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冷凍されたオシドリとチューリップ人の王国

趣味で書いている小説用のブログです。

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失語の鳥〈6〉

chilledscape #06 影なる霊脈




 1.

 破滅へと滑り落ちる空が、剥がれ地に注いだ。それは音を立てず、それは見えなかった。だが人々は気付いた。
 加減弁に手を添える運転士は、買い物に行くと言って家を出て、二度と戻らなかった姉の、最後の後ろ姿を線路上に幻視して、ブレーキを引きそうになった。そして、姉がもうこの世の人でなく、川岸に揃えられた靴、川中の二つの岩の間に浮かび揺らめく長い黒髪、それを見つけたのが他ならぬ自分であったことを思い出し、ブレーキ弁を握る手の力を、躊躇いながら緩めた。
 ボイラーに石炭を投じる火夫は、スコップで石炭を掬ったとき、その石炭の山の中に自死した同僚の顔を不意に見て、その同僚が線路に身を投じる際にこの世に最期に投げた視線を、己の瞳で受け止めた。
 客からの評判がめっぽう良い若く親切な車掌は、制帽を正して顔を上げ、夕日を映す鏡の中に、愛想笑いをしながら涙を流す、己の痩せた顔を見た。
 サロンの窓際の座席を占領する老人たちのすべてのグループに、一斉に会話の切れ目が訪れた。
 木と紙でできた飛行船のおもちゃを掲げて駆け回る子供は、何か大いなる存在に呼ばれたごとく立ち止まった。
 食堂車から口を拭きながら歩いてきた中年の夫婦は、サロンに入った途端、窓の外に驚くべきものを一瞬見た気がして硬直した。
 テスは三等客室にいた。左右の壁際に二段ベッドが三列並ぶ、十二人眠れる客室で、テスは入って右側の窓際のベッドの下段に座っていた。何かを考えるでもなく、また思うでもなく、未だ疼き寝入りばなに火の痛みを放つ体じゅうの傷が癒えるのを、息詰めて待っていた。そして感じた。空虚な脳と精神に霊感の水が滴り落ち、その波紋が迫る破滅を知らしめるのを感知した。客車の真上で、赤い空が波打ち滝のように流れ落ちるのを見た。見えるはずのない場所で起きた出来事を、それでも見た。
 テスは精神の目を上げて、揺らぐ空、夕闇、色彩の地獄、その向こうにあるものを見極めようとした。だが、客室の天井が見えただけだった。どのようにしてついたのかわからないが、血しぶきのように油染みが散っていて、もしかしてそれは本当に血しぶきで、昔かまたは最近か、このベッドの上段で、人が殺されたのかもしれなかった。赤銅の電気傘の上で蜘蛛が巣を張っていて、埃のように小さな蛾を抱え、愛するように食べていた。
 枕の横に並べておいた灰白色のマントを手に取り、肩に掛けていた毛布を脱いだ。毛布の代わりにマントを羽織り、テスは客室を出た。三等客室から通路に出、右手に窓を見、左手に三等客室の戸、通路、三等客室、また三等客室の戸を見、それから二等・三等客室共用の食堂車を通り抜け、通路、そして最後尾の車両となる二等・三等客室室共用のサロンの戸の前にたどり着き、戸を細く開けた。
 サロンには賑わいが戻っていた。この人たちは誰も、何も気付かなかったのだろうか、とテスは思った。途端にテスの恐れる単語が耳に飛び込んできた。
『新生アースフィア』
 動きを止めたテスは、細く開いた戸の陰に身を隠し、聞き耳を立てる形となった。
 扉にほど近い席の男が別の乗客と話している。
「でももう、結局、いいんですよ。意味ないんですよ、もう」
 男の口調は投げやりだが、無理に朗らかさを保とうとしていた。
 別の男性の旅客が言葉を返す。
「ですがあなた、党の執行部にまでなって……」
「妻の仇討ちはしました。それでいいんです。本当はそれで満足して党から身を引かなければならなかったんだ。でももう、党も腐ってしまって……もう関係ないんですよ。抜けましたし」
 それを聞き、テスはサロンに入っていった。
 新生アースフィア党を抜けたという男は、三十前後の、しかし妙に雰囲気だけは老け込んだ、中身のない笑顔を顔に張り付けた男で、隣に七つか八つの女の子がいた。女の子は男にもたれて口を開けて眠っていたが、テスがサロンに入ると目を覚まし、目をこすりながら父親から体を離した。
「パパ、トイレ」
 男は向かいの旅客と話している最中だった。
「それで、あなたはこれからどちらに行かれるのです?」
「化生から人を守るための私設の警邏隊が、北部で興り始めてると聞きましてね。悪質な言葉つかいを狩る、協会を抜けた言葉つかいも協力していると聞きました。傭兵団みたいなものもあると。私はそっちの道で生きていきますよ。ん?」と、ようやく娘を見た。「トイレ? 行っといで」
 テスとすれ違い、娘は通路へ出ていった。テスはサロンの突き当たりまで歩いていった。サロンの一番奥の座席では、中年の夫婦と、それと同年代に見えるもう一組の夫婦、そして小さい男の子がいた。二組の夫婦はワインを開けており、子供の前にはジュースが置かれているのだが、子供はジュースよりも膝に載せた船のおもちゃに夢中だった。
「もうねぇ、本当に男の子ってば手がかかって……」
 サロンの奥は、オープンデッキに通じる二重扉になっている。二組の夫婦の会話を聞くともなしに聞きながら、テスは内扉を通った。風や機関車の煙がサロンに入らぬよう、それをきちんと閉め切ってから外扉を開ける。
 体感気温がぐっと下がった。裂かれた大気がテスの両脇で唸りをあげている。赤い大地、黒い線路、なだらかな山々が、後ろ向きに遠ざかっていく。
 そして、飛ぶ鳥の影一つない空は、剥がれても、揺らいでも、波打ってもいなかった。テスは夕闇に顔を染めながら、赤い空をぼんやり見た。そうすれば本当の色が見える気がした。夕闇の奥に青空が潜んでいるのではないか。何か潜むものはないか。だが、善きものは何も感じ取れず、空はただテスの凝視を受けて、気怠げな、胡散臭そうな気配を送り返すだけだった。
 空は、旅を始めた頃より色味を増していた。
『世界の色彩が死ねば死ぬほど、空が赤く濃くなっていく』かつてキシャはそう言った。『見ててごらん……』
 追い抜かれていく大気、追い抜かれていく石ころ、果てなく続く線路。機関車の先頭で噴き上がり、風に散らされ臭いのみによって存在感を示す煙。そうしたものが急に堪らなく感じられ、テスは寒さに震えた。人恋しくなって、サロンに戻ろうとした。
 外側の扉を開けて暖気に身を浸したテスは、内側の扉に手をかけた直後、女性の険しい声に動きを止めた。
「もうそんな話を聞きたくないって言ってるのがわからないんですか!」
 オープンデッキに出る扉の近くにいたのは、二組の中年の夫婦だったはずだ。内扉には窓がついておらず、中の様子は見えないが、甲高い声で捲し立てているのは二組の内のどちらかの主婦だろうと思われた。
「何なんですか? 嫌味ですか? 当てこすりですか? 自慢なの?」
「ごめんなさいね、あなた。そんなつもりじゃあ……」
「白々しい。もういい加減にしてください! 私たちに子供ができなかったって言った途端に自分の子供、子供、子供の話ばかり――」
 涙声になり、男性が小声でたしなめる声が僅かに聞こえたが、すぐ身も世もない泣き声にかき消された。
 テスの胸に恐ろしい予感が走り抜けた。予感は白い霧のように不安と嫌悪を残した。
 内扉から手を離した。
 すると、向こう側から内扉が開けられた。
 小さな女の子が姿を見せた。新生アースフィア党の執行部員だったという男が連れていた少女だった。
 少女は無表情でテスを見上げた。
 眼力が異様に強いせいで、睨んでいるように見える。
 その顔を、外扉についた窓から差し込む夕日が染めあげた。
 少女は胸に、革表紙の大判の書物を抱いていた。
『亡国記』
「キシャ」
「何をしてる?」
 キシャは外扉と内扉の間の短い通路に入ってきて、内扉を閉めた。内扉が、外扉の窓の形に四角く色付いた。その四角形の中に、テスの真っ黒い影が映った。
 二人は無言で向き合った。
 キシャのほうから口を開いた。
「今度はどこへ、何に巻き込まれに行くつもりだ?」
 幼い声で発される残酷な問いに、テスは首を横に振ってから、唇を開いた。
「何も俺を巻き込まずにおいてくれる場所まで」
「おまえを巻き込みたいものは、どこまでも追ってくるぞ。おまえは既に歯車に巻き込まれた布みたいなものだ。ほら」右手の指で空中に何度も円を描き、歯車の回る動作を示した。カチリ、カチリという空耳が聞こえた。「引き寄せられて、巻き込まれて、好き勝手ズタボロにされるんだ。ここまで生き延びられたのは幸いだったな。傷は残っているようだが」
「新生アースフィアの人たちは、ひどく言葉つかいを憎んでた」
 その理由、惨い殺戮を、三日前に目にしたばかりだった。
「ああ、そう。仕方ないね」キシャは素っ気なく応じた。「言葉つかいこそが言葉喰い、空と大地を消失させるものだと奴らは信じてるから」
「キシャ、なあ……」テスは、先ほど胸に鋭く光った予感を打ち明けてよいものか、躊躇した。だがキシャの無情な注視を受け、その躊躇を捨てた。「この世界で、町でも、村でも、通り過ぎて出会ってきた人たちは、みんな殺伐としていた。余裕がなくて、何かがおかしくて……」
 キシャは無言のままでいた。
「……それは俺のせいだろうか?」
「何故?」
「俺が近くにいるときだけそうで、俺がいなければそうじゃないんじゃないかと……」内扉に目を動かした。黒く映るテスの横顔の、唇が動いていた。「このサロンに二組の夫婦がいた。俺がサロンに入るまではふつうに話をしてた。だけど俺が通りかかった後、喧嘩を始めたんだ」
「そんなのが自分のせいだって?」
 キシャの両目にようやく感情が浮かんだ。それは呆れだった。彼女は借り物の幼い体で鼻を鳴らし、書物を抱いたまま肩を竦めた。
「もっとよく思い出せ。変わらなかった奴もいるだろう」
 死者の町で再会し、別れたオルゴの、人好きのする笑顔が思い出された。テスは納得し、安堵と共に、何故か微かな落胆を覚えた。
「……ああ」
「でも、本当に無関係かな」どれほど本気かわからない口調で、キシャは続けた。「何せおまえは言葉つかい。著しく変質させる者だ」
「キシャ」
「来るぞ」
 冷静な口調で遮られ、テスは口をつぐんだ。内扉の向こうから、新生アースフィアを抜けた男の声が聞こえた。
「サイア?」娘を探しているのだ。「サイア、どこだ?」
 そのサイアはキシャの容れものとして、テスの前に立っている。
 彼女は告げた。
「気をつけろ」
 何か黒いものが、無意識に高く上げた感受性のアンテナに引っかかった。音がしたわけでも、影が動いたわけでもなかった。だがテスは、それが来る方向を正しく見た。
 外扉の窓の向こう、オープンデッキの向こう、黒い線路、死して横たわる荒野の向こう、置き去りにされて遠ざかりつつある峻険な山々の二つの峰の間に、黒く立ち上る影があった。
 影は峰と峰の間の谷間に水のように広がった。そのまま迸り、木のない山頂、葉のない木々の生い茂る中腹、紅葉した木が染め上げる裾野へと流れ落ちた。
 機関車が急激に加速した。非常を告げるベルが扉一枚隔てた先のサロンに鳴りわたった。どの車両でも鳴らされているに違いなかった。さりとて何ができる?
「サイア!」
 男が叫んでいる。別の声が窘めた。
「行きましょう、ジュンハさん。客室に戻っているかもしれない」
 山を覆い尽くした黒い影は、地平線の向こうに見えなくなった。だが、見えないから驚異ではないなどと考えるつもりはなかった。テスは外扉を開け放った。乾いた風と土埃、そして黒煙の臭いが通路に入ってきた。
 オープンデッキに飛び出しても、それはまだ視界の外にいた。
「待て」デッキの手すりに足をかけ、客車の上に飛び上がろうとするテスの腕をキシャが引っ張った。「私も運べ」
 テスはキシャを両腕に抱えて手すりを蹴り、屋根のないオープンデッキから、緩やかなアーチ型をした客車の黒い屋根へ跳んだ。
 機関車の先頭では、噴きあがる煙が横風を受けて左へなびいていた。キシャをおろし、振り返ると、地平線に再び影が見えた。
 それは黒く平たく大地に広がり、海のように迫ってきた。線路はもちろん、言葉つかいが建てた結界の柱さえ、その黒さがひとたび触れれば腐ったようにくずおれていく。
 それは急いでいるような気配を発してはいなかったが、この機関車よりずっと速かった。地平線の端にあったそれは、既に地平線とこの機関車との距離のちょうど中間あたりまで来ていた。
「あれは……」テスは無意識のうちに大気を操作して、客車の上の無風空間にキシャと一緒に立ちながら、ようやく言葉を発した。「あれは何だ?」
「ようやくお目もじかなったわけだ」キシャは全く、ありがたくも何でもなさそうに答えた。「形(かた)喰いだよ」

 2.

「キシャ、キシャ」
 テスは呼びかけながら、形喰いから目をそらすのをやめなかった。機関車と影との距離は、その間にも縮まってくる。キシャが、自分を見てなどいないテスに答えた。
「くだらんことは聞くなよ?」
「キシャ、どうしておまえは化生や他の言葉つかいがいる所にだけ姿を見せるんだ?」
 まずため息が応じた。
「おまえにとって大切なのは……」
 ため息に続くキシャの言葉と話しかたに、はぐらかすような気配を察知して、テスは急にやるせない怒りと悲しみを感じた。
「……今、おまえが無意識のうちに、化生と言葉つかいを同列の存在と見做したことじゃないか?」
 テスは銃を抜いた。抜きながら身震いし、首を大きく左右に振った。
「……俺は化け物なんかじゃない」
「銃を抜いてどうする? 撃っても無駄だぞ。銃弾だろうがなんだろうが、あれは実体あるものは何でも喰う」
 形喰いは視界の限り黒く広がりながら押し寄せ、銃の射程範囲内に入った。テスの正面、つまり線路上、結界に守られていた直線上だけは進みが遅いことにテスは気が付いた。結界も、全くの無力ではなく、進行を遅らせるだけの力はあるらしい。形喰いの体は、線路の両側に延びた部分だけが、結界内の機関車に向けて突出していた。
 その不定系の黒い体の、線路に沿って突出した両側面が不意に持ち上がった。それは波濤のように見えたが、不可視の結界に沿って伸び上がり、狭い門のようになった。狭い門の両側の上端が、互いに反対側の上端を求めてじわじわとアーチ状に伸び、ついにくっついた。
 形喰いには実体がない。
 だから実体を求めて実体を喰うのだ。
 テスは直観で理解した。
 結界の高さの上限で、黒い影は突如、二つの大きな牙の実体を見せた。
 海獣の牙のようだった。緩やかにカーブする二つの牙は、いずれも影なる本体の中にあり、不意に象牙色の輝きを得て夕日を照り返した。
 進行を阻む力をかみ砕くべく、牙が大きく上に反る。テスはその牙を撃った。向かって左側にあるほうの牙に、弾丸が吸い込まれていく。一発、三発、五発、七発、九発、十発。十一発、十五発、二十発。
 二十発撃って、衝撃によって空中で動きを止めていた一対の牙は、ついにその左側を失った。砕けて影の中に落ちていく。
「あれは頭が良くない」キシャが喋った。「せっかく実体がないのが強みなのに、実体によって喰うことにこだわる。コンプレックスだよ。実体だけあり自我がない彩喰いが、記憶を喰って自我を得ようとするのと同じだ。あれは、どうしても、実体が欲しいんだ。ところでおまえは怖くないのか?」
 それだけ一気に言うのを、テスは右の牙に向けて撃ちながら聞いた。
「怖くはない」
 右の牙が砕け、影になって地を覆う本体の中に戻っていく。
「何故戦う? 何故他の乗客と一緒に列車の中で震えて過ごそうと思わない? あれに勝てると思うのか?」
 キシャは話を続けた。
「おまえはまるで、死に場所を探しているみたいじゃないか」
 煙突から噴きあがる煙の量が、突然倍になったようだ。煙の臭いを一層濃くテスは感じた。
「俺が怖いのは――」
 影が細く分かれて立ち上り、棘を持ついばらとなる。
「――キシャ、俺は何でも、何もかもすっかり忘れたわけじゃない。太陽の王国に夜が来た。夜の王国に朝が来た。俺たちは夜から逃れようと、朝から逃れようと、方法を探して戦った。俺が恐れるのは、キシャ」
 二本の半月刀を抜いた。
 警笛が無力に鳴り響いた。
 その音の中で、テスは叫ぶように言った。
「あてもなく旅を続けなければならないことが怖いんだ! いつか記憶を全部失って、廃人のようになって、右も左もわからずに荒野をさまよって、もう何もできずに――」
 半月刀を、柄頭の連結器で組み合わせ、実体化したいばらへと投げ放った。大気の力を付与されたブーメランは、物に当たっても失速したり落ちたりすることなく、いばらの壁を切り裂いて、移動し続ける客車の上のテスの手許に戻ってきた。
「じゃあ……キシャ、人間は……俺たちは……俺は、この夕闇の国で何をすればいい?」テスはブーメランを左手で受け止めた。「何と戦えばいい? どうすれば滅びを止められる?」
 形喰いは、次なる実体を見せ始めた。
 遠く、山を背景に、地平線から広大な麦畑が押し寄せてきた。豊かに穂をつけ、頭を垂れる稲が、破壊された結界の痕を覆い尽くしていく。
 麦畑による浸食は、影から立ち上る背の低い柵によってくい止められた。そして林が、柵と麦畑を視界から遮った。
 簡単には破壊できない実体たち。
 形喰いが手に入れた実体。形喰いに喰われた村が、テスの目の前で再現されていく。
 三角屋根を持つ家。畜舎。長い煙突を持つ紡績工場。家。家。家。教会堂。併設の施療院。そして家。家。家。牛乳配達員の自転車。往来を気ままに歩く鶏。
 それらの手前を先行する不定形の影が、ついぞ列車に追いつき併走を始めた。
 テスの右隣に、大きな水車を持つ製粉所が現れた。
 恐怖の悲鳴が聞こえた。足許、客車にいる人々の悲鳴かもしれず、かつて形喰いに喰われた人々の最期の声の残響かもしれなかった。それはレールの上を疾走する機関車の音、その警笛にかき消されながら、微かに、確かに聞こえた。
「実体を見せるなら……」テスは半月刀を鞘に収め、左手で消された村の家々を指さした。「実体で対抗できる」
 後ろを振り向いた。テスは背後に連なる客車の屋根屋根を見た。先頭にほど近い煙室を見た。その煙突から噴き上がる、太い黒い煙が風で左手方向に大きくなびいているのを見た。線路上の異常に気を配りながらも、機関室で加減弁を握りしめる運転士を想った。汗をかき、熱で目もくらみ、喉を痛め、酸素を求めて喘ぐような息をしながらなおスコップで石炭をボイラーに投じ続ける火夫を想った。想像を目で補いながら、黒光りする車体、その逞しい車輪と、煤けた窓を想った。
 そして目を閉じて、イメージを投げた。
 新たなる警笛が、疾駆する機関車の後方、形喰いの影から生まれた実体の中より鳴り渡った。新たな車輪。新たな車体。新たな窓。枝分かれして延びる新たな線路の上で機関車を走らせる、新たな運転士と火夫。
 テスは恐怖と悲鳴のイメージを投げる。家々を砕き、家畜を踏み潰し、何も見えず亡霊のようにさまよう村人たち、馬、それらを撥ねながら決して脱輪しない、強靭なる新たな機関車へと投げ放つ。
 枝分かれして併走する線路の上で、新しい機関車がテスのいる機関車に追いついた。その機関車の窓に、無数の人が張り付いていた。青ざめた顔。血を流す顔。土気色の顔。窓に顔と手を押しつけ、恐怖に表情を歪ませ叫んでいる。
 叫んでいる。
 形喰いの影に溶かされたかつての実体たち。人間たち。影の中で脈打ち、自我を失い、それでも再び実体化されれば、最期の時と違わぬ最期の恐怖を訴える、幽霊たち。
 テスはサイアに身を借りたキシャを両腕に抱き上げた。その重さを支えるべく、より一層強固な大気の足場を空中に作り、二段階に分けて飛んで、新しい機関車に飛び移った。
「サイア!」
 悲痛な叫びが不意にテスの耳を打った。
「サイア、サイア!」
 本来ある機関車を、テスは思わず振り向いてしまった。
 サイアの父親が、客車の窓から身を乗り出し、両腕をテスとキシャへと伸ばしていた。上半身をすっかり窓の外に出したその男の腰に、別の誰かの両腕が巻き付いて、外に転げ落ちんとするのを防いでいた。
 二つの線路は離れていく。二つの機関車は離れていく。もう、どうしようもなく……。
「サイア!!」
 父親の絶叫が悲しく遠ざかる。
 テスは自分のしたことの恐ろしさに凍り付いた。
 必ず返すから。
 遠ざかりつつある機関車に、テスは凍り付いた心で約束をした。この子は必ず返すから。
「こっちに来るぞ」
 キシャは、サイアの父の叫びを何とも思っていない様子だった。村が溶けていく。形喰いは大いなる影に戻り、結界で守られていない新しい機関車に集中し始めた。恐怖を追って、やってくる。
 影が、最後尾の車両に触れた。すると車両は音も立てず、煙も、粉塵も立てず、水のように溶け始めた。
 影の濃さ、脈打つ恐怖、無情の貪欲を映して、空の赤が濃さを増した。
「色彩が……」影は車両を溶かしながら、テスがいる車両へ迫ってくる。「死ん……でいく……」
「それで、こっちに引きつけたはいいが、どうするつもりだ?」後ろの車両を徐々に溶かしていく形喰いから目を逸らさず、キシャが尋ねた。「この列車を喰ったら、あれは、本物の機関車を追うぞ。必ず追いつかれる」
 テスは形喰いから目をそらし、キシャを見て答えた。
「もしも対抗手段がないのなら、お前は俺とサイアをおいて逃げているだろう、キシャ」
「……要領のいい奴め。私を使うとは……」
 二人が立つ車両から三両先の客車が溶かされ、消滅した。
「あいつらは実体のないものは喰えない」
 溶かし尽くす影が、二両先の客車の中ほどまで達した。
「拒否反応を起こすんだ。だから実体のないもので対抗すればいい」
「どうやって」
 形喰いが、一両先の車両に触れた。キシャからものを教わっている暇はなかった。
「私の記憶を使ってやる」一両先の車両の中央まで影が達する。テスはつい後ずさったが、キシャは動かなかった。
 そして、その車両も消滅し、二人が立つ車両が最後尾となった。
「この子供の体を使う」車両を連結する短い通路も消え、影が、二人が立つ車両の端に触れた。それでもキシャは恐れていなかった。「自分が選んだ戦いかたの結果を目に焼き付けろ」
 影は進み続ける。
 本を抱くために胸の前で交差していたサイアの両腕が、解き放たれた。テスは冷たい予感を胸に抱いた。
 思わず身を乗り出す。
「やめ――」
 本は足許に落下することなくサイアの頭上に浮いた。いつか沼のほとりで見たように、空中高くで重たげな表紙を開き、光を放った。
 光を浴び、キシャの爪先で、影の進行が止まった。
 そして、恐怖の目がテスを迎えた。
 サイアの両目に宿るのは、沼のほとりで見た十六歳の少女の目、八百年を経ていない、本来のキシャの目だった。
「あなたは」
 それでも、声は幼いサイアだった。体はサイアだった。細く短い子供の指を持つ手が、テスにむかって伸びた。
「あなたは……テス」
 テスは気付かぬ内に、縋りつくようなその手を取ってやろうとした。キシャの、サイアの手が、指先がふれあう直前、後ろ向きに遠ざかった。何らかの強い力が、後ろからキシャを引いていた。
 その体が宙に浮く。
 思わず口を開いたテスに、空中の書物から言葉が降ってきた。

〈あなたはあなたのしたことで、悲しまないでください。すべての起きることは主によって、予定されていたのですから〉

 文字として目に見えたようでもあり、声として耳に聞こえたようでもあった。そして、頭の中に自分自身の思念として浮かんだようでもあった。
「キシャ!」
 サイアの体が鉄の棒に張りつけられた。その胴に、吊り上げられた両腕に、空中で揃えられた両足に、誰の手にもよらず荒縄が巻かれていく。
 テスはもう客車の屋根の上には立っていなかった。
 砂が打たれた広場にいた。広場の中央に、火刑台が設置されている。サイアは、十六歳のキシャは、火刑台に縛り付けられていた。足許には薪が組まれ、獣脂の臭いを放っていた。
「キシャ?」
 広場の向こうには市場の通りが延びていた。だが、人の姿は見えなかった。
「キシャ!」
 火刑台に手を伸ばし、駆け出そうとしたテスの胸の前で、二本の槍が交差された。
 突如として広場が人の気配に満ちた。
 テスの前で槍を交差させるのは、二人の兵士だった。神官兵。神官兵たちが、円形に火刑台を取り囲んでいる。押し掛けた無数の群衆が、神官兵たちが作る円の外側にいた。顔、顔、顔。もう、広場の向こうの通りは見えない。
 広場の左右の端に、旗の列が掲げられている。矢の印。矢の家の御旗だ。テスの正面、そして振り返れば真後ろにも、射手の印の旗の列が掲げられている。射手の家の御旗だ。
 火刑台の下、組まれた薪の中央に、不可視の荒々しい手が本を次々と投げ入れる。本は薪の中央から溢れ、外側にこぼれ、周囲に散乱した。テスには表紙の金文字が見えた。
『亡国記』
 そして、夜に塗られた空を、白く輝く編み目が覆っていた。
 天球儀。
 夜の王国で、一つの処刑が行われようとしていた。群衆は火刑台の少女に口汚い罵声を浴びせていた。また何人かは、胸の前で手を組み、涙と祈りを捧げていた。
 火刑台の真上に浮かび、金色の光を放つ書物は、誰にも見えていないようだった。キシャはサイアの体で顎を上げ、夜空を、または、天球儀を見ていた。そのため下にいるテスには、彼女の表情は見えなかった。ただ、顎が微かに動いていて、彼女が何かを呟いていることだけがわかった。

〈白い花を集めてください。私のために〉

 暴力を期待する喧噪の中で、テスに言葉が降り注ぐ。

〈私が焼かれたその跡で、白い花を焼いてください〉

「タターリス・エルドバード」神官兵たちによる円陣の内側、火刑台の前、テスの正面に、瑠璃色の髪をした中年の男が現れた。「人の言う予言者よ」
 神官将の装束をまとう男は、中年に差し掛かっていたが、驚くべき美しさと魅力を放っていた。
 男は尊大に、侮蔑を込めて、テスに冷たく笑いかけ、言葉を継いだ。
「不確かな知識と邪念に基く憶測によって『予言』なる書を著し、彼(か)の大罪人の民衆煽動に荷担した罪は重い。しかし貴様は彼の者の居場所を密告し、我らに棄教を誓った。
 もし貴様が誓いを放棄し、忌むべき異端教徒なりの大儀と名誉を貫き、人としての責任を全うするならば、教祖と呼ぶ大罪人との死を許そう。または、この場で再度棄教を誓うなら、恥と不名誉にまみれた余生を過ごすことになろうぞ」
 テスは何と言うべきかわからなかったが、口が勝手に動いた。
「そうあらしめよ」動き続ける。「我、タターリス・エルドバードは改めて、キシャ・ウィングボウ並び彼の者の敷衍(ふえん)せしあらゆる教えに永久に背を向けることを再度誓う」
 男の表情に、軽蔑の色が濃くなった。彼は大仰に振り向き、槍で火刑台を指し、息を大きく吸い込んで、高らかに宣言した。
「ザナリス神官団シリウス・ライトアローの名に於いて、このスリロスの地にて呪われた生を享けしキシャ・ウィングボウ、暴動の煽動者、火と血に飢えた逆臣ウィングボウ一族の末裔の処刑を執行する!」
 空中より突如現れた弓の印の旗が、薪と本の上に掛けられた。弓の家の御旗。
 それが燃え上がった。
 今、火がつけられたのだ、と、群衆の前列から後列へと情報が伝播する。火はよく乾いた薪へと、簡単に燃え移った。薪から本へ、本から薪へ移るにつれ、白い煙が増えていく。
 煙の向こうに霞むキシャの姿は、まだ顎をあげて空を見上げていた。
 だがそれはキシャではない。八百年前に処刑された、十六歳の少女ではない。サイア。何の罪もない、ただ、テスの近くにいただけの、幼い少女なのだ。キシャが、サイアが、煙にむせ、咳き込み始めた。
「タターリス」恨みを込めた低い声が、火刑台から放たれた。「タターリス!」キシャは咳をしながら続けた。「何故裏切ったの」
 自分が選んだ戦いかたの結果を見ろと、キシャは言った。
 見ていられるわけがなかった。
「何故、何故!」
 火が、サイアの小さな足に届いた。テスは思わずきつく目をつぶった。
「何故!」
 キシャの絶叫が、容赦なく耳を刺した。
「主よ! 何故私を見捨て給う!」
 主よ!
 それを最後に、続く声はすべて絶叫に変わった。
「サイア」
 力が抜け、テスはその場でがっくりと両膝をついた。ストールの下から、紐を通した陶器の破片を引き出した。それを両手で挟み、胸の前で両手を組む。
 祈りの句はわからなかった。
 祈るべき相手もわからなかった。
 テスはむなしく繰り返す。
「ごめんな……ごめんな……」

〈私は煤の声で歌い、泣き濡れる人を慰めます。私は灰の声で誘い、大地の種子を芽吹かせます〉

 絶叫は容赦なく続き、テスは瞼の闇すら耐えられなくなりまた目を開いた。
 火刑台の向こう、人々の頭の向こう、真っ黒い影が焼かれている。実体なき記憶によって、形喰いが駆逐されていく。サイアの犠牲によって。

〈記憶たる霊の流れ、記憶たる霊の大河、記憶たる霊の脈動が、絶えず私を呼びます〉

 かつてキシャを焼き尽くし、今またサイアを焼き尽くす記憶の火が、彼女たちの魂を煙に変えていく。
 煙が天球儀に上っていく。
 天球儀になっていく。

〈鳥という善なる民が、私をまとい運ぶでしょう〉

 絶叫が終わった。顔にかかる熱風も、群衆の叫びも終わった。
 キシャの意識は、キシャの記憶は、ここで絶えたのだ。
 テスが実体化した機関車も消えていた。
 火刑台はなかったが、灰が降っていた。
 サイアの体は消えていた。
 跪くテスに灰が降り、赤土の地面に落ちて、積もることなく消えていく。
 頭上には、キシャの書物が、光を放ちながら浮いていた。テスがまだぼんやりしながら書物に目を移すと、行くべき方角を示すように、金の光の尾を引いて、右手方向へ消えていった。
 テスは、すぐに立ち上がる気になどなれなかった。
 天球儀のない空、濃い赤に染まる空を見上げている内に、これとは違う空、もっと自分が愛する空が、かつてあったような気がしてきた。
 だが、それがどのような空かはわからない。
 テスはのろのろ立ち上がり、膝頭の土埃を払った。
 きっと気のせいだ、と結論した。
 空とは赤いものだ。





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