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冷凍されたオシドリとチューリップ人の王国

趣味で書いている小説用のブログです。

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失語の鳥〈4〉

chilledscape #04 不死の大陸




 1.

 テスが想い、世界は波打つ。テスは波止場に立つ。世界の果てから押し寄せた波が岸壁にぶつかり旅を終え、最後の力で汚れた手を伸ばし、岸を掴み、這い上がろうとする。だが全ての波が岸壁の高さに試みを砕かれ、散り散りの飛沫を黒い海に沈める。引きずられるように岸から離れていき、新たに寄せくる波にぶつかり、岸へと押し返されて、また岸壁に打ちつけられる。
 その間テスは、風雨とさまざまな人の足にさらされてできた、岸壁の石畳の様々な凹凸を足の裏に感じ続ける。岸壁にこびりつくフジツボと、赤紫の海藻と、濃緑の苔を目に焼き付ける。水面を泳ぐ黒い魚の、ほっそりした体つきと、頭をほとんど動かさず、尾鰭を左右に振って泳ぐ動きに集中する。いつでも再現できるように。いつかまた言葉つかいとの戦いが行われるとき、頭の中から鮮明なまま取り出して、いつでも、今ここにあるように、世界に投射できるように。
 テスは体に風を受ける。海のにおい、海につきもののあらゆる死のにおいに紛れて故郷の香りが紛れていないものかと、その悪臭を吸いこむ。潮と腐臭で胸を満たす。新たな客船の煙が、水平線の果てに現れる。
 海と船に背を向けて、港の階段を上がった。街。テスは全てに目を凝らす。鍛冶屋の黒い鉄の看板が、風に煽られ子供のぶらんこのように揺れている。ナッツと香辛料を売る店先の商品には、今は麻布の覆いがかかっている。麻布の目地に砂が詰まっている。テスは歩きながら手を伸ばし、そのざらつきを覚える。麻布から離れまいとする砂粒の意志を覚える。あらゆるものが安定と固着を望んでいる。永遠に傾いたままの太陽が、世界のあらゆる影を同じ角度で大地に焼きつけたように。
 そして、海の男たちの教会堂に上れば、街の全ての建物が一様に同じ高さで潰れているのがわかる。釣り鐘の下で、テスは街を一望した。四階建てより高い建物はないように思われた。かつてそれより高かったであろう建物は、屋上に大量の瓦礫を乗せ、かつて不可思議な力がその建物を圧縮し、本来の高さを奪ったことを証明している。
 テスは首をかしげた。そして海を向いた。押し潰された建物たちに背を向け空を仰ぐ。
 心なしか、夕闇が赤く濃くなっているよう思われた。テスは記憶から青空を浚う。彩喰いが食った青空の記憶を、己のものとして思い出す。夢に現れた青空が、液状のものとしてテスを訪れたように、そのイメージを林檎ほどの球体にまとめ、視線の力で夕空に投げ放つ。
 水色の色彩が、黄昏の色を映して空を覆う雲にぶつかり、弾けた。テスは弾けた青空を四角く拡張する。テスは心の鍵を開く。誰にも見られず、誰にも踏みこまれることなく閂を外し、守護と拘束の扉を開く。鳥たちを解き放つ。鳥たちはテスの瞳を通り抜け、テスの視線の力に乗って青空へ羽ばたいていく。
 すべての鳥がテスから遠ざかり、風を喜んで海の上で輪を描き、以降無駄な動きは一切せずに狭い青空を目指す。その先により良い場所があるとの確信を、群れ全体で表現する。
 テスには何も残らない。彼には透き通る鳥の亡霊たちを見守る以外手だてはない。手を伸ばす。体が思考を先回る。気付けばテスは、釣り鐘塔の柱に左手をつけ、右腕を目いっぱい空に伸ばしている。
 口を開くが言葉はない。
 共に行きたいとテスは願っている。飛んでいきたいと。だが、ぴんと伸びた指先は力を失くしていく。テスの目が失意に翳(かげ)る。青空は全ての鳥を吸いこみ蒸発する。港の様子に変化はない。テスはうなだれそうになりながら、堪えて夕空を見上げ続け、一つの決意を胸に固める。
 いつかああして空を飛ぼう。過去を失い、悲しむための心、失望するための心も失くして、己の本性を這いつくばって探そう。干潮のタールの海に光る真珠を拾い歩くように、真の自己と見なせるものをかき集めよう。
 そして、いつの日か、その力で空を目指そう、と。

 ※

「お前」
 不意に声をかけられ、テスは街角で足を止めた。港と町の中心部を繋ぐ大通りで、家具の工房の前を通り過ぎるところだった。木造の建物からは籐をいぶす匂いが通りに滲み出ており、その煙が、奥の作業場と思しき場所から立ち上っていた。
 声の主はテスの真後ろにいた。
 汽車で同室になった中年の男だった。同行者が二人いる。
「ほら、やっぱりそうだ!」
 中年男は顔をくしゃくしゃにしてテスに笑いかけた。テスが汽車を降りて別れたとき以来、特に変わった様子は見られなかった。逞しい労働階級の男だ。着ている服は最後に見たときよりよれよれで、一層汚れている。旅行鞄は港湾作業員に乱暴な扱いをされたようで、角が潰れている。男はその鞄を肩にかけ直して歩み寄り、テスの肩を叩いた。テスはその力に親しみを感じ、緊張を解いて話しかけた。
「無事だったんだな」
「そりゃお前、こっちの台詞だよ。あんな何にもねぇ場所で汽車下りて、どうするつもりかと思ってたぜ。俺なりに心配したんだよ。どうだ、何かあったか? あの場所で」
 テスは首を横に振った。
「何もなかった」
「だろうな」
 男は同行者を振り向いて、手招いた。
「こいつだよ、こいつ。昨日話して聞かせただろ? 俺が今まで生きてて初めて出会った言葉つかいさ。名前は……何だっけ? また忘れちまったよ」
「テス」この男の同行者がテスに物言いたげな目線を投げ、決して近付いてこようとしないのを気にかけながら、テスは言葉を続けた。「お前の名は、オルゴ」
「おっ、覚えててくれたのか」
「あの人たちは?」
 二人ともオルゴと同年代で、やはりあまり裕福そうではない。
 その内一人が、テスとオルゴに完全に背を向けた。
 もう一人が遠慮がちに言い放つ。
「あまり言わないほうがいいぜ……言葉つかいだってこと」
 そして、もう一人を追うように、テスたちから離れていった。風が吹き、人もまばらな大通りにテスとオルゴが残された。
 何故彼らが離れていったかわからない、と言いたげな顔で首をかしげるオルゴにテスはもう一度尋ねようとした。
「さっきの人……」
 オルゴはどこか開き直った様子でテスを直視し、また笑いかけた。
「船でたまたま一緒の客室だっただけさ。それだけだ。でも、お前は命の恩人だろう? 一緒に歩こう。な? 二人で泊まる場所を探そうぜ。そのほうが安上がりだ」
 この世界に落ちてきて、初めてテスは喜びを感じた。人と一緒にいられる喜び、どんな形でも、どんなにささやかでもいい、人に大切にされた喜びだった。
「知っている人に会えて嬉しい」テスは目と口を綻ばせ、微笑んだ。「ありがとう」
「何が?」
「声をかけてもらえたのが嬉しい」
「そんなに喜ぶようなことか?」オルゴは大袈裟に両腕を広げた。「まあいいや」
「オルゴ」
 狭い裏通りに連れていかれながら、テスは隣を歩く大柄な中年男の顔を見上げて尋ねた。
「どうして旅をしているんだ?」
「家族のところに帰るのさ」
 テスにとって初めての町も、この男は慣れた様子だ。どんどん歩いていく。
「こんな俺にも、二十年も前にはいっぱしの男の夢があったさ。小銭をかき集めて家飛び出して、別の大陸に移って、結局その日暮らしを二十年だ。里心ついて郷里に手紙を出せば、兄貴の言うことにゃ母親が危篤だとよ。その返信を受け取ったのが先月の話さ」
「そうか」テスは心配になって目を曇らせた。「早く帰って、母親に、会えるといいな」
「間に合わないかもな。今だってどうだか」
 弦楽器の奏でるもの悲しい和音がテスの耳を撫でた。二人は話をやめた。老人の歌声が弦楽器の調べに乗った。オルゴが角を曲がり、歌声がくる道筋を逆に辿る。
 裏通りにちょっとした人だかりができて、その半円の真ん中に、壁を背にたたずみ歌う老人の姿が見えた。
 老人は、悲しい声で、悲しい歌を歌っていた。足許には灰色の帽子が置かれ、中に硬貨が数枚光っていた。
「少年が中年になって戻ってきたってのに――」聴衆の邪魔をしないよう、オルゴがテスの耳許でささやいた。「あのじいさん、二十年前と姿が変わってねえや。これは一体どういうことだ?」
 オルゴが喋り終わると同時に、曲が終わった。何人かの聴衆が立ち去る。一人だけ、帽子に硬貨を投げ入れた。
 次の曲が始まり、二人は耳を傾けた。それはおよそ次のような歌詞の、陰鬱なバラードだった。

「肉の痛みは精神において狂気と記述された
 疫病は風のように街を掃いた
 兵士らは弓によらず剣によらず斃れ 花は絶え
 死体漁りの私の上で 雷雲が咳払いをした――」

「覚えがある」身の底にざわめくものを感じ、テスは口走った。「どこかで、以前に……」
「夜の世界からもたらされた歌だな。俺も知ってるぜ。コブレンとかいう城塞都市で行われた悲惨な攻城戦の歌だ」
「コブレン」
 頭の中を鋭く流れ落ちる、光るものがあった。
「コブレン……」
 頭頂に、錐で刺し貫かれるような激痛が走った。テスは思わず眉をしかめ、目をつぶって頭を抱え、腰を曲げた。
「おい、どうした?」
「コブレン」
 オルゴがテスの二の腕を掴み、歩くよう促した。彼はテスを聴衆から離れたところに連れていった。テスは繰り返す。
「コブレン――」
「どうした、コブレンが何だっていうんだ?」
 激痛の錐は意地悪く脳の深くに入りこんでいく。オルゴがテスの両手に自分の手を重ね、頭を撫でる仕草をした。
 テスはその手のイメージを借りた。暗闇に回転する錐の持ち手を、オルゴの大きな手がつまむ。そのままスッと上に引き、テスの脳から引き抜く。
 錐が消え、激痛が止まった。
「何か思い出しかけた」
 奥歯に力をこめたまま唇を動かして、オルゴに返事をした。腰を伸ばし、両手を頭からはなし、下ろす。
「でも……大丈夫」
 バラードは続いていた。キシャの声が、あたかも真横にいるかのように、はっきり耳に聞こえた。
『おまえ、撃つのになんの躊躇もなかったな。かなり殺し慣れているだろう』
 違う、とテスは声に出さずに反発した。声は続いた。
『記憶をなくす前、人を殺して生きていたんだ』
 反発して何になるだろう。ゆっくり息を吐き出しながら、違わない、と訂正した。
 その通りなのだ。
 テスは聴衆に背を向けて、もう一度世界をよく見た。埃っぽい裏通り。家々は漆喰で塗られており、元は白かったであろう漆喰も、壁のひび割れに沿って黒く黴を生やしている。黴はひび割れていない部分にも、邪悪な手のように広がる。角に捨てられた布団には青と黒の黴が生えている。隣に生ゴミを捨てる大きな木箱がある。瀕死の犬に蠅がたかっている。石畳の間は砂が詰まっている。男が、シャベルでその犬を側溝に落としている。シャベルが石畳にこすれ音を立てる。
 テスをじっと見つめる少女がいた。歌う老人や聴衆たちから少し離れた場所にいて、椅子を持ち出し、机を置いて、その机の上や下に大小の鳥籠を並べている。どこか生気のない顔の、大きな目をした十三、四の少女だった。
 鳥だ、とテスは呟いた。
「どうした。見たいのか?」
 オルゴの問いかけに返事をせず、テスは鳥たちに、ひいては少女に吸い寄せられていった。
 緑色のハト。三角形に立った冠羽と太く短い嘴を持つ真っ赤なコウカンチョウ。腹が黄色で胸がピンク、首が水色で顔面が赤という派手な色彩のコキンチョウ。みな、首を後ろによじって翼の間に嘴を差して眠ったり、首を下によじって翼の下に嘴を差して羽繕いをしたりしていた。
 鳥たちは目を開け、または動きを止め、それぞれ顔をテスに向けた。いくつもの黒くつぶらな目がテスとオルゴを見た。
 この世界で初めて目にする生きている鳥に、テスは夢中になった。
「お兄さん、鳥、買う?」
 声をかけられ、テスは目線を上げて少女を見た。
 少女の居ずまいにはどこか違和感があった。
 全体的にずれているような、少女と世界がぴったり重なりあっていないような、少女が景色から浮き上がっているような違和感だった。
 テスの凝視をどう解釈したのか、少女は続けた。
「あたしはキユ。あたしを買ってもいいよ」
 そのときテスは、少女から呼気が感じられないことに気付いた。
「そういう商売もしてる」
 もう一度机の上の鳥籠に目を移すと、黄色い体、白いしま模様の入った黒い翼と尾羽、額に紺碧の羽毛を持つヒワが囚われていた。その鳥もまた同様の違和感を放っていた。テスは気がつき、驚きとともに口にした。
「この鳥、死んでる」
 すると、そのヒワは最期の呼吸をするように黄色い胸をへこませていき、目を閉じ、止まり木から滑り落ちた。
 キユと名乗る少女は無表情で死んだヒワを見つめた。目を上げ、テスの気まずい視線を受け止めると、どこか感慨深げに呟いた。
「お兄さん、言葉つかいだ」
 キユは凍りついた目をテスから逸らさぬまま、ほっそりした指で鳥籠を開け、愛情のない手つきでヒワの死骸を掴み出した。
 テスは尋ねた。
「どうしてわかったんだ?」
「死んだものを生かしたり、また死なせることができるのは、言葉つかいだけだもの。お兄さん、いいこと教えてあげる。死者は瞬きしないんだよ」
 たっぷり十秒、二人は見つめあった。その間テスは自分の瞬きを数えた。テスは二回瞬いたが、キユは瞬きをしなかった。それで、テスはキユに抱いた違和感を理解した。
「お兄さん、船で来たの?」
「ああ」
「じゃあ、気をつけたほうがいいよ。自分が言葉つかいだってこと、人にバレないように」
 そして左手で机のひきだしを開け、ヒワの死骸を入れて閉めた。
「この鳥は、あたしが逃がしたことにしておくね」
「どうして、言葉つかいであることを隠したほうがいいんだ?」
「恐がられるから」と、キユ。「言葉つかいはみんな、もともとこの世界の人じゃない。よその世界から落ちてきた。それに、言い伝えだけど、本来ヒトではないものが言葉つかいになるって信じられてるから」
「ヒトではない?」
「だけど、おじいちゃんたちは、言葉つかいがあたしたちを解放してくれるって信じてる」
 キユの目が、歌う老人がいるほうへ動いた。聴衆に隠れて姿は見えないが、あの老人がキユの祖父らしかった。
「この街はね、あたしたちの隔離所なんだ」
「死んだ人たちの?」
「そう。あたしたちは働く。儲けは生きてる人が没収する。あたしたちにご飯はいらないし、新しい服も、きれいな家も、別に欲しくないから。悪い言葉つかいがそれを始めた。彼によってあたしたちは裏切り者の墓から引き出された。その人は何だってできた」
 キユは空を指した。
「建物、みんな同じ高さで潰れてる」
 キユが指さす先で、空が狭くなる。高い建物が林立しているのだ。そして、釣り鐘塔で見たとおり、どれもある一定の高さで切り落とされたように、頭を揃えていた。
「かつてあの高さまで、空が落ちてきたよ」
「あの高さまで」
「あたしたちを監督する、一人の生きた看守が、あたしたちに同情して逃がそうとした。その裏切りに怒った悪い言葉つかいが力を見せつけた。空を落とし、建物を潰して、人を恐がらせた」
 キユとテスはお互いの無表情を見つめた。
「善い言葉つかいが来て、悪い言葉つかいを殺した。あたしたちは殺してほしくて善い言葉つかいに味方した。生きている人間に反逆したの。だから、生者は死者を憎んでる」
 その話を受け止めながら、テスは頷き、尋ねた。
「善い言葉つかいはまだいるのか?」
「ううん、殺されてしまった。この街に言葉つかいはいない。だから、あたしたちは、ずっとこのままでいる」
「キユは消えてしまいたいのか?」
「ううん、今はまだ……」気遣うように、祖父がいるほうに目をやった。老人は先ほどのバラードとは別の曲を歌っていた。
「もう少し、生きる……」
 鉦(かね)を打ち鳴らして、逞しい男たちの一団が裏道に押し入ってきた。何事かと驚いた聴衆が、素早く数人が散ったのをきっかけに一斉に離れた。男たちは五人いて、二人が老人の前に行き、一言も声をかけることなく、何のねぎらいも気遣いもなしに帽子の中の硬貨を浚った。略奪を見るようであった。二人がキユの前にきた。残る一人は少し離れたところで彼らの働きを監督した。
「今日は一羽も売れてないよ」
 男が、キユに眉を片方吊り上げた。キユは付け足した。
「あたしも売れてない」
「鳥が一羽いなくなってるな」
 もう一人の男が低い声で脅した。
「逃げちゃったの」
「逃げただと? 今までそんなことは一度もなかったろうが」
「じゃあ今日が一度目なんだ」
 男は右の拳を左の掌に叩きつけ、暗に殴るぞと脅した。
「うまいこと言って、売り上げをちょろまかすつもりじゃないだろうな!」
 机の後ろに回り込み、キユを壁に突き飛ばし、ひきだしに手を伸ばした。キユは何か言おうとしたが、ひきだしが開くほうが早かった。ひきだしを開けた男は、黄色い小鳥の死骸を見て凍りついた。
「言葉つかいだ!」もう一人の男が上擦った声で叫んだ。逞しい中年の男がヒステリックに叫んでいる様子は、どこかグロテスクに見えた。「死者を殺せるやつがいる! 言葉つかいがいるぞ!」
 すぐに他の三人がやってきて、キユを取り囲んだ。大きく分厚い掌の一つが、キユのほっそりした肩を民家の壁に押しつけた。
「おいキユ、これは一体どういうことだ?」
 黙って様子を見ていたテスは、男たちに一歩踏み出した。
「俺だ」
 今まで気配を消していたテスと、一緒にいるオルゴに、男たちは初めて気付いたような顔をした。
「俺が言葉つかいだ」
 五人の男たち全員が、テスを怖い顔で睨みつけた。これまで様子を監督していた、とりわけ腕っ節の強そうな男がテスの前に進み出た。そして、敢えて小さな声で言った。
「この世に言葉つかいは必要ない。殺してやろうか」内緒話をするように、一層声を落とす。「お前は敵だ」
「俺に敵対する意志はない」
「そんなことは関係ない。問題は、お前が言葉つかいだってことだ」
「どうするつもりなんだ?」
 男は腰を屈めてテスに顔を近付けた。
「強い悪い言葉つかいを殺したのは、強い善い言葉つかいだった。言葉つかいは脅威だ。我々は善い言葉つかいも悪い言葉つかいも殺す」
「そんな……」テスは首を振った。「……お前たちは何だ?」
「新生アースフィアだ」
 そういえば、船で出会った言葉つかいがそんなことを言っていた。男は後ろの仲間たちを振り向いた。
「おい! 執行部のネサルが今日の船で到着してるはずだ。探してこい」
 二人が背を見せ、走り去った。
「お前らはちょっと来い」
「お前ら?」
 テスは一歩前に出て、自分の周りの人々、オルゴと、キユと、心配して近付いてきたキユの祖父とを見た。
「この人たちは関係ない。たまたま同じ場所にいただけだ」
「キユは鳥を隠した。お前を庇うためだろう」
「違う」と、テス。「俺が勝手にひきだしに入れた」
 男は、それを信じたというよりは、面倒くさくなったのだろう。
「だったら、一人で大人しく来るんだな」
 嫌悪と苛立ちに満ちた視線を浴びながら、テスは静かに尋ねた。
「そうしたら、この人たちに危害を加えないって、約束してくれるか?」
 男は答えず、テスの腕を鷲掴みにした。錠のかかった扉の前に連れて行き、腰にぶら下げた鍵で錠を開け、埃臭い倉庫の中にテスを引きずりこんだ。残る二人の男も後に続いた。
 音を立て、倉庫に内鍵がかけられた。裏通りには、あまりのことに立ち竦んでいるオルゴと、無表情のキユ、そして歌声と同じくらい悲しそうな顔をした老人が残った。
 間もなく倉庫の中から、人を殴り倒す音が聞こえた。

 2.

 裏通りも、少し入り組んだところに進むと瓦礫が散乱したままだ。落ちてきた空が潰した部分、何年前の出来事かは知らないが、それは積み上げられ、邪険に扱われ、死者たちはそれを組み合わせて作った屋根と壁の中に立ち、ゆらゆらと揺れていた。
 生者は死者のように徘徊し、生きている死者を襲った。棒やさすまたで突っつかれ、死者らが労働に駆り立てられていく。
 崩壊を免れた建物の窓からその様子を見下ろしているテスに、老人が話しかけた。
「その悪い言葉つかいは、自分の国を作りたかった」
 老人はタシと名乗った。あの男たちは自分たちの手を血で汚そうとはせず、テスを倉庫に閉じこめて、彼らの執行部員、汚れ仕事を請け負う人間を呼びに行った。
 その間に倉庫の錠を破り、オルゴにテスを救出させたのがタシだった。
 テスは窓辺の古い机に腰をかけ、肩から毛布をかけていた。胸の前で両手を交差させ、それぞれの手に毛布の端を掴むと、体にしっかり巻き付けて身震いした。
「本当は、彼自らが死者の国に歩み寄らなければならなかった。だが彼は死者の国を自らに引き寄せることを選んだ」
 テスは弱い光を宿す目をタシに向けた。老人は砂の詰まった歯車のような調子で続けた。
「悪い言葉つかいは死者を蘇らせ、働かせ、貧しい生者に看守の職を与えた。悪い言葉つかいが死んでも、死者は多くの生者に存在を認知されたため、消えずに残った。それに、生者たちのほとんどは、金づるになる私らが消えるのを望まなんだ」
「善い言葉つかいは……」テスは左の頬にタオルを当てながら尋ねた。「どうして死者たちを解放しなかったんだ?」
「そうする前に、殺された。生者たちが寝込みを襲った」
 部屋の戸が開き、テスとタシは身構え振り向いた。黒ずんだ壁の殺風景な部屋に入ってきたのは、キユとオルゴだった。
「怪我の具合はどうだ?」
 オルゴは寝起きのまま整えていない髪をして、テスのために濡らしてきたタオルを振って見せた。オルゴが窓辺に寄り、前に立つので、テスは頬に当てた生ぬるいタオルを離した。
「ふぅん……寝てる間に腫れはひいたようだが、痣になってるぜ。かわいそうによう。まだ痛むんだろ? 痛そうだぜ?」
 優しく気遣う言葉をかき消すように、昨日の男たちに投げかけられた言葉が思い出された。
『誰だってわかってるんだよ。言葉つかいの本性は人間じゃねぇってな。ケダモノめ』『誰の許可を得て二足歩行をしてやがる』暴行を加えながら彼らはそう言った。『何で俺たち人間サマがケダモノごときと約束しなきゃならねぇんだ』
 濡れタオルを受け取り、頬に当てながら、伏せたテスの目が今にも泣き出しそうに潤むので、オルゴは慌てた。
「おいおい」
 テスは、消えたオルゴの言葉を引き取る。
「悲しい……」
 多少はましになったものの、痛みは皮膚と同化して全身に貼りついていた。一番痛むのは顔と頭を庇った両腕で、こちらはへし折られる寸前だった。痛みは惨めな気分にさせ、惨めな気分は寒さを引き立てた。
「お前よう、どうして黙って殴られたんだ? 殴り返すこともできただろうよ」
 テスは寒さに体を強ばらせながら答えた。
「彼らは俺より弱いから……」
「はあ?」
「反撃したら、戦いになる。戦いになったら、殺さなければならない。そういうものだから……」
 タシは色褪せた灰色の目をオルゴに向けた。オルゴは顔を引き攣らせていた。目の前の純粋そうな青年の口から「殺す」という語が飛び出たことに、ショックを受けているように見えた。
「あたしたちは我慢できる」キユが二人に歩み寄った。「あなたが全部をあたしたちのせいにして、この人と逃げても、あたしたちは我慢できた」
「そんなことはしない」
「してもよかったんだよ。あたしたちは我慢するから。あたしたちは死なないし、生きている人間は自殺をするかもしれないけれど、もうそれもできないから。いつか生者が死に絶えて、あたしたちに対する観測者が消えれば、あたしたちも消える。それまでは、何があっても我慢する」
 テスは何とも返事をしかねて俯いた。一時の鐘が鳴った。死者たちは、キユもタシも、仕事をしなければならないはずだった。
 オルゴ。
 この人と一緒に旅をできたらどんなに楽しいだろう。一緒に歩き、一緒に乗り物に乗り、共に眠り、共に食事をし、見たことや聞いたことについて互いに話をし、問題があれば一緒に考えてくれる、話しかけることができる、笑いかけることができる、そういう相手といられたら、どんなに素晴らしいだろう。テスはつくづく思った。
「俺はもう、町を出る。親切にしてくれてありがとう」
 テスは感情を殺して、抑揚のない声で告げた。
 どうせあてのない旅なら、俺と一緒に来たらどうだ。そうオルゴに持ちかけられたのは、昨日、死者たちの隠れ家で寝る直前のことだった。テスは、そのオルゴの四角い顔をじっとよく見た。
「オルゴはもう、俺と一緒にいないほうがいい」
 彼もまた感情を殺し、努めて無表情を保っていた。厚い唇を動かし、口ごもる。
「でもよ……」
「危険なんだ。俺は言葉つかいだから」
「だからって」
 テスは首を強く振った。
「駄目だ。オルゴは家族のところに帰らなくちゃ駄目だ。心配して待ってる」
 オルゴは不満げだったが、何も言い返してこなかった。
 それから上着の内ポケットをがさごそし始めた。
「そうだ。お前、金持ってねぇんだろ? せめて」
「大丈夫。受け取れない」
「せめてこれくらいはさせてくれよ。お前は命の恩人だろ?」
「それならもう、十分に返してもらった。汽車賃を出してくれたし、汽車の中での食事代も……毛布も貸してくれた」
「でもよ」
「それに」と、遮る。「一緒にいられて嬉しかった……」
 真っ黒い孤独の波が押し寄せて、テスを呑んだ。この先に予想される旅がどのようなものになるか、黒さが予測を不能にした。テスは絶望しながら肩の毛布を脱ぎ、畳んで、机から下りて立った。
 キユがシャツの胸ポケットに手を入れ、何かをつまみ出し、テスに差し出した。
「じゃあ、これ持ってって」
 テスは大きく目を開いた。指輪だった。瞬きしながら首をかしげる。キユが受け取るよう促した。
「これ、白金だから、売ればお金になる」
「お金はいつかキユが必要になるかもしれない」
「そう……」キユは腕を動かして、指輪をオルゴの前に持っていった。
「テスが要らないなら、オルゴにあげる」
 オルゴはまごついていたが、キユの目がオルゴから指輪に、指輪からテスに動いたので察した。
「ああ」と返事をし、受け取る。「もらったはいいけど、俺には必要ないな。テス、ほらよ、俺からお前にやるぜ」
 テスにはもうこれ以上、好意を拒むことはできなかった。そっと手を差し出すと、オルゴがテスの掌に指輪を置いた。そうしながらテスの伏せがちな目を覗きこんだ。
「大丈夫か? もう一人で歩けるか?」
 テスは誰とも別れたくなかったし、オルゴやキユやタシも、そんなテスの気持ちを感じているようだった。
 この世界の人の心は荒んでいる。たまに優しい人や一緒にいたいと思える人に出会えても、こうして自分から別れなければならない。
 テスは何度も礼を言いながら、死者のねぐらを後にした。

 ※

 生きている者の目に触れずに、テスはその町を出た。雲が敷き詰められた黄色い空を渡る鳥はなく、赤土の荒野で餌をついばむ鳥もない。道らしきものが地平線まで延びていた。化生を防ぐ結界である杭と、古い轍の跡によって、かろうじて道とわかる道だった。
 黒い山の裾野に来て、テスは足を止めた。木の柵で囲まれた敷地があり、石版が散乱していた。敷地の入り口には石碑が建っていた。
 石版を注視したテスは、それが安っぽい墓石であることに気付き息をのんだ。掘り返されているのだ。土の色が敷地の外の土の色と変わりないので、決してつい最近の出来事ではない。
『裏切り者の墓』
 石碑に歩み寄ると、台座にそう大きく記されていた。
『不自然なる死によって先に逃亡した者のための』
 自殺者の墓なのだ、とテスは理解した。この世界が嫌で嫌で、死によって逃れようとした人は、裏切り者として弔われるのだ。
 緑青に錆び付いた銅板には、石か何かで乱暴に文字が彫り込まれていた。
『私のティエンはどこだ?』
 それが、文字を刻みつけた人物の妻なのか、恋人なのか、娘なのかはわからない。
 だが、墓を掘り起こした男の目当てはそれなのだ。
 そして、その復活をかけて、死者を蘇らせたのだ。
 三人、人の足音が近付いてきて、取り囲むようにテスの後ろに立った。どういう人たちで、何の用件なのかはわかっていた。テスはゆっくり振り向いた。
 昨日テスを殴った男たちが真後ろにいた。
 四人目の人物が彼らの後ろから歩いてきて、男たちは足音をたてるその人物のために、墓地の入り口を開けた。
 その人物を目の当たりにし、テスは呼吸を止めて体を強ばらせた。
 船で出会った、あの痩せぎすの、赤毛の女だった。
「キシャ」
「ええ?」女は露骨に馬鹿にした様子でテスを睨みつけた。
「キシャなんて名前じゃないわよ。寝ぼけてんの?」話しながら、この世界における銃を抜いた。言葉を撃ち出すカートリッジ式の銃で、テスが持つ物理銃より大型だ。女はその銃をちらつかせながら言った。「ところでこの墓に何の用? 言葉つかい」
 殺気で空気をぴりぴりさせながら女が尋ねた。テスが死者の蘇生を企んでいると誤解しているのかもしれなかった。
 聞く耳を持っているとは思えなかった。テスは話をそらした。
「船で会ったな」
「ああ、その節はご親切にどうも」肩を竦め、両腕を広げた。「でも、それを理由に見逃してやるなんてことはないよ。あたしたちは善い言葉つかいも悪い言葉つかいも殺すからね」
「どうして言葉つかいを憎むんだ? 俺は何もしない」
「信用できるかよ」
 男のように吐き捨てる。テスは続けた。
「人を食う化生と戦うのに言葉つかいが必要なはず」
「あたしたちには銃がある。お前たちなどこの世界に必要ない」
「ネサル、そろそろ……」
 男の一人が女を振り向き、言った。ネサルというのが彼女の本当の名前らしかった。ネサルが銃口を上げたが、それが自分を狙っていないことにテスは気付いた。
 恨みのこもった感情の塊が、テスから見て左端に立つ男の耳の横と、そしてテスの左横を掠め、飛んでいった。
 上擦った悲鳴を上げて尻餅をつく男をネサルが蹴飛ばした。
「お前らは帰ってな! 後でこいつの死体運びをさせてやるよ」
 三人の男たちは前のめりになって逃げていった。
 ネサルは銃口を下げた。ホルスターから新しいカートリッジを出し、今銃に付いているものと付け替える。
 そして病的な上機嫌さで鼻歌を歌いだした。
「ありがとう。あんたのお陰で、あたし知らない間に手柄を立てちゃった」
「何のことだ?」
「あんた、あの船で、言葉つかいを殺したね」
 テスにはネサルの本心がわからず、何ら慌てることなくゆっくりカートリッジを交換する手つきを見守った。
「ああ」
「あいつはね、陸に着いたら仲間を呼んで殺すつもりでいたの。でもあんたが証拠を残さずにやってくれた。どうも。手柄はもらうよ」
「ネサル?」と、テスも慌てることなく言葉を返した。「今度は俺を殺すのか?」
「そう」
「俺は言葉つかいの協会には入っていない」
「わかってないね。これは連中の協会と新生アースフィア党の派閥争いじゃないのよ。あんたが言葉つかいだから殺すの」
「どうして」
「言葉つかいの存在は危険だからって言ってるでしょ? 頭悪いな」
「そんなのは建て前だ」
 付け替え作業を終えたネサルが銃を両手に持ち直し、テスを睨んだ。
「本当の理由は?」
 そして、苛立った目でテスを睨んだ。
「鬱陶しいなあ。あのさ、あんたたちの存在も、力も、訳がわかんないのよ。訳わかんない奴らにいられたくないわけ。お前、気持ち悪いんだよ。気持ち悪い奴は、排除していいんだよ!」
 テスは恐ろしく、また、悲しい気持ちになった。
「そんなのは間違ってる」
「何? まさかの正義感気取り? 笑っちゃうんですけど!」
 銃口がテスを向いた。テスは真横に倒れこみ、地面を転がって射線を避けた。
 遅れてネサルが叫び、引き金を引いた。
「くたばりな、テス!」
 体中がずきずきした。銃口から鎖が撃ち出されるのを視界の端で確認する。
 鎖は重々しい音を立てたが、回避するまでもなく、テスがいた場所に届く前に形を失った。
「なんで? テスって本名じゃないの?」
 動揺するネサルを残し、テスは大気の足場を踏んだ。空中高く、後ろに飛び、逃走を試みた。地上でネサルが叫んだ。
「名前を隠したな、小賢しい!」
 ネサルは今度は手早くカートリッジを交換し、地上への降下を始めるテスに向けて撃った。怒りの気がテスの左右をかすめ、その余韻を心に残した。それはテスを通り過ぎるとき、太さが人間の胴体ほどもある鉄の槍になった。
 テスが着地すると、その背後に大地を揺らして降り注ぎ、土煙をあげた。ネサルはひたすら撃っていた。降り注ぐ槍はテスにかすりもしなかったが、それが作る円の中心にテスを閉じこめようとした。
「ネサル! どうして戦う必要がある?」
「うるさいんだよ!」遠くからネサルが叫び返した。「何遍同じことを言わせる気だ!」
 テスは、交差する二本の槍の間をくぐり抜け、円を抜け出した。土埃に身を隠し、降り注ぐ槍がたてる轟音の中に駆け寄ってくるネサルの足音を聞き取りながら、再びキシャの声を聞いた。昨日、ネサルの声帯を借りて放たれた声だった。
『記憶をなくす前、人を殺して生きていたんだ』
「お前を殺したくなんかない!」
 槍の雨がやんだ。テスは地を抉る槍の木立の後ろに身を隠し、ネサルと自分の間を遮る強い風を起こした。
 ネサルがまたカートリッジを交換し、風の壁を撃った。実体のあるものは撃ち出されなかったが、風の勢いが薄れた。言葉つかいの技師たちが開発した、言葉つかいでない人々が化生から身を守るための武器だ。副次的なものなのかどうかは知らないが、言葉の力を打ち破る性質があるらしい。
 テスは自分の銃を抜こうとし、思いとどまった。ネサルを傷つけずに彼女の銃だけを破壊するには、テスの物理銃は威力が高すぎた。
 彼は再度の逃走を選び、先ほどと同じく後方に飛んだ。もう話しかけたりはするまいと心を決めながら。
 ネサルを殺せないわけではない。
 記憶はなくしたが、体は覚えている。
 戦いかた、気配の消しかた、人の殺しかたを。
 そして、一緒に戦った仲間の息遣いと体温を。
 ネサルが、テスが空中に作った大気の足場を撃った。足場が消える直前、テスはそれを蹴り、地面への自由落下を始めた。地に叩きつけられる直前、翼を広げたように速度を落とす。ネサルは更に撃ったが、走りながらであるために、テスには掠りもしなかった。
 死と肌を接するとき、テスは心から流れ落ちた記憶の残滓から、仲間の気配を感じ取る。
 だから、テスには、この世界での生よりも、死の気配のほうが温かい。
「ぴょこぴょこぴょこぴょこ、気持ち悪い動き方しやがって! やっぱりお前、人間じゃないじゃないか。なんなんだ、畜生? ノミか? 本性を言ってみな!」
 着地したばかりのテスに、ネサルが銃口をぴたりと向けた。テスは再び飛んだ。ネサルはテスがいた場所よりずっと高い位置に向けて撃った。
「温かくしてやるよ!」
 それは彼女の本来の腕前ではなかった。興奮と緊張、そして走るのと叫ぶのを繰り返したことによる疲労でしっかりとテスを狙えなかったせいだった。
 結果として、撃ち出された実体のないものは、ちょうどテスが飛び上がった高さでテスに直撃した。
 テスは腹に強い衝撃を受けた。
 熱い、と感じた。
 すると、実体のない空気の塊は、赤い炎になった。
 意志に反して、大きく鋭い悲鳴がテスの口からはしり出た。空中で弾きとばされ、テスは地に叩きつけられて、為すすべなく転がった。かろうじて両腕で頭を庇いながら落下の勢いで地面を滑り、ようやく体が止まったときには気を失う寸前だった。
 顔の前で交差させた両腕が、力なく地に落ちた。ネサルが歩み寄ったとき、テスは両目を閉じて息を喘がせ、体に残る熱と苦痛に耐えていた。
 だがネサルはそんな様子を見てなどいなかった。
 叩き落とされたテスの周りに、灰白色の羽根が降り注ぐ。それを見て、呆然とした様子で言った。
「お前、鳥だ……」
 テスは黙って、痛みで気絶しないための努力を続けていた。だんだん意識がはっきりしてきて、今度は体に力を入れる努力へと移行する。指先がぴくりと動いた。
「そうか! お前、鳥だったんだ!」
 ネサルの高笑いが、倒れたままのテスに降り注いだ。
「畜生の分際で二足歩行してると思ったら、鳥じゃあ二足歩行で当たり前だよねぇ!」
 目を閉じたまま、テスは認めざるを得なかった。
 あの銃は現実的な殺傷力を持っている。
 そして、ネサルは撃てるのだ。テスを逃がしはしない。
 目を開けた。
 叩きつけるような突風が、ネサルを突き飛ばした。次はネサルが悲鳴を上げて地に伏す番だった。
 またしても風の壁が二人を遮った。その壁の片側で、テスは両手足を胴体に引き寄せて、肘と膝を地面につけたまま、どうにか体を起こした。
 壁の反対側では、ネサルが転んで擦りむいた頬に左手の甲を当てながら、座りこみ、凍り付いた恐怖の目をテスに注いでいた。
 テスは告げた。
「お前と戦う」
 ネサルの銃は、彼女の膝のすぐ前に落ちていた。彼女は手を伸ばそうとしたが、転んだ拍子に痛めたらしく、右手首から先は力なくぶらぶらしており、動かない。テスは言葉を続けた。
「負けてやることはできない」
 テスは背を伸ばし、膝立ちになり、それからどうにか立ち上がった。ネサルは左手で自分の銃を掴んだ。大きな銃で、片手では扱えない。彼女は左腕をまっすぐ上げたが、震えている。重さゆえか、死の恐怖ゆえか、または両方だった。彼女は震える声で言い返した。
「死んでよ」
「できない」テスはいつもの目、茶色い、少しぼうっとした、遠くを見ているような目に、悲しい光を宿して瞬いた。「俺は、この世界に、意味と目的があって落ちてきたのだと……信じるから」
 ネサルが銃を撃った。彼女の左腕が大きく跳ね上がり、肩が壊れたのではないかとテスは思った。風の壁が弱まり、テスは目を閉ざした。
 木を想う。
 翼を休め、安らぐ場所。
 ちらつく木漏れ日。そよぐイチョウの若葉。鱗状に割れた樹皮を思った。樹皮の裏に棲み、鳥たちの糧となる虫たちを想った。樹皮の手触りを想った。天を目指す大枝の確かさを想った。
 大空の光が満ち、赤く割れた大地を濡らす死者の嘆きを乾かした。
 言葉つかいとの戦いで学んだとおり、可能な限り写実的な光景を想い描き、目を開いた。
 青空が二人を覆っていた。真上は濃い水色、遠ざかるほど薄い水色、視界の果ては更に薄く白っぽい水色。イチョウの大樹がめいっぱい空に枝を伸ばしている。テスは地を蹴った。今や若草が満ちた大地を。
「いつか言葉つかいが空を消すと――」
 跪いたままのネサルが、光の中でそれきり声を失う。テスは太い枝に着地し、ネサルを見下ろした。
「俺に空は消せない」
「――どうしてよ? 化け物じゃないからだなんてたわごと言うつもり? それともあんたが鳥だから?」
 驚いたことに、ネサルはまだ銃を撃った。その一撃で、二人を隔てる風の壁が完全に消滅し、ネサルの肩は耐えきれず、草原に銃を落とした。
「殺しなさいよ!」
 ネサルが立ち上がり、テスは二本の半月刀を抜いた。
「空を落とすなり、その木を歩かせるなりしてあたしを潰しなさいよ!」
「駄目だ」
 体に貼りつく軋むような違和感と痛みに耐え、テスは半月刀を柄頭の連結器で組み合わせ、ブーメランの状態にした。
「せめて……人らしく殺す」
 右腕で、肩の後ろまで振りかぶり、それを投げた。
 ブーメランはネサルの右の太股を、骨に達する深さまで深く裂いた。
 失血死を避けられぬ深手だ。
 木の上のテスを見上げる両目が極限まで見開かれ、ネサルはがっくりと膝をついた。唇は何か言おうと動いていたが、喘ぐような息の音以外声は出なかった。
 テスが木から飛び降りると、木は消え、草は絶え、世界は暗く黒ずみ、荒廃した大地には夕暮れが戻ってきた。
 ネサルは立ち上がろうとして前のめりになり、両手を地につけた。四つん這いの姿勢でいたが、テスの爪先に手を伸ばそうとし、バランスを崩して完全に倒れた。
 彼女は何かを呟いていた。
「当たり前……」耳を澄ますとそう聞こえた。「当たり前、当たり前よ!」
「ネサル」
 しゃがんでその手を取るのも何か違う気がして、テスはその場に立ち続けた。
 ネサルは話し続けようとした。
「わかってたわ、こういう死にかたをするって。あたしみたいのは殺されて死ぬことになる。こういう生きて死にかたしかなかった。そうでしょ? ねえ」
 ネサルの指が、ついぞテスの靴の爪先に触れた。結局テスはしゃがみ、縋りついてくるその手を握り返した。
 そうせずにはいられなかった。
「ネサル……ごめんな」
 テスもまた、こうするしかなかったのだ。
 ネサルは血で土を濡らしながら、這って更に身を寄せてきた。テスは地面に両膝をつき、腕の中にネサルの体を抱いて、仰向けにさせた。
「ねえ、テス、聞いて、聞いて」
「ああ」
「最後まで聞いて!」
 ゆっくり言い聞かす。
「最後まで聞く」
「あのね、テス、あたしもね、落ちてきた人間だよ。昔、太陽の王国から。でもあたしは言葉つかいじゃなかった。ここでもあたしは何の力もなかった。そう扱うことで世界はとことんあたしを馬鹿にした、あたしを嘲笑った! ねえ、憎かったのよ、あんたが。憎らしかった、だから、言葉つかいが」
 息が震える。彼女の顔は興奮した口振りとは裏腹に、目に見えて青褪めていった。
「だから言葉つかいを殺して生きることにした。ねえ、あたし、悪い奴でしょ? すっごくすっごく嫌な奴でしょ?」
 テスは彼女にちゃんと聞こえるよう、はっきりと答えた。
「いいや」
 すると、ネサルは絶望するような顔を見せた。
 だが、それも一秒か二秒のことだった。
 だんだんと、二日前に出会って以来初めて見る優しい顔になっていった。
「テス」
「なんだ?」
「本名を教えて」
 ネサルの銃を見た。それが十分にネサルから遠い場所にあり、ネサルもそれを扱える状態ではないことを確かめた。
「マリステス」
 ネサルの耳に囁いた。
「俺はマリステス・オーサー」
「マリステス?」
 ネサルの目の焦点が合わなくなっていく。
「マリステス……」
 それでも瞼を開け続けていた。
「マリステス……ありがとう」その目が潤み、目の縁に涙が溜まった。「あんたは……あたしがこの世界で出会った中で……一番優しい人だった」
 目を閉じた。涙が流れ落ち、青白い頬を伝った。
 人が、悲しい涙を流して死んでいく。
「寒い」
 ネサルは再度瞼を開けたが、もう何も見えてはいないようだった。
「空が落ちてきたよ、昔」
「ああ」
「寝てるあたしの鼻先まで……」
 声が震え、聞き取りづらくなる。
「空はガラスだった。向こう側にママがいた。ねえ、テス、いる?」
「ここにいる」
「ねえ、ママがいたのよ。鼻と鼻が触れ合いそうな位置にいて……落ちてきたガラスの空の向こう側に、へばりついて、あたしを見ていた……」
 最期の身震いが、ネサルを襲った。
 彼女は語りきった。
「ものすごく、見てた――」
 言葉の後、長い息を吐いた。
 体が重くなり、彼女は意識を失った。
 テスはネサルが寂しくないように、しばらく抱いたままでいた。だが流血が彼女の命を押し流し、二度と目覚めぬ体になると、テスはその亡骸を大地に横たえた。
 痛む体を引きずって歩き、ブーメランを拾い上げた。
 半月刀の状態に戻したとき、いずれの半月刀の柄頭にも人の名らしきものが彫られていることに気がついた。
『アラク』
 こんな字が彫られていただろうか? いつから?
 テスは首をかしげた。その人名らしきものはいかなる感情も刺激せず、テスの心に語りかけることもなかった。
 アラク。それが何かを忘れたのだ、とテスは考えた。
 そして、忘れてしまったことについて何とも思わず、嫌だと感じもしなかった。




  
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