chilledscape #09 堕落の時代
1.
石床の敷布の上に片膝を立てて座り、テスは針に糸を通した。傷だらけの指は三度狙いを外して針穴の横を滑り、四度目に穴に入った。
膝を立てたほうの足の臑に針を近付ける。服は茨に裂かれ、血で汚れていた。止血はしたが、服の血はまだ生乾きだ。その布地を右手でつまみあわせ、左手で縫っていく。
目はうつろで、瞼は今にも落ちそうだったが、手をつけた箇所を縫い終わるまでは持ちこたえた。最後に糸を結び、鋏(はさみ)で針と糸を切り離すと、テスは鋏も針も敷布の上に投げ出して、壁に背を預けた。そのまま目を閉じた。意識が闇に落ちていく。不鮮明な夢から様々な気配が滲み出て、暗闇でテスを取り巻いた。
気配は一つに収斂(しゅうれん)し、女の声で囁いた。
「目を閉じたまま聞きなさい」
眠っているとも起きているとも言えぬ状態で、テスはその声を聞いた。
「私はおまえを離れるよ」
茨の中で聞いたのと同じ声、しかし、今は優しく、教え諭す口調だった。
テスは心の中で尋ねた。
「俺を見捨てるのか?」
「そうだよ。おまえを突き放すのが、おまえへの最後の助けになる」
痺れた頭は何も思いつかず、言われたことを理解できているのかどうかもよくわからなかった。テスはただ心に浮かぶことを尋ねた。
「じゃあ、最後にもう少し教えてほしい」
「言ってごらん」
「この夕闇の国で、一人で、俺はどうすればいいんだ?」
沈黙があり、夢うつつの状態でテスは待った。
キシャからの答えはこうだった。
「ここは夕闇の国なんかじゃないよ」
「どういうことだ?」
再び沈黙が訪れた。テスはキシャが答えないことで、ひどく悲しくなり、ほとんど目が覚めそうなほどだった。
「キシャ、どうして黙るんだ? どうしていつも、本当に大切なことは教えてくれないんだ?」
「おまえが本気じゃないからだよ」
どう訴えようかという思いを見抜いたかのように、キシャは重ねて言った。
「まだだ。まだ本気じゃない」
心はひどく揺さぶられたが、疲労によって夢うつつの状態は保たれた。瞼は重く、開かなかった。
「船の上でおまえは、言葉つかいの脅威を私に説かれても、人を助けずにはいられないと言ったね。私は、ならば自分の信念でそうしろと言った。その結末を、自分の体で知りなさい」
「キシャ、あと一つ」
テスは悲しみのままに引き止めた。キシャの気配が応じる。
「何だ?」
「キシャ、俺は人間だ。そうだろ?」
化生の姿、とりわけ機関車を襲った恐ろしいものの姿を思う。
言葉つかいの力、とりわけ人を魚に変えたあのおぞましい業(わざ)を思う。
俺は化け物なんかじゃない。
「なあ、そうだろ……?」
「違うよ」素っ気ない答えだった。「そんなのは、おまえに対する他の人間の態度を見ればわかるじゃないか」
それきり声は消え、女の気配もなくなった。
テスは目を開けた。もう閉じていることも眠ることもできなかった。
キシャの器となるような女性も、『亡国記』とその光も、テスの前には存在しなかった。廊下と部屋とを区切る石壁と、窓、窓の向こうの廊下、そして廊下の壁に設けられた窓と、窓を朱色に染める光。それが、テスの前にあるものだった。
赤すぎる夕闇が揺らめいて、誰かが光を水のように掻き回した。テスは見る。翼をはためかせ、天空を渡る善い生き物を見る。群れ飛ぶ鳥の影を。
鳥たちは窓から見える位置に留まり、動かない。
テスは手を伸ばす。叫ぶように手を伸ばす。声はない。ただ口を開け、無音の叫びを放つ。鳥たちはテスに訴える。翼の音で語りかける。
てす、泣かないで。
てす、泣かないで。
てす、泣かないで。
てすなかないでてすなかないでてすなかないでてすなかないでてすなかないでてすなかないでてすなかないでてすなかないでてすなかないでてすなかないでてすなかないでてすなかないで。
てす……てす……。
なかないで……。
テスの手が指先から力を失っていく。
そして、床に垂れ落ちた。
※
どれだけ眠っても眠かった。壁にもたれかかっていたはずが、気付けば敷布に横たわっていた。もっとずっと寝ていたかった。異様な眠さとだるさだが、起きて歩き、飲むものと、食べるものを探さなければならなかった。テスは寒さに震えながら、敷布に手をついて起きあがった。
座り込んで指で髪を整え、もう一度縛ったとき、夢でキシャと話したことを思い出した。そして、あれは夢だったのだろうかと考えた。話しているときは、夢ではないように思えたが、夢とはそういうものだろう。それに、信じたくなかった。この世界でキシャの助力を失うなど、考えるだけで怖かった。
テスはアルネカが消えた街の、中枢と呼ばれる場所にいた。たとえ廃墟と化していても、祈りの場にいると安心できた。何もない部屋を出て、窓から差し込む朱色の光で染まった廊下を歩く。隣の部屋は広く、足踏みミシンがいくつも並んでいた。その部屋の先の階段を上ると白塗りの鉄扉に行き当たり、開けると屋上に出た。屋上は洗い場で、かつてこの建物で働いていた女たち、テスの服を洗ってくれた女たちが生き残っているような錯覚に陥ったが、気配を探っても、見つけられるわけがなかった。
屋上に設けられた歩廊を渡り、物見のための小塔まで行った。錆び付いた梯子を上り、警鐘の下に立つ。
そこからは街を一望できた。
左手には一対の円錐の屋根を持つ主郭が聳え、右手には、丘の向こうに灌漑された村がある。更に丘を挟んだ向こうには、海が広々と展開されていた。
それから、真後ろを見た。
見えたものは二つあり、その両方がテスを恐れさせるものだった。
一つは地平線と空の間を黒く塗る、化生の大群だった。これほどの大群は見たことがない。右を向いても左を向いても、その端は見えなかった。鳥か虫のような、飛ぶものの形をしている。それがこちらにやって来る。
もう一つが四台のジープだった。一列に連なって、中枢の外、水道橋に沿って延びる道路を走っている。
化生より人間が恐かった。
テスは人間が好きだった。人と一緒にいたかった。仲間に入れてもらえなくても、そばにいさせてもらえればよかった。人に笑っていてほしかった。楽しく生きていてほしかった。
今は違う。
人はテスを殺す。テスも人を殺す。敵同士になってしまった。
追っ手だろうか? テスは慎重に考える。違うかもしれない。丘の向こうの村の人たちかもしれない。ならば化生の危機を告げなければならない。
テスは大気をまとって塔から飛び降りた。着地の寸前で静止し、爪先をゆっくり地につける。中枢を横切り水道橋へ向かった。
アルネカが消えて街の空は晴れたが、今また雲が押し寄せて、晴れている部分より、雲に覆われている部分のほうが多くなりつつあった。テスは中枢を囲む城壁から民家の屋根に飛び降り、その後は、屋根の上を通って移動し、水道橋に飛び乗った。
アーチ型の橋を上下左右に積み重ねた形の水道橋は、長い間風に洗われ、足を滑らせるような物はない。ただ時折雲間から差す光によって落ちる長い影に気をつけながら、テスは歩いた。
果たしてテスの体もテスの影も見咎められることなく、ジープに乗ってきた一団を見つけた。三人ずつに分かれてジープが止められた区画に散っている。
テスは言葉つかいの気配を感じ取った。
水道橋の上から探す。建物の陰にいるようだ。気配をたどるべく、水道橋から飛び降りた。
その言葉つかいはすぐ足許にいた。音もなく屋根の上に降り立つと、声が聞こえてきた。
しゃがんで気配を消し、屋根の上を移動する。
ついに声が聞こえるようになった。
「堕落ってどういうことだ?」
声をはっきり聞き取れるようになってから、テスは屋根に伏せた。屋根の縁までたどり着き、そっと顔を覗かせる。
二人の男がいた。
一人はジュンハだった。機関車の中で会ったサイアの父親だ。彼もテスの顔を覚えているはずだ。
もう一人の男は赤毛の言葉つかいだった。気配の源となっているその男は、まだ若く、体つきががっしりしており、苛立った様子のジュンハの前で困ったように髪を掻いていた。
「だからさ、言葉が神ならば、俺たちは神の力を、あんた方はその銃で、神を模した力を使っているわけだ」
テスは腹這いの姿勢で後ずさり、屋根の上に完全に姿を隠したが、興味を抱いて会話に耳を傾けた。
「でも実際に起きていることときたらどうだ? その力を誰もが自分のために使ってる。俺もだ。その結果いがみあって、殺しあって、そうだろ? 誰にも正しいことはできないし、この力で何かを悟ることもない。むしろ力によって道を踏み外してる」
ジュンハは黙っている。
「この街でかつて起きたことだってそうだ」言葉つかいは喋り続けた。「こんな小さな共同体の中でさえ、いがみあって、殺しあって、滅んでしまった」
「それがどうした」
娘を殺された父親は、怒りを込めて応じた。
「いがみあって殺しあうことをどうして止められる? 何の罪もない一人娘を殺されて、どうして殺さずにいられるんだ?」
ジュンハがそれを言い終わらぬうちに、言葉つかいがため息をつくのが聞こえた。ジュンハが言い募る。
「お前、やる気がないなら――」
「うるさいな、もう! わかってるよ!」言葉つかいがそれを遮る。「前払い金たんまりもらっておきながら、やる気がないわけありませんよーだ。ちぇっ!」
テスは屋根の上を更に後ずさって、二人から遠ざかった。
化生から逃れなければならない。
あとは運命が、彼らと自分をどうにかするだろう。
2.
丘と林を越え、その小さな村に着くまでに空は雲で覆われた。雨が降り始めた。その雫は砂地を黒ずんだ色に変え、やがてその黒ずみで地は塗り替えられた。テスには雨を避けられるところに急ごうという気さえ起きなかった。すぐにずぶ濡れになった。雨のほか何も見えず、水は服の表面から中へ浸透していき、体を冷やした。
そのうちに、村の外れの池にたどり着いた。池と村は言葉つかいが立てた石碑と結界で守られている。テスは池の畔(ほとり)に歩いていき、雨で波打つ水面のすぐそばに膝をついた。両手を碗の形にし、すくって口に運ぶ。冷たい恵みが体に満ちた。
一息つくと、畔に立つ痩せた木の陰から人が出てきた。
テスはその人を見た。両手がほどけ、残っていた水が膝にこぼれた。
水瓶を手にした、見たところ二十歳(はたち)前後の娘だった。
雨がやむのを待っていたのかもしれない。
テスと娘は互いに驚きを込めて見つめあった。テスが立ち上がると、娘は雨の当たらぬところから何か話しかけてこようとした。だがテスは目をそらして立ち上がった。
娘に背を向けるとき、テスの目に天を黒く覆う化生の群れが映った。化生は城壁に囲まれた街へと下りていった。
「あの街……人がいるのでしょうか」娘が話しかけてきた。「餌になるものがなければ、化生は留まりません」
とても答える気にはなれなかった。娘を見ようという気も起きず、こんなことではいけない、と思いながらも、テスは歩み去ろうとした。
「待って」
娘が木陰から出てきて、後ろからテスの肩を掴んだ。
「私たちの村で休んでいってください」
テスは黙って首を振る。
「では、せめて化生が去るまで」
歩き続けるが、娘は肩を掴んだままついて来た。
「ずぶ濡れではありませんか。服がこんなに水を吸って」
テスは答えなかった。
「せめて、火に当たっていかれませんか? 村の集会所が使えますし、事情は何も聞きませんから」
空いているほうの手で、娘は更にテスの左手の二の腕を掴む。
「お願いです。どうか……」
それで、テスは足を止めた。
娘の優しさが本物なのか、確かめてみたくなったのだ。
娘はサラと名乗った。栗色の髪をした、見た目にも純朴な娘で、池を迂回して言葉通りにテスを村へと導いた。野外に人はいなかったが、畜舎からは物音や咳の音がして、覗き込むと不信に満ちた暗い目に出会うことができた。それらの目は、この世界の多くの人々がしている目であった。
雨の音と嫌悪の視線に満たされて、村の集会所にたどり着いた。およそ働き口などなさそうな小さな村の中央に位置する、漆喰で作られた円柱の建物で、明かりはなかった。中は一間だけで、その円形の部屋の中央にあるストーブにサラが火を入れた。排気用の管がストーブから天井に伸びていた。サラは部屋の隅からスコップで石炭を運んできて、ストーブに投じた。それから椅子を一脚持ってきて、虚ろな目で佇んでいるテスに、丁寧に右手で示した。
「どうぞ、掛けてください」
テスは濡れたマントやストールを脱ぎもせず、力なく椅子に掛けた。
街にいた人々はどうなっただろう? 皆死んだのだろうか? 彼らの中には言葉つかいもいた。何人かは生き残るかもしれない。だが何人かは死ぬだろう。化生によって死ぬのではない。テスによって死ぬのだ。テスを追ってきたのだから。そしてテスが、危機を知らせることをせず、一人で逃げたのだから。だが、生き残った者たちが追跡を続ける可能性を考えると、ここにも長くは留まれない。
サラが手を伸ばして、テスのストールを外そうとした。テスは首を横に振った。髪から雨の滴が垂れ落ちた。サラが動きを止める。何となく目を上げて彼女の視線の先を辿ると、テスの両手首に止血のために巻かれた、血で濡れた布を見ていた。サラが恐れを込めて尋ねた。
「どこから逃げてきたの?」
テスはただ、サラの目をじっと見つめた。
集会所の戸が開け放たれて、二人は同時にそちらを見た。
村の男が六人入ってきた。二十代の若者に見えるのは一人しかおらず、中年は二人、あとの三人は老人だった。
彼らはテスとサラを取り囲み、見下ろした。テスはうなだれて椅子に腰掛けたまま、顔を上げる気も起きなかった。
「どこから来た?」
最初の質問が放たれた。後には沈黙が続いた。
「名前は?」
別の村人が威圧的な調子で尋ねる。
雨音が円い部屋に満ち、テスはまた眠くなってきた。どうしてこんなに眠いのだろう? 眠ってばかりいたい。眠り続けたい。
「言葉つかいか?」
テスは目を閉じた。
「やっぱりそうだ、こいつ」
村人たちは話し続けた。
「災厄だ。言葉つかいだ」
「あの街がまた姿を現したのも、こいつが関係してるんじゃないのか?」
誰かが椅子の脚を蹴る。
「おい、答えろ」
「やめて」サラが割り込んだ。「この人は口も利けないほど疲れているの」
テスは目を開け、ぼんやりしながら瞬いた。
間近にいるサラの緊張が伝わってくる。
仕方なく口を開いた。
「化生が去ったら出ていく」
ひどく掠れた声しか出ず、村人たちが反応しないので、伝わらなかったかと思った。だがやがて後ろに立つ一人がこう言った。
「言葉つかいなら化生なんてどうにかできるだろう」
「お願いだから」と、サラ。「雨が降ってる間だけでも……このまま外に出したら、この人は死んでしまうかもしれない」
「知ったことか」
真横に立つ男が吐き捨てる。
「サラ、お前はよ、村をどうしたいんだ?」
「どうもしたいとは思わないけど……」サラは唾をのんで続けた。「お願い。必要な物は私の家で賄うし、迷惑はかけないから」
「お前自身で稼いだ物が、お前の家にどれだけある?」
質問ではなく、嘲るために放たれた言葉だった。
「お前の親父も報われねぇな」
そして、入ってきたときと同じように、男たちは不機嫌そうに集会所を出ていき、戸を閉めた。
彼らの足音が聞こえなくなると、集会所には、再び雨音が満ちるだけとなった。
サラはテスの目の前に跪(ひざまず)き、テスの右手を自分の両手で包み込んだ。テスの両目は開かれているが、何も見えていなかった。サラの顔を見たいとも思わなかった。
「傷口を洗いましょう」
穏やかに声をかけ、サラは立ち上がった。集会所を横切り、出ていった。そしてテス一人となった。
ジュンハはどうなっただろうと、テスは何となく思った。生きているかもしれないし、死んだかもしれない。彼の娘はテスのせいで死んだ。ジュンハによって罰を受けるべきだと心のどこかで思っていた。むしろ願ってさえいた。そうでありながら、むしろジュンハを死の危険の中に残して逃げてきてしまった。
何をしたいのか、何をしているのか、テスにはわからない。自分はいっそ殺されるべき罪人なのだろう。そう思う。
サラが戻ってきて、集会所の戸を開けた。小さな水瓶と、膏薬の瓶、包帯が入った籠を抱えている。歩み寄ってきて、テスの足許にそれらを並べた。包帯を収めた籠から鋏を出し、テスの手首に巻き付いた布を裁ち切っていく。籠の中には、他に、油紙に包んだパンがあった。
サラは手を休めずに尋ねた。
「目眩がしますか? ひどく血を流したのではありませんか?」
テスは答えなかったが、サラは気にもせず濡らした水で傷口を拭き、膏薬を塗っていく。平気なふりを装っているが、手には迷いがある。皮膚をずたずたにしたこの傷がどういうものなのか、何故こんなことになったのか、想像するだけで恐いのだろう。
そのうちに、遠くから羽音がきて、たちまち大音量となって空を覆った。雨音がかき消され、窓の外が真っ暗になる。
化生だ。
「ここには結界があります。私たちも慣れていますし、怖がらないでください」
サラの顔を照らすのは、ストーブの火のみとなった。
「でも、ここまで大規模な群れを見るのは初めてです」
テスはだんだん、サラの穏やかさや親切さが耐えられなくなってきた。サラは包帯を巻きながら続ける。
「この村には、二人組の若い言葉つかいの行商が来るんです。男の人と、女の人で……あの人たちのことが心配です。……指を消毒しましょう。それが終わったら、他のお怪我を見せてください。それか、お顔のお怪我に触れてもよろしいですか?」
テスは最後の一言に応じようとせず、沈黙を続けた。サラは黙って待っている。なので、首を横に振った。
「遠慮なんてしないでください」サラは恐れてはいるが、苛立つ素振りは見せない。「これは私が好きですることですから」
どうして、ここまで親切にするのだろう? テスはその疑問を、最も短い聞きかたで尋ねた。
「どうして」
テスが喋ったのが嬉しいのか、サラはテスをまっすぐ見上げて微笑んだ。
「聖典の教えです」
そして、一語一語をゆっくり暗誦した。
「『兄弟愛が保たれますように。手厚く旅人をもてなすことを忘れてはなりません。そうすることによって、ある人々は、知らずにみ使いたちをもてなしました』」
「み使い?」
テスは虚しく否定した。
「俺はお前が思っているようなものじゃない」
テスはこれ以上の介抱を拒み、突き放すように言った。
「俺に構わないほうがいい。ろくなことにならない」
肉体よりも精神的な疲労のほうが酷かった。
人の親切を受け入れるのも、心の強さや力の一つらしいとテスは知った。今やそんな力さえ失われていた。ただただ一人にして、放っておいてほしかった。
「さっきは、約束を破ってしまいました」サラが真顔になる。「ごめんなさい。もう、あなたが何をして、どうしてここに来たかは問いません。ただあなたが痛ましいのです。ですから……」
不意に何もかも打ち明けてしまいたいと思った。
そうしたら、彼女は自分を軽蔑してくれるはずだという、卑しい願いだった。
「俺は罪を犯してここに来た」
衝動的に、そう言った。サラは頷いた。
「あなたが希望を失うほどの罪ですか?」
テスは頷き返す。
「ああ」
「ならば希望は、再び与えられます。私はそう思います」
再び聞き返す。
「どうして」
「あなたがしたことを私は知りませんが、私も日々罪を犯しますから。それでも希望が与えられない日はありません」サラは淡々と答えた。「私は毎日、およそ神のみ旨に添わぬ、罪深い思いを抱きます。村に来る宣教師の先生にも打ち明けられぬ思いです。そして、私は聖典をよく読み、罪について祈りました。そしたら何が起きたと思いますか?」
「何が起きたんだ?」
「答えがあったのです。おかしなことを言っていると思われるかもしれませんが……」だが、目は確信に満ちていた。「泣き濡れて眠るとき、人ならざるものの声を聞きました。声は私に言いました」
「なんて?」
「『希望は、罪と堕落を知る者に与えられます。それは、残りが僅かなときにこそ、強く輝きます』、と」
サラは跪いたままテスをじっと見上げ、反応を待っている。だが頭も心も麻痺し、テスには何も言えなかった。化生は村の上に止まり、羽音も影も去らぬままだ。少しして、サラは微笑んだ。
「ごめんなさい。おかしいですよね。でも、私にとっては本当なんです」
「それは、聖典の言葉なのか?」
「いいえ。私だけが聞いた言葉です」
テスはもう少し、聖典や信仰の話を聞きたかった。
「どんな聖典なんだ?」
「外の世界からもたらされたものです。地球人の聖典だったものを下敷きに、外の世界の女預言者が編み直したものとされています。宣教師の先生のお話では、ひどく迫害された宗教だそうです」サラは笑顔を見せた。「でも、私は気にしません。そんな貴重な聖典の文が、どんな形であれ残っているというのはありがたいことだと思いますから」
ふと心に引っかかるものがあった。テスはそれを口にした。
「その女預言者の名は?」
何故そんなことが気になったのかはわからない。だが答えは得られた。
「キシャ・ウィングボウ」
頭の中の霧が、一瞬にして晴れた。
目に光が戻る。
テスはサラの顔を直視した。驚いた様子で、サラは顔を強ばらせた。
「キシャ――」
またも、この雨の中を誰かが歩いてくる。今度は一人だと足音で知れた。
戸が開け放たれると同時に、雨音と、羽音と、嫌な気配がなだれこんできた。
「サラ!」
男の怒鳴り声で、サラは初めて怯えた顔を見せた。外は暗く、部屋の中央のストーブからも離れているため、戸口に立つ男の姿はよく見えない。だが上半身が裸で、しまりなく太っていることはわかった。
「何やってんだ、お前」
不機嫌に言いたてながら、大股で入ってくる。サラは、包帯を替えたばかりのテスの手首に手を添えたままだったが、その指先が強ばるのがわかった。
「今日の井戸掃除の担当がどこかわかってんのか」
「ごめんなさい、うちです、お父さん。わかってるわ。雨がやんだら、すぐに」
「それだけじゃない!」
男はなお近付いてくる。
「飯! 掃除!」
「待ってて、これが終わったら」
「これって何だ」
そして十分に近付くと、青ざめて目を伏せるサラと、テスの前に立つ。サラを冷酷に見下ろした。だがテスに対しては、見ようともしなかった。
「これって何だ、言ってみろ」
男はズボン下を履いており、その下に下着が見えて、だらしなく、ひどく醜い格好に見えた。
「お前よう」顔から生気を拭い去られ、目の光を消したサラから、男は更に活力を奪い取ろうとしているようだった。「よそものの男と、家のことと、どっちが大事なんだ?」
「この人は疲れてるわ」サラが弱々しく言い返す。「貧血気味のようなの。顔色も悪いし……」
「お前さあ」底意地悪く、男は言う。「お前は男の前ではいい顔をするよなあ」
「そんなんじゃないわ」
だが、男は口にするのも憚られるような品性下劣な言葉でサラを侮辱してから、更に言い立てた。
「なんだ? またアレか? 変な宗教の本に書いてあることを言い訳にするつもりか?」
「変な宗教なんかじゃないわ」その一言に、ようやくサラはまともに反応した。「私はするべきだと思うことをしてるだけよ」
「ふん、まあそれがお前には相応しいかもな」男が嘲笑う。「宗教にのめりこむ奴なんて、大概頭が悪いか、心が弱いんだ。せいぜい一生懸命努力して、無駄なことやってろ」
「やめて」
サラが立ち上がる。
顔を上げたテスは、ひどく下卑た笑いを男の顔に見た。男が手を上げたとき、おかしなちょっかいをかけるつもりだと理解した。視界の端で、サラが息をのみ、腕で胸を庇うのが見えた。
疲れ果てていたにも関わらず、憎悪にも似た強い怒りがテスの心に閃いた。
がたりと椅子が音を立てた。
男と目があった。彼は、テスがいつでも立ち上がれることと、その目の鋭い光に気がついて、怯(ひる)んで手を引っ込めた。それからテスを睨み返したが、いざとなったら勝てぬという程度のことはわかるのだろう。
「神がいるなら救ってみやがれってんだ」ばつが悪そうに吐き捨てて、もう一度、「サラよう」
テスが放つ張り詰めた空気に緊張しながら、サラは横目で男を見た。
「男にどんなに媚び売ったってなあ、お父さん、知ってるんだぞ? お前が毎日俺に便所を覗かれてるメス犬だってな」
人の不幸が嬉しくて仕方がないタイプの男らしい。サラの顔が一瞬で真っ赤になるのを見て、大声で嘲笑い、背を向けた。出て行くのだ。戸口にたどり着くと振り返り、わざとらしい優しさを込めて言った。
「サラ、お父さんがこの程度で済ませてるうちに家のことをしたほうがいいぞ」喋りながら戸に手をかけた。「ま、腹を空かせて待ったところで、所詮メス犬の料理はメス犬の餌並みにまずいんだけどな」
ようやく男は出て行った。戸が開いて外の羽音が大きくなり、閉まると小さくなった。
サラは黙っている。
彼女は出て行ってしまうのではないかと思い、テスは恐れた。一人にしておいてほしいと願っていたにも関わらず、今、サラに一人でいてほしくなかった。
迷った挙句、サラを引き止めるためにテスは話しかけた。
「あの人の言うことは間違ってる」
サラは少し顎を上げ、動揺しながらテスに目をくれた。そしてまた、うなだれて何か迷い、迷いながら口を開いた。
「あなたには信仰がありますか?」
「ある」
迷いを捨て、サラがテスを直視した。テスはすぐに続きを言った。
「でも、忘れてしまったんだ。この世界に落ちてきて、記憶を失った。あったことだけ覚えてる」
「そうですか……でも、何となく、そうではないかと思いました」
サラの顔に微笑が戻る。彼女はまたテスの前に跪いた。
「あなたは道に迷われた。それでも信仰を持つ人はみな兄弟、姉妹です。あなたは私の兄弟です」
「サラの家族はみんな宗教が嫌いなのか?」
「ええ……残念ながら。仕方ありませんね」
一人でも、信仰はできる。それでも露骨に馬鹿にする人間が近くにいないほうが好ましいに決まっている。
「聖典は両親の尊重を説いています」
テスはサラの目を見て尋ねた。
「そうなのか?」
「はい。父母を敬えと」
なんと難しいことだろう。
先ほどの男を敬うなど、テスにはとてもできない。
「私は――」サラの声が震えた。「その教えに触れるたび、むしろ父母を憎みます。憎んで、聖典の教えに背くという罪を犯します。でもそれは、自分では止められないんです」
「無理もない」
「私の手に余る問題です」サラは目をつぶった。表情が消え、また目を開けると一息に言った。「だから、この問題は神の手に委ねます」
そして、唇を強く結んだが、テスがそっと頷くと、また口を開いた。
「……こういうことを、神に救いを求めることを、人は心が弱いからとか、頭が悪いからというかもしれません。ですが、目に見えないものを信じ、命を託すことは、むしろ心の弱い者にこそ厳しく……難しい道だと私は信じます」
「サラは弱くない」
「いいえ。それに、とても卑しい。あの人が言った通りです。私には、自分が神の国に相応しい人間だとは思えません。その国に入る資格があるとは思えないのです」
テスには何も言えなかった。
「ただ、私にできることは……ああいう家族と……その中にいる自分を、見つめることだけです」
胸の前で指を組み、サラは祈った。そして指を解くと、右手をテスの膝に添え、弱弱しく微笑みかけた。
膝にあるサラの手の重みを感じたとき、その手は温かく、柔らかいのではないかという気がした。テスは左手を動かして、サラの手に重ねた。思った通り、温かく、柔らかかった。その上細く、繊細だった。
「温かい……」
血で汚れた手で触れるべきではなかった。人に触れる資格も、温もりをわけてもらう資格も、自分にはない。そうわかっていても、手を離せなかった。サラも払おうとはしなかった。
「サラ」
自分のことを知ってほしいという願いが沸き起こり、制御できなかった。
「テス」
相応しくないと知っているのに。
サラは丸い目で見上げてくる。
「俺の名前。マリステス」
二度瞬いてから、サラはにっこりした。
「テスさん」
不思議と疲労が癒えていき、感情が戻ってきた。サラは何かに気付いたような顔をし、籠に右手を突っ込んだ。そして油紙で包んだパンを差し出した。
「これ、食べてください。今朝焼いたものですから」
「ありがとう」
包みを受け取り、広げてパンの匂いをかいだ。食欲などなかったはずなのに、食べたいと思った。ハムとチーズが挟んであった。口に入れると、ちょうどよく胡椒がきいていた。
「ああ……よかった」サラが、再び胸の前で両手を組む。「テスさんが食べてくれた……」
「おいしい」テスは、サラの父親が彼女に酷いことを言ったのを思い出した。「サラは料理がうまいんだな」
サラは両手を組んだまま、顔を上げようとはせず、むしろ深くうなだれた。鼻をすすり上げた。息の震えを感じた。サラは泣いていた。テスは痛ましく思った。もう一度手を触れあいたいと思った。だが、それがサラの望むことかどうか、わからなかった。
「テスさん」
震える声に、テスは身を乗り出す。
「ああ」
「雨がやむまでは、ここにいてください」
不意に羽音が遠のきはじめた。窓の外から光が射し、サラの姿に薄い光芒が重なって、そして雲が割れた。
雨は続いていた。僅かな雲の割れ目から光の柱が斜めに降り立ち、輝く雨のひとつひとつの雫に虹を宿らせた。
雨は無音だと、テスは感じた。
※
雨がやんでも、テスはしばらく村に留まった。人々が眠りに落ちる頃、家を抜け出してきたサラに付き添われて村を出た。
サラと出会った池まで来てみると、晴れた今、海に向かって落ち込む崖と、きらめく海が見えた。サラによれば、崖の下の道は地元の人間にしか知られておらず、辿っていけば小さな港町に着くという。
テスは遠くに行く。自分でもわからないほど遠くへ。だがサラは違う。この村の、酷い家族と家庭に留まる。テスはそれが痛ましく、悔しくさえあった。サラは辛いだろう。だが、だからといって何ができる?
いつか、善いところに導かれてほしい。
そう願うしかなかった。
「テスさん」
そっと呼びかけられ、池の畔を歩き続けながら、テスは自分より少し背が低いサラの目を見下ろした。
「いつか、戻ってきてくれますか?」
純粋な目がまっすぐテスを見上げていた。
もう一度ここに来ることがあるだろうかとテスは考えたが、その可能性は限りなく低いと思われた。だがそれを告げるには、サラに対しても自分に対しても残酷だった。
「わからない」
そして、いつしか自分がサラと共にいたいと思い始めていたことに気がついた。
定住という考えが思い浮かんだ。屋根の下に住んで、どこかで働いて、素敵な異性が待つ家に帰る。
魅力的な考えだった。
それでもやはり、そんな生活はできないだろう。一緒にいる誰かを必ず危険に晒すだろう。
サラの目に失意が影を落とした。
車の走行音を聞いたのは、池を離れ、池と崖の中間地点に差し掛かったときだった。
どこか近くでエンジンが音を立て、タイヤが荒れ野を踏みつけている。
こちらにやってくる。
テスの目に映ったのは、不動の黒い太陽、果てなき黄昏の底を裂いてやってくる一台のジープだった。
テスは立ち竦んだ。
サラをつれて逃げることはできないし、逃げることが正しいとは思えなかった。
ジープはまっすぐテスに向かってくる。
「サラ」
あの街には四台のジープが乗り込んだはずだ。だが一台しか残らなかった。
不穏なものを感じるのか、サラが怯えの滲む目で見上げてきた。
「村に戻れ」
だがサラは動かなかった。動けないのかもしれない。ジープがテスとサラの前で、二十歩程度の距離を挟んで停まった。
ジープ一台しか残らなかったというのは間違いだ。ドアが開いたとき、テスは認識を改めた。
二人しか生き残れなかったのだ。
だがその二人は見たところ無傷のようだった。
一人は赤毛の言葉つかい。
もう一人はジュンハだった。
3.
「戻るんだ」
そのジュンハの目ときたら。
憎悪の光に貫かれながら、テスはサラの体の前に右腕をかざした。
「早く。家に」
機関車のサロンで見かけたときよりも生気が満ちているように見えた。負の感情がもたらす負の生気だ。だがジュンハがそれに支配されているのはテスのせいだった。言葉の力を撃ちだすこの世界の銃に右手が添えられ、その右腕の強ばりまでもがテス自身のもののように感じられる。
「やめて」サラが、テスの腕を押し退けて、果敢にもテスの前に身を晒した。「この人は怪我をしているの。酷いことしないで」
「サラ、よせ」
テスはサラの肩に手を置いて、無理矢理にでも後ろに下がらせようとした。だがサラは、テスの体の前面に自分の体を押しつけて、テスの胸に手を添えた。
「サラ!」
だが、言うことを聞こうとしなかった。銃を持つジュンハの手がぴくりと震える。テスの胸は早鐘を打ち、血が巡り始めた。体が熱くなっていく。
最悪だった。やはり、一刻も早く遠くに逃げ去るべきだった。池の畔でサラに声をかけられたとき、振り切って去るべきだったのだ。
幸いにも、ジュンハにはまだ冷静さがあった。
「その男から離れろ」ぞっとするほど冷たい声で、ジュンハがサラに告げる。「そいつは俺の娘を殺した」
サラの動揺が直接テスの体に伝わった。
二つの相反する思いが同時に胸に沸き立った。
恥と、安堵だった。
そのことをサラに知られたくなかった。だが、知られぬまま好意を抱かれるのは、騙していることになる。
逃げるんだ。テスは一言も口に出せず、動くこともできぬまま、ただ心の中で訴えた。この男の言うとおりだ。俺には庇われる値打ちはない。だから逃げるんだ。
身震いがサラを襲い、彼女は首を横に振る。テスは心の中で訴える。
逃げろ。さあ。
サラが口を開いた。
「事情があるはずよ」
ジュンハの右手が動いた。
それを見た瞬間、テスは動いた。サラの首に腕を回して大地に倒れ込む。
黙って事態を見守っていた赤毛の言葉つかいが叫んだ。
「やめろ!」
サラの上にテスが覆いかぶさり、二人の上を熱い火の塊のようなものが掠めていった。テスが膝立ちになったとき、ジュンハの右肘と右手首は、言葉つかいの男の両手に握られていた。
テスもまた声を上げた。
「この人を巻き込むな!」
そのときようやく、サラを巻き込まずに済む一番いい方法を思いついた。自分が離れればいいのだ。言葉つかいがジュンハの耳許で呟く。
「おい、話に聞く極悪非道の鬼畜外道となんか違わないか?」
倒れたままのサラを残し、ジュンハと言葉つかいの目の前で、テスは崖へと一直線に走り出した。
離せとジュンハが叫んでいるのが聞こえた。だが、サラの叫び声のほうが大きかった。
「その男の人を止めて!」
テスは走りながら振り向いた。ジュンハが一人で追ってきていた。その後ろに、ジープと、荒れ野に座り込むサラ、そしてサラに寄り添う言葉つかいの姿が見えた。
サラはなお叫ぶ。
「お願い、止めて! ……ミスリルさん!」
崖に沿って海に下りる細い道があった。その道に入る前に、テスはもう一度振り向いた。ジュンハが銃のカートリッジを交換している。サラの視界に入るところで闘いを始めたら、駆けつけてくる恐れがある。
石が転がる下り坂に、テスは姿を隠した。坂道の右側は切り立つ崖で、左は石の転がる斜面だった。もうサラに見られることもない。
振り向いたテスは、坂の上に立つジュンハ、その手の銃、そして銃口を見た。
灰色の塊が撃ち出され、それが大きな布のように広がった。向こうにジュンハの姿が透けて見えた。布のようなものが体にかぶさり、絡めとられ、テスは地面に突き倒された。その勢いで狭い道から石の斜面へと転がり、そのまま滑り落ちた。
為す術なく尖った石の上を転げ落ちながら、体に絡みつくものの正体を理解した。網だ。
下の荒磯(ありそ)に叩きつけられて、滑落は終わった。網はきつく体に絡まっている。顔の前に腕をかざしていたが、動かすことはできなかった。
テスはそのまま、さだめの時が来るのを待った。やがて、死と裁きの足音、坂を下りてくるジュンハの足音が聞こえた。近付くにつれ、早足になる。坂を下りてから走り出した。斜面の下に倒れたままのテスにも、その姿が見えた。
爪先が迫ってくる。
撃ち出された網が力を失い、拘束が緩んで体が軽くなった。網が消えていく。だが完全に消え去る前に、ジュンハがテスのもとにたどり着いた。
胸ぐらを掴まれて、引きずり起こされた。ジュンハの燃え立つ目よりも、剥き出しの歯よりも、テスは振り上げられた拳を見た。
左腕をかざしたが、防げたのは最初の一撃だけだった。二度目の殴打を顔に受けた。容赦はなかった。首が強く振れ、その衝撃のためか、痛みすら感じなかった。
三度、四度と殴られて、五度目で気を失いかけた。腹を殴られて意識を取り戻した。テスは痛みに声を詰まらせた。抵抗はしなかった。だが、大人しく殴られるほど、相手の怒りの火は燃え上がるようあった。
顔や腹を激しく殴られた末に、石の斜面に投げつけられた。背中と頭を打ち、そのままずるりと荒磯に倒れた。
聞こえるのは、寄せては返す波の音、時折波に洗われて崩れる石の音、そしてジュンハの荒い息遣いだけだった。
息が苦しかった。口の中に血の味を感じる。殴られて口の中を切ったのだ。だが、内臓に打撃を受けたせいかもしれない。
「馬鹿にしてるのか?」
ようやくジュンハが口を利いた。テスは横様に倒れたまま、その声を聞いた。
「そんなふうに黙って……抵抗できるはずだろう……罪滅ぼしのつもりか? 罪滅ぼしができるとでも?」
殴られた腹が痛く、苦しく、額に脂汗が浮く。テスは歯を食いしばって耐えた。
「言い訳の一つでもしてみろ!」
何も言い訳できることなどなかった。口からは意味のない呻き声しか出ず、それでも口を開けば、咳き込んで、石の上に血を吐いた。
ジュンハはテスの体を蹴り、仰向けにさせた。そして鳩尾(みぞおち)に足を置いた。
意識は朦朧とし、目を開けても焦点は定まらない。霞がかった視界に、銃口を向けるジュンハと、その背景の赤い空が映るだけだった。
「犠牲が必要だったって言いたいんだろう」押し殺した声でジュンハは続ける。「そんなことは他の言葉つかいから散々聞いた。そうしなければ列車に乗っていた全員が死んでたってな。喜べよ、人殺し、子供殺し! お前を英雄扱いする奴だって少なくなかったくらいだ」
鳩尾にかかる圧力が増し、テスはきつく目をつぶった。
「俺が聞きたいのはな」
ジュンハは一層踏みつける。
「……どうしてサイアだったのかってことだ」
テスは目と口を開けようともがいた。目がもう一度光を受け入れたとき、ジュンハが足の力を弱めて、それで、どうにか喋ることができた。
「あのとき……」荒い息に半ばかき消されながら、テスはどうにか答えを口にした。「……俺の、一番近くにいたから」
テスは待った。
ジュンハは引き鉄を引かなかった。まだ死の前に受ける苦しみが足りぬと思ったのだろう。鳩尾から足をどかすと、テスの右の頬を爪先で蹴った。今度はそのまま踵で左の頬を蹴った。
突如耐えられぬという強い思いが沸き起こり、テスは体を捩ってうつ伏せになった。
耐えろ、と理性が言った。当然の報いなのだから。
言葉つかいの力を使って、人を助けたいと思った。覚悟をしろとキシャに言われた。その結果を体で受け止めろと。これが結果なのだ。
だが体は言うことを聞かず、這って逃げようとした。ジュンハが横に回り込み、腕で這う姿勢の体の下に足を入れて腹を蹴った。もう一度横様に倒れたとき、背中を蹴られ、また腹に爪先が食い込んだ。全てが体重をかけた重い一撃だった。
俺が何をしたって言うんだ? 二つに裂けた自分の一人が一層声を上げた。ここまでされなければいけないことをしたのか? 悪いことをするつもりはなかった。仕方がないじゃないか。
顔をしかめ、咳き込む度に石が赤く濡れていく。蹴りつける力は弱まる気配を見せない。このまま蹴り殺すつもりなのだ。
こういう死にかた、殺されかたが自分には相応しいのだ。
正しいことなど一つもできなかったのだから。
化生に怯える貧しい村の人々を助けたいと願った。だが途中で投げだし、立ち去った。ネサルを手助けしてやりたいと思った。その結果一人の言葉つかいの男が死に、ネサルも死んだ。その一件が引き鉄となり、名も知らぬ次の町では大規模な抗争が起きた。たくさんの人が死んだはずだ。そしてサイア。言い訳できるはずがない。
正しいことなどわからなかった。
死のうとしている今でさえ、わからないのだから。
善いことができると思っていたけど、それさえ間違っていた。せいぜい、善いと思うことをできるだけだった。
そして、そうした結果を引き受けるときが来た。
いつしかジュンハが、テスを足蹴にするのをやめていた。
「サイア」一人の哀れな父親が、その名を呟きながら銃を抜く。テスは目を開けられなかったが、音でわかった。「サイア――」
カートリッジを替えている。
嫌だ! もう一人の自分は未だに叫んでいた。死にたくない! 死にたくない! ここで死を受け入れるなら、どうして人を殺して旅をしてきたんだ? ここで全てを投げ出すなら、命を奪って守ってきた自分とは何なのだ?
目が開いた。
開けようと思ったのではない。勝手に開いたのだ。
底力だった。最後の生命が輝き、目に光を与えて、焦点を合わせた。
ジュンハの銃の銃口が自分に合わせられるのが、やけに遅く見えた。
もう力は残っていないはずだった。
テスにもわかっていたし、ジュンハもそう思っていたはずだ。
だが、動いた。
何もかもが遅かった。
突風がテスの体から起き、ジュンハを突き飛ばした。意志と理解に関わりなく、体が勝手に動き、銃を抜いた。
そして、一発の弾丸を撃ちだした。
その一発がジュンハの胸を撃ち抜いて、見届けた途端に、時間が正常に戻った。
テスはいよいよ力を使い果たし、撃たれたジュンハよりも早くその場に倒れた。
波の音が聞こえた。
ジュンハの呻き声を聞いた気がした。だが耳に意識を集中したときにはもう、波の音の他何も聞こえなかった。
殺したのだ。
逃げなければならない。
次の復讐が引き起こされるのだから。
それに、もう一人敵がいた。あの赤毛の言葉つかいだ。言葉つかいと戦う力などもうどこにもない。戦うどころか立ち上がることさえできない。
自分はもう死ぬはずだ、とテスはわかっていた。臓器が破裂していると思う。幸いなのは痛みすらもう感じられないことくらいだ。では、ジュンハを殺したことに一体どんな意味があっただろう。自分はジュンハに殺されるべきで、それが正義だとすら思ったのに、結局間違いを認めたくない一心で、更に罪を犯した。意志の力で体を従えることができなかった。だが、自分一人が死んでジュンハが生き延びていれば、どれほど有意義だっただろう。
自分は悪なのだ、と、テスは悟った。人生最後の悟りだ。
これほど殺し、血を流し、争いの種をばらまいて、自分自身もここまで痛めつけられて追い詰められなければ悟ることができなかった。
この愚かさゆえに、悪なのだ。
神は自分を救わないだろう。
何を信じていたのかさえ、もうわからないけれど。
だが、もういい。もう終わるのだからそれでいい。
もう死んで、終わるのだから。
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(※本文中の『兄弟愛が保たれますように……、知らずにみ使いたちをもてなしました』は、『新約聖書 原文校訂による口語訳 (フランシスコ会聖書研究所 訳注)』からの引用となります)