chilledscape #07 赤土に聖女は立ちぬ
1.
荒野に一人取り残されて以降、テスが他人の姿を目にしたのは、丸一日歩き続けて眠り、また目を覚ましてからのことだった。ジープの走行音で目を覚まし、それが離れたところで停車すると、テスは赤土に手をついて起きあがった。
テスは丘の斜面を遮る木立の手前で寝ており、ジープは斜面の下にいた。そこにはテスが寝る前に熾した焚火の跡が残っており、ジープから下りてきた四人がそれを取り囲んで議論を始めた。後からもう一台、ジープがやってきて、三人下りてきた。彼らは七人で議論を続けた。
寒さで震えながら、何故、寝ている間に焚火から離れてしまったのだろうとテスは考え、思い出した。寝ているさなか、一度妙な気配で目を覚まし、焚火の中から燃え盛る人が折り重なりながらわらわらと四人くらい出てきて、テスを火の中に引きずり込もうと、または単に助けを求めてか手を伸ばすから、やむなく移動したのだ。
まさかそんなことがあるはずない、とテスは考えた。だが現にテスは寒くて仕方がないにも関わらず焚火から大きく離れて木立のそばにおり、そしてそれは幸運だった。ジープの人々の様子は殺気立っており、不用意に近付いたり、声をかけるのは憚られた。それに加えて、彼らはテスが乗っていた機関車の次の停車駅である町から来たのだろうが、何のために来て、今野宿の痕跡を調べているのかと考えると、不穏に思えるのだった。
テスは木立に身を隠した。
木立の向こうには、鋭い三角屋根の教会堂があった。
そして、更にその向こうには、盛り土の上の柵に囲まれた、小さな村があった。
※
村は打ち捨てられて久しいようだった。聞こえてくる音は、柵と柵の間、家と家の間を吹き抜ける風の音、そして、どこかで開いたままになっている戸板が風にあおられバタン、ギィ、バタン、と壁にぶつかる音ばかりで、人が生活している音も臭いもなかった。
「律法が霊的なものであることを、わたしたちは知っています」
ところが、風に乗って女の声が聞こえた。
「しかし、わたしは肉の弱さをまとった人間で、罪に売り渡されたものです」
テスは声がしたほうを振り向いた。村と教会堂の間も木立で遮られており、声を辿って木々の中に入っていくと、女の声に足音も加わった。
「私は自分の行っていることが分かりません。なぜなら、自分が望んでいることはせず、かえって憎んでいることをしているからです――」
足音をたてぬよう細心の注意を払いながら、テスは木々の合間を縫い歩いた。少し進むと、影が薄れ、木々の向こうが見渡せるようになった。
そこは教会堂の裏手の墓地で、聖職者の衣に身を包んだ一人の女が、手にした本を読み上げながら墓の間をゆっくり歩いていた。
「――そういうことを行っているのは、もはやわたしではなく、わたしのうちに住んでいる罪なのです。わたしは自分のうちに、すなわち、わたしの肉のうちに、善が住んでいないことを知っています。善いことをしようという意志はありますが、行いが伴いません。わたしは自分が望む善いことをせず、望まない悪いことをしているのです」
夕日を浴びるその女の髪の輝きからして、その女も自分と同じ、暗緑色の髪をしているのをテスは見てとった。
「だが、もし、わたしが自分の望まないことをしているとすれば、それを行っているのは、もはやわたしではなく、わたしのうちに住んでいる罪なのです……」
女はパタンと音を立てて本を閉じた。そして、聖職者にふさわしい、柔和で慈愛に満ち溢れた笑みを浮かべ、撫でるように墓の一つに手を置き締めくくった。
「わかりましたか? ガキども」
聖女は前を向いた。そして、木立から出てきたテスを見た。テスが二、三歩歩み寄っても、微笑んだまま動かない。テスは意を決してその女のすぐ前まで歩いていった。聖女は中年で、化粧をしておらず、長い年月を夕闇の国の西日にさらされて過ごしたせいか、顔のあちこちにシミが浮いていた。
「少し、教えてほしい」テスはためらいながら切り出した。「ここはどこだ?」
聖女は慈悲深く答えた。
「墓です」
そういうことを聞いたのではないのだが、彼女は続けた。
「愛されずに死んだ子供たちの墓です。私はその霊に、愛されずに死んだことについて納得させなければいけません」
テスはとりあえず頷いて、女に話をあわせた。
「聖職者として愛してやろうっていうんじゃないんだな」
淑やかな口調で聖女は応じる。
「親の代わりに神を求めること、愛情に満ちた母乳を神に要求することは、神学ではありません」
彼女は手にした本を胸に抱いた。その本が『亡国記』、見紛うはずのないあの大判の革表紙なので、テスは目を見開いた。
「キシャ、どうしてなんだ? いつものキシャと違う」
「キシャは、人間を衣服のように着るのです」
女は何ら慌てず、また笑みも絶やさなかった。
「着られた人間が、着られたことに気付くことはありません。あなたが記憶喪失の度合いを深める度に、着られる人間の人間性が、より強く残るようになります」
「つまりキシャ、お前は何も変わってなくて、俺の認知の仕方が変わったっていうのか?」
「そういうことになります」
考え込むテスに、聖女は更に言った。
「もしあなたが、そのように驚かなければならないほど、キシャの性質が前回会ったときより大きく変わっているよう感じられるのなら、何か非常に大切な、これだけは失くしたくないというような、己の天性に関わるほど重大な記憶を喪失したということでしょう」
「前回会った……サイアに憑依したキシャは、それまでのキシャと変わらなかった」
ならば、形喰いを破った直後かその戦いのさなかに、キシャの言うよほど重要な記憶を喪失したのだろう。だがテスには、何かの記憶を喪失したということさえ認知できなかった。
すると、教会の裏口の戸の奥から、よろめき歩く軽い足音が聞こえてきた。
「隠れてください」
聖女が言う。テスは大気の力を借りて跳躍し、裏口の戸の庇の上でくるりと回転し、そこに着地した。
神官の衣服に身を包んだ老人が出てきた。老人は、覚束ない足取りで聖女に歩み寄った。それから、「今」と、呂律の回らない口調で喋り出し、「今、誰か、今、誰か」と繰り返した。
「今、誰か来なんだか」
聖女が答えずにいると、老人は墓に手をつきながら、更に、緑の髪の聖女へと近付いていく。
「アルカディエーラ、アルカディエーラ、今……」
そして、十分に距離が縮まると、腕を伸ばして聖女アルカディエーラの胸を撫で回し始めた。
アルカディエーラはその手を邪険に払いのけると、うっとりするような柔和な笑顔のまま、老人の僅かに残った真っ白い後ろ髪を鷲掴みにし、顔を上げさせた。
「何かご用ですか? カス」
腰の曲がったその老人は、庇の上で伏せるテスに背を向けているため、テスに彼の顔は見えなかった。だが怯えているはずだった。
「アルカディエーラ、人が……」
アルカディエーラは微笑みながら、膝を上げ、老人の顔面を膝頭に叩きつけた。老人は初め声も上げなかったが、アルカディエーラの服が鼻血で染まるほどその行為が繰り返されると、くぐもった苦悶の声を上げるようになった。
「今日はどの歯をへし折ってほしいのですか? クズ」それから、老人の頭をまた上げさせて、腕を動かし、強引に左右の様子を見させた。それから、実に優しそうに続けた。「妄言ばかり言っていないで、引っこんでなさい、白痴」
老人は血まみれの顔で、よろめき、苦しげに呻きながら教会堂の中へ戻っていった。裏口の戸が閉まると、テスは庇から飛び降りた。アルカディエーラは完璧な笑顔で、テスが下りてくるのを待っていた。
テスは迷いながら口を開いた。
「あの人は認知症なんだ」
「いいえ」とアルカディエーラ。「認知症が始まる前から、どうしようもない色ボケでした」
「だからって――」
「あれは私の父です」おっとりと遮る。「私が幼い頃から、私を性の対象として見てきた倒錯者です。ああした扱いを受けるのは、彼の自業自得なのです」
彼女が語る神学は、彼女自身の親への恨みに由来するものだろうとテスは考え、また口を開いた。
「さっきの話だけど、もし神さえも愛さないなら、愛されずに死んだ子供たちの霊は誰が救うんだ?」
「この子たち自身です」
アルカディエーラは白い石の墓標を一瞥した。
「神に愛されたいのなら、まずは自分自身を愛さなければなりません。何故だかわかりますか?」テスの答えを待たず、続ける。「神は、全ての人間を価値ある尊いものとして作りました。神に失敗作はあり得ないのですから。ところが、自分自身を愛さず、そして全ての他人を愛さぬとなると、それは神に失敗作があると言っていることになりませんか?」
テスはアルカディエーラが老人に与えた仕打ちを思い出し、どの口が言っていると思ったが、黙っておいた。アルカディエーラは更に続けた。
「誰しもが、そして己もまた、神の無数の側面の一つ、神の天性の一つ、神の一欠け、神の一しずくであるのですから、誰もが己自身を認め、愛さなければなりません。己の内の神を愛することによって、神に己を愛させなければならないのです。そういうわけで、神を愛し尊ぶのなら、まず自分で自分をよくする努力をしなければなりません」
それから彼女はいきなり『亡国記』で墓を叩いた。
「いいですか? 愛とはかくも厳しいものなのです。たかだか親から愛されなかったくらいのことで、ガタガタ抜かしてはいけません」
忌まわしい、嫌な影が、二人の上を飛んだ。テスは鳥肌を立てた。真っ黒い、翼あるものが、咄嗟に見上げた空を舞っていた。
それは鳥に見えるが、正しい鳥ではないということがテスにはわかった。
化生とも違う。気配でわかる。
言葉つかいがいる。
あれは、その使いだ。
テスは走って墓地を走り去り、小さな教会堂をぐるりと半周してその玄関口に来た。前庭から、丘の下を一望できた。影の鳥が、丘の下のジープの一団へと向かっていき、消えた。
七人の男たちが、教会堂を目がけて丘を駆け上ってくる。
やはり自分が狙いなのだと、テスは認めた。木立の向こうの低地にいる彼らからは、まだテスの姿は見えていないはずだが、確かにテスがいることを、鳥越しの視界によって知っているはずだ。テスを殺しに来たのだ。言葉つかいである彼らは、その位置からでもテスへの攻撃を開始できるはずだ。だがアルカディエーラがいるから控えているのだろう。
アルカディエーラが追いついて来て、テスの横に並んだ。テスは尋ねた。
「全ての他人を愛さなければならないなら、こういうときどうするんだ?」
アルカディエーラは聖女の微笑で優しく答えた。
「皆殺しになさい、ぼけなす」
思わず目を丸くするテスに、彼女は重ねて言った。
「いいですか? あの人たちは、あなたを卑しめ、あなたを認めず、あなたの命を奪うために来た人たちです」
「他者もまた神の一しずくなんじゃないのか?」
「寝言は寝てからほざきなさい、ど阿呆。人の姿をしている内は人です。いいですか?」アルカディエーラは微笑みながら首を傾げた。「真に敵を尊ぶことができるのは、人ではなく、所詮神だけです。そのことで、また、敵の命を奪うことで、自分を責めてはいけません」
そしてテスを見るのをやめ、アルカディエーラは丘を駆け上ってくる男たちの姿を見据えた。彼らは既に木立にたどり着いていた。
「敵を見なさい。現実逃避をしてはいけません。気取り澄ましたことを言う前に、まずは己の人生を生きるのです! 全身全霊で!」
2.
テスは教会堂の裏手へ回り、墓地と木立を駆け抜けて、村を囲む柵に手をかけた。よじ登り、内側へと身を投げ、着地した。
言葉つかいを相手取るには、視界を遮る物が多くあるに越したことはない。
村の通りは舗装もされておらず、赤土には深い轍の跡が残されていた。轍の跡に沿って、テスは村の奥へ走った。役場すらない、数十戸の漆喰の家が並ぶ小さな村だった。
テスは身を隠せる場所を探した。頭にあるのは、赤い闘魚に姿を変えられた新生アースフィアの党員のことで、仮に七人全員が言葉つかいでないとしても、彼らの視界に入りたくなかった。
ところで、どうして彼らは俺の居場所がわかったんだろうと、テスは走りながら考えた。この広い荒野で、何故?
機関車の乗客から依頼を受けたのだろうとテスは考えた。テスが機関車に乗り、そこから荒野に取り残されたことを知っている誰か。あの後に停車した町で、あの追っ手たちに依頼したのだ。そして、そのような依頼をしそうな人物は一人しかいない。
サイアの父親だ。
どういうやり方でか、恐らくはテスが知らない言葉つかいの力の使い方をして、彼らはテスを追ってきた。もしかして彼らは、サイアの父親が言っていた警邏隊の一員で、悪い言葉つかいを狩る善い言葉つかいかもしれない。彼らは既にサイアの命がないことを知っているのかもしれない。テスは悪い言葉つかいだ。何といってもサイアの件に関しては、非はテスの側だけにある。小さな女の子を誘拐し、死に追いやったのだから。殺したのだ。
テスは家々の間を抜け、公衆浴場に行き当たった。背後で地響きがし、テスは立ち止まった。後ろから大きな黒い影が被さってきた。
人の頭の形をした影が、テスの体越しに公衆浴場の壁に差し、屋根へと伸び上がった。砂のにおいが立ちこめる。テスは後ろを振り向いた。
巨人というものを、テスはこの世界で何度か目にしてきた。化生がとる姿にしろ、船上で出会った言葉つかいが操っていたものにしろ、人の形をしたものというのは想像しやすいのだろう。今テスの後ろにいるのもまた巨人で、それは鎧を纏っていた。重装歩兵だ。夕日を映してテスの目を刺す磨き上げられた兜は、頭から首までを守る円筒形で、喉を覆う鎖帷子の鈍い輝きが僅かに伺えた。テスは口を小さく開け、手を目の上にかざした。巨人は村を囲む柵の外にいた。二体、三体と、次々大地から沸き上がってくる。
これほど大きければ、見つかってしまうわけだ。
巨人は七体になった。それが大股で柵を跨ぎ越し、村に入ってきた。二階建て家屋の屋根の頂は、鎧を着込んだ巨人の膝と同じ高さにあった。巨人が歩く度に、震動がテスの足の裏に伝わる。巨人たちはテスを取り囲むように半円を描いて立ち、それぞれが前進を始めた。
テスは二本の半月刀を抜いた。巨人の群れに対し、左足を踏み込んだ。腰を右へ捻り、左手の半月刀を右肩の上に、右手の半月刀を左の脇腹にやり、構える。構えをとるのは、半ば儀式のようなものだった。テスはすぐに構えを解き、巨人たちの群れへと駆けていった。
巨人たちが一斉に、握りしめた星球つきのメイスを振り上げた。半円の包囲が縮まってくる。テスはその半円の中に飛び込んだ。
メイスの凶暴な気配が頭上に迫り、テスはその気配に集中しながら走り続ける。
真後ろの地面にメイスの星球が叩きつけられ、石つぶてがばらばらとテスの背を守るマントにぶつかった。土が水柱のように上がり、頭上から降り注ぐ。
今度は、蛇行しながら走るテスのすぐ左横にメイスが振り下ろされた。続けて右前に。テスは高く跳び上がり、地面にのめりこむメイスの星球、その凶悪な棘の上でくるりと回転し、飛び越えた。着地しようとするテスの真上から、更にメイスが襲いかかる。
着地の直後、後ろに転がり、かろうじて回避した。
メイスの星球がテスの真横に建つ漆喰の家の屋根にのめり込み、破壊する。
テスは、ネサルとの戦いの際に初めて試みたように、つむじ風の障壁を体の回りに張り巡らせた。土と砂、石埃、破壊された家の壁や梁、そして屋根を、テスを守る風が巻き上げていく。
瓦礫混じりのつむじ風を、テスは正面にいる巨人にぶつけた。テスは走る。ただまっすぐ走る。そして、巨人たちの作る半円の包囲を突っ切った。
跳び上がり、左足で民家の壁を蹴り、その右側に建つ家の屋根に飛び乗った。
その家の陰に、二人の言葉つかいの姿を見つけた。
飛び降りる。
半月刀が、西日を受けて殺意のように輝いた。
その光を顔に浴び、何事かと振り向いた言葉つかいは、途端に喉仏に半月刀の鋭い刃を受けた。仲間の短くくぐもった悲鳴を聞いたもう一人の言葉つかいも、慌てて振り向いてテスを見た。何が起きたか確かめる間もなく、その男も喉を裂かれた。
つむじ風が起こる。テスを円形に取り囲み、血しぶきを、煙のように高く舞い上げていく。
テスはつむじ風の真ん中に立ち、両腕を上げ、半月刀を交差させた。
振り下ろす。
刃についた血が払われ、地面に二本の血の直線が描かれた。つむじ風がやむ。テスの頭と肩に、血しぶきが落ちてきた。テスはまた走り出した。
「二体消えたぞ」
残る五体の巨人が、影を引きずりながら歩いてくる。テスは言葉つかいの姿を探して、横長の平屋に飛び乗った。鎧がまぶしくて、目を閉じそうになる。振り上げられて下から上へと動くメイスの影が、一瞬だけテスを光から守った。
「何があった? どうして二体消えたんだ? 誰かやられたのか?」
混乱して喚く声が、地響きを伴う巨人の足音の中から聞き取れた。
「気をつけろよ! どういう生贄の使い方をしたか知らねぇが、奴は一人で形喰いを破ったって話だぞ」
「知ってるよ。よりによって、小さい子をさらってな!」
メイスの影が、今度は上から下へ素早く動いた。
テスはくるりと跳び、地面に下りる。
またしても、家が一軒背後で叩き潰され、内側に陥没するように壊れた。巨人たちはテスの前に回り込んで包囲しようとしなかった。それがどういうことか、テスは気付いていた。
言葉つかいたちも、あの巨人たちを自分の近くで暴れさせたくないのだ。つまり、巨人が行かないところに彼らは隠れている
前方の家の陰から、小太りの男がひょっこり姿を見せた。
「あいつ、今どこに……」
テスは地を蹴った。
跳び上がる。
マントが、翼のようにばさりと音を立てた。
男は放物線を描いて飛んでくるテスを見上げ、喉を無防備に晒し、口を開けて硬直した。愕然とした目に迎えられながら、テスは空中で腰を捻り、左手の半月刀を右肩の上にやった。そして、着地と同時に男の喉に半月刀の一閃を浴びせた。
間近で悲鳴が聞こえ、後ろで誰かが慌てふためき走り去る。
「助けてくれ! シーカがやられちまった!」
テスは声がよく聞こえるように、再び屋根の上に飛び乗った。
「何があった? シーカがどうしたって?」
「強い……」後方からだ。テスが先ほど走り抜けてきた方向から聞こえる。「あいつ、強いんだよ!」
「強い? 言葉つかいの協会の連中から入手した情報じゃ、まだひよっ子のはずだぜ」
地面におり、叩き潰された家の後ろを走り抜け、その次に現れてくる家の庇へと跳び、二階の屋根の上へ。
「言葉つかいとしてはひよっ子かもしれねぇさ。だが物理武器を使いやがる」
「物理武器だと?」
「サルイとダスカがやられてる!」
三人目の声。
声は一箇所に集まりつつあった。
テスは、着地しなくてもぎりぎり跳び移れそうな距離にある家へとくるりと跳んだ。
四人目の声が続いた。
「一撃で……傷口がきれいだ……手慣れてる。どこでこんな技能を身につけやがった」
その家の真横に立っていた巨人が、ゆっくり体の向きを変え、右手に持ったメイスを、左の二の腕の後ろにやり、構える。
「なあ、あのジュンハとかいう男に前払い金を返そうぜ。俺はもう……」
「馬鹿を言うな! 子供をさらって殺すような言葉つかいを野放しにしていいわけないだろう! それを黙認するようじゃ、協会の奴らと同類だ!」
「俺は奴の姿を見たんだ! まだ若かった。この残忍さと、この殺しの技量……これはきっと……」
メイスがテスの後ろから、横薙ぎに振られた。
「……かなり幼い頃から、人を殺すように育てられたんだ! あいつは人間じゃねぇ!」
可能な限り高く、真上に跳び上がる。
メイスの星球がテスの体の下をかすめ、その針山のごとき棘の輝きが更にテスの目を焼き、乾かした。
そして、飛び移った先の家の陰に、四人の姿を見つけた。
「おお、そうだ! 人間じゃねえ!」一番落ち着いているように見える男が、遮るように言い放つ。「人形だ! 機械だ! ケダモノだ! 同じ人間だと思うな! 全力で殺せ!」
振り切られて停止したメイスの隣で、テスは大気の足場を作り、それを蹴り、飛ぶ。
マントが広がった。
男は叫んでいた。
「殺せ!!」
その立ち姿を影で覆い、テスが頭上で半月刀を振りかざす。
テスの着地と同時に、男は首筋から血を噴き出した。マントの裾で土を撫で、男たちの眼前に、鳥のように舞い下りた影、テスが立ち上がる。右の半月刀を左の脇腹に、左の半月刀を右の脇腹に、刃を前に向けてかざし、残すところ三人の男たちへと足を踏み出した。
翼のように両腕を広げ、力を解き放つ。右手の半月刀の先端が、右前方に立つ男の喉を刺した。左手の半月刀の先端が、左前方に立つ男の首を掻いた。
更に前へ。
左足を踏み込み、体に回転を加えて、最後の一人の男の首を、恐ろしくよく切れる刃で撫でた。更にくるりと回転し、首筋から血を噴きながらくずおれる男の背後に回った。
そこは家と家の間で、向こうには、一体だけ巨人が残っていた。
巨人もテスを見つけたが、テスに向かって歩きだそうとしたところで夢のように消えた。
後には七人の死骸と、テス、叩き潰された家々と、巨大すぎる足跡や、赤土にメイスの星球がのめりこんだ痕跡だけ残った。
※
風を血除けに使ったものの、テスの髪にも、顔にも、灰白色のマントにも、点々と血がついていた。テスはその姿で教会堂に戻った。
アルカディエーラは前庭に立ち、『亡国記』を読んでいた。テスが前に立ち、歩みを止めると、顔を上げ、あの聖女の笑みを見せた。
「ちゃんと皆殺しにしましたか?」
「……ああ」
「大変よろしい」アルカディエーラは本を閉じぬまま、満足そうに頷いた。
「それでいいのです。あなたはあなたの存在を認めず、殺しにくる者、また、過去にあなたを殺そうとした者を殺さなければなりません」
「過去にも?」
「もちろんです。その殺意の原因があなた自身の中から取り除かれたとは限らないのですから。あなたには、あなたの脅威を全て排除する必要があります」
「言うことが極端だ……何をそんなに恐れているんだ? アルカディエーラ」
アルカディエーラは笑顔のままテスを見た。テスは続けた。
「俺にはそう見える。まるで殺される心当たりがあるみたいだ」
本を閉じ、アルカディエーラは一歩、二歩、三歩と前に出た。そしてテスに背を向け、語り始めた。
「私には息子がいました」
その過去形に、テスは先を促す。
「……その子はどうなったんだ?」
「知りません。捨てました」
アルカディエーラは振り向かないが、口調に変化はなく、また雰囲気からも、まだ微笑んだままでいるらしかった。
「どうして」
「逆子(さかご)で生まれてきて、縁起が悪かったからです。それに私も当時は子供みたいなもので、まだ遊びたい盛りでしたから」
何かがテスの深いところに沈む記憶を撫でた。その感触に、テスは誰にも見られず目を見開いた。
「それで、父も、死産だったことにしようと家令に言って、捨ててこさせたんです。悪魔封じの印を頬に描いて。生きている内に拾われれば、血塗られた手の卑しい者たちがその子を育てることを、知っていました」
テスは唾をのんだ。またのんだ。口の中はからからに乾いていたが、もう一度、何かをのみ込むように喉仏を上下させた。
「もしも……その息子が生きていたら?」
「殺します」
テスはアルカディエーラの後ろで少し右に動き、右後ろから彼女の横顔を伺った。やはり微笑んでいた。
「その息子が、別にお前を憎んでいないとしても?」
「殺します」と、繰り返す。「私がその子に憎まれることをしたのには、変わりありませんから」
「そうか」
テスの声が不意に低くなった。
「キシャ、離れろ」
『亡国記』が素早く浮き上がり、空中で止まった。驚いたアルカディエーラが弾かれたように振り向いた。次の瞬間、銃声とともに、彼女は本当に弾かれた。血が散り、体を一回転させ、どさりと重い音を立て倒れた。
前のめりに倒れたアルカディエーラの後ろでは、テスが銃を両手で握っていた。
アルカディエーラは何もない前方へと弱々しく手を伸ばし、呻きながら咳き込んでいる。テスは彼女の足許から、頭へと回り込んだ。銃をホルスターに収める。
「産んでくれてありがとう、母さん」
そして、アルカディエーラの手が伸びる先で、しゃがみ込み、片膝をついた。
「感謝している」嫌味ではないとわからせるために、もう一言付け加えた。「これは本心だ」
アルカディエーラは頬を地面にこすりつけ、僅かに顔の角度を上げた。その顔に血の気はなく、目はあっちを向いたりこっちを向いたりしており、定まらない。唇は血で真っ赤だった。彼女は何かを言おうとして、弱々しく血の混じった咳をした。指先が、力なくテスの膝頭を撫でた。
唇が動いていた。テスは顔を寄せ、微かな息に混じる声と、唇の動きに集中した。
「私が」と、唇が動いた。「話したことはすべて忘れなさい」
テスは頷く。
「ああ……そうする」
アルカディエーラは何度も頷き返した。
「優しい子」
まだ、彼女は口を開いた。
「そのまま――」
声が絶え、テスは微かな唇の動きに目を凝らす。
恐らく彼女はこう言った。
「そのまま、心を失くしていきなさい」
唇は、二度と動かなくなった。
ぐったりと倒れているアルカディエーラの瞼を、テスは閉じてやった。
立ち上がり、その亡骸を呆然とした面持ちで見下ろした。
彼女は殺されたかったのだとテスは考えた。ところでどうして彼女が自分の母親だとわかったのか、自分にそう確信させたものが何だったのか、テスにはわからない。
アルカディエーラが語った内容に関連しているはずだが、彼女が何を言ったかさえ、もはや思い出せなかった。
出自に関する記憶が失われたのだとテスは理解した。それに併せて、なくした記憶に関連するアルカディエーラの話の内容も、頭から滑り落ちてしまったのだ。アルカディエーラはもう語らない。
空中の本はいつしか消えていた。
テスはアルカディエーラの亡骸を見るのをやめ、背を向けた。
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(※本文中の引用は『新約聖書 原文校訂による口語訳 (フランシスコ会聖書研究所 訳注)』より)