chilledscape #10 生まれ来る日
1.
テスは鳥を見た。
深い霧が出ていた。鳥が顔を覗き込んでくるので、自分は今、仰向けになって寝ているのだとわかった。
鳥は黄色い嘴をしており、それは尖ってはおらず、丸みを帯びて、長かった。水に濡れ、光沢を帯び、優しさとともに水滴が、テスの口へと垂れ落ちていた。するうちに、鳥が嘴を使って水を飲ませているのではなく、涙を流しているのだとわかってきた。
鳥が消え、暗闇の中、口に水の滴り落ちる感触だけが残った。水が喉に詰まらぬよう、誰かが慎重にテスの舌や唇を濡らしているのだ。
誰か、男の声が囁いた。
「お前、諦めるなよ。絶対助けてやるからな」
そしてまた眠った。今度は誰かがテスの手を握った。
長く眠った。もう一度目覚めたときにも、誰かの手の感触は消えていなかった。
テスは目を開けた。
今度は鳥ではなく、人が、顔を覗き込んでいた。
暗い空間だった。闇の濃いところがあり、また淡いところがあるということしかわからなかった。濃い闇は、人の形をしており、逆光を浴びた人間なのだと次第にわかってくる。離れたところに天籃石の明かりがあるのだ。
テスは瞬きを繰り返した。だんだん皮膚の感覚が戻ってきて、瞬きの度に、顔に何か覆い被さっていることがわかってきた。口の周りを軽く動かす。やはり何かがある。どうやら顔を、包帯でぐるぐる巻きにされているようだ。何故だろう。テスには思い出せない。
テスを覗き込む闇に、二つ星が見えた。それは二つの目であった。一つは慈愛、一つは悲痛の光を湛え、それらの光をテスの顔に注ぎ込んでいた。
遠い光に目が慣れて、顔を覗き込むその人物が老人であることがわかってきた。そして、老人の背景が見えてきた。弧を描く天井が見え、空間の狭さがわかった。幌の中にいるらしい。トラックだろうか。床に直接敷いた布の上に寝かされているようだ。幌の中は積み上げられた木箱で仕切られていた。光源は仕切の向こうにあり、ぼそぼと低い声で囁き交わす、男女の真剣な声が聞こえてきた。
「マリステス」突如、老人が名を呼んだ。「もう大丈夫だな」
テスは呆然としたまま瞬いた。テスには老人がわからない。だが老人はテスをよく知っている。その目でわかった。その口調でわかった。
手が解かれた。老人は、音も立てずに立ち上がり、木箱に立てかけた連射式の弩を取り上げた。そして、やはり一切の音を立てずに木箱の仕切の向こうへと、姿を消してしまった。
だが、木箱のすぐ向こうにいる男女は、老人を全く意に介さず会話を続けている。テスはよく耳を澄ませた。
「問題は」男の声が言った。「万能の神が作った俺たちが、なんでこんなに馬鹿なのかって話さ」
素性を知りたかった。
助けてやる、と言ってくれたのは、あの男だろうか。それとも夢だったのだろうか? どうやって、どういう目的で、自分を助けたのだろう? 危険の度合いを量らなければいけない。
それに、神の話をしているのなら、それを聞きたかった。
それでもテスは動けない。
「神が私たちを神によく似たものとしてご創造たもうたなら、私たちは二重に記憶を失ったことになるわね」女の声が答える。「まずは人として生まれたときに。そして更に、この世界に落ちてきたときに」
「俺たちは堕落したのか?」男の声は一層低くなる。「天使が天から堕ちたように、この世界に堕ちたのか?」
「私たちは天使じゃないわ。そんな善いものじゃないって、わかっているでしょう。神は私たちを神として作った訳じゃない。似せて作ったのは見た目だけよ」
「じゃあ、俺たちは何でこんなに苦しむんだ? 俺たちが人形にすぎないなら、試練は何故あるんだ?」
沈黙が続いた。黙した二人の重い思考が、寝たままのテスの体に風のように流れてくるようだ。
立ち上がる気配。女の声が言った。
「容態を見てくるわ」
男が生返事をする。木箱の向こうで光が揺らぎ、それが大きくなって近付いた。そして、強い光が木箱の仕切の割れ目から現れ、闇を裂いた。
テスは目を細めたが、閉じはしなかった。
お陰で、女と目があった。女は驚いた様子で、しばし立ち尽くしたまま、じっとテスを見下ろした。
※
テスは一日の大半を寝て過ごした。男か、女か、どちらかが、時々テスを揺り起こした。はじめ、彼らは薄い塩水を飲ませた。貴重なはずの砂糖をとかした水も飲ませた。起きていられる時間が長くなると、原型を留めぬまでに煮込んだ麦粥を飲ませた。幌はテスが思った通りトラックで、彼らはそれを運転する。その振動で目覚めることがあり、また荷下ろしで、また集荷で、またトラックの外の賑わいと生活の気配、人々の声で目覚めることがあった。
二人はテスを庇い、村人に気づかれぬようにした。理由はわからぬが、とにかくそうしてくれた。サラが言っていた二人組の言葉つかいの行商が彼らのことだとテスは間もなく理解した。町や村を巡り、物を買い、運んで売る。時に護衛の仕事も引き受けるという。この一帯では名も顔も知られた存在だった。
テスを保護したのは、ジュンハの護衛を引き受けていた男で、名をミスリルといった。均整のとれた逞しい体つき、そして精悍な顔つきの若者だった。決して端正な顔立ちではないにも関わらず、魅力的な男だった。目のせいだ。この世界でここまで生き生きした目を見るのは初めてだった。
女のほうはアエリエといった。若く、驚くほど美しい女で、言葉つかいの力を用いずとも、ただいるだけで人を癒すような不思議な存在感だった。青い瞳は力に支えられた慈悲に満ち、熱く、そして静かだった。
二人はテスに何も聞こうとしなかった。ジュンハのことで問いただされたり、非難されることをテスは恐れた。だが、今それをしたらテスが壊れてしまうと心得ているようだった。二人はただ、仕事の合間に介抱し、面倒を見てくれた。そして、大丈夫だと慰めた。何故この二人がこれほどよくしてくれるのか、テスにはわからない。同様、この二人にも、何故テスによくしなければならないのか、理由はわからぬと言った。
悪夢は見なかった。
不思議なほど見なかった。
良い夢も見なかった。
あるとき、テスは鳥の羽音と、鳴き交わす声を聞いた。テスは何度も瞬いて、目がしかと覚めていることを確かめた。夢ではなく、幻聴でもなかった。テスはいくらか起き上がれるようになっていたので、起きて靴を履いた。壁に手をついて歩き、木箱に手をついて歩いた。体はひどく弱っていた。足は震え、木箱の仕切の向こう、幌の上部に備えられたビニールの窓に目をやったとき、よろめいて倒れた。すぐに外から誰かが駆けてきて、閂を開け放った。アエリエが風と共に入ってきた。
「テス」アエリエは、咎めようとも、何をしようとしていたのかを問いつめようともしなかった。ただ傍らに跪き、起きあがろうとするテスの背中に手を当てた。「テス、大丈夫?」
両腕を支えに起き上がろうとしながら。テスは首を横に振った。
「どうしたの? 言ってごらん」
アエリエはどこまでも優しかった。
「鳥を」だがテスの喉は痛み、必要なことを言うだけで精一杯だった。「見たい……」
「鳥? どうして」
テスが答えず黙っていると、アエリエはテスの腕を取り、自分の肩に回した。アエリエはテスより背が高かった。彼女はテスが幌から草地に下りるのを助け、その後も肩を貸して歩かせた。
赤い空を見ながら、草の上を歩いた。丘の上に楡の木を見た。アエリエは坂を上り、テスを木の下に連れていった。
丘の下には、小さな村が見下ろせた。
村の外れの小さな池に、白い家鴨(あひる)たちが放たれていた。テスは驚きに打たれ、もはや何も考えられず、目を大きく見開いて、遠くの白い水禽に見とれた。それは、テスがこの世界で初めて目にする生きている鳥だった。
それだけではない。
砂の打たれた通りを鶏が歩いている。屋根から屋根へ小鳥が飛んでいる。それより大きな鳥は、村の上を飛び交う。更にはテスとアエリエの上に枝を広げる楡の木からさえも、鳥の声がするではないか。
「どうしたの? 何か、珍しいものが見える?」
テスにはアエリエの質問に答えられなかった。何故鳥が見えるようになったのか? あるいは、今まで何故見えなかったのかと問うべきかもしれない。
その日からテスは、体の回復に努めるようになった。いくらか動けるようになり、顔の包帯がとれると、二人の行商の仕事を手伝うようになった。
秋は深まり、季節は冬へと軋みながら滑り落ちていく。
※
テスが草原を駆ける。
左手が右の腰に伸びる。
半月刀が抜き放たれる。
続けて右手が左の腰の半月刀を抜く。
右足を軸にステップを踏む。半月刀が斜めに、真横に、縦に、振り下ろされ、振り上げられる。赤く染まる世界で、テスは見えない敵を切り刻む。
半月刀の柄頭をぶつけ合わせた。ねじり、連結器を組み合わせ、二枚刃のブーメランにする。腰をよじり投げ放つ。ブーメランは赤い空に吸い込まれ、黒い点になる。それが再び大きくなり、テスの元に戻ってくる。
大気を操り、戻ってきた武器が自分自身を傷つけぬよう、体の周りを周回させる。柄を掴んだときよろめいた。
ミスリルが、水辺に停めたトラックに背を預けたまま声をかけてきた。
「まだ本調子じゃないみたいだな!」
テスは息を切らしていた。二本の半月刀の連結器を外し、鞘に収めた。腕で額の汗を拭いながら、ミスリルのもとに歩いていく。
十分に近付いてから答えた。
「でも、随分よくなったんだ」そして微笑んだ。「ありがとう」
「もういちいち礼を言うなよ。お前は十分働いてる。だろ?」
アエリエは町に買い出しと、道路状況の情報収集に行っている。その間にミスリルとテスは、使える道路と仕事の有無の予測、仕入れと需要の予測を立て、アエリエが帰ってくる前に、食事の準備を済ませておかなければいけなかった。テスが来るまで、こうしたことをミスリルとアエリエは二人で行っていた。できるなら、アエリエに付いていって、彼女を守りたかった。留守に二人もいらないはずだ。だがテスは町が恐かった。アエリエとミスリルも、テスを町に近付けようとはしなかった。それが心苦しかった。
「それでも」
「言うなって」ミスリルは首を横に振る。「旅に出りゃ、痛い目にも遭うさ。一人ならなおさらな」
水辺で鴨が鳴いている。
鴨は繁殖期を迎え、頭を緑に変じている。冬が来るのだ。テスは寒くなかった。不思議と、この二人と出会ってから、あの絶えず身を苛む寒さを感じなくなったのだ。
「それにお前……」
記憶が戻るのかもしれないという予感さえする。
「初めて会う気がしないんだ」テスはその言葉に驚いて、ミスリルの目をじっと見た。「ずっと前から知ってた気がするんだ」
見つめ続け、無言で続きを促した。
「アエリエとも話したんだけどさ」
どこか気まずいような、逡巡を含んだ声だった。ミスリルはテスから目をそらしてしまう。
「ずっと誰かを捜さなきゃならないって思ってたのさ。約束を果たさなければならない」
「どういう?」
「わからない。今でもわからないさ。でも、お前と会って焦燥感が消えた」
「それじゃあ……」テスもまた、迷いながらも確信を込めて答える。「初めて会うんじゃ、ないんだろうな」
「じゃ、やることは決まってるな。俺も、お前も」ミスリルの声に自信が戻る。そしてまたまっすぐテスを見た。「記憶を取り戻すんだ」
決まってなんかない。テスは思う。だが言えない。ミスリルの善意の前に、もう一つの選択肢を口に出すのは憚られた。記憶を失うという選択肢を。
決めなければならない。できる限り早く。
この記憶は欲しいけど、あの記憶はいらないということは許されまい。
すべてを手に入れるか、すべてを失うかだ。
2.
日々は過ぎていく。
テスの恐れは薄らいでいく。仲間といれば人は恐くない。言葉つかいからの襲撃、新生アースフィア党からの攻撃、恐れればきりがないことに気付き、恐れるのを控えた。そのような悪い想像は形にならなかった。村に入り、町に入った。人々の中に入り、需要を聞き、商談をする。買い取ったものを積み込む。テスは働く。空の色の変化は止まっている。いずれは真っ黒になるのではないか。いつか、ある日目覚めたら……。
ミスリルやアエリエといると、心の底から楽しかった。二人はこの世界に来る前から、深い付き合いがあったのだろう。だが男女の付き合いのような色気は感じられない。仲のよい姉と弟といった雰囲気だ。心ない言葉を浴びせられることがあっても、テスは一人の頃のようには傷つかない。ただ、サイアとジュンハのことだけが、胸をかき乱した。あの罪のない親子を思う度、空が黒ずんでいく気がする。自分のしたことを思う度、風が腐りゆく気がする。
世界はこうしている間にも、破滅へ向かっているのだろうか?
世界を救う戦いができると思っていた。
何故だろう? こんなにも、自分で自分を嫌っているのに。
テスは一人になる機会を得た。
薬を売り、ハーブを買った小さな村で、三人は一泊した。積み荷と現金を守るために、ミスリルがトラックで眠り、アエリエとテスが村長の家に一部屋ずつ借りて眠ることになった。
どの部屋にいても、潮騒が聞こえる家だった。テスはじっと目を開けて、天井の木目を見ていた。この村を出たら、サラがいる村へ向かうのだという。ジュンハが死んだ地に、テスは生きて戻ろうとしている。
白いカーテンが赤い光に染まっている。それは天井に様々な幻影を投げかけ、だが確かに見えるものはない。水紋を見た気がした。黒く溶けていく山、機関車、放電する闘魚。すべての影が、見えたと思った瞬間消えていく。
たまらなかった。
テスは起き上がり、カーテンを開け放った。
いきなり海があって、テスは竦みあがる思いがした。狭い庭の白い柵。その向こうが崖で、そして海であった。
テスは窓を開ける。窓枠を乗り越え、庭に下りる。
海は静かだった。
ただ広がっていた。
語ることもなければ、怒ることもなかった。慰めることもなければ、突き放すこともなかった。
何故、海は海なのだろう。テスは柵へと吸い寄せられていく。海とこの自分の間に何の関わりがあると言うのだろう。何故自分は自分なのだ?
「テス」
窓が開く音。アエリエの密かな声が呼んだ。
テスは柵に手をかけた。
大きく身を乗り出す。
「テス、何をしてるの?」アエリエの声が緊張する。「やめて。お願い」
テスは体を前へと傾ける。
柵はただ土に刺しただけのもので、弱く、テスの重みに押されて海へとゆっくり傾いていく。
「馬鹿なことしないで!」
馬鹿なことをしようとは思わない。
ただ海に近付きたいだけだ。
窓から飛び出してきたアエリエに、思い切り肩を掴まれた。
「テス――」
テスは抵抗しなかったし、はじめから何かをしようというわけでもなかった。アエリエに肩を掴まれたまま立ち尽くし、ただ海に視線を注いだ。海や自然が視線の力に答えてくれればと思った。だがそのようなことはなかった。
「一体どうしたの。何を考えていたの?」
不気味に思ったのか、焦りを込めてアエリエが問いつめる。
「言って」
「別に……」
テスは海を見るのをやめ、目を伏せた。右肩にかかるアエリエの手の力を感じ、アエリエに心を向けようとした。
「……何かを見たかった」
「何を」
「何だろう……救われた世界。酷いものがない。たぶん、そういうもの」
テスは少し沈黙して、自分の心を探った。
「なあ、救われた世界ってどこにあるだろうな」
「そこにあるとか、あそこにあるとか、そういうものじゃないわ」
その答えをテスはとりあえず耳に流し込んだが、考えることはできなかった。
海は答えない。
テスの求めに対する答えを秘めて、世界は沈黙する。
※
そして零刻には、トラックで待っていたミスリルと合流した。運転席と助手席にミスリルとアエリエ。テスは荷台に入った。道が二つに枝分かれする地点で、休憩のために車が停められた。
「テス、出てこいよ!」
ミスリルが陽気に呼びかけながら荷台を開け放つ。テスは片膝を立てて座り込み、ぼんやりとしていた。
「何考え込んでるんだよ。休憩にするぞ」
テスは浮かぬ顔で立ち上がった。助手席から下りたアエリエが、少し離れたところで大きく体を伸ばしている。
「お前、どうしたんだよ、昨日」
荷台を下りると、ミスリルがふと真剣な目をして囁いた。テスは聞き返す。
「何が?」
「とぼけるなよ」アエリエに聞こえないように、押し殺した声だった。「悩みがあるなら言いな。馬鹿なことする前に」
「何も……何かしようとしたわけじゃないんだ」アエリエが言ったに違いない。「崖から飛び降りようとか、そういう……」
「ならいいけど……まあ、事故ってこともあるからな。思い詰めるなよ」
「ありがとう。ごめんな」
「笑えよ」
声音を少し明るくして、ミスリルが肩を叩いた。だがテスには笑う気が起きなかった。
「お茶を淹れましょう」十分に空気を吸い込んだアエリエが、爽やかな笑みとともに振り向いた。「茶葉を出してくれる? ミスリル、あなたの好きなのでいいわ。……どうしたの?」
二人が明るく、優しいほど、テスには悲しかった。空はこんなに赤いのに? 赤黒いほどなのに?
これまで見てきたこの世界の人々は、大半、死んだ目をしていた。だから酷い世界なのだと思っていた。そうではない。逆なのだ。彼らは彼らの必然で、そういう目であり、顔であり、態度だったのだ。
「どうしたの? テス」
「わからない」
歩み寄って顔を覗き込むアエリエから、逃げるように顔を背けた。
「ただ……悲しいんだ」
「どうして?」
「世界がもうすぐ終わるから」沈黙を受け、唾をのむ。「わかるんだ」
「どうしてわかるんだ?」
ミスリルのその問いにも、テスは答えられない。だが悲しい予感は変わらなかった。ミスリルが続ける。
「お前、何でも抱え込むなよ。どうしても俺たちに言えないことがるなら」と、空を仰いだ。「空を見てみろよ! 今日もこんなにきれいな青空じゃないか!」
はじめ、テスにはその意味がわからなかった。
「青い?」
冗談を言っているのかと思った。だが、聞き返したテスの真意がわからぬと見えるミスリルの表情から、冗談でも、聞き間違いでもないとわかった。
「空は赤いものじゃないか」
「お前何言ってるんだ?」
「ミスリルこそ」
何かを推し量るように、ミスリルの目が細くなり、目の光が鋭くなる。テスは弱々しく言った。
「俺には赤く見える……」
堪らない思いに駆られ、テスはミスリルに手を伸ばした。ミスリルの右手が、テスの手を握った。二人はしっかりと、互いの手を繋いだ。
テスは叫び出したかった。
こんなに近いのに、触れればこんなに温かいのに、住んでいる世界が違うのだ。
彼は絶対的な他者だ。
決して交わることはない。
鼻の奥に、刺すような痛みを感じた。見開いたままの目から涙が溢れ出て、止めることができなかった。
テスは繋いだ手をほどき、下ろそうとした。互いの指を離れた直後、何を察知したのか、ミスリルがテスの手首をがっしりと掴んだ。力強く、このまま放しはしないという意志に満ちていた。
「行かなきゃいけないんだ」手首を掴まれたまま、テスは目を伏せて言った。「一人で」
「どこに」ミスリルの目が顔面に注がれているのを感じる。「どうして」
「わからない……でもわかったんだ。これ以上一緒にいてはいけないって。ミスリル……」
テスは言葉を探す。
「約束は果たされた」
何よりも、自分自身を納得させる言葉を。
「記憶を失っても、出会うべき人には出会えるんだ。約束を果たすために」空いている左手で目を拭う。「ありがとう……だから、もういいんだ。もう大丈夫」
「どうして一人で行くんだ? もし行きたい場所があるなら――」
「いや。一人にならなきゃいけないんだ」
「どうして」
「多分……。自分が自分になるために」
涙は止まっていた。テスは目線をミスリルの目に定めた。優しい目だと思う。生きている者の目だ。本当はみんな優しかった。生きているのだから。
「だから、今度は俺が約束する」
この世界で出会った全ての人が、本当はもっと優しく生きられたはずなのだ。
「ここよりずっといい場所で、必ずまた会える」
痛みと悲しみで、ミスリルの目の光が揺らぐのを見た。テスは目を逸らさなかった。
「そのとき、必ず一緒に生きよう」
ミスリルは少し口を開いたが、何も言わなかった。テスが掴まれた手を下ろすと、ミスリルも躊躇いながら手を下した。愛する友。彼以上の最良の友が、自分にいるだろうか? いないだろう。
指先に名残を込めて、ミスリルは手を離した。
二人はもう繋がれていない。
「わかった」
アエリエに見守られながら、ミスリルは頷いた。
「テス、お前、生きろよ――」喉を詰まらせた。「生きるんだ」
「ああ」
「本当に、いいのね?」
テスはアエリエに目を動かし、微笑んで頷いた。
「ああ。そっちこそ、気を付けて」
「じゃあな!」
振り切るように大声で、ミスリルが言い放った。
「また会おうぜ!」
彼は右手を上げ、笑いかけると、そのまま背を向けて、トラックの運転席に向かっていく。アエリエも頷き、テスに微笑む。
「また会いましょう。必ずよ。よい旅を」
そして、少し小首を傾げて手を振り、助手席に向かっていく。
音を立てて扉が閉まり、トラックが走り出した。
砂煙がトラックとテスの間を隔てた。テスは手を振った。運転席の窓から逞しい男の腕が出てきて、手を振り返した。
トラックが見えなくなり、テス一人が残された。
もう微笑んでいられなかった。
テスはトラックと逆方向に歩き出す。トラックで来た道を戻るのだ。もう彼らと交わることのないように。テスは歩く。一人歩く。ひどく暗い。空を見る。空はもはや赤くはない。赤と黒のまだらだった。混ざりあい、黒の割合が増していく。
「世界……」
色彩が、死んでいく。
闇に塗り潰されていく。
「世界」
足許の土も草も、息絶えようとしている。
壊れた世界。
だけど、優しい世界だ。
善いものたちを留め、生きさせてくれる。
「愛している」
ふと下から吹き上げる風を感じた。
道も、道の両脇の枯れた草も、途切れる場所に来た。テスの爪先で世界が消えた。あるのは深淵、深淵と見分けのつかぬ空。かつて赤い空のただ中に、黒い太陽が輝いていたように、今は闇のただ中に、赤い真円が浮いている。その真円を横切って、鳥たちの群れが翔き去る。
何かを啓示するように。
群れは赤い真円を背景にくるりと方向転換し、しばし留まる。テスに姿を見よとばかりに。
その意味が、突如わかった。
「俺はお前になる」
テスは鳥たちに手を伸ばした。
「お前は俺になれ!」
地を蹴った。深い闇に身を投げる。鳥たちは空に留まっている。テスは手を伸ばす。落ちていく。遠ざかる。それでも空に手を伸ばす。
「一緒に生きよう!」
恐ろしい風が、テスの背中を打ち、やがて重さに従って、頭が下になった。テスは目を閉じなかった。何も見えなくても、やがて、希望が見えるはずだった。罪と堕落を知る者に、それが与えられるのなら。
全ての感覚を研ぎ澄ませる。錐のように。テスは思う。果たして自分に何ができただろう? 世界を救う。世界を変える。命を守り、希望を与える。そんな大それたことはできなかった。
だけれども、自分に希望を与えることはできるはずだ。
ならば、ならば……。
世界を救う戦いは、全ての人間一人一人の中で行われるのだろう。
「俺は生きる!」
テスは叫ぶ。もう上も下もわからない。落ちているのか、上っているのか、平衡感覚はとうに失われていた。
「死んだりなんかしない!」
眼前が、白い光に覆われた。思わず目を閉じた。閉じた瞼の内側さえも、白い光に塗られた。
懐かしい気配がそばにあった。気配は女の声で言った。
「おまえ、よく頑張ったね」
久しく聞く声。忘れるはずのない女だった。
「キシャ……」
「戦いは終わったよ。一番難しい、最後のね。お前は知らない内に戦っていたんだ」
「誰と?」
「ミスリルと、アエリエと。だけどお前は誘惑を破ったね」
「俺は勝ったのか?」
「そうだよ」キシャの声は優しかった。「全ての戦いに勝ったんだ。お前は世界を救ったよ。自分で自分を赦したのだから」
テスは風の中で、声に集中した。キシャの声はよく聞こえた。真横にいるようであり、テスの体の中にいるようでもあった。
「全ての人一人ずつが、撒き散らされた神の欠片だ。神はお前の中にもいる。だから、おまえは自分に対してそうする資格がある。目を開けてごらん」
体を包む風が、ふと弱まった。
「恐れるんじゃないよ。私がお前の風になる」
目を開ける。光に満たされた。朱に染まっていない、透明な光に。
テスは悟る。
魂には透明な故郷がある。
透明な光が差す場所が。
静かな世界が。
そこでは怒りも悲しみも、憎悪も、全てが透きとおる。
空が青に染まった。透き通る水色だ。
翼を広げる。
『お行き、渡り鳥。自分の本性を生きるんだ。言葉を大切にね』
風の言葉を聞いて、一羽の鳥が鳴く。
鳥は小さな村の上を飛ぶ。まっすぐ飛んでいく。村の外れの池の畔で、サラが水瓶に水を汲んでいる。
何か感じるものがあるのか、サラは青空に目を細め、目の上に手をかざした。何か聖なるものでもあるように、一羽の鳥から目を離さない。
鳥は、遥かな空へ飛んでいく。
その内に、小さくなり、ついに見えなくなった。
〈完〉
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