chilledscape #03 言葉喰い
1.
林檎の匂いで目を覚ました。目を開け、テスは見事な林檎の枝が窓を突き破り、室内に入りこんでいるのを見た。
ここは木ですら空を目指したくない世界。キシャの言葉が思い出された。だが林檎の枝は、何か嫌なことを我慢したり、拒絶するような気配をまとっていなかった。
テスは自分がどこで眠っているのか思い出せなかった。ここはどこだろう、と考えながらベッドから身を乗り出す。
林檎に触れると、焦がれていた温かさが指に感じられた。林檎は水のように柔らかく、撫でると弾けた。どろりと粘り気のある液体が流れ出た。それは液状化した青空で、温かさの正体だった。
吸いこんだ鳥たちの亡霊、あの沼のほとりで息耐えていた哀れな鳥たちが、テスの体内で青空に正気を失い激しく羽ばたいた。羽毛が舞い、テスの気管支を塞ぐ。テスは目覚めという武器で鳥たちに抵抗した。
咳きこみながら布団の中で目を開けると、夢の林檎は消え失せており、窓は乾いた黄昏に汚されていた。窓の向こうは海で、陸地は見当たらない。テスは胎児のように体を丸め、布団の中で震え始めた。寝起きが一番寒いのだ。
※
食事をとるべく、テスは船の食堂に向かった。二等客室、一等客室の別なく使われる食堂だ。食券を入り口で渡し、トレイと皿を取る。温かい紅茶。温かいスープ。温かい子羊の肉を一切れと、温野菜、焼きたてで温かいパン。それらを少量ずつトレイに乗せ、できるだけ窓から離れた熱と湿気のこもる場所に運んでいった。
大テーブルの端の、酔った女の隣が空いていた。左右に人がいたほうがより温かくて良いのだが、女の左隣の客は、女と自分を隔てるように間の椅子に手荷物を置いており、座ることができなかった。他に空席は見当たらず、うろついている間にスープが冷めてしまうのも嫌なので、テスは女の右隣に座った。痩せぎすの、赤毛の女だった。顔は土気色で、猜疑心の強い、怨念のこもった目をしている。その目でテスを見た。正面から見れば、女は老けこんだ印象のわりに、さほどの年でもなさそうだった。せいぜいテスより少し年上なくらいで、三十には届いていないだろう。
テスがスープを飲み始めても、女は負のオーラをこめた視線をテスから逸らさなかった。そして声をかけてきた。
「お兄さん、ご飯それだけぇ?」
ひどいがらがら声だった。テスはスープ皿で両手を温めながら、伏せがちの目を向けた。視線は合わさぬようにした。
「……ああ」
「食べなきゃもったいないわよぉ。どうせ食券一枚でいくらでも食べられるんだから」
酒は追加料金がかかるはずだ。女の周りの酒瓶と汚れたグラスの数で、羽振りの良さが伺えた。
その割に、楽しそうでも幸せそうでもなかった。
テスは温かさが体に染み渡ることを期待してスープに口をつけた。女の手許にも食事の皿があり、しかも料理がてんこ盛りなのだが、せいぜいふた口み口しか食べていないように見えた。
「食べきれないほどの量を欲しがるのは、戒律で禁じられているんだ」
「当てつけ!?」
急に大声を出されて、テスはびくりとした。
「当てつけでしょ、今の! あたしの皿を見て言ったでしょ!」
「違う――」
面倒なことになったと思いながら、テスは首を横に振った。午睡をして、食事の時間を遅らせたせいだ。船旅は今日で二日目だが、昨日は早めに食事を済ませたせいでこの女には会わなかったのだ。
「ただ、たくさん食べるんだなって思っただけだ」
すると、女は金切り声を上げてテーブルを叩いた。
「あたしのこと太ってるって言いたいの!?」
「それも違う」
むしろ痩せすぎだと思ったくらいだ。
くすくす笑いがテスを取り巻いた。悪質な嫌がらせが成功したような、暗い笑いで目を光らせて、大テーブルの他の客たちはみなテスと女を見ていた。隣同士で肩を寄せあい、口を隠したり、テスを指さしたりして、悪口を言い始めた。
「見ろよ。新参の兄ちゃんが病人を怒らせたぜ」
きっと彼らは、昨日テスが乗船した港町よりずっと遠くから来た旅客なのだろう。
「そういう……つもりじゃなかったんだ」
「あのさぁ、だったら口の利きかたに気をつけたら?」
と、女はグラスのワインを呷った。
「でも別にいいもんね。食べたらすぐ戻すから、太らないし」
「戻す? 吐くってことか?」
「他にどんな意味があるのよ」声を低くし、女はまた怒鳴りだしそうな気配を見せた。「どんな意味があるの? ねえ、ほら、言ってみなさいよ」
テスは黙り続けた。
「はあ……あんたに絡んでもしょうがないか。頭が悪くてわかんないみたいだし。教えてあげるけどね、かわいいボクちゃん、あんたが食べても食べなくっても、あの料理は全部、全部、ぜーんぶ、作りすぎで捨てられるだけなのよ。無駄なの。あんたが戒律とやらを守ろうが破ろうが、意味ないわけ。わかる? あー、もったいない」
テスは黙り続けた。下だけを見て、冷めつつある食事をとるためだけに口を動かしていると、隣の女はぐっと身を乗り出してきた。
「怒ったの?」
「別に……」
「怒ってるじゃん。ねえ、怒ってるの? 怒ってんでしょ? なんで怒ってんの?」
「困ってるだけだ」
「困ってる? へぇ」
女の声に安堵した調子が混じる。テスは困惑した状態から一つの答えにたどり着いた。
彼女は混乱しているのだ。体全体から滲み出る雰囲気からして、もうずっと長い間、何年も、混乱し続けているのだ。
「そっかぁ。あんたもかわいそうにねぇー。あたしみたいなのの相手させられてねぇー」
テスには女の存在以上に、彼女と自分を面白がって見る無遠慮な視線のほうが辛かった。
「嫌なんでしょ?」
「何が」
「あたしの話し相手させられてさ」
テスは女の顔を見ずに、言葉を選びつつ、より一層ゆっくり返事をした。
「俺は、ただ……」
ただ食事中にあまり喋るのが好きじゃないんだ、と言いたかったのだが、少し間が空くと女はまた金切り声をあげた。
「トロい! おまえ、喋るのがトロいんだよ! それとも何か都合が悪いから黙ってんの? えっ?」
くすくす笑いが広がって、トロい、トロい、確かになぁとテスにもはっきり聞こえるようになった。どうやらわざと聞こえるように言っているらしかった。それで、テスはすっかり嫌になり、椅子を引いて立ち上がった。
「どこ行くんだよ」
テスは変わらずゆっくり答えた。
「ここにはいられない」
「逃げる気?」女はテスの服の袖をつかんだ。「あたしが嫌なの? ねえ、逃げるの? 自分だけ逃げるの?」
そのまま服を引っ張って座らせようとするかのように、女は袖を掴み続けた。生地が伸びるのを感じた。テスは重ねて、静かに言った。
「とにかく、ここにはいられないんだ」
彼女は狂おしいほどの切実さで相手にされたがり、言葉を求めていた。人々が言うとおり、何かの病気なのだ。
「あたしが嫌だからでしょ」女は、今までよりずっと大きく甲高い声で叫んだ。「あたしといるのが、そんなに嫌なのぉ!」
それから、ばたりと大テーブルに突っ伏した。
失神したように見えた。
聞こえよがしの舌打ちや悪態が、冷たい視線と共に全包囲から刺さった。テスはまた、急に寒くなった。大テーブルの他の客たちも、まるで女を追いつめる狩りが終わり、興味を失ったとばかりにそっぽを向いた。
女は失神していなかったのか、またはその状態から覚めたのか、伏したまますすり泣きを始めた。
「……大丈夫か?」
背中に手を当てると、すすり泣く声が大きくなったが返事はなかった。大きな花瓶の向こう側に座る初老の男が、年相応の深みの感じられぬ顔で言い放った。
「兄ちゃんよ、お前がどうにかしな。お前が泣かせたんだからな」
テスはそれに返事をせず、屈んで女の右腕を自分の右肩に回し、女の左腰に、自分の左腕を回して立たせた。
「歩けるか?」
女はじっとうなだれて顔を隠しながら、意外にも従順に頷いた。彼女の荒れ狂う怒りや不安はまだ空中を漂っているかのようだが、それは彼女自身の中からは、少なくとも今は消えていた。抜け殻になったのだ。彼女は左手首に客室の鍵を通していた。一等客室の客だった。よく見れば身なりもいい。テスは一等客室が並ぶ側の廊下に通じる出入り口から、女を支えて食堂を出た。
食堂を出た先はサロンになっていた。
窓のない空間のあちこちで、小ぎれいな身なりの人々が、ローテーブルを囲んでソファに体を沈めている。大抵は静かな声で会話を楽しんでいるのだが、一組、やたらと大声で盛り上がっている一団があった。
「そうきますか。いやあ、そうきますか。これは参りましたねえ」
六人の集団だ。うち二人がチェスをしており、生え際の後退し始めた男がしきりに対戦相手に愛想笑いをしながら頭を掻いていた。テスはチェスをしたことがなく、ルールも知らなかった。なので勝負の状況は全くわからないが、小男の対戦相手である四十がらみの男が必ず勝つことは確信できた。高級そうな生地のチュニックに身を包んだ偉丈夫で、足を広げてどっしり座っている。チェス盤を見てにやにや笑っており、口許には余裕があるが、目はどんよりと濁っていた。
通り過ぎるとき、女の手がチェスの駒に当たって何本か倒した。三本の駒が、絨毯が敷かれたサロンの床に落ちた。
「待て」
剣呑な声に呼び止められ、テスは足を止めた。振り返り、絨毯に転がる駒を見て、呼び止められた理由がわかった。
拾い上げるべきだと考えたが、泥酔した女に肩を貸しながらそれをやるのは難しく思われた。すべての視線を受け止めて、テスは謝った。
「すまなかった」
「お前じゃねえよ」チェスをしていた小男が、別人のように、威圧を込めて言い放った。「その女だ。その女に謝らせろ」
女は、意識はあるようだがぐったりし、なりゆき任せにして黙っている。
「この人は具合が悪いんだ」
「だったらここに置いていけ。謝る気が起きるまでそいつに付き合ってやろうじゃねえの」
「それはできない」
「なんだと?」小男が立ち上がる。「お前、逆らう気か?」
「この人を置いていったら、ひどいことをするつもりだろう」テスは静かに言い、首を振った。「そういうことは、できない」
サロンの人々は、実に何気ない様子で会話を切り上げ、偽りの和やかさをまとってサロンから出ていこうとしていた。テスも、チェスの一団に背を向けた。
テスの後頭部に、チェス盤が投げつけられた。チェス盤は大気のクッションに受け止められ、テスの頭の真後ろで静止した。テスは足を止め、もう一度振り向いた。その足のすぐ後ろに、チェス盤が落ちた。
サロンに口を利く人はなく、静まり返った。柱時計が静かに振り子の音を立てていた。
「お前、言葉つかいか」
声をかけたのは、小男ではない。一団の中心人物らしき偉丈夫だった。その男の口からは、笑みが消えていた。テスは油断せず、男から目を逸らさずに頷いた。
「そうだ」
「どこの支部に所属している」
「支部?」
首をかしげると、誰かがわざとらしく、さも信じられないという調子で独り言を呟いた。
「協会に入ってない奴がいるのか」
また別の者が言葉を続けた。
「困るんだよなあ、勝手にそういう商売されちゃあよ」
「商売ではやってない」
テスは、女の腰に回す左腕に力を入れながら、悪いことは続く、という言葉を思い出した。
「そういうことは関係ないんだよ。協会の認定資格もないくせに勝手に力を使ってるのが問題なんだよ」
「……使えるから使ってた。資格がいるとは知らなかった」
「知らなかったで済むと思って――」
偉丈夫が立ち上がると、話していた取り巻きは口をつぐんだ。
「どうやら、新人に礼儀を教えてやらねばならんようだな」
取り巻きたちはどうだか知らないが、この男も言葉つかいなのだろう。
「まずは上下関係からだ。業界のしきたりを体で教えてやる。甲板に出ろ、小僧」
テスはできるだけ申し訳なさそうに見えるように、男の目を見返した。
「今は、この人を寝かせてやってほしい」
男は濁った目でテスの目をじっと見つめ返してきたが、屋内でことを起こすつもりはないようだ。「ふん」と鼻を鳴らした。
「明日、零刻をすぎたら第一甲板で待ってろ」
その目を更にじっと見返してから、テスは返事せず、ただ一度浅く頷いて、男に背を向けた。サロンの出入り口に歩いていくと、背後から小男の声が追ってきた。
「逃げるなよ! お前、どこにいても見つけだしてやるからな! 隠れても無駄だってこと、覚えとけよ!」
今度は振り返らなかった。
女を部屋に連れていき、ベッドに寝かせ、靴を脱がせてやる。女はうつ伏せになってぴくりとも動かない。テスは布団をかけてやった。その布団が二等客室のものより厚く、ふかふかで、温かいので、羨ましく思った。
「どうしてあんな危険を冒したの」されるがままになりながら、女はようやくものを言った。「あたしを置いていけばよかったのに」
「そんなことはできない」
「どうして」
「必ず乱暴なことをするから」
「あいつら、あたしじゃなしに、あんたに乱暴なことをするって決めたみたいね。明日、あいつらは寄ってたかってあんたを痛めつけて、それでも気が済まなければ殺すわ。あんた、あたしにそれだけの値打ちがあると思う?」
「今は自分の心配をしたほうがいい。水を持ってくる」
「あんたは二等客室の客ね。一等客室では人に持ってこさせればいいのよ」
水差しを探して客室をうろついていたテスは、その一言でベッドを振り向いた。
「誰にどうやって頼めばいい?」
「ねえ、あんた」
女は枕に爪を立て、寝返りを打とうとしていた。
「名前を教えて」
「テス。お前は?」
「テスって本名?」
心臓が強く脈打ち、テスは枕に広がる女の赤い髪を凝視した。女はテスに背を向けて横向きになっており、窓のほうを見ている。何故そんなことを聞くのか、テスには知りようもなかった。
「……ああ。そうだ」
「あたしはキシャ」
「なあ」
テスは足音をあまり立てない歩きかたで、ベッドに近付いていった。
「キシャって、よくある名前なのか?」
すると、女はベッドから飛び起きようとして失敗し、体をベッドの上で跳ねさせると、床に向かって身を乗り出して盛大に吐いた。
「あたしは特別なの! 名前だって特別よ! ありふれてなんかないわ!」
屈みこんで背中を撫でてやろうとしたが、キシャは身をよじって嫌がった。
「すまなかった。同じ名前の知り合いがいるから」
「そいつはどこにいるのよ」
「聞いてどうするんだ?」
「八つ裂きにしてやる!」
また吐き、そして元通り、ベッドにぐったりうつ伏せた。枕に顔をつけ、涙を流す。著しく情緒不安定だ。ベッドから離れようとすると、行かないで、とすすり泣きながら訴えた。テスはドレッサーの椅子に腰を下ろした。
「よくこんな奴に親切にしようだなんて思えるわね」
「俺は何もしていない」
「したじゃない。こんな重い女を部屋まで運んで」
「重くなかった」
むしろ、この背丈の女としては軽すぎるくらいだった。嫌悪を感じるほどの軽さだった。そこまで軽くならなければいけなかった、女を取り巻く何らかの状況に対する嫌悪だ。女はすすり泣きを続け、テスは水の頼み方を聞き出すタイミングを逃し続けた。
「あたし、すごく重い荷物を運んだわ」
「ん?」
「子供の頃、昔……」
鼻をすすり上げた。
「その頃、ママはあたしよりもお兄ちゃんといることを好んだわ。道を歩くとき、手をつないであげるのも、お話をしながら隣あって歩くのも、あたしよりお兄ちゃんを選んでた。あたしは二人の後ろを歩いたわ。ママのお手伝いで、軽い買い物の荷物を持ったの。軽いのを、ママが持たせた。でもあたし、重たいふりをして、引きずるように歩いたわ。重かった訳じゃないの。振り向いてほしかったの。ええ。重くなかった」
テスは待ったが、なかなか続きを話さないので、質問しなければならなかった。
「それから?」
「ママは振り向いて、ママの買い物袋をあたしに持たせたわ。そしたら、それは本当に、すごく重かった。日が照ってて、暑くて、人や車がたくさん通ってた。今度こそ引きずるように歩いた。ママとお兄ちゃんは、どんどん先に行ってしまった。振り向いてくれたわよ。早くしなさい、早く来なさいって言うために。それから、わざとらしいことをしたらこうなるのよって、すごく冷たい目で言った。でもね、あたしはただ、一緒に隣を歩きたいだけだったの。小さかったのよ」
「そんなの、お前は全然悪くない」
「遅いのよ」
キシャはテスに背を向けたまま両膝を腹に引き寄せ、布団の中で体を丸くした。
「もう遅いわ。あたしは悪いって思い続けた結果がこれよ。あたしは本当に、悪い、価値のない人間になってしまった」
「価値ってなんだ?」
返事はなかった。キシャは眠ったかのように黙ったが、鼻をすする音が続くので、眠っていないとわかった。テスは立ち上がった。
「……水をもらってくる。すぐに戻る」
「相変わらずのお人好しだね」
その鋭い声に、テスは立ち上がったまま動きを止めた。キシャは、泥酔しているとはとても思えぬ機敏な動作で起きあがり、右手で髪を後ろに払い、ベッドの上に座りこんだ。左手は、『亡国記』を抱えて胸に押しつけていた。
「キシャだな。本物の」
「そうさ。で、おまえは一体何のつもりだ? 戦う気か? 言葉つかいの力を甘く見ているようだな。ましてあの男はおまえよりずっと熟練だ」
「わかってる、でも」
「この女を見捨てていけばよかったんだ」
テスはまた、首を横に振った。そうする度に、悲しい顔になっていくのが自分でもわかる。
「……まあ、おまえなら、やり直せたとしても繰り返すだろうな」
「なあ、キシャ、もし知ってたら教えてほしい」
「何だ」
「俺がいつも寒さに耐えなければならないのは、言葉つかいの力を得た代償だろうか」
キシャはあきれ果てた様子で溜め息をついた。
「明日に役立つことを聞くかと思いきや、そんなことか。知らないな。そうなんじゃないのか? で、何でそんなことを気にする」
「さっきの男が何を失ったか気になった」
「他人のことは放っておけばいい」
テスはベッドから離れ、窓辺へと歩いた。白く泡立つ波と黒い海を、天が弧を描いて包んでいる。空はどこにいても、いつまでも黄昏だ。太陽はどこにもない。
キシャの言うとおりだ。倦み飽きた世界は滅ぶ。
「寒いのは辛い」テスは窓に手を触れ、目を伏せた。「でも、あの男はもっと大きな代償を払ったんだ。人として大事な何かを。それを思えば、俺はこの程度で済んだ」
「もともとああいう人間性かも知れないぞ」
「……そうかも、しれないな」
いずれにしろ、テスはこれからも失い続ける。記憶を失うのだ。失うべきでないものがきっと、自分の中にあるのに。
半月刀の柄頭、そこに彫られた名を見つめる。
『アラク』
この人のことを、できれば思い出したかった。その名がもたらす温かい気持ちを失いたくない。何より、完全に思い出せず、その名がいかなる感情ももたらさなくなった時、自分はそのことで嫌な気分にはならないだろう。何とも思わないはずだ。それが嫌だった。
「キシャ。記憶を失って――」窓に映るキシャの影が、テスを見ていた。「本性を知ることで、人はどうなる?」
「神に近付く」
「じゃあ、どうして全ての人が神に近付いていかないんだ? 人は神から遠ざかりもする。そうさせる力は何だ?」
テスは海と黄昏の彼方に遠い目を向けて、返事を待った。答えはなかなか返ってこなかった。
そっと肩越しに振り向くと、女はキシャであることをやめ、あの書物も失われ、蒼白な顔でベッドに横たわっていた。歩み寄り、呼吸を確かめた。ちゃんと生きていた。
2.
一眠りしたのち、テスは同室の客を起こさぬよう静かに身支度を整えた。丹念に手入れした武器で武装し、温かいマントとストールを纏って客室を後にした。黄色と灰色のまだらになった雲の下に出る。第一甲板にはまだ誰の姿もなかった。
テスは観測用の甲板に上り、そこから第一甲板を見下ろして、人が現れるのを待った。船内の全ての時計が一斉に零刻を告げ、ほどなくして中年の言葉つかいの男と、取り巻きたちが現れた。無人の観測甲板で身を屈めるテスの視界の下で、彼らはぶつくさ言いながらテスを待った。テスは立てた膝の片方に顎を乗せ、彼らの様子を観察した。二、三十分の間、彼らはある種の従順さでもってテスを待ち続けた。
「対策は考えてきたか?」
いきなり真横から女の声がした。驚いて左横に顔を向けると、そこにキシャ、書物を抱えた赤毛の痩せぎすの女が立っていた。テスは第一甲板の男たちに聞こえぬよう、小声で尋ねた。
「今、どうやってここに現れた?」
「おまえが知らなくてもいい方法さ」
テスの左隣に座り、キシャもまた小さな声で話した。
「で、対策は?」
「今考えてる」
「今からか。もう約束の時間だろう」
「あいつらは『明日、零刻をすぎたら第一甲板に来い』としか言わなかった。じゃあ別に今日の二十三時五十九分に行ってもいいわけだ」
「おまえよくもいけしゃあしゃあと……」
第一甲板で、言葉つかいが怒りも露わに「遅い!」と叫んだ。
「忘れているかもしれないが、この船は今日、目的地の大陸にたどり着く。二十三時五十九分まで待つくらいなら、陸に着いたら跳んで船から逃げたらどうだ?」
「ああ、それもいいな……」
「おまえって結構……」
初めて、キシャが言葉を濁した。
「何だ?」
「……言うだけ野暮だ」
それから更に五分も待つと、言葉つかいの男はいよいよ痺れを切らし、命じた。
「もう待てん! 探しに行け、お前ら。全部の二等客室と、ベッドの下と、物入れと、いいか、隠れられそうな場所は全部探せ! 便所もだ!」
無駄なのに、とテスは思ったが、口には出さなかった。代わりにキシャに話しかけた。
「あいつらは昨日、認定資格もないのに力を使うなって言った。これは、たとえ目の前で人が化生に喰われそうになってても、助けるなという意味だろうか」
「そうだろうな」
「どうして」
「一つは、勝手に化生を退治されては儲けが減ること」
キシャの冷徹な言葉に、テスはうら寂しい気分になった。
「そして一つは、言葉つかいがそれほど危険な存在だってことだな」
「危険?」
「言葉つかいは人間を救う英雄などではない。自分の感覚、自分の言葉、自分の主観、そうしたものに他人を巻きこむ力の恐ろしさは、役立つことを遙かに凌ぐ」
「よくわからない」
「悪用しようという気がおまえにないのなら、まあわからんかも知れないな。言葉は人間を作る……例えばだ。拒絶と否定の言葉を浴びせられて育った人間がいる。そいつの心の中には恨み憎む言葉が常に渦巻いている。そしてそいつは無意識のうちに、自分のことを拒絶し否定する人間ばかりと付き合うようになるだろう。その環境から出ていく力がないからだ。かたや、愛され思いやられて大切に育てられた人間がいる。そいつの心の中には温かく優しい言葉が常に渦巻いている。そして、その環境から出ていく必要がないから、自分を愛し思いやってくれる人間たちと付き合う。言葉が違うというのは環境が違うということだ。そしてある日両者が出会い、ちょっとしたトラブルが起きる。肩がぶつかったとか、足を踏んでしまったとか、何でもいい。両者は言葉が通じない。言語が同じでも、言葉が違うんだ。痛い目を見るのはどっちだと思う?」
「後者だ。前者はそういう時、暴力を振るうのを恐れないから」
「その暴力が、言葉つかいの言葉だよ」キシャは頷いた。「前者は後者にけがを負わせ、殺すかもしれない。その時、愛情や思いやりに満ちた優しい世界に生きている者たちは、憎しみ、怒り、恐怖、不安を知り、巻きこまれる。感覚、主観、ものの考えかた、価値観、そうした自分の世界を壊されて、他人の悪意の世界に巻きこまれるんだ。ありがちな不幸だよ。それを拡大したものが、普通の人間と言葉つかいの出会いだと考えろ」
「俺は誰かの感覚や世界を壊しただろうか」
「おまえ、初めて大気の力を操れると気付いたとき、どう思った? 本来であればあり得ない動作が可能になったときは? もし、自分が普通の人間で、他人があり得ない高さまで飛び跳ねたりしたら、どう思う? そいつが助けてくれたとして、素直に感謝する以上に、怖いと思うはずだ」
テスは、通りがかりの村で浴びせられた視線や敵意に満ちた言葉を思い出し、キシャから目をそらした。
彼らは恐がっていたのだ。テスを侮蔑することで、自分より下の、無力で無害な存在だと無理矢理に納得しようとしていた。そうせずにはいられなかったのだ。
気付けなかった。気付けなかったばかりに、見捨てて来てしまった。
「……さて、そういうことを理解して、おまえは今後どうする?」
それでも、目の前で人が化生に食われそうになっていたら、助けずにはいられないだろう。テスは正直にそう答えた。
「だったら、自分の信念でそうするんだな。なに、この先の大陸には形(かた)喰いも出る。おまえが力を使う機会も、その結果を知る機会もあるはずだ」
「形喰いって、どういう奴なんだ? 前に、形あるものは何でも食うって言ってたな」
「そのまんまさ、どうもこうもない。でもね、あいつらは大地だけは食べないよ。自分の立つ場所だからね。大地なしには存在できない。後はまあ、空も食わん」
最後は冗談で言ったのだろう。
「じゃあ、言(こと)喰いは?」
「全てを喰う存在。天も地も。無さえも食らうと言われている。だが、言喰いに会った者はもちろんいない。会ったら最後だからね。被害にあった事例はないし、あくまで論理的にはいるはずのもの、という存在だ」
「大地や空まで食う……そんなことをされたら、世界はどうなるのだろう」
「食われた大地や空、という状態を認知できる者の前に、言喰いは現れる。おまえが言ったとおりだ。認知なくして観測はあり得ない」
「存在と観測が逆転している。『在るものだから観測できる』んじゃないんだな。『観測できるようになったとき、それは在る』んだ」
「そうさ。言喰いにはすでに存在するという仮説が与えられ、『言喰い』という名が与えられた。あとは認知する方法と観測者が必要なだけだ」
「全てが食われるのか。それが観測されて、それが『在る』ものとなったら」
テスは自分の言葉の恐ろしさと寒さに身震いした。
「人は言葉を作るし、言葉は人を作る」
キシャは喋りながら、マントの前を合わせるテスの動作を凝視した。
「人間は言葉を蝕み、言葉は人間を蝕む。互いにそういう関係だ。おまえ、蝕むことや食うことはね、決して消費して失わせるということじゃないよ。取りこみ、著しく変質させて、自分自身にするということだ。この点を間違えるな。さあ、その上で、言喰いとは何か考えてみろ」
テスはキシャの目を見つめ返し、その視線の圧力を受け止めながら、二度ゆっくり瞬きした。一度首をかしげ、またゆっくり瞬いた。
それから不意に早口になった。といっても、テスの早口は、人が話す平均的な速度と同じ早さだったが。
「俺は大地を消失させる者を知っている、キシャ。ついこの間、それを見た。見させられた。あの沼で」
その反応を面白がるように、キシャが目を細めた。テスは体を強ばらせながら、反応を待った。キシャは何も言わなかった。
「キシャ、お前――」
大気が嫌悪で身をよじるのを、テスは肌で感じた。
下で、何かが起きている。第一甲板を見下ろした。大気が嫌う気配の源は、第一甲板にあった。
言葉つかいの男が、第一甲板の中央で仁王立ちしている。男はゆっくり右腕を上げ、前に突き出した。掌を天に向ける。
雲が空でうごめき、円形に割れた。太陽が動いて、その円に収まった。堕ちながら昇りゆく、黒い太陽……。
テスはこれまで二つの武器と、二つの世界で身につけた戦闘技能を頼りに戦ってきた。言葉の力は補助的にしか使ってこなかった。だがそれは、本来の使い方ではないのだと、別の言葉つかいを目撃し、初めて気がついた。
「そうか」
黒い太陽が、睫毛に縁取られた目を開けた。白目を持つ、人間の目だった。男の右の掌の真上にあり、男の左手にあわせて、眼球を左右に動かしている。
「こういう言葉の使い方もあるのか……」
その忌まわしい目が、観測甲板上のテスを見つけた。じっと見下ろし、動きを止める。テスは半月刀を抜きながら、素早く立ち上がった。
言葉つかいの男も、まっすぐテスを見上げた。甲板の高低差を挟んで二人は向き合った。
男は、テスが武器を持っていることに驚いた様子だった。テスは相手が武器を持っていないことに驚いた。そういえば、村で出会った言葉つかいの老婆も、身を守る道具を持っていなかった。もしかしたら、言葉つかいの武器は言葉だけであり、刃物や銃を用いるのは流儀に反することなのかもしれなかった。男が忌々しげに顔を歪めるのが、はっきり見えた。
「お前は何だ」
男が尋ね、テスが答える。
「言葉つかいだ」
視界の限りの空が、水平線の彼方から、黒く変じていく。男が叫んだ。
「嘘をつけ!」黒さが黄昏を駆逐して、空を塗りつぶした。「お前は新生アースフィアの党員か! そうだな!」
「えっ?」暗闇で、テスは呟いた。何も見えない。「何のことだかわからない」
「しらばっくれるな、裏切り者の言葉つかいめ!」
光が差した。人に、いかなる安堵も居場所も与えない、ただ在るものの在るがままを明からしめるだけの光だった。
海が消えていた。光を反射する波がない。光の出所を探そうとした途端、観測甲板が消失した。テスは大気を蹴り、空中でくるりと体を丸めて回転した。バランスを取り、爪先から第一甲板に着地する。その時、光は雲の中の二つの光点から放たれているとわかった。光を反射する雲が、目の持ち主である黒い巨人の姿を、包みこみ照らしていた。
「こんなことはやめるんだ!」テスは彼なりの早口で、彼なりに強く言った。「言葉で世界をいじり回すような真似はいけない!」
「黙れ! やめる前に、お前だけは殺す!」
不意に憎悪を浴びせられ、テスは驚きが顔に現れるのを隠せなかった。単に生意気な年少者、気に食わないだけの相手に対する感情ではない。男はテスを憎んでおり、それはお門違いの憎悪だ。だが、誤解を解く暇もなく、第一甲板が足許から崩壊し始めた。
テスは目を閉じ、足の裏に甲板の存在があると信じた。キシャによる沼と大地の消失が行われた際、櫂に当たる水の感触を信じたように。そして、それをもとにテスの主観による世界を復元したように、靴越しの甲板の感触を頼りに船と海の復元を試みた。
「そんなことはさせない。戦う理由などない」
太陽を求めて、テスは右手の半月刀をしまい、空を指した。目を開けたとき、その指の真上に太陽があれと願った。目を開けた。顎を上げ、空を見上げた。雲は厚いが、その奥に、輝くほの白い円盤が見えた。
太陽。
テスは船があることを望んだ。誰もこの言葉つかいの世界に巻きこまれず、恐怖を感じずにいられることを望んだ。海があることを望んだ。
雲間から、光が太い剣のようにおりて海を刺した。海はその切っ先を砕き、紺碧のヴェールに散らした。海は一本のリボンのように横たわり、その中心を、線路を往く列車のごとく船が進んでいた。
海を囲む深淵から、二体の巨人が立ち上がった。船と海を左右から挟みこみ、みるみる高さを増して、頭が雲に入った。それはなお浮き上がって高さを増し、足場の高さをテスの立つ第一甲板と同じくした。巨人の足の指は、テスの身長以上の厚みがあった。
テスは太陽を指し続けた。そうすることで世界を支えられると思った。
だが、空の光が照らすのは、元通りの海ではない。何十、もしかしたら何百という数の、次々に現れる巨人の姿だった。
男は巨人に世界を支配させて海を消そうとし、テスは巨人を消して海を広げようとした。巨人は消えなかった。海は広がらなかった。
そのまま、二人の世界は拮抗した。苛立ちと害意をこめた巨人のうめき声が、雪崩のように降り注ぐ。声の重みを実際に感じ、テスはその場でよろめいた。
その重圧が、言葉になった。
〈あなたを嫌います、消えてください〉
文字として目に見えたようであり、声として耳に聞こえたようでもあった。また、自分自身の思考として、頭に浮かんだようにも感じられた。
〈あなたを拒みます、消えてください〉
凄まじい被害妄想が、意志に反して起こった。この世界で出会った全ての人が自分を憎んでいると思った。これまでに浴びせられた全ての視線が冷たい視線で、全ての言葉が嫌悪を孕んでいた。何気ない一言にも、侮蔑の意味が隠されていた。
「違う」テスは口の中で呟いた。「違う。こんなのは嫌だ」
言葉つかいが嘲笑う。
「このまま圧し潰してやる!」
〈私の前にとどまる限り、私を認め尊敬し愛する義務があります〉
呼応するように、降り注ぐ声が大きくなった。
〈あなたが義務を拒むなら、死によって罰します〉
足許がぐらついた。テスは目を閉じ、足許のイメージを強固にする。視界が閉ざされる前、海が細く狭くなっていくのが見えた。
「愛は義務じゃない」
天を指し続ける右手がひどく震えた。指先で岩を支えている気分だ。だが、そうすることをやめたら、太陽が消えてしまうと思った。海も船も消え、自分は闇に消えると。そして、海や船に代わって巨人が自分にとっての実在となり、それに殺されるとわかった。
「罰なんて必要ない」
〈崇めなさい、恥辱を与えます〉
「甘やかされて育ったガキだな!」言葉つかいは自らの口で言葉を放った。「上に立つ奴は、下の人間に罰を与えるもんだ。でなきゃ、つけあがるだろうが。お前みたいにな。俺とお前は違うんだ、甘ちゃんめ!」
「つけあがってなど――」
頭から、より一層強く押さえつけられる感じがし、テスの言葉は途中でうめき声に変わった。
〈思考を止めなさい、支配を与えます〉
「嫌だ」テスは改めて言い放った。「拒否する」
確かに、この言葉つかいは強いのだ。目を開ければ、海が消えるのを見るだろう。船が消えるのを見るだろう。一瞬の油断で、この男の世界に自我は飲みこまれ、二度と帰れないだろう。
「どうしてお前は言葉つかいに刃向かった? 俺に従っていれば、神の力を手に入れられたのに!」
男の声に、テスは驕りを感じ取った。優位にある者の驕りだ。そして実際に、相手が優位に立っていた。
神。偶然放たれたその言葉に、テスは意識を集中した。
神……。
「……いいや。俺とお前は違わない。言語生命体はみんな同じだ。みんな、この化け物みたいな被害妄想まみれの親のもとに生まれた、子供だ」
テスは薄目を開けた。声に出さず、唇の動きだけで囁いた。神。
雲の向こうの光る円盤、太陽を見つけた。
「だから、より切実に、まことの神を求めなければならない。地球人より切実に……」
どのような脅威を感じたのか、男が息をのむ。テスは大きな目をしっかり見開いた。茶色の瞳が一瞬、青空を映した。次の瞬間、巨人の真っ黒い拳が視界を塞いだ。
テスは右腕をおろし、代わりに左手の半月刀を頭上にかざした。巨人を見るのをやめ、真正面の男を見据えた。半月刀の刀身が、巨人の拳を受け止めた。紙一枚ほどの重みも感じなかった。
「奴を殺せ!」
男が叫んだ。テスの半月刀に触れる巨人の手が、鳥の群れに変じた。羽音を立てて飛び上がる。テスは無数の羽根を浴びながら、まっすぐ男の視線を受け止め、見返した。
「殺す必要なんてない」
鳥たちの翼に、テスは風の力を乗せた。雲が丸く開いた。青空がのぞいた。青空へ、鳥たちが、殺到していく。
その青空を、巨人たちが身を乗り出して隠した。鳥たちを、鷲掴みにし、食っていく。
「やめろ」ばちん、と、体の中で光が弾けるのを感じた。テスは叫んだ。「鳥たちを殺すな!」
巨人たちを避けて、鳥たちは逃げ場を求めて中空で輪を描く。
「こっちに来い!」
テスは鳥たちに向けて両腕を広げた。
「みんな俺が守る! 一緒に行こう!」
悲鳴のように鳴きながら、鳥たちが剣のように鋭く、一直線にテスへと向かってくる。テスはそれを体で受け止めた。かつて、死の沼の鳥たちを瞳に吸いこんだように、体の中に招じ入れた。共に生きる意志を持つ鳥を、この世界の鳥を、今この場にいる限り、最後の一羽まで。
「一緒に生きよう!」
巨人らが、腰を屈めてテスに覆い被さってくる。
言葉つかいが甲板を蹴り、殴りかかってくるのが見えた。殴ることで直接ショックを与え、隙を作らせるつもりだと、テスは読んだ。
腰の後ろに右手をやる。
銃を抜いた。
両手で構え、至近距離で撃った。銃声がして、男が腹を押さえた。テスは拡張する。海原を。船の、甲板以外の部分を。男が目の前で、左右に揺らめいた。何か言いたげな目でテスを見ながら口を開いた。だが一言も喋らずに、腹を押さえて横ざまに倒れた。
己を支える言葉を求めて、巨人たちが腰を屈めて甲板の男に殺到する。
ぐしゃ、と音がした。
同時に巨人たちが消えた。男の姿も消えていた。鳥たちも、青空も。
不変の黄昏が、テスの頭上を憂鬱に支配していた。船は変わらず航海を続けていた。
何もなかったかのようだ。テスは目眩をこらえた。最初から、一人でここに立っていただけで、一部始終は夢だった。そう思えた。
だが、観測甲板から降りてきたキシャが、冷酷に現実を告げた。
「殺したな」
テスは振り向きもせずに、男が倒れたはずの地点に視線を注ぎ続けた。血の一滴さえ残っていなかった。キシャを見ず、首を横に振った。
「あの人は死にたかったんだ。俺に殺されるようにした」
「くだらない自己弁護だ」
「いいや……そうなんだ。うまく言えないけど、あの言葉つかいの世界、被害妄想の言葉の世界を見てわかった……彼は死にたがってた。辛かったんだ。自分の言葉に潰された。自分でも知らないうちに、自分で死ぬようにしたんだ」
「それにしてはおまえ、撃つのになんの躊躇もなかったな。かなり殺し慣れているだろう。記憶をなくす前、人を殺して生きていたんだ」
テスは、恥ずかしさと居たたまれなさで顔を赤くした。
「言葉つかいの世界を覗くのは、楽しくはなかっただろう?」
「……ああ」
「言葉つかいは言葉喰い、著しく変質させる者。だから、言葉つかいこそが言喰いだと主張する者たちが、行く先の大陸に少なからずいる。気をつけろ。旅は長い」
キシャが離れていく。その足音が、人が倒れる音に変わった。慌てて振り向くと、キシャに憑依されていた、心を病んだ赤毛の女が甲板に倒れていた。『亡国記』は消え失せており、女の顔には生気がない。テスは女の姿勢を回復体位に整えてやった。誰かが彼女を見つけてくれるだろう。
水平線の向こうに、陸が見え始めていた。
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