中枢、五芒星(ごぼうせい)を描いて配置された東都五市、及びその中央に位置する皇都(おうと)に行かなければお目にかかれないもので、真為にはまだまだ縁遠いものだった。
 真為とその父親を乗せた車は、ループを下り続けていく。
 架線の下には、地上市の無料の車道、歩道、軽車両用道路が縦横に走っている。それは地上市から見下ろせば穴だらけの床のようだが、地下市から見上げた場合には、穴だらけの天井ということになる。
 都市部では、十分な自然光が得られる地上四十五メートル以上が地上市、それより下が地下市とされている。九十年前に定められた国民保護法により、人間と町の機能が一カ所に密集するようになったがための施策だった。限られた面積に人が集まるにはあらゆる建築物を縦長にするしかなく、四十年前に地上市、地下市に分け隔てられて以降、両地区の貧富の差は縮まる気配を見せない。
 地下市においてもっとも貧しい区域が砌沢市との連結路付近の区画であり、これから向かう日野家も、その区画に位置している。
「何か面白いものが見える?」
 ずっと窓を見ていたせいだろう。運転席の父親が声をかけてきた。
「交通局が見えるよ」
 軽沢市交通局の裏手の森が、ちょうど見下ろせた。そこは猿田彦大神を祀る神社になっており、白い装束に身を包んだ神主たちが、森の奥の本殿に出入りしている。
「お父さん、珍しいよ。神社に人が出入りしてる」
「人って神主さんたち?」
「うん」
「不規則な重力干渉が立て続けに観測されてるそうだから、それに備えてかもしれないね」
 真為は座席の上で居ずまいを正し、父、川原哲夫の横顔を見上げた。
「お祭りかな。鎮めのお祭り。よくやるそうだよ」
 娘の言葉に、川原は生返事をしながら頷いた。
 川原は軽沢市北部に設けられた、外来宗教・新宗教・新々宗教の受け入れ地域に住んでいる。職業は牧師だ。この町の教会員の信仰を守るだけでなく、信仰に迷う人の受け皿になれれば。そう願って十年この町に住んでいる。
 軽沢市とその双子の砌沢市は、忌み封じのために造られた町だった。
 百五十年ほど昔、魑魅魍魎や怨霊などの魔性のものによる侵攻が激しかった頃、この地は妖魔の発生源となっていた。それらに確たる実体を与える力が、外宇宙から流れ込む重力だということなど、まだ判明していなかった時代だ。当時の聖職者たちはこの地で戦い、祓い、清め、妖魔を封じるために、それより遙かに力の強い神を祀った。それは、日本のどこでも当たり前のように行われていたことで、やがてその聖域を中心に、各都市ができていった。
 不自然な重力の動きを測定する装置が都市の要所に設置されているのだが、その一つが、先週から軽沢神宮近辺での不穏なうごめきを捉えていた。真為が言っているのはそのことだ。
 不安がる教会員も多い。
「でも、きっと大丈夫だよね」
 助手席に目をやると、真為の屈託のない笑顔がまっすぐ川原を見上げていた。
「みんなで祈るもの」
 川原は微笑するにとどめた。二日後の火曜日に、祈祷会を開く予定を入れたばかりだった。
 午前、一人娘の真為は小学四年生、十歳だ。肩まで伸びた髪からは、まだ市営プールの塩素の臭いがする。
 水泳教室が終わってすぐ、自らついて来てくれているのだ。
 真為が水泳に行っている間、川原は礼拝を取り仕切っていた。真為には洗礼を受けさせていない。個人的に幼児洗礼には懐疑的であることに加え、自分の信仰は自分で見出してほしいと願っているからだ。
 プロテスタントの教派なら、女性でも主の祭壇に立てる。だが、父の跡を継いで牧師になると言うのなら、実態を見てからでも遅くはあるまい。まだ将来を決める年ではないのだ。
 それに、今から会う日野一家……日野みき、日野明奈、日野晶へのアプローチに、真為の存在は大いに役立っている。
 自動車はループを外れ、乗用車用エレベータへ続く細道に入った。地上市と地下市を結ぶ道は限られている。ほとんど全ての建物には、地上市と地下市を隔てる階を結ぶ階段すらないのだ。
 地下市へ向かう車は他になかった。
 コンクリート造りの通路を突き当たりまで進み、エンジンを切る。後ろで鉄格子が下りた。
 地下市への降下が始まった。

 ※

 たん、たん、たん、と音をさせ、縄跳びが砂を弾く。真為は晶に縄跳びをさせ、様子を見ていた。目標は連続百回だ。二重跳びはできない。先月初めて会ったとき、晶はままごと遊びをしていた。明奈は痛々しいほど従順に、それに付き合っていた。晶は七歳だ。ままごと遊びを卒業しているはずの時期だ。だが、彼女は他に遊びを知らず、幼児の状態にとどまる以外、母親のどこにもない心を呼ぶ術(すべ)を知らなかった。
 真為と並んで庭に立つ明奈もまた、縄跳びをする妹を見守っていた。晶を見るときには、案外穏やかな顔をしている。だが真剣な表情なので、話しかけるのは控えた。
 明奈は近寄り難い少女だ。とげとげしいを通り越して、暴力の気配さえ感じる。真為は彼女に苦手意識を抱いていた。だが、晶が純粋さを保っているのは、明奈が自分を犠牲にしているからだ。それがわかるから嫌いになれない。
 引け目もある。
 父親に連れられてこの家に来る自分に対し、明奈がどういう思いを抱いているか、真為には手にとるようにわかるのだ。それが辛い。
 真為の背後の窓には薄いカーテンが引かれている。みきの部屋だ。真為の父が、明奈と晶の母親と何らかの話し合いをしているはずだが、姿は見えない。
 先週、日野家のトイレを借りたとき、父親とみきのやり取りを聞いた。
「確かに旧約聖書の一部には、主に収穫の十分の一を納めよと書かれています」懇々と言い聞かせていた。「旧約の時代の律法やしきたりは厳しいものだったに違いありません。ですがそのために主はひとり子イエスを世にお遣わしになった。それによって、主が全ての人を愛し、律法を守る以上に、愛が何より大切だとお示しになったのです。それこそが、新約聖書の正しい内容なのです。聖書を軽んじる彼らが、その辺りをどう教えているかはわかりませんが――」
 生活に困窮する人から更にお金を取って教会の掟を守らせる。それが愛ある行為か否か、真為にだってわかるつもりだ。ちらりと部屋を覗き見たとき、みきは口をぽかんと開け、生気のない顔で生返事をしていた。
「イエスはエルサレムに入城されたのち、神殿にいる商人たちを、怒って追い出された」
 子供部屋から庭に出るまでの間、真為は会話に耳を傾け続けた。
「商人たちに向かって、あなたは父の家である神殿を強盗の巣にした、と言われたのですね。私に言わせれば、彼らがしていることはそれと同じなんです。書かれた内容を短絡的に受け取って、聖書を強盗の巣にしている」
 それと同じ話を今日もしているのだろうか? 話をして、父の活動が実を結ぶことがあるだろうか? 『まことの聖書伝道会』、キリスト教系カルト及び異端教団からの被害者の救済を掲げる、超教派の牧師の協会だ。だが真為には、たった一人を救うことさえ果てしない道に思えるのだ。
 地上市の道路の太い影が、庭に降る光の梯子を際だたせていた。光の中で晶が縄跳びをし続ける。
 地上市にいる誰かが、道路からゴミを投げ捨てた。それは晶の横に落ちた。縄跳びの音が止まる。動きを止めた晶の細い足首に、緑の縄跳びが当たった。ゴミはジュースの缶だった。
 そのとき、明奈が呟いた。
「あいつら、金置いてったよ」
 真為は明奈の横顔をじっと見つめた。光の粒子を尖った鼻先に集めている。真為は驚きを込めた沈黙で、明奈に続きを促した。明奈のほうから話しかけてきたのは、四回会って今日が初めてだ。しかも『あいつら』、つまり『復元された真理の教会』の話題だ。明奈は真為がここに来ている理由を、よく理解していたのだ。
「お母さんから五千円取ってって、代わりに五千円置いて行った」
 だが、どう反応していいかわからなかった。目を動かして、睨むような目で明奈が真為を見た。真為は返答しかねたままだったが、視線が合い、真為が話を聞いているとわかっただけで十分だったようだ。
「バカだよな。そんなの意味ないじゃん。愛があるなら一万円くらい置いてけよ。っていうか、愛なくていいから十万円くらい置いてけばいいのに」と、舌打ちした。「あいつら、ねずみ講で儲かってんだろ?」
 十歳にしてこの荒(すさ)みよう。大人びているのではない。荒んでいるのだ。ある部分では、驚くほど子供っぽいことを真為は知っている。二回目に会ったとき、父が手土産に持ち込んだプリンを見て目を輝かせていたのを忘れていない。
「お姉ちゃん」晶が鼻声を出しながら二人のもとに寄ってきた。「お姉ちゃん、七十回まで跳べたよ?」
 そのとき、みきの部屋のカーテンが開いた。続けて窓が開き、父親が、身を乗り出して声をかけた。
「真為、お邪魔する時間だよ」
 短い別れの挨拶を交わし、真為は父と共に日野家を辞した。
 その帰り道、真為は父に連れられて、地上市一階の無料道路に面した喫茶店に入った。いつもここで、プリンでも、パフェでも、何でも好きなものを食べさせてもらえるのだ。窓の向こうの花壇で桃色のコスモスが揺れている。秋の夕日がゴンドラの架線の影を道路に落としている。
 頼んだコーヒーゼリーが運ばれてきても、真為の心は沈んだままだった。
「明奈ちゃんのお母さん、元気なかったね」スプーンを手に取りもせず、真為は切り出した。「カルトのせいなの?」
 父親は、いつもの困ったような微笑でもって窘(たしな)めた。
「カルトなんて言葉、軽々しく使っちゃ駄目だよ」
「でも強盗の巣なんでしょ? 先週そう言ってたじゃん」
「今の時点では、あの人たちにとっては真実なんだ」言いながら、川原は空しさを感じた。「その教会に出会って孤独から救われた人や、生まれたときからその教会にいるのが当たり前の人には、そこはかけがえのない人生の一部で……」いつかこの空しさは、真為にも感染するだろう。川原はそう思う。「そういうことまで全部否定してしまうのは、いけないことだよ。ただ辞めたいのに辞められない人や、信仰的虐待にあっている人がいるのが問題で……」
 真為は黒い、澄んだ目でじっと見つめてくる。
 日野みきに本当に必要なのは牧師ではない。カウンセラーだ。そして良心的な心療内科医。みきのどんより濁った目を思い出す。ああいう目をするようになったら、もう自分では何も決められない。教会を抜けるのだという強い意志が必要不可欠なのに、それができないのだ。
「……無理矢理教会を抜けさせようとしたり、一方的に教えを否定するのは、無理矢理教会に通わせたり、教えを押しつけたりするのと同じくらい酷いことなんだよ。そんなことをされたら、イエス様やキリスト教のことを嫌いになっちゃうよね」
「じゃあどうしたらいいの?」
「日野さんのために祈ろう」
 真為は思う。明奈が聞いたらこう言うだろう。祈らなくていいから金をくれと。
「それしかできないの?」
「ああ」
「復元教会の人、明奈ちゃんのお母さんにお金を置いてったんだって。お父さんはそういうことはしないの? そしたら明奈ちゃんのお母さん、病院に通えるよね?」
 父親の目が少しだけ、真為の後ろの空間を睨むような感じになった。
「真為、人にお金を渡すっていうのは、よっぽど何かあったときか、本当に最後の手段なんだ」
「明奈ちゃんのお母さんは入院したし、まだ働けないしで、困ってるんだよね。これはよっぽどのときじゃないの?」
「何て言おうかなあ」
 再び父親の目が和らぎ、真為を優しく見つめた。
「じゃあ真為、真為がお手伝いを頑張って、お母さんからご褒美にお小遣いをもらえたら嬉しいよね」
「うん」
「じゃあ、もしある日道を歩いてて、知らない人から『お小遣いをあげるからおいで』って言われたらどうする? ついてく?」
「ついてかない」
「どうして?」
「怪しいから」
「そうだよね」と、頷いた。「お金のやり取りには、信頼関係が必要なんだよ。どんな場合でもそうなんだ。それなしに困っている人にお金を渡したら、渡された人は知らないうちに、渡した人に依存することになってしまうんだ。そういうことをしちゃいけないんだよ。尊厳の問題なんだ」
「尊厳」
「尊厳についてはわかる?」
「子供の権利の授業のときに、習ったよ」
 父親の口に満足げな微笑が浮かぶのを見て、ようやく幾らか心が軽くなり、真為はスプーンを手に取った。
 その夜、真為がベッドで眠る頃、日野姉妹は四畳半の子供部屋で布団を並べ、横になった。学習机はなく、畳の上に直接、教科書や中古のランドセルが積まれている。豆電球が赤い月のように点り、二人は仰向けでそれを見ていた。
「ねえ、お姉ちゃん」
 母親の部屋に声が届かぬよう、晶が静かに囁いた。
「なに?」
「イエス様って本当にいい人だったのかな」
「そんなわけないだろ。嫌な奴に決まってんじゃん」心の底から憎らしさがこみ上げて、明奈は吐き捨てるように言った。「お母さんからお金を取ってく奴だ。きっとすっごくバカなんだよ。バーカ、バーカ」
 晶がくすくす笑う。
「お姉ちゃん、そればっか」
 明日は月曜日だ。だが、学校には通えない。





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とよね

Author:とよね
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