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冷凍されたオシドリとチューリップ人の王国

趣味で書いている小説用のブログです。

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失語の鳥〈8〉

chilledscape #08 降り来る災厄




 1.

 キシャ、『亡国記』、その光が飛び去った方向へ、テスは歩いた。
 歩き続けた。
 線路に戻り、それに沿って歩くことも考えた。だが線路に戻れる自信はなく、戻れたとしても、その先の都市には自分の命を狙う言葉つかいが待ち受けているものと思われた。
 言葉つかいたちがするように、鳥を作り、飛ばして偵察させることも考えた。一つの思いがそれを邪魔した。
 自分が飛べばいいじゃないか。
 何故そのようなことを思うのかわからない。だが、見よう見真似で試そうとするほどその思いは強くなった。さりとてテスの体が飛べる体に変じるわけでもなく、結局諦めて、ただ歩くしかなかった。
 何度か鳥の羽音めいた音を頭上に聞いた。
 その度にテスは立ち止まり、赤い空に目を凝らしたが、空を駆るものの影は見つけられなかった。何度めか空を見上げたときには、頬をかすめる柔らかい羽根を感じたりもした。
 衣服と足許をよく調べても、羽根らしきものは落ちていない。
 テスは目を閉じる。息を止め、思考を止める。意識を大気に拡散し、気配をよく探る。
 空が急速に暗くなるのが、目を閉じていてもわかった。そして左手側に、何か大きなものの気配を感じた。
 目を開けると、僅かな間に空は恨みがましいほど黒ずんだ厚い雲に覆われていた。薄い部分の雲は空の光を吸い込み朱色に染まっている。
 その薄墨色と朱色のまだら模様の下を、鳥の影が十ばかり、群れ飛んでいった。
 翔くものはテスの左手側、大きな気配のほうに去る。
 体を捻って目で追えば、そこには城壁が影となって高く聳えていた。
 それほど離れてはいない。五分も歩けばたどり着く距離だ。
 城壁の向こうには何も見えない。ただそこにあり、テスの視界を、まだらな曇り空と壁とで二分しているだけだ。
 不思議なことには慣れてしまったテスも、これをどのように解釈すべきかわからなかった。これまで見えていなかったのがおかしいのか……見えるようになったのがおかしいのか。
 鳥たちを追って、テスは壁へと歩き始めた。土の上には小鳥たちの小さな足跡が残されている。壁との距離が縮まるにつれ、その石組みと、石の継ぎ目、上部の歩廊の小窓が見えるようになった。城壁の根に生える雑草が見える距離まで来て、テスは走り出した。
 助走をつけ、それから全力で走り出す。土を蹴って飛び上がり、左足で大気の壁を蹴った。体が大気と同調し、ふわりと高く浮く。空中で体を丸め、くるりと回転する。抵抗を極力殺し、落下へと転じる直前、再び大気の足場を作り、右足でそれを蹴った。
 ガラスの嵌められていない歩廊の小窓へと突っ込んでいく。
 何もないはずの小窓で、だがテスは何かに引っかかった。
 直後、全身を激しい衝撃で貫かれた。
 熱い、と思ったときには地面へと弾き飛ばされていた。
 放電音を聞いた気がした。

 ※

 気だるさに支配され、意識を取り戻してからも、テスはしばらく目を開けられなかった。体は重く、ようやく瞼をこじ開ければ、ベッドに仰向けに寝かされていること、そして、拘束されていることがわかった。
 ひどく静かだった。白い正方形の石を貼りあわせた天井に、水の波紋が揺れている。ゆっくり両手に力を入れてみると、思わず呻き声が漏れた。ずきずきと痛む両手は頭上に上げられ、両手首を縛られていた。ベッドの枠に縛り付けられているようだ。引っ張ってみるが動かない。徐々に力が戻ってきた。体のあちこちを動かしてみる。落下のとき、無意識のうちに受け身の姿勢をとったのだろう。どこも折れてはいないようだ。
 光がくる方向へ、テスは顔を向けた。ベッドは部屋の中央に位置しているらしい。十歩の距離に壁があり、壁には六つの窓が並んでいた。壁の両端には、戸がないアーチ型の出入り口が口を開けている。その向こうは廊下で、廊下の窓は外に面している。光はそこから差していた。朱色に透き通る光の柱が雲の波間から降りていた。
 目を細め、ゆっくり瞬いた。
 足許のアーチ型の出入り口から、一つの影が部屋に忍び寄って来た。人かと思ったが、人ではない。テスは息を詰めた。
 それは鉤型の嘴を備え、大きな丸い頭をしている。首を覆う羽毛が風にそよいでいる。丸く膨らんだ胸。人間のように二足で歩むもの。
 テスは、その影の主が黄色と黒の猛禽の目をしていることを思った。それが歩み寄り、姿を見せ、拘束されたテスを観察する様を思った。だが影はゆっくり引いていき、部屋の入り口からも、廊下からも消えた。
 部屋の中から衣擦れの音が聞こえたのはそのときだった。テスは部屋の奥側に顔を向けた。
 壁際で、女が椅子に座っていた。まっすぐ伸びた金糸のような髪が、顔の両脇に垂れている。窓や入り口から差す光の当たらない場所にいたが、色白で端正な顔や、長い髪そのものが眩しく見えた。目を閉じている。膝の上の両手は編み針を持っている。編まれた赤い毛糸の布が女の膝に広げられ、傍らの小さな円卓には、赤い毛糸玉が乗っていた。
 テスの視線がわかるのか、女は目を閉じたまま口を開いた。
「地獄は暗闇に満ちた場所だと考えておりました」
 抑揚に欠けた、人間みの薄い喋りかただった。
「ゆえに、私は暗闇を恐れましたが、それは間違っていました。地獄は暗闇よりも恐ろしい、真っ黒い太陽が燦々と輝く場所でした」
 手首を上げる。
 右手で円卓の縁を探り、次にその上の毛糸玉の位置を確かめた。左手は膝の上の編み物の上をたどり、その終端を掴んだ。女は盲人だった。
「そして私は、むしろ暗闇を求めるようになりました」
 女は左手で編み物を半分に折り畳んだ。まだ若い。同じ年齢くらいだとテスは考えた。そして、自分の身にこの後ふりかかる出来事を想像した。こうして捕らえられているということは、侵入者として扱われているのだろう。取り調べを受けるか……拷問されるか……。
「私たちが滅ぶとき、まずは色彩が死に、次に輪郭が、最後に言語が死ぬのです」
 テスの生唾を飲む音が聞こえたのか、聞こえなかったのか、女は話し続けた。
「色彩が死んで、真っ黒い太陽が燦々と輝く地獄では、人間の体も炭のように真っ黒で、枯れ木のように痩せ細り、暑く、その黒さに恐れおののいて、私は汗と涙に濡れながら、家へと帰っていきました」
 テスは女の無表情を見続けるしかなかった。
「私は黒さを洗い流そうと、シャワーの栓を捻りました。湯は出ず、水を浴び、タイルの上を黒く染まった水が流れ、排水口に吸い込まれていきます――」
 編み物を、更に半分に折り畳む。
「――そして、体をこすればぼろぼろ崩れて輪郭が死んでいき、恐怖に泣き叫びます」
 針と編み物をテーブルに置き、女は慎重に立ち上がった。聖職者のように、全身を白い衣(きぬ)で覆っている。背はテスより高かった。摺り足で、一歩ずつ足許を確かめながら、テスのベッドにやって来る。
 テスは何かを言おうとした。乾いた喉からは、弱々しい息の音と呻き声が漏れるばかりだった。その声で、女はテスの頭がある位置を把握したらしい。顔のすぐ横に膝をついて、覗き込むように顔を寄せた。
「私は望む闇を得ました」
 女には目を使って覗き込むことはできないが、手をテスの顔に近付けてきた。そして、息を詰めているテスの前髪に触れ、額を撫でた。左の眉をなぞり、思わず閉じた左目の睫毛を指先で慈しみ、鼻筋を通って唇に指を押し当てた。そのまま顎へと指を這わせ、顎から頬へ、頬から耳へと輪郭を確かめる。
「ですが、あなたが美しい若者であることはわかります」
 女の手が布団の中に入ってきて、服の上からテスの胸を撫でた。その感触で、薄手の服に着替えさせられていることがわかった。胸の左右を二、三度撫で回した末に、鳩尾(みぞおち)の上に手を落ち着かせた。身を屈め、顔を寄せてくる。
 唇が触れ合う直前、テスは声を絞り出した。
「やめろ」
 女が動きを止めた。
 頬と鼻と目の上に、ばさりと女の髪が落ちた。思わず目を閉じた。
 ややあって、廊下で少年の声が響いた。
「アルネカ様?」
 階段があり、その下から呼んでいるのだと、反響の仕方でわかった。声変わりが終わったばかりの少年といった感じだ。女の髪と気配が呼気と共に遠ざかり、テスは目を開けた。
「リーユー」女は声の調子を変えることなく呼びかけ、立ち上がった。顔はじっとテスに向けたままだ。「来なさい」
 間もなく階段を上がる足音。そしてまた、影が廊下から迫り、足許の出入り口を染めて部屋に入り込んだ。今度は実体ある者が現れた。やはり少年だった。藁の色の髪をきれいに切り揃え、薄手のチュニックとズボンを身に纏っている。
「リーユーです。参りました、アルネカ様」
 背筋正しく立ち、顔をアルネカに向けて指示を待っている。
「ヤトかティルカを呼びなさい。二人の内のどちらかに、客人の案内をさせなさい」
 リーユーと目があった。彼は初めてテスが目覚めていることに気がついたようだ。見開かれた目に、敵愾心にも近い警戒心を読みとった。少年は目をアルネカに戻した。
「侵入者の縄を解けとのご命令ですか?」
 その声にはありありと、不信の色が滲み出ている。
「私の指示に疑問を抱いてはいけません」
 リーユーが、さっと目をそらし、伏せた。
「彼(か)の者を客人として扱うことを、神はお望みです。私が呼べと言った者を呼びなさい。縄は彼らに解かせます」
「仰せのままに、アルネカ様」
「リーユー」
 アルネカと呼ばれる女は、言葉を重ね、少年を引き留めた。
「ニハイに優しくなさい」
 リーユーが動揺するのがテスにも見て取れた。顔が赤く見えるのは、赤い空の光を浴びているからだけではないようだ。少年は感情を殺した声で答えた。
「はい、アルネカ様」

 2.

 白い湯気の中で、テスはうなだれて立っていた。温かいシャワーが肩と背中を優しくほぐしていく。体を苛む寒さを今だけ忘れることができた。湯をたっぷり含んだ髪の先端に雫が生じ、膨らんで、支えきれないほど大きくなったところで垂れ落ちる。
 どこでもない所を見ていたテスは、ふと左の二の腕に目をやった。肘を上げ、腕から手首、そして指先までを観察し、右手で揉んでみた。体は黒くもなければ崩れさったりもしなかった。赤茶のタイルから突き出た蛇口に右手を動かして、栓を閉めた。湯が止まり、寒さが戻ってきた。
 浴室を出れば、脱衣所には乾いたタオルと櫛、服と下着が用意されていた。壁の高いところに細長い窓があり、朱色の光が差してくる。体を拭いて籠から服を取り、身に纏う。アルネカやリーユーが着ていた服のように、それは白く、テスだけが感じる寒さを和らげるには薄かった。震えを殺しながら髪をよく梳いて、白いゴムで縛る。脱衣所の戸を開けると、廊下でティルカが待っていた。
 ティルカは三十前後の言葉つかいの男だ。堅太りの体格で、がっしりしているが威圧感はなく、目の光は鋭さよりも、信仰を知る者の純粋さを感じさせる。よく笑い、大きな声で話す。リーユーによって引き合わされ、一目見たときに、テスはオルゴを思い出した。この世界で初めて自分の味方だと感じることができた存在。死者の町で別れたが、彼が世界のどこかで自分の無事を祈ってくれていることを思うと、どれほど心強いだろう。そして、彼は今、どこで何をしているのだろう?
「具合はどうだ?」
 ティルカは腕を組んで廊下をうろうろしていたが、テスが脱衣所から出てくると、腕組みを解いて寄ってきた。口は笑っているが、目は心配そうにテスの顔を窺っている。テスはその二つの目をじっと見返して、小首を傾げた。
「ずっとここで俺を待ってたのか?」
「当たり前だろ? 中で倒れたりしたら大変じゃないか。お前が出てくるのが遅いから、どうしようかと思ってたんだよ。痛むところはないか? ふらふらしないか?」
 地面に打ちつけた箇所には大きな痣が出来ていたが、死者の町で受けた傷ほどひどいものではない。落ちたら死んでもおかしくない場所から叩き落とされたことを考えると、こうして一人で立っていられるのも奇跡に近いほどだ。気を失う直前に体を包む大気のクッションを作ったのかもしれないが、よく覚えていなかった。
 テスは目許を緩め、少しだけ微笑んだ。
「ありがとう。俺なら大丈夫」
 二人は殺風景な廊下を渡り、裏口から建物を出た。
 白い砂の打たれた、花も木もない裏庭が広がり、連結された茶色い石造りの建物が三方向を囲んでいる。建物は五階建てで、正面の建物の屋上部分から、女たちの笑い声が風に乗って聞こえてきた。洗濯物が干してある。よく目を凝らしたテスは、洗濯物の内の一つが自分の茶色いストールであるのを見て取った。衣服を洗い、干してくれた女たちの声なのだ。
 ここは神殿なのか、と、テスはティルカと顔を合わせたときに尋ねた。この街全体が神殿だ、とティルカは答えた。その中でも城門と大きな礼拝堂を備えたこの敷地は、神殿の、つまり街全体の中枢部で、アルネカが許可した人間しか入れないのだという。
 アルネカはこの街の救世主で、預言者なのだという。テスが中枢部に運び込まれたのも、アルネカがそうせよと言ったからで、その理由はアルネカの他に知る者はなく、アルネカが語ることもない。
「この街は何ていう名前なんだ?」
「名前?」
 二人は中枢部を守る城門に近付きつつあった。灰色の石組に、雲の影が重く垂れ込める。旗はなく、見張りも立っていない。気配を探ったが、言葉つかいの力は感じ取れなかった。
「俺は聞いたことはないな。ないかも……まあ、あるかも知れないけど、気にしたこともない」
 ティルカは振り向いて答えた。
 名前がない、なくても困らないということは、街の外と関係を持つ必要がないのだろう。はじめ、この街はテスの目からすっかり隠れていた。自給自足の術があるようだ。
「この街はいつからあるんだ?」
「さあ。俺が生まれる前からさ」
 テスが両目をじっと見つめるので、ティルカは後ろ向きに歩くことになった。
「アルネカ様は不老のお方なんだ」声に敬意が込められる。「まだ街に名前があった頃……四十年前かな……五十年前かも……街に災厄が降りてきた」
「どんな?」
「言葉つかい同士の抗争があったらしい。でもよくわからない。アルネカ様は多くは語らないんだ。ただ、その災厄から街を救ったのが言葉つかいのアルネカ様なんだ。とても恐ろしい災厄で……アルネカ様はご自分の目から光を拭い去られた。全てを見えなくして恐怖を克服され、災厄に打ち勝ったんだ」
 テスは頷いた。
 恐ろしい災厄を見ることが出来なくなり、主観と記憶によって平穏な都市を立て直したというのなら、アルネカの不老にも説明がつく。彼女は老いていく自分を認識できないのだ。だから若いままでいる。
「じゃあ、この街はアルネカ様の記憶のままの姿なのか?」
「そう。だけどそれだけじゃない。俺たち言葉つかいの主観が補って街の機能と完全性を保ってるんだ」
「そうか」
 だから自分はもてなされるのだとテスは理解した。アルネカ以外の言葉つかいは老いて死んでいく。だから、新しい言葉つかいに関しては招じ入れ、街の機能として取り込まなければならない。そういうことだろう。近いうちにティルカはそのことを、はっきりと告げるはずだ。
 言葉つかいのテスに言葉つかいのティルカがあてがわれたのは、そういうことを教えるためであり、もしテスが言葉の力を用いて抗(あらが)ったとしても、言葉つかいならそれを封じ込め、取り押さえることができる。
 だが、テスが抵抗する可能性を口にすると、アルネカが口にしたテスの安全性の証(あかし)に異を唱えることになる。アルネカは、彼女の言葉に疑問を抱くことを許さない姿勢を見せていた。だからリーユーは、優等生的な態度を貫きアルネカに従った。その代わり、テスを見るその目で本心を訴えていた。絶対にお前を信用しないぞ、と。
 城門に入った。出口と入り口に木の落とし扉が設けられており、内部の壁には小さな松明が掲げられている。
 その松明の下で、テスはもう一人の言葉つかいと出会った。
「ヤト」
 ティルカが親しげに声をかけた。
 壁にもたれて二人を待ちかまえていたのは、黒髪を肩まで伸ばした、見たところ三十過ぎくらいの男だった。よく体を鍛えており、逞しく、目にはティルカと違って厳しさを感じさせる鋭さがあった。汗止めの布を額に巻き、その布が松明の光によって目に影を落とすので、一層鋭さが増していた。
 テスは気配で言葉つかいを見分けられるようになっていた。そしてヤトは、他の言葉つかい同様、物理武器を身につけていなかった。
 ヤトの一言目には、親しみは全く込められていなかった。
「そいつか?」
 と、テスに冷たい目を注ぐ。
「そうさ、テスって言うんだ。テス、こいつはヤト。俺の従兄弟なんだ」
 テスはヤトの反応を待ち、ヤトは冷ややかにテスの観察を続けた。
 結果、二人は黙って見つめあう形となった。
 ティルカが張り詰めた空気をほぐす。
「……まあ、仲良くしてくれよ」
「気に食わないな」
 ヤトが言い放つ。
「そんなこと言うなよ。テスをもてなすようにアルネカ様は仰られたんだ」
「それ自体に異存はない。それで、そいつをどこに連れて行くんだ?」
「第一礼拝所の前に空き家があっただろう。そこの二階に泊まらせて、一階に管理人の爺さんを寝起きさせる」
「話は通っているのか?」
「ああ」
 ヤトはようやくテスから目を離し、頷いた。早く出て行けと手で合図する。テスはヤトが望む通り、ティルカに連れられて門を出た。
 外の街の様子は、これまで通り抜けてきた他の街と変わりなかった。綺麗に石畳が敷かれ、トラムの線路がまっすぐ伸びているが、錆び付き、草が生え、トラムが通らなくなって久しいようだった。
 ティルカが第一礼拝所と呼ぶ場所は、大通りを横切り、一区画歩いた場所にあった。家一つ分ほどの広さの敷地で、巨石のかけらを組み合わせて作った原始的な祭壇と、燭台が据えられていた。
 テスの宿となる建物は、その向かいにあった。
 宿と、その隣の建物との間の路地の奥に、テスは二つの人影をみた。
 一つはリーユーだった。
 リーユーは何かを呟きながら、もう一人の人影の足首を蹴った。その相手は少女であるように見えた。小柄で、リーユーを前にじっと俯いている。テスは胸が痛むのを感じた。ティルカは二人に気付かずに、宿の戸を押し開けた。
 宿は普通の民家だった。三部屋分の窓が通りに面した、奥行きが浅く、横に長い作りだ。ティルカの後ろから覗き込むと、ちょうど正面の階段から、白髪の痩せた老人が下りてきた。
「ああ」と、ティルカが何も言わない内から頷いた。「ああ。片付いてるよ」
 そして、テスをろくろく見もせずに、一階の廊下の奥へ消え、間もなく戸を開け閉めする音と、鍵をかける音が聞こえた。
「排他的なのさ」
 振り向いたティルカが気まずそうに微笑んだ。
「じきにみんなお前になれるよ」
「あの老人に挨拶しなくてもいいだろうか」
「構わんさ。明日にしな」
 明日と言われ、今が何時なのかテスは急に気になった。こに来るまで時計の類は見なかった。
 二階の部屋に通されても、やはりそこに時計はない。
「食事はどうする。部屋で食べるほうがいいか?」
 開いたままの窓を閉め、ティルカが尋ねた。部屋にはベッドとクローゼットの他は何もない。テスはベッドに座って頷いた。
「食事のときは祈るんだ」ティルカは窓から離れ、テスの前に立った。「祈る神はいるか?」
「いるはずなんだ」
 テスはティルカの顔を見上げずに答えた。
「だけど忘れてしまった。神のことも、預言者のことも、俺は忘れてしまった。確かに覚えていたんだ。でも、もう思い出せない……」
 ティルカが答えないのでそっと目線を上げると、彼は同情を湛えた表情で、テスを見下ろしていた。テスは居たたまれなくなった。
「想像もできない……」ティルカはテスの視線を受けて言う。「辛いだろうな。俺には想像もできないよ。早く記憶を取り戻せればいい。俺はお前のことを祈るよ」
「記憶を取り戻してはいけないとしたら?」
「何でそう思うんだ?」心底から意外そうに目を丸めた。「誰かにそう言われたのか?」
 テスは答えないが、沈黙から察したようだ。
「そんなひどいことを言う奴は、悪魔だよ」
「悪魔?」
 テスにはキシャがわからない。
 悪魔と言われても、そうでないとは言い切れない。
「悪魔……」
「アルネカ様に縋ればいい。俺はアルネカ様に祈るよ。あの方は生ける預言者だ。全ての祈りを神のもとに届けてくださる」
 だがテスには、あの盲目の女を聖なるものとして崇める気持ちは起きなかった。人間離れした存在であることは、確かに認められるとしても。
「お前の服は、明日届けさせるよ」
 ティルカはたっぷりの同情と慈悲を込めて言い、部屋から出ていった。

 ※

 翌日のことだった。霧が少し出ていた。起きて窓の外を見ていたテスは、霧を割って現れて、第一礼拝所に吸い込まれていく痩せた人影を見た。テスは興味を持ち、そっと宿を抜け出した。
 気配を消して第一礼拝所に滑り込む。
 野外礼拝所に一人立つのは、リーユーだった。
 テスは二つの巨石の間に身を隠し、片膝をついて背を石に預け、そっと覗き見た。リーユーは半ば呆然とした様子で祭壇の前に立っていたが、耐えかねるように両膝をつき、両手を組んだ。素早く息を吸い込む音が聞こえた。
「神様、私はニハイを愛せません」
 彼は早口で言った。
「なぜならあいつは不細工で、顔にも覇気がなく、一緒に歩いているだけで私の恥になります。同じ母親から生まれた妹だと思えば思うほど、母を汚された気分になり、憎しみが募ります」
 追い詰められた調子で彼は訴え続けた。
「ニハイは勤勉ではなく、知性に劣り、私がどれほど努力してアルネカ様に気に入られようとしても、彼女が台無しにします。ニハイはどこかおかしいのです。人として必要なものが生まれつき欠けています。彼女は私の面汚しです……」
 テスは完全に気配と足音を殺し、間近のリーユーに気付かれることなく宿に戻っていった。
 霧が晴れ、少しして、街が起き始めた。時計も時を告げる鐘もないのに、街の人々がどのように時を知るのか不思議だ。
 ティルカが迎えに来るはずだと思い、待った。やがて誰かが宿を訪ね、階段を上がってきて、テスの部屋の戸を叩いた。
 テスはベッドから腰を上げ、戸を開けた。
 少女が立っていた。顔つきは幼いが、体つきは決してそこまで幼くない。十四、五歳といったところだろう。藁色の髪をしている。リーユーと同じだ。
「アルネカ様のもとから参りました、ニハイと申します」少女は高い、控えめな声で言った。「お服を洗い清めましたので、お届けに参りました」
 挨拶の言葉を呟くと、上目遣いにテスを見上げ、はにかんだように頬を染め、目を伏せて微笑んだ。
 ニハイは決してリーユーが言うように不細工ではなかった。純粋そうな少女だった。
「ありがとう」
 テスは少女の手から蓋付きの籠を受け取った。
「リーユーの妹だな?」
 するとニハイは、意外そうにテスの喉の辺りを見上げた。
「お兄ちゃんが私の話をしたんですか?」
「いや……噂に聞いたんだ」
 するとまた、はにかんだ笑みと共に目を伏せる。テスはやるせない気持ちになった。
「お兄ちゃんのことが、好きなんだな」
「はい。お兄ちゃんは優秀で、すごい言葉つかいです」
「優しくしてくれるか?」
「はい」
 テスは頷いた。
 リーユーとニハイが互いについて口にするように、ニハイが優秀でないのか、またはリーユーが優秀なのか、テスにはわからない。だが、ニハイのリーユーを慕う気持ちは報われないだろう。そして恐らく、ニハイがリーユーのような存在になることもないだろう。
「ニハイ、一つ教えてほしいんだ」
「何でしょうか」
「この街で捧げられた祈りは、どこに通じているんだ?」
 ぽかんとした様子で、またニハイはテスの喉の辺りを見つめた。目を合わせるのを避け、丁寧に答えた。
「アルネカ様を通じて神のみ元へ届けられます」
「神様は、返事をくれるのか?」
「はい」ニハイはこともなげに続けた。「私の場合ですと、毎日、神は私にもっと恥じろと仰います」
 まさかという思いに打たれ、テスは動揺した。
「そんなことを神が言うのか? アルネカ様じゃなくて?」
「アルネカ様は預言者です。預言者の言葉は神の言葉です。そのことを疑えば、私たちは黒い太陽にさらされます」
 それから、ニハイは一歩後ろに身を引いた。
「後で、ティルカさんが迎えに来ますので……」
 身を翻し、階段を下りていく。
 テスは部屋の戸を閉めて、籠を床に置いた。服を出してみると、それは石鹸の匂いを放ち、汚れも可能な限り落とされて、破れたところも繕われていた。
 着替えようとしたとき、飛び去るものの影が服に落ちた。
 羽音はなかったが、テスは呼吸を止めて窓を振り向いた。不変の夕空、曇天、そこに鳥の姿はない。窓を開け放とうとしたテスは、窓の下に佇むリーユーの姿に気がついた。
 窓をそっと押し開けた。
 宿の戸が開いて、ニハイが出てきた。
「遅いぞ。何やってたんだ」
 すぐに声が聞こえてきた。ニハイが「ごめんなさい」と呟く。テスは二人の様子を見守った。リーユーは何やらぶつくさ言った後、ニハイの足首を蹴って街の中枢へと歩きだした。彼は早足、かつ大股で歩くので、後ろのニハイはついていくのが精一杯だ。一緒に歩くだけで恥になる、というのは、本心に違いない。
 テスは窓を閉じた。ニハイの子供っぽい顔つきを思うと暗澹たる気持ちになる。ニハイの成長を阻害しているのは、家族であるリーユーの態度だろう。ニハイには他に家族がいないのだろうか? だとしたら、彼女を愛する人はいない。
 ニハイが家族愛の幻想を失わずにいるためには、子供のままでいるしかない。誰かが罪悪感と自己否定感を彼女の中から取り除いてやったとしても、リーユーは新たにそれを植え付ける。リーユーはそうしておきながら、自分こそがニハイの被害者だと主張する。だが彼も、そうするしかないのだろう。彼もまた、好きで妹を憎んでいるわけではない。そうするしかないのだ。
 服を着替え、一階に下りた。
 一階では、管理人の白髪の老人がはたきを手に玄関口をうろついていた。彼はテスを見ようとせぬまま、気配で嫌そうな顔をした。テスは足を止め、老人に声をかける。
「少し、散歩に――」
「駄目駄目」
 いらいらしながら老人は遮った。
「少しの間だけだ」
「もうじき迎えが来るから」
 テスは質問を変えた。
「この街に鳥はいるか?」
「二階で待ってなさい」
 佇むテスの前で、天籃石の照明を置く小さな机にはたきをかけながら、老人は重ねて言った。
「あんた、黙ってくれんかね」そして、「二階に行ってくれ。邪魔なんだよ」
 するといきなり戸が開いて、ティルカが現れた。
「よう、テス」
 老人が、行き場を見つけて安心したとばかりにティルカにせかせか歩み寄る。ティルカは戸口で老人に何かを囁いた。テスはティルカの唇を読んだ。
『何か変わった様子はあったか?』
 老人は背を向けている。が、二度続けて頷くと、一階の廊下の奥に引っ込んでいった。
「武器は持ってないな」
 二人きりになると、ティルカはテスの様子を確かめて笑いかけた。
「行こうぜ」
「どこに?」
「そりゃお前、アルネカ様のところだよ。改めて挨拶するんだ」
 二人は連れだって外に出た。
「ティルカはこの街で鳥を見たことはあるか?」
 中枢への短い距離を歩く間、テスはそっと尋ねた。
「鳥? なんで」
「いるはずなんだ。俺は鳥を探してこの街にたどり着いたんだ」
「さあ……」ティルカは眉を顰める。「わからないな……気にしたこともないし……別に鳥好きでもないし……」
 嘘だ。テスは心の中で反駁(はんばく)する。
 門の中で、昨日と同じようにヤトに会った。ヤトは門の中の詰め所に入るようテスに言い、自分は詰め所の外でティルカと二人で話をした。少しして、戸が開いて、ティルカが詰め所に顔を覗かせた。
「悪いけど、リーユーにアルネカ様の様子を聞きに行ってくる。ヤトと待ってろよ」
 そして、ティルカが出ていって、ヤトが入ってきた。
 ヤトは唇をきつく結び、腕組みし、部屋の奥のテスから距離を置いて、入り口近くの椅子に掛けた。
「ヤト」呼びかけると、すぐに鋭い目をくれた。「聞きたいことがあるんだ」
 威圧を込めてヤトが口を開く。
「何だ」
「鳥はどこにいるんだ?」
 ヤトは黙った。質問したことを後悔させてやるとばかりの、不機嫌な、重い沈黙だった。だがテスはヤトから目をそらさずにいた。そうして、回答を諦めずにいることをわからせると、ヤトは目を合わせてきた。
「ティルカにも同じことを聞いたそうだな」
「ああ」
「宿の老いぼれにも」
「ああ。聞いた」
「何故そんなことを知りたいんだ」
「知りたいから知りたいんだ」
 暴力の気配をまとい、だが動かずにヤトは続けた。
「命ある内から空を目指す者はみな、街から排除された。そのことをよくよく覚えておけ」
「どうして」
「よそ者に言うべきことじゃない」
 鳥の影を見たことは、言わずにおくほうが良さそうだった。だが、ヤトの答えで十分に目的は果たされた。ここに捜しものはない。そうわかった。
 誰かが外を走ってくる。
 ティルカがまた顔を覗かせた。
「悪いな。アルネカ様はアクセサリーを選ぶのに時間がかかってるんだ。もうちょっと待っててくれるか?」
 座ったまま見上げるテスの目に何を感じたのか、ティルカの笑みが薄らいだ。孤独が宿った。テスの視線の力でティルカの顔に照射されたテスの孤独だった。ティルカはまたすぐ微笑んだ。
「ちょっと早く来すぎたな」
「アルネカ様に会う前に、トイレに行っておきたい」
 低い声で呟くと、ヤトとティルカが視線を交わした。ティルカが詰め所のドアを開け、暗い城門内の通路を挟んだ反対の壁を指指した。そこにも板戸があった。
「行ってこいよ」
「ありがとう」
 テスが廊下に出ても、詰め所の戸は閉まらなかった。トイレの様子を見張るつもりらしい。
 トイレは臭かった。天籃石の裸石が吊り下げられており、窓がなく、代わりに、石組みの便器の上に換気用の穴があった。テスは大気をまとって飛び上がり、灰色の石壁を蹴った。壁の冷気を靴越しに感じながら、左手を高く伸ばす。埃のこびりつく穴の縁に手をかけ、体を持ち上げた。上半身を四角い穴に滑り込ませ、膝を穴の縁に乗せ、ついぞ全身を換気孔に引き込んだ。
 テスは闇を這い、やがて光を見た。朱色の光に染まる出口から慎重に外を伺うと、そこは街の中枢を囲む城門の、内側であるようだった。
 穴の外側に身を投げた。大気の足場を蹴って飛び上がり、左足で壁を蹴った。そして右足で大気を蹴って更に高く浮いて、城壁の上に着地した。城壁の外側へと身を投げて、空中でくるりと体を丸くする。通りの真上で静止して、音もなく舞い降りた。
 そのまま宿に駆け戻った。管理人と鉢合わせをせずに済むかどうかは運次第だったが、宿の戸を開けたときには、その姿を見ずに済んだ。また、街の人にも会わなかった。気配はあるのに姿は見えない。街の規模に比べて人が少なすぎる。
 音を立てずに二階に駆け上がり、ベッドの下に隠した武器、物理銃と一対の半月刀を引きずり出した。腰にベルトを巻き付け、マントの内側、腰の後ろに銃を、左右の腰に一振りずつ半月刀を装着する。階段を慌ただしく駆け上がる足音を聞いたのはそのときだった。テスは部屋の窓を急いで、しかし静かに開け、窓枠を蹴った。風をまとう束の間の快感と共に浮き上がり、屋根の縁を掴む。
 屋根に体を持ち上げ、伏せた直後、人の気配が真下に現れた。屋根からそっと身を乗り出して窺うと、管理人の老人が窓から頭を突き出して、通りを見下ろした。そして、窓の向こうに引っ込んだ。
 テスは振り向かず、屋根屋根の上を渡り走り出した。間もなく背後で警鐘が鳴り響いた。街の中枢から鳴り響く重々しい鐘の音に呼応して、甲高い早鐘が方々で鳴り響く。追跡が始まるのだ。
 テスは街を囲む城壁へと近付いていった。中枢から遠のくにつれ、街が荒れていく。ついぞ荒れた空き家が建ち並ぶばかりの区画に来た。そこに着くまでに、テスを探して動き回る人間の姿は十人も見なかった。
 誰もいない家々の間に、打ち捨てられた野外礼拝所を見つけた。宿の正面にあった礼拝所と同じく巨石を組んで作られたものだが、こちらは荒れ果てて、祭壇を蟻が這い、地面は均されておらず、石と砂が入りまじっている。片隅には掃除場があるが、箒やバケツの類は散乱し、錆びた蛇口の下の排水口の金網からは、雑草が二、三本生えていた。
 テスは廃墟の屋根を下り、巨石の間に身を潜ませた。枯れた茨の茶色い蔓が巨石に絡みついている。
 それらの蔓の下に、何か文字が彫られていた。テスは棘に気をつけながら、茨の蔓を掻き分けた。
『死者の礼拝所』
「テス!」
 間近で声が聞こえ、テスは慌てて体を小さく屈めた。
 ティルカの声だった。
「テス! 聞こえてるなら出て来てくれ! 何もしないから!」
 だが、足音は二人分だ。
 テスを呼ぶティルカを宥めるように、ヤトの声が礼拝所の前を通り過ぎながら言った。
「落ち着け。俺が張った結界は外からの侵入を防ぐだけじゃない。わかってるだろう。出ようとすれば必ず引っかかる」
「それはそうだけど」
 二人はちょうど、テスが隠れる巨石の前に来た。
「痛い目に遭わせたくないんだよ。かわいそうじゃないか」
「何をバカなこと言ってるんだ。こんなことになったのはお前の責任だぞ。お前が奴をこの街に担ぎ込んだんだ」
「じゃあ殺せばよかったとでも言いたいのかよ」
 二人は口喧嘩をしながら遠ざかっていった。
 ティルカの気持ちを思うとテスは胸が痛んだ。だがこの街に留まって、言葉つかいとしてアルネカのために働くことはできない。
 それにしても、結界をどう解除しよう。自分一人通り抜けるくらいなら、自分の力でどうにかなるだろうか。彼らは街の外まで追ってくるだろうか。
 じきに、二人の声と足音は完全に聞こえなくなった。動きだそうとしたテスは、風の唸りに身を竦めた。足音もなく、衣擦れの音もないが、確かに濃密な気配が礼拝所に入ってきた。気配は、テスが背を預ける巨石の向こう、祭壇の前に留まった。
 低い男の声で、気配は何かを呟き始めた。
 テスは突然、正体を悟った。
 死者だ。
「自分の心に愛がないことを知りながら、あるふりをして嘘をついてきました」
 ここが死者のための礼拝所なら、死者のほかに祈る者はおるまい。
「教会は家族を愛せよと説きます。しかし私は遠く離れた家族を愛せません。なので、私は父母兄弟を、既に死んだと皆に語りました。そのことを、神よ、あなたのほかに誰にも打ち明けられなかった。打ち明ければ、教会は私を相応しくない存在と見做すと思い、恐れたのです」
 呼吸の音は聞こえない。代わりに風が、巨石の間を吹き抜けてすすり泣く。
「そして、ついぞ私の親が死んだとの知らせを受けたとき、一度でも親族と顔を合わせるべきか、私はあなたに尋ねました」
 声は途切れた。だが気配は残っている。
 そのまま、もう話そうとはしなかった。
 テスは口を開き、そっと尋ねた。
「答えはあったのか?」
「いいや」声は応じる。「神はお答えにならなかった」
 強い風が、声と共に、テスが身を隠す巨石にぶつかった。
「ついぞ、答えはなかった……」
 気配が急に消えた。テスは両膝をついた姿勢のまま、祭壇の前の様子を窺った。無人だった。鳥の影が曇天の下を過ぎ去り、そのときテスは、この街に本当に鳥がいないことを理解した。
 盲目のアルネカの記憶と、他の言葉つかいの主観による補強でこの街が保たれているのなら、飛び交う鳥の姿も、テスの記憶と願望から生まれたものなのだろう。
 テスは立ち上がり、祭壇の前に出ていった。テスには神を感じられない。死者が行くべき場所も、その道筋も、この街には見つからない。
 目を閉ざす。様々な濃淡の灰色と朱色の雲を視界から閉め出して、赤く晴れた空を思い出す。左手を高く上げ、人差し指にその赤さを集めた。
 腕を振り下ろし、天に記憶を投げ放つ。
 光を感じた。鳥の行く先、死者の魂の行く先を示すもの。
 目を開けた。
 雲が丸く割れている。その割れ目が大きくなっていく。
 やがて雲の向こうに現れたのは、死者の行く先などではない。
 真っ黒い太陽。
 心臓が収縮し、背筋に悪寒が走った。反対に、顔はカッと熱くなった。小さな物が揺れ動く、カタカタという軽い音がした。テスは目を空から音の発生源、野外礼拝所の掃除場へと向けた。
 排水口から黒い水が逆流し、金網を揺らしていた。水は溢れて広がり、散乱する箒、バケツ、倒れたゴミ箱に触れていく。
 恐怖の波動がテスを打った。街のほうから混乱した騒ぎが聞こえ、自分のもとに駆けつけてくる足音を聞いたときにはもう、身を隠す余裕はなかった。
「やめろ!」
 ティルカだった。言葉つかいの力を感じて、戻ってきたのだ。ヤトも一緒だ。道を走ってくる。
「テス! 何やってるんだ!」
 その叫びと足音をかき消して、アルネカの声が、まるで間近にいるかのように精神を打った。
『客人を殺しなさい!』

 3.

 空に力を感じた。丸い割れ目に雲が押し寄せて、黒い太陽を隠した。薄雲が曇り空に穿たれた穴全体に薄く伸ばされ、次に厚い雲がきて、完全に埋めた。テスはとうに自分の力を空に向けるのをやめていた。
「ティルカ――」
 礼拝所の入り口にたどり着いたヤトが、祭壇の前にいるテスの直線上に立つ。右腕を横にかざし、追いついてきたティルカを制した。
 空に、天の朱色とは違う光が走った。顔を上げたテスは、まだらに染まる雲の間を走る光の帯を見た。
 直後、確信を得て大気をまとい、後方へ飛んだ。耳をつんざく轟音と共に、紫色の雷が天から降りて祭壇の前の地面を打った。
「ヤト、やめろ!」
 祭壇の後ろの巨石の上に片膝をついて飛び乗ったテスは、ティルカの叫び声を聞いた。
「テスは取り乱してるんだ! それか誤解を――」
 雷鳴が低く唸り、ある気配が頭上を覆った瞬間、テスは巨石を飛び降りた。
「よせ!」
 ティルカの叫びをかき消して、雷が巨石を打つ。二、三、四と、立て続けに雷が落ちてくる。テスは空に意識を集中し、雷が落ちる直前の、言葉つかいの力の濃淡と反射神経だけを頼りに野外礼拝所を逃れ、走った。最後に雷は、地を這いテスを探した。
 テスは礼拝所の後ろの廃屋の、三角形の屋根に着地した。ヤトが右手を上げる。ヤトもテスを見失っていなかった。
 新しい力がテスの頭上に満ちた。それは雷の凶暴さとは違っているが、害意の点では同じだった。
 テスは右手を胸に当て、首にかけた陶片を、服越しに握りしめた。直後、石つぶてのような物が空から降り注いだ。
 大気の円柱を建ててその中心に立ち、旋風を起こした。風の鎧が降り注ぐ物をテスに触れさせず、砕き、跳ねのけた。雹(ひょう)だ。だが、透明な雹はナイフと同じ鋭さを持っていた。雹のナイフは風の刃に粉砕されて、きらめきながら散っていく。テスの風に砕かれなかった雹は、スレートを砕いて屋根に穴を開けた。
 テスに当たらぬとわかると、ほどなくして雹がやんだ。
 ヤトはティルカと共に野外礼拝所に入ってきていた。
 テスは眼下のヤトに告げる。
「俺をここから出せ」
「駄目だ」と、ヤト。「お前がしたことを許さない」
「謝ってくれ!」
 ティルカが叫んだ。
「テス、頼むから! ヤトと、街のみんなと、アルネカ様に謝るんだ。アルネカ様には俺が執り成してやるから!」
「許されたとしても、この街に留まるつもりはない」テスは静かに答えた。「お前たちの預言者のために、言葉つかいとして働くことはできないんだ。だから、ここから出してくれ」
「外に出て何になる? 外は危険だ。言葉つかいを迫害する奴が大勢いる」
「外には鳥がいる」
 ティルカもヤトも何も言わないので、テスはもう一度言った。
「生きている鳥がいる」それから、「ヤト」
 ヤトの殺気は目に見えるようであった。
「結界を解いてくれ」
 空に紫電が走った。それが答えだった。
 テスは屋根を走り、隣の家の屋根に跳び移った。テスがいた家の屋根を打ち据えた雷は、蛇のように幾筋にも分かれて空中を這い、テスを追う。その最初の一つが体に触れる前に、テスは腰の後ろの銃を抜き、両手で構えて撃った。
 銃弾が礼拝所に立っているヤトの足許を削り、砂が舞い上がる。ヤトが驚いてティルカと共に後ずさり、集中が切れた。同時に雷の蛇も消えた。
 テスは叫んだ。
「ヤト!」
 風の力がテスの体から噴きだして、全包囲へと広がった。テスの足許から円形に、砂塵が散らされていく。風は屋根の上から礼拝所におり、砂を散らして威嚇する。
「俺は物理武器を持っている。結界を解除しろ! そしたら殺しはしない!」
 風を強めた。風は砂で濁り、ヤトとティルカの姿をおぼろな影に変える。
「テス!」
 口を手で押さえているらしい、ティルカのくぐもった声がなお聞こえた。
「頼むからよく考えてくれ! ここに住むのだって悪い考えじゃないだろ? 着る物も、食べる物も用意される! 迫害されることだってない! テス!」
「嫌だ! 俺は出ていく。出ていって鳥を見たいんだ」
 風の中心、風などそよとも感じられぬ場所からテスは叫び返す。
「生きている鳥を! もう一度見たいんだ!」
「お前は鳥の息子か!?」
 テスは新手の言葉つかいの気配を感じた。
「その執着、普通じゃないぞ!」
 体を下方向に引っ張る力を感じた。テスは直感を頼りに屋根を蹴り、真上に飛び上がった。直後、屋根が崩れた。
 足許に目を凝らした。
 そこは闇だった。
 深い大地の裂け目へ、家が落ち、小さくなっていく。
 空中で大気の壁を作り、左足で蹴って、自らが放った強風の中へと身を投げた。ティルカとヤトの後ろに、小柄な人影が見えた。
 もう交渉は無理だった。
 これ以上留まっていれば、街じゅうの言葉つかいを呼び寄せることになる。そして、恐らくはティルカ以外の全員がテスを殺そうとするだろう。多勢に無勢だ。そして、殺されるつもりはなかった。
 地面は最初に崩れた家を中心に崩壊していった。テスの足場を奪っていく。テスは空中に留まり、両手で銃を構えた。そして、ヤトの後ろの人影の頭に銃口を向け、引き鉄を引いた。
 テスは風を鎮めた。
 言葉つかいの力を失って、虚無に変じた地面がたちまち修復されていく。戻ってきた砂地に片膝立ちの姿勢で着地し、舞い上がったままの砂に目を細めながら、テスはヤトを撃った。
 ヤトは言葉もなく地面に突っ伏した。
 野外礼拝所に残るのは、テスとティルカだけとなった。
 ヤトが死に、結界は解けたはずだ。テスは立ち上がりながら、ヤトの後ろに倒れている言葉つかいの姿を見た。そして息を呑んだ。
 まだ少年だった。
 リーユーだった。
「テス」ティルカが呻く。「これが何になるんだ?」
 ティルカの目をちらりと見た。銃を収め、テスはティルカに背を向けた。立ち去るテスを恐れてか、彼は追ってこない。だが言葉は続けた。
「お前は何をしたいんだ? 俺たちの世界を壊し」
 殴りつけるような音と共に、ティルカが絶句した。
 テスは慌てて振り向いた。
 まず目に入ったのは、前のめりに体を屈めるティルカの姿。ついで、苦しげな音を立てて口から吐き出される血。ティルカの背から腹にかけて。槍の穂先が貫通している。槍は太陽のように黒かった。ティルカは前のめりのままで、顔も下を向いているが、ぱちぱちと瞬きするのが見えた。
 ティルカの後ろから、抑揚のない女の声が告げる。
「下がりなさい、役立たず」
 それを聞き届けたティルカの体が、膝から地へと崩れた。ヤトとリーユーの血を吸った砂の中に倒れ、それきり動かなくなった。
 そして、その女、アルネカが現れた。表情はなく、また他者の表情を読みとることもない、盲目の言葉つかい。
 礼拝所の入り口に立っている。
 アルネカの殺意が波動となって、祭壇の前に立つテスを貫通し、礼拝所に満ちた。
 テスは再び銃を抜いた。
 銃口をアルネカに向ける前に、アルネカの姿が透明になり、消えてしまった。テスは、見えなくなったアルネカが立っていた辺りに銃を二発撃った。弾は通りの向こうの建物の壁に当たった。
 四方を見渡すも、アルネカは見つけられなかった。
 その間に、礼拝所の空気は変貌していった。
 足許の伸び放題の雑草が、砂の中に消えていく。小石が砂の上を転がり、見えざる手で通りに掃き出されていく。隅の掃除場では、掃除道具が勝手に動いて立ち、整頓されていく。蛇口の錆は消えていた。
 そして、巨石の後ろ、祭壇の後ろ、そこかしこから瑞々しい緑の茨の蔓が這い出てきた。
 蔓は太い束となった。
 そして、毒のような花を咲かせた。
 視界が闇となった。一面の闇の中に、最後に目にした茨の、赤い印象が浮いている。
 アルネカの主観らしかった。光のない世界。望んで手にした闇の世界。
 右も左もわからぬ世界で、テスは足の裏に感じる地面を頼りに方向感覚を保とうとした。アルネカの気配を探す。妨害するように、闇のそこかしこに暗い色が滲んだ。緑。黄。青。すべての色彩が褪せている。今見ている闇がアルネカの主観なら、色彩は、見えていた頃の記憶によるものだろう。
 突如、腹を殴られた。
 痛みと衝撃に叫び、慌てて喉に力を込めて声を殺した。女の力ではない。立て続けに顔に殴打を受け、殴り倒された。
 倒れ込むべき地面はなかった。体が宙に浮く。
 死者の町では、もっと酷く痛めつけられた。この痛みは記憶から引き出されたもので、今ここにあるものではない。そう気付いた直後に襲いかかった痛みは、しかし、今ここにあるものだった。
 無防備な背中と後頭部を何かに打ちつけた。蔓が這い、葉がこすれあって音を立てる。指先に痛みを感じた。植物の温かさと石床の冷たさで、茨が覆う巨石に叩きつけられたのだと理解した。
 緑の臭いを放ち、茨の蔓が意志を持ってテスの体にのしかかる。棘を持つ蔓が両足首にきつく食い込んだ。続けて右手首に巻き付く。テスは左腕を喉まで上げてかざし、首を絞められるのを防いだ。直後、左手首も強く締め上げられて、動けなくなった。
 棘が深く体に食い込み、血が滲み出るのがわかった。両手首から流れた血が掌に流れ落ちても、なおきつく食い込んでくる。更に、左右の脇腹から腹へ、左右の脇から胸へと蔓が這い進み、太股と二の腕にも巻き付き、巨石に押しつけるようにテスを縛り上げた。それでもまだテスの体を裂いてじりじりと動き、棘で傷を深くしていく。
 テスはきつく目を閉じていた。痛みに息を喘がせながら、活路を求めて指先を動かした。
 何か、冷たくすべすべした物に触れた。
『それは、ガラスでできた竪琴でございます』
 慇懃な女の声が、頭の中で呼びかけた。
『この竪琴のブローチは、昨日身につけた物かしら』
 そんなことを、自分自身が言ったように感じた。だが声はアルネカの声だった。
『さようでございます。今日はその二つ右隣……』
 手を動かす錯覚。指先が布でできた何かの小物、続けて再びすべすべした物に触れる。
『そちらはガラス製の茨になります。お色は青でして……』
 指でつまみ、胸に当てる感触。
『ああ、大変よくお似合いでございます』
 テスは足の裏に固い床を感じ、頬に窓から吹く風を感じた。
 違う! 違う!
 必死に心の中で叫びながら、逃れようとした苦痛を、今度は自ら求め感じようとした。記憶に同調したら、アルネカの主観の世界に閉じこめられて、消えてしまう。
 逃れた罰のように、蔓が締め上げる力を強めた。首や背中を仰け反らせて圧力を逃がすこともできず、テスは歯を食いしばって呻いた。
「アルネカ――」声にならない。だが口を動かした。「ここから出してくれ。それだけなんだ」
 直後、蔓が鞭のようにテスの頬を打ち、血を流させた。
 テスは記憶の目で、黒い太陽を見た。赤い空の、黒い太陽を。だが景色全体が黒ずんで、よく見えない。だが、それがアルネカが最後に見たものなのだ。そうとわかったのは、女の白い両手、目の持ち主自身の手が両目を覆い、闇となり、再び何も見えなくなったからだった。
 茨の咲くこの礼拝所で、言葉つかいの力によって、自分で自分の目を潰したのだ。
 テスは精一杯に両目を見開いた。テスの目は光を奪われていない。そう信じても、闇は晴れなかった。風を起こそうとした。力は茨に吸い込まれていく。
 ぐったりと力を抜くと、静かな場所を歩いているように思えてきた。
 足音の反響で、曲がり角の壁が近いとわかる。
 テスは左手を伸ばす。壁に手を触れる。つるりとした石の壁。
 石。
 テスは自分の記憶を探り、アルネカの主観を振り払おうとする。石。手。何かを思い出そうとした。頭に思い浮かんだ物は、ベッドの中で胸を撫でた、アルネカの手の感触だった。
 今度はテスが、闇の中で、胸を撫でる手の主になる。つるりとした冷たいイメージ。石。
 それをも振り払った。聴覚と、触覚と、皮膚感覚の世界。誰かがテスを取り巻いている。様々な声が近付き、遠ざかり、行き交っている。
 その中にリーユーの声を認めた。
 テスは頭にリーユーの姿を思い描く。その姿を中心に、宿の二階の窓から見たままに、町の景色を復元していく。
 それがうまくいきかけたかと思うと、体中が軋むほど茨の蔓が全身に食い込んで、テスは耐えきれず悲鳴をあげた。集中が切れ、頭の中に構築したイメージが消えてしまう。
『外に出たいだって?』
 誰かの声が嘲笑う。
『ここでさえうまくやっていけないお前が、外に出て何ができると思うんだ? みんなお前を嫌ってるっていうのに。世の中を甘く見すぎじゃないのか?』
 歯を食いしばり、悲鳴を止める努力をしながらテスは声に集中した。
『どうせお前は、自分は世間の平均から少しばかりずれてるだけだと思ってるんだろう』
 苛立ちと嘲りを込めて、声は意地悪く続いた。
『気にすることも、興味や関心の対象も、人と違う。だから誰とも話をあわせられない。お前みたいな普通じゃない奴はな、いるだけで、知らない内に、人の悪い面を刺激するんだよ』
 誰の声だろうか? リーユーだろうか?
『いいか。お前はどんどん周囲の人を悪くする天才なんだ。わかったなら、もう自分の世界から、狭い世界から出てくるな!』
 だとしたら、これを言われているのはニハイだろうか?
「ニハイ?」
 テスは苦痛の声と一緒に言葉を絞り出した。
「誰に……こんな酷いことを言われたんだ?」
「違うよ」
 思いがけず、間近でニハイの声がした。
「これはね、お兄さんが、毎日自分自身に言ってる言葉だよ。心の奥深くでね。お兄さんの声だったでしょ?」
 ニハイじゃない。
 テスは直観で理解した。
 キシャだ。
 だが、声はそれきり聞こえなくなった。
 空耳だったのだろうか?
 待ってももう、誰もテスに話しかけてこない。
 凄まじい孤独がきた。先ほど聞こえた声が、残酷な言葉が、体全体に染み込んでいく。記憶を失い、この世界に落ちてから、ずっと見ぬふりをしてきた孤独と孤立をテスは受け止めた。
 仲間がいると思っていた。根拠もないのに信じていた。少なくとも、いたはずだと。
 だが、仲間がいるのなら、今ここで孤独に陥っているのは何故だろう? 仲間が助けに来ないのは何故だろう?
 一人だったのだ。生まれたときから、ずっと。
『私を受け入れなさい』
 失意を読み取ったのか、すかさずアルネカの甘い声が頭の中に語りかけてきた。
『すぐに苦痛から解き放ってあげます』
 街を出て、一人で旅をして、何になるのだろう。どうすれば終えられるかもわからないのに。旅を終えた所に、自分を待つ人などいないのに。
「テス」
 キシャが、ニハイの声で呼びかける。
 いたのだ。空耳ではなかった。
「マリステス」
 閉じた瞼がぴくりと震え、テスは目を薄く開けた。
 キシャがテスを名前で呼ぶなどはじめてのことだった。
「マリステス・オーサー!」
 高く響いたその声は、もうニハイの声、借り物の声ではなかった。大人びた、威厳ある、気高い声だった。
「おまえが私を忘れても、私はおまえを覚えています」
 それが、キシャの本当の声かもしれなかった。
「私の名を呼びなさい」
 キシャの一声ごとに意識が醒めていく。孤独も、投げやりな気持ちも、夢のように薄れていく。
「私の名を叫びなさい!」
 どこにいるとも知れぬアルネカの、動揺の気を受け取った。
『そこに誰かいるの?』
「キシャ」
 草いきれの中で、テスは息を吸い込んだ。
「キシャ!」
 更に大きく息を吸う。
「キシャ! キシャ!」
 その名は魔法であるかのようだった。キシャを呼び叫ぶごとに、体の力は消耗されるのではなく、満ちていくように感じられた。
「キシャ!!」
 右手の指が動いた。
 石とも蔓とも違うものを指先に感じた。脆く、柔らかく、湿り気を帯びて崩れるもの。土のようなものだった。土? 何故……。
 崩れさるもののイメージが、ある閃きをもたらした。それは昨日の記憶だった。
 朱色の光が満ちる部屋で、アルネカが編み物をしている。赤い毛糸を編みながら、テスに語っている。
 テスは闇の中で、目を極限まで見開いた。
 浴室。赤茶色のタイルの浴室のイメージを、視線の力で闇に投げた。シャワーを。そして排水口を。
 すると、それが見えた。眩しさに耐えて、テスは目を開き続ける。
 真っ黒い水が、浴室の排水口に吸い込まれていく。真っ黒い人間が恐怖に泣き叫んでいる。
「……アルネカ」
 真っ黒い太陽の色を、更にその人間に投げた。
「黒はこの色だ」
 浴室の人物は、両腿から下が、既に溶け去り存在していない。腿の部分で立っている。細い体型と胸のふくらみで女性だとわかる。排水口が詰まっている。黒い水に、腿まで溶けた足を浸している。その足が更に溶けていく。テスは土を指でほぐす。つまみ、ほぐして、落とし続ける。
 それが、人間の輪郭が死ぬ感触だ。
『やめなさい!』
 恐怖の波動が、アルネカの叫びと共にテスの精神を打った。テスはやめなかった。
 土をつまむ。ほぐし、落としていく。
 浴室の女は両手を頭上に掲げ、蛇口を捻ろうとする。蛇口に当たったその指が、蛇口の固さに負けて崩れる。土の感触そのままに。
 足が完全に溶け、尻が水に浸かる。手は手首から先を失い、杭のように尖り、その先端は更に水に打たれて溶けていく。
 指先の感触だけで、テスはイメージを強化し、闇に投げ続けた。
『やめて――』
 アルネカが呻く。その呻きと同時に、浴室の女が口を動かす。顔中に水を浴び、耳と鼻はもうない。
『ああ、主よ――神様――慈悲を――』
 一際大きな土の塊を掴んだ。
 それを握り潰す。
 浴室の女の頭が砕け、浴室の床いっぱいに広がった黒い水に落ちた。
 全身の拘束が緩み、闇がほどけた。
 テスは目を細めた。
 光が茨の上から射していた。
 本物の光だ。
 雲に覆われた赤い空でさえ、闇の後には眩しかった。
 アルネカの気配を探る。どこにもいない。茨は枯れて乾き、もうテスを締め上げてはいない。
 テスは長く息をついた。目を閉じ、痛みと疲労に身を委ねる。
 もう、人の声もしなければ、気配もなかった。

 ※

 枯れ果てた茨の中で、テスは呆然と瞬きをしていた。体はずたずたに傷つき、棘のついた茨の蔓が赤く染まっている。倒れたまま、長く目を閉ざしたり、抗うように開いたりを繰り返したすえに、口を開けた。
「キシャ、大丈夫か?」
 返事はない。テスは左手に絡みつく、ゆるんだ茨を振り払うと、首を庇っていた左腕をゆっくり腰まで下ろしていった。そして、腰の半月刀を抜き、周囲の茨を切っていった。その間、燦々と輝く黒い太陽が、赤い空からテスを見下ろしていた。
 両手と上半身、そして腰に絡む茨を切り落とし、起き上がったテスは、まず右手側、指に触れた土の正体を確かめた。
 真っ黒い、大きな人形のような物が倒れていた。それがテスに触れられることによって崩れたのだ。
「ニハイ――」
 彼女に憑依していたキシャ、『亡国記』は、姿を消していた。それだけを確かめると、テスはニハイの残骸を見るのをやめた。
 足に絡む茨を切り、巨石から飛び降りた。力が入らず、着地の際に手と膝をついた。荒れた野外礼拝所の、ヤトとティルカ、そしてリーユーが倒れていた場所には、人間の黒い残骸が転がっているだけだった。死んだ色彩と輪郭だ。
 ティルカには酷いことをしたと思う。
 死者の嘆きを含み、風が砂を散らして吹く。
 街は荒れ、ここに住んでいた人は、街を支えるアルネカと共に消えてしまった。
 それで、彼らはどこに行き、彼らの祈りはどこに届いたのかとテスはぼんやり考えた。
 彼らは神の救いを求めていた。彼らは自分の罪と無力を知っていた。目は神を探し求め、心は神に開かれていた。
 テスは目を閉ざす。心を開く。両腕を広げて風を受け、嘆く風を鳥の形に作り変える。
 何十という鳥の羽ばたきが、テスの頬に触れた。翼が触れそうなほど近かった。目を開けたテスは、黒い鳥の影が空高くに舞い上がるのを見た。空を仰ぐ。鳥たちを追って顎と目線を上げていき――黒い太陽を見た。
 テスは声を失う。
 この世界でたった一つの忌むべき魂の行き場所、すなわち黒い太陽を恐れて、鳥たちが悲鳴のように叫んだ。飛ぶ鳥の三角形の隊列の、その先頭から体が崩れて黒い水となり、地に、野外礼拝所に降り注ぐ。鳥たちは跡形もなく溶け、一直線に落ちてきて、野外礼拝所の掃除場で水しぶきをあげた。
 砂の上を流れ、排水口に吸い込まれていく。
 テスは膝をついた。両手で顔を覆う。
 全ての鳥が跡形もなく失せ、黒い水も排水口に消えた後には、テスの両目から流れ落ち、両手の間から滴る水が砂を濡らした。
 天の黒い太陽が、それを乾かしていく。




  
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