chilledscape #02 遍在者の撃鉄
1.
「その武器はどこから持ちこんだ?」
キシャが尋ねた。テスは小舟の櫂を漕いでいた。二人は沼を渡っていた。
「どの武器だ?」
「両方。半月刀と、物理銃」
沼は死んだ臭いがした。ヘドロの臭い、根腐れした水草がヘドロになりつつある臭い、死んで腹にガスの貯まった魚が水に溶ける臭い、水中の微生物が汚泥になる臭い。テスは櫂を漕ぐ手を休めた。腰に差した小ぶりの半月刀に目を落とす。
二本の半月刀の柄頭には、それぞれ連結器がついているが、その金属部分に一人の男の名が彫られていた。
『アラク』
尊敬の念を呼び起こす名前だった。尊敬だけではない。懐かしく、慕う、温かい気持ちを感じる。父のような人だった。武器は、いずれもこの人から継いだ。
わかるのはそれだけだ。『アラク』という男の人柄や容貌などは、何も思い出せない。
「物思いに耽ってないで答えろ。それかせめて舟を漕げ」
テスはその両方に応えた。櫂が汚れた水に沈み、かき分け、引き上げるときに水面を揺らす音が、再び始まった。
「半月刀は、夜の王国から持ちこんだ。銃は太陽の王国から」
「二つの場所にいたわけか。二つの世界に」
「同じ俺じゃなかった。別々の個人だった」
「だが間違いなく、どちらもおまえ自身だったろうな」
キシャはテスと向かい合って座り、膝に書物を置いている。『亡国記』。それとなく覚えのある題だった。かつて、その書物を知っていた気がする。
「俺は一人しかいないのに……」テスはゆっくり喋り、一度言葉を切ったが、結局頷いた。「……そうだな。どちらにもいた」
「記憶がなくてよかったな。二つの人生の片方だけならまだしも、両方の記憶をとどめていたらひどく混乱していたことだろう。おまえ、自分が何者か、知っているか?」
テスは首をかしげてから答えた。
「知っているつもりだ」
「嘘だね。汝自身を知れるのは神だけだ。だが神はできもしないことをやれとは言わないよ、遍在者」
「遍在者?」
「おまえは自覚あるだけでも二つの世界に、一人の人として存在していたのだからね。おまえを一カ所に固定することはできない。そのことを自分でどう思う?」
率直に答えた。
「気持ち悪い。人生が二つあって、そのどちらも本当だというのなら、依拠すべきところがわからない」
「自分を知らないから、自分を気持ち悪く思うのだよ」
テスは櫂を漕ぐ手を止めず、キシャの顔を窺った。出会ったときより少し、自分に向ける目が優しくなっている気がする。
「自分自身のすべてを知るなんて、キシャ、人間には時間がなさ過ぎる」
「知りたければ、時の神に同調すればいい。時間がないことなんて、時を超えれば関係ない」
「キシャは地球人なのか?」
今度はキシャが、テスの顔をまじまじと見つめた。
「何故そう思う?」
「地球人の信仰の形態には、一神教と多神教というのがあったように覚えてる。時の神というのは多神教的な考え方だ。アースフィアには馴染みが薄い」
キシャは耳にかかる髪を後ろに払いのけた。
「一神教と多神教に違いはない。同じ一つの対象を、異なる側面から見て表現したものにすぎない」
「地球人は宗教のために、長い間殺しあいを続けたと学んだ。同じものなら、どうして解釈を巡って殺しあいができるくらい多様で、異なる表現があり得たんだ?」
「神が無数の天性を持つからだ。神は一つで、無数の側面を持ち、その側面の一つ一つもまた独立した神だ」理解しているのかいないのかわからない様子で瞬きをしているテスに、キシャは付け加えた。「神のすべての表情は、私とおまえと同じくらいに違っていて、同じだ」
「俺とお前が、違っている、というのはわかる」テスはゆっくり答えた。「同じ、というのはわからない」
「今はまだわからない、と言え、馬鹿者」
「今はまだわからない」
「だとしたらおまえは、神のすべての表情、世界のあらゆる様相を知る努力をするべきだ」
「あらゆる様相?」
「例えば、ほら」キシャのほっそりした顎が、小舟の外の水面を指した。「天球儀……」
テスが小舟の外を見た瞬間、沼が消えた。
小舟は何もない空中を漂っていた。小舟を支える水はなく、魚の死骸や、藻や、水面を漂う霧もなかった。
舟の遙か下は、およそ見通すことのできない深淵であった。その黒さを背景に、白く輝く編み目状のものが広がっている。
テスはキシャの言葉をなぞる。
「天球儀」
「そうだ。覚えているだろう。おまえたちを惑星アースフィアに閉じこめる鳥籠だ。だが、アースフィアは空洞化した。大地はない。見ての通りだ」
櫂を握りしめたまま、不思議そうに天球儀を見下ろすテスに、キシャはなお語りかけた。
「大地の消失……。これほど質量を失いながら、惑星としてなお重力を保っている。アースフィアの重力は何だと思う?」
答えはすぐに返ってきた。
「主観」
キシャは微かに声を出して笑った。
「おまえは本当に面白いね。どういう思考回路をしているんだ? でも違うよ。もっと単純だ。重力の鳥籠だよ。地に堕ちた天球儀は、今なお鳥籠であることをやめていない」
「俺が主観と答えたのは」小舟の外側を見るのをやめ、テスは首を軽く振った。「俺の主観は、世界が空洞であるよりも、俺が見てきた通りであるほうを良しとするから。現に今、櫂を漕ぐと、水の重みを手に感じる……」
そう言って、目を閉じた。テスは櫂の持ち手の感触、それを繰る度に受ける水の抵抗、水音に意識を集中した。
次に目を開けたとき、二人は元の沼で、小舟に座っていた。だがどこか、空気には不穏な感じが残っていた。
「おまえはこの、腐った沼、陰鬱な光景が好きか?」
「さっきのよりはマシだ」
「この世界のざまを見ろ」キシャは、近付いてきた岸辺に生える低木を顎で指した。「木だってあんな空を目指したくなくて横這いになっている。そんな世界だ」
「それでも、生きている木だ」
「木があったほうがいいか?」
「ないよりずっといい」
不穏な気配が、空気中から消え失せた。キシャが息をつき、力を抜く様子を見せた。幾分柔らかい声で、彼女は話を続けた。
「……おまえは善い言葉つかいだね。ならば、世界はおまえを愛するよ」
テスは何とも返事をしかねて、質問をした。
「無数の側面をもつものが神ならば、言葉は神なのか?」
先ほどのキシャの話とあわせて考えるなら、言葉をすべて集めたらそれは神である一方、一つ一つの言葉もまた神ということになる。
キシャが口を開いた。
「地球人の聖典にはこう記述される。『初めにみ言葉があった』。このことをどう思う?」
テスは首をかしげ、考えた。
「少し、腑に落ちない」
「何故」
「はじめにあったのが言葉なら、その『初めのみ言葉』を観測したのは誰だ?」
沈黙によって促され、テスは話を続けた。
「観測には認知が必要だ。はじめに言葉を観測した者は、言葉が言葉であることを知っていたり……またはそれがあることを認知し、『言葉』と名付ける必要がある。それは……どこから来たんだ? その……言葉を言葉であらしめる言葉を持っていた主観者は」
「まだ続きがあるんだ」キシャは、書物のなめし皮の表紙に軽く爪を立てた。「『初めにみ言葉があった。み言葉は神とともにあった。み言葉は神であった』と」
「じゃあ、言葉自身が主観者で……つまり、自分で自分を見たのか?」
「そうだ。汝自身を知った。そうできる者を神と呼ぶ。そこでさっきの話だよ。おまえは何者だ?」
「わからない」
沼の上を風が吹いた。テスは寒さを思い出し、身震いした。腹にぎゅっと力を入れる。
「でも、記憶を取り戻せば思い出せるかもしれない」
「記憶はおまえそのものを表すものではない。そうならば、記憶を失った時点で存在できなくなるはずだから。だけどおまえはここにいる。逆の発想をしてみたらどうだ? 二つの世界の人生で偶然に身につけた性質、そして記憶を洗い落とせば、おまえ自身、おまえの本性が見えてくる」
「記憶を洗い落とす?」
テスは無言になったが、櫂を漕ぐ手は止めなかった。
しばらく水音だけが続いた。
「何故黙る?」
「驚いたんだ。直感に反することだから。今までどうしたら記憶を取り戻せるだろうと考えてた」
「おまえがおまえ自身を知るためにこの世界に落ちてきたのなら、残りすべての記憶を手放すまでここから出られないだろう」
岸が近付いてきた。キシャによれば、この先に村があるはずだ。
「キシャは、よくものを知っているな。何歳なんだ?」
「十六歳」
「そうか」疲れた腕を励まし、岸を目指す。「賢い十六歳だな」
「信じるんだ」
「実際、それくらいに見える」
「今、私が少女の姿をしているのはたまたまだ。誰がこの〈少女の私〉が思考していると言った?」
キシャが書物から手を離した。
重そうな表紙が勝手に開き、中のページが最初から最後まで、風でめくれた。
最後のページに行き着くと、キシャは書物を閉じた。
「……本当は何歳なんだ?」
「八百歳」
「そうか」テスは納得して頷いた。「賢いわけだ」
「やっぱり信じるんだ……」
「本来のキシャ・ウィングボウはどこに行ったんだ?」
キシャは本を両手で持ち上げると、胸に押しつけて抱いた。
「天球儀になった。もういない」
小さな桟橋についた。霧の中、桟橋に飛び移り、キシャが橋にあがるのを手助けする。
「化生がいるよ」と、キシャ。「村の人間は出歩けずにいるから、もてなしを受けられるとは限らない。まあ、いずれにしろ戦うのはおまえだ」
「手伝わないのか?」
念のため聞いてみた。キシャは冷めた目で答えた。
「年寄りはいたわれ」
2.
霧の向こうに感じられる黒さを、はじめ雨雲かと思った。沼から離れるにつれ、霧が薄れていった。道が分岐した。道しるべによれば、坂を右へ下る太い道は、遠くの港町に通じており、正面にまっすぐ続く細い道は、三十分も歩くと小さな村に出るらしい。
葦原を抜けると、キシャが言う化生の姿が露わになった。それは霧の向こうに感じていた黒さそのもので、伏せた浅いボウルを浮かべたように、一つの村全体に覆い被さっていた。それは形が定まっておらず、つまりどのような形を取って、どのような攻撃を仕掛けてくるかわからない。聖堂で戦った化生とは比較にならないほど大きくて、テスは小さかった。だが化生は、今は自らが覆い被さる村に目を凝らしている様子で、テスとキシャには気付いていなかった。
「あんなに大きくなるものなのか……」
テスは葦の陰に身を隠しながら言った。キシャが答える。
「熟練の言葉つかいが張った結界が生きてるよ。でも、ところどころ破れてるね。木の杭が道沿いに立ってるだろ」
確かに、キシャの言う杭がテスの目にも見えたが、いくつかは折れて倒れており、何本もまとめて倒されてしまっている箇所もある。その箇所が『破れ』なのだろう。
「おまえ、あいつと戦える?」
「滅ぼすとなったら一人じゃ手に負えない。でも、結界の破れた場所を通るときに振り切るくらいなら」
坂の下の窪地に収まる村は、まだ両腕で抱きこめそうなほど小さく見え、道は長く頼りなく思われた。それだけ化生もまだ遠く、テスたちには気付かない。結界の破れた箇所では走り、そうでない箇所では慎重に歩いて、身を隠す障害物のない道を、二人は進んだ。
近付くほどに、化生の姿が次第にはっきり見えてくる。
彩(あや)喰いであれば、喰った記憶の中から望む生き物の形をとる。だが、村に覆い被さって浮かぶそれは、どの生物でもなく、同時にどのような生き物でもあった。その黒さに目を凝らせば、馬のたてがみや鯨の髭、人髪のようなものが見え、更にあらゆる動物の目が、村に視線を注いでいるのまでわかった。離れていても見えるわけは、目だけは光を放っており、そして巨大だからだった。
その目の一つがテスを見た。
十を越す彩喰いの目が、一斉に動いた。折しもテスは、後ろにキシャを連れて、結界の破れた区間に入りこんだところだった。
「走ろう」
マントの内側に手を入れ、腰の後ろから銃を抜いた。
走り出したテス目がけて、黒い布のように、化生の体の一部が飛んできた。信じられない速さでみるみる迫ってくる。
走りながら両手で銃を構え、撃った。弾の当たった箇所が蝙蝠のような、蛾のような、羽ばたく欠片に砕けた。そのすべてがテスへと飛んでくる。
銃をしまい、二つの半月刀を抜いた。
「キシャ!」
「忘れたのか?」呼び声から気遣いの色を読み取って、キシャは冷静に応じた。「化生は私を襲わないよ」
テスは羽ばたく化生たちの中に突っこみ、右手を振り下ろし、続けて左手を大きく横に払い、化生の群れを薙いだ。左腕を斜めに顔の前にかざして庇いながら、右足を踏みこみ、右手の半月刀を右から左に振るった。立て続けに左から右へと振り、更に足を踏みこんで左手の半月刀を斬り上げ、頭上で攻撃の隙を窺っていた化生を叩き落とす。
視界から化生の黒さが消え、まっすぐ前が見えるようになった。結界を示す杭が、十歩の距離にあった。テスは振り返らずに、全力で、結界の内に駆けこんだ。杭には守護の文言が彫られていた。
「あれは本当に彩喰いか?」
ゆっくりと化生の中を歩いて進み、結界に入りこんだキシャに、テスは尋ねた。
「形(かた)喰いに進化しかけているようだね。形喰いを見たことは?」
「まだ彩喰いしか見ていない」
「そう。まあ、それが一番ありふれているからな」
分かたれた化生たちはテスを見失い、あたりを飛び回るが、結界で囲まれた道の中には入りこめなかった。羽ばたくすべての化生が、二人の頭上で再び黒い布のような形を取った。それで、手を伸ばせば届きそうなその高さが、結界の高さの上限だとわかった。次の結界までの距離は遠い。百歩はありそうだ。その結界の入り口までを隔てる道に、黒く、化生の体の一部が滴り落ちてきた。本体からちぎれ落ちたそれは、人間の形になりながら立ち上がる。十体。二十体。
テスは半月刀の柄頭をあわせ、小型のブーメランにした。天球への祈りの句を唱えて武器に風をまとわせ、結界の内側から投げ放つ。十体近くの化生の胴を分断し、ブーメランはテスの手許に戻ってきた。続けて投げ放つ。
ちぎれた化生は舗道を這い、道の真ん中で一つになろうとしていた。上からは、変わらず化生の体の一部が降り、人型になる。
「キリがないらいしぞ」
キシャの言葉に頷きながらも、テスは更に攻撃を仕掛けた。
「動きは止められる」
まだ人間の形をしているものを、テスのブーメランが更に切り刻む。
戻ってきたそれが、木の杭に当たった。
木っ端が散り、杭が傾いた。
地面に深く刺さっていなかったのだ。
テスがブーメランを取ると、杭はゆっくり倒れた。
結界が壊れる。
「行こう」
テスはブーメランを分解し、二つの半月刀に戻した。
真っ黒い肉塊が降る道を、テスは次の結界へと急いだ。化生を相手にするつもりはなかった。
だが、五、六体の人型の化生が、行く手に立ちはだかった。壁をなし、迫ってくる。その壁の奥にも、数え切れない化生が蠢いていた。背丈はみなテスと同じくらいだった。俺を模倣したんだ、と、テスは冷静に思った。
舗道を蹴り、風をまとう。
化生たちの頭上より、高く飛び上がった。
空から絨毯ほどもある掌が下りてきて、テスを鷲掴みにしようとする。
大気を蹴り、前方にかわした。くるりと体を丸めて回転させ、バランスを取る。後ろで、テスを取り逃がした掌が、拳の形となった。
化生の群れの中に、円く空いた空間を見つけ、そこに着地した。視界に入るだけでも、既に五十体を越えている。それが一斉にテスに殺到し、円が狭まってくる。
再び半月刀の柄頭をぶつけ合わせた。今度は少し乱暴な動作になった。左足を軸に、左方向へ体を回転させながら、ブーメランを後ろに投げた。銃を抜き、前に向き直る。そして、狙いもつけずに乱射した。威力は高いが反動の大きな銃だ。戻ってきたブーメランを掴んだとき、少しだけよろめいた。
敵は減らない。仲間が倒れるのを見て逃げもせず、恐怖も抱かない。テスはただ、目の前の道を開くべく、すぐさま前方にブーメランを投げた。
キシャの声が聞こえた気がした。
頭上に化生の気配を感じた。
大気の流れをイメージし、それに意識と体を乗せた。斜め前へと飛ぶ。
空中で銃を撃ちながら、テスは地面に振り下ろされた黒い拳と、めくれて舞い上がる歩道の石、そして正体不明の光を見た。
空を覆う化生、そこから伸びる拳を支える腕、その腕の向こうに、金色の輝きがある。
「あなたは誰?」
少女の声が地上から聞こえた。
聞き間違いかと思った。だが違った。分かたれて人の形となったすべての化生が動きを止めている。地上は静まり返っていた。
「キシャ?」
静寂の中に、少女の絶叫がヒステリックに響いた。
「あなたは誰!!」
マントの音を立て、地上に舞い下りた。銃を収め、ブーメランを拾い上げ、解体する。二本の半月刀で化生を斬り捨てながら、テスはキシャを探した。化生を斬ると、紙のような感触が手に伝わる。命の重みは感じない。化生に命はない。嫌な感触だ。
キシャは本を抱えていなかった。
空中の光を見上げる横顔から、先刻までの冷たい知性が消えていた。極限まで目を見開き、口を開け、恐怖のあまり呆然とした、ただの少女だった。テスは走りながら、少女と自分の間に立ちはだかる最後の一体の化生を斬った。障害物が消え、テスは右手の半月刀を右に振った姿勢のまま、大きな目でキシャを凝視した。
「俺はテス。お前は?」
少女は恐怖の表情のまま答えた。
「あたしはキシャ」
テスも空を見上げる。
「キシャ・ウィングボウ」
そして、空中の光こそが、少女の抱えていた本だと理解した。眩しくて見極められなくても、直観でそうわかった。
「あたしは知ってた。言語生命体の正体を知ってた。生き延びる術も知ってた」
「キシャ、どうしたんだ?」
「あの陰険なアーチャー家でもない。偽善者どものライトアロー家でもない。あたしが、キシャ・ウィングボウが知ってた!」
大きく息を吸い、胸が動いた。このとき初めてテスは、この少女が生きていることを、少なくとも今は人間であることを、知った。
キシャは叫んだ。
「残るべきは射手の家でもなかった! 矢の家でもなかった! 弓の家よ! ウィングボウ家が残るべきだったのよ!」
一際強い光に目を射られ、テスは目を閉じて俯いた。身構える。顔の前に腕をかざし、目をきつく閉ざしても、光は目に届いた。キシャが失明するのではないかとテスは心配した。光は十秒とせず消えた。薄く目を開けると、少女の体がゆっくり前後によろめいていた。すかさず右腕を伸ばし、少女を胸に抱えこんだ。
少女は意識を失っており、化生は消えていた。腕も、拳も、人の形をしたものもなく、空を覆う化生は消えていないものの、凍りついている。
テスは武器を鞘に納め、両腕で少女を横抱きにした。結界の中に駆けこむと、思い出したように、空の化生が蠢き始めた。
「キシャ、キシャ」
テスは結界の中で両膝をつき、少女を揺さぶった。少女は顔をしかめ、呻いたが、目を覚ましそうにない。
「キシャ、どうして書物じゃなくなった?」書物を探すが、どこにも落ちていなければ、浮いてもいなかった。「十六歳の少女のお前より、八百年生きた書物のお前のほうが強いだろうに……」
だが、言っても仕方がないことで、それに助けられたことも確かだった。テスは少女を背負い、村へと歩き始めた。そこにまだ人間の形をした人間がいて、助けてくれることに賭けた。
歩き始めてすぐ、少女が背中で呻いた。身じろぎし、テスの肩に預けていた顎を離す。
「起きたか」テスは目覚めたばかりの少女に、驚かさぬよう優しく話しかけた。「大丈夫か?」
だが、返ってきた声はひどく驚きに満ちていた。
「誰?」
やはり、出会ったときのキシャではない。あの書物、『亡国記』は消えたのだ。
「キシャ、思い出せるか? 俺はテス。沼の向こうの町で……」
「あたし、キシャなんて名前じゃないわよ!」
テスの肩を強く押して、少女はテスの背から飛び降りた。もしテスが、彼女の膝の後ろに通した腕を放すのが遅れたら、彼女は上半身を舗道に叩きつけていたことだろう。
「誰よ、人の体にべたべたさわって! 誰なのよ! えっ? あたしをどうするつもりだったのよ!?」
「キシャ、落ち着いて聞いて――」
「キシャじゃないって言ってるでしょ! 頭のおかしいスケベ野郎!」
金切り声で罵ると、少女は長いスカートを翻して、村へと駆けていった。
※
テスが村に着くと、村の入り口に大人たちが集まっており、騒然としていた。男の一人が舗道を歩いてくるテスを見て、大声で人混みの奥へと呼ばわった。
「アミルダ!」
村を囲む柵には、舗道を挟みこむように二本の柱が立っており、それが門の代わりだった。テスは門をくぐった所で立ち止まった。敵意に満ちた視線に迎えられ、つい後ずさりしたくなり、それに耐えた。
二つに割れた人だかりの間を、キシャだった少女が小走りでやって来た。アミルダという名らしい。彼女にそう呼びかけた男が、テスから目を逸らさず少女に尋ねた。
「あいつか?」
少女は頷いた。
「あいつよ、人さらい!」
「人さらいなんかじゃない」
テスは憎悪の視線に抗うように、声の調子を少しだけ強くしたが、それでもまだ十分に控えめで、おとなしい声だった。それから、村人たちを納得させられる言い方を考え、いつも通りゆっくり喋った。
「沼のほとりで倒れてたから、保護したんだ」
「嘘つきやがるぜ、ふてぶてしい」太く逞しい腕をした男が、威嚇をこめて舌打ちした。
「アミルダは二ヶ月前に姿を消した。あの馬鹿でかい化生がいて、二ヶ月も沼のほとりで生きてられるわけないだろう」
「沼の反対側で見つけたんだ。反対側の町」
「なんであんな所に」
別の男が鼻で笑う。その男も、他の男たち同様かなり鍛えられた体つきをしていた。肉体労働による鍛えられかただ。季節によっては、海に出て漁師をしているのかもしれない、とテスは想像した。
「あそこには滅んだ町しかない。そんな所にこいつが一人でいたって?」
「事情は俺も知らない」いずれにしろ、食事と宿は求められそうになかった。「でも、俺のことが気に入らないのなら、出ていく」
「待てよ。何さっさと逃げようとしてやがる」
テスを取り囲む半円が狭まった。両側から男たちの腕が伸びてきた。乱暴に取り押さえられる前に、テスは地面を蹴った。風の力を得て飛び上がり、門の上に渡された横木に着地して見下ろすと、門の前に集まる三十人ほどの男女が、あんぐりと口を開けてテスを見上げた。
横木の上からは、村の様子が見渡せた。戸外に出ている人間は百人ほど。小さな村だからこそ、アミルダのような若い女は大切にされているのだろう。そして、空には化生が黒く多い被さり、空を遮っていた。暮れの空の黄色い光芒は、化生の巨躯の及ばぬところから、霧に乗って漂ってくるかのようだった。
取りあえずの安全を確保したテスは、もう一度説得を試みた。
「人さらいは、さらった相手を返しにきたりしない」
だが、その件について彼らはもはやどうでもいい様子だった。
「お前、言葉つかいか?」
誰かが尋ねた。
「ああ」
たちまち驚愕に満ちたざわめきが湧いた。それは次の一言で鎮まった。
「外の化生はどうにかできるか?」
「あれは大きすぎる。俺一人ではどうにもならない。別の言葉つかいが、もっとたくさん要る」
「港町から言葉つかいが結界の修復に来るんだ」
つい先ほどテスを捕まえようとした男が、大声を出した。
「いつ?」
「明日。だが作業してもらうところは結界が破れてて危険なんだ」
囮になれと要求するつもりだろう。
テスは待った。
「だからその、手伝ってほしいんだ。さっきは悪かった。俺たちは本当に困ってるんだよ」
「……俺を拘束したり、武器を取り上げたりしないか?」
代表格らしいその男は、しばらく黙ってから答えた。
「しない。約束する」
テスは横木から飛び降りた。着地の直前、足許に大気のクッションを作る。地面から頭一つ分の高さで静止し、爪先からゆっくり着地した。
アミルダだけが、面白くなさそうにまだテスを睨んでいた。
テスは石造りの小屋に案内された。その小屋の中には、とても出入りなどできそうにない小さな窓があり、テスが入ると、外から鍵がかけられて、鎖の巻かれる音がした。
「なるほど」確かにテスは手足を拘束されず、武器も取り上げられなかった。「……なるほど」
※
零刻の鐘より二時間前に、テスたちは目を覚ます。
料理人たちのために大台所を清掃し、竈に火を入れておくのは見習いたちの仕事だ。最年長の見習い筆頭者が、年少の見習いたちを起こす。見習いたちは箒やはたきを手に跳ね回る。それは食事後に行われる戦闘訓練の、良い準備運動になる。
掃除が一段落すると、午後に行われる教養科目の自習だ。歴史に数学、文学、神学、天文学、そして戦闘技能に関わってくる物理や運動力学、人体学。
だがその前に、今月の清掃担当箇所である礼拝所を掃き清めなければならない。食事前に零刻の礼拝が行われるので、手早くきれいにしなければならない場所だった。とはいえ、礼拝所はいつもきれいだった。四つや五つの子供だって、この場所を汚しはしない。
壁龕(へきがん)の蝋燭に火を入れたテスは、ふと困惑して己の少年の手を見つめた。ここは太陽の王国の礼拝所だろうか? それとも夜の王国の? それによって清掃道具のしまい場所や、清掃方法が違うのだ。礼拝所には窓がなく、空の色を確かめられない。
外に出ようとしたテスは、いつの間にか初老の男が礼拝所にいるのに気が付いた。その男が扉の蝶番を指して
「これはアルミニウムだ」
というのを聞き、ここが太陽の王国だとわかった。
ですが、太陽の王国の大台所には、竈はありません――と言おうとし、困惑した。男の名を思い出せない。じんわりと、胸に焦りが広がる。大切な人で、大切な名だ。すると、温かい気配が、体を包みこんだ。
その温かさで、テスは目を覚ました。テスは少年ではなく、ここはかつて自分が所属していたいかなる場所でもない。礼拝所、仲間たち、温かい気配の源すなわち夢の男、そのすべてが薄れていく。
「――師……」
テスは男の名を呼ぼうとした。だがやはり、わからなかった。頭さえ通らないような小窓から、固いベッドに黄昏の光が差していた。テスは枕の脇に置いた半月刀に手を伸ばす。寝たまま、柄頭の名にぼんやりした視線を注いだ。
『アラク』
体を起こして、白いゴムで後ろ髪を結んだ。湯で顔を洗いたかった。寒かった。壁に引っかけたマントとストールに、ベッドの上から手を伸ばし、着込むと、もう一度毛布を体に巻きつけた。夢で与えられた温かさは、夢の余韻と共に消えていた。
食事の出し入れが行われた小窓に気配を感じてそちらを見ると、老婆が小屋の中を覗きこんでいた。その目から放たれる冷たい気配を、テスは覚えていた。半月刀と銃を腰に装備し、小窓に歩み寄る。
「キシャだな?」
果たして、小窓の外に立つ老婆は『亡国記』を胸に抱えていた。
「今度の憑依先はその人か」
「そうさ」老婆の声で意地悪く笑う。「それにしても、結構な待遇だな。こんな扱いをする連中を本当に助けてやるつもりか?」
「あの人たちは、助けてほしいと思っている」
「おまえは助けてやりたくないと思うこともできる」
テスは目を伏せて、そっと首を横に振った。
「……まあ、よかろう。それでおまえ、あのデカブツと本当にやり合うつもりか?」
「滅ぼすことはできない。そうできれば一番だけど。俺は言葉つかいが修復作業を行う間、化生を引きつけておくだけだ」
「よくそのような危険を冒す気になったものだ」
「……どうにか、する」
「銃を使うといい。刃物よりな。あまり近付かないでおけ」
伏せた目を上げて、テスは老婆をじっと見ながら小首をかしげた。
「何だ」
「どうして、助けてくれたり、助言をくれるんだ?」
「おまえは面白い。それだけだ」
「面白いものは、いずれ飽きる」
「だが今すぐではない」
すると、激しい轟音が、そう遠くないところから聞こえた。家一つが叩き潰された如き轟音で、その音に、男女の金切り声が続いた。空気が恐怖で震えて、テスの頬を刺した。老婆が唇を片方だけ吊り上げる、嫌な笑いを見せた。
「また結界が壊れたようだな」
テスは窓から離れ、戸に飛びついた。だが外から鍵がかかっており、鎖がわたされていた。
誰かが走ってきて、鍵と鎖を外し始めた。その音から、焦る手つきが目に見えるようだった。
「追い払ってくれ!」
日焼けした中年男が、戸を開けるなり上擦った声で訴えた。
「どこにいる?」
「あそこだ!」
と言われても、テスにわかるはずがなかった。外に出て探した。すぐに見つかった。
化生の本体はどこかに隠れたらしい。黄色い光に染まった雲が空一面を覆っており、その雲を背景に、真っ黒い二本の腕が、空中から村の家々のすぐ上に浮いていた。
そのしなやかさで、女の腕だとわかった。腕は家々の屋根の上で交差し、離れ、また交差し、空気をかき回した。静かな舞いを連想させる所作で、指が優雅に動いていた。指が、一つの家の屋根を撫でた。指はその屋根を這い伝い、壁に下りていく。動きにあわせて腕が伸びた。肩も肘もない、のっぺりした腕だった。指は、壁を伝って一つの窓に入っていった。窓の向こうから女と子供の泣き叫ぶ声が聞こえ、すぐやんだ。
「村の中心地には一番頑丈に結界を巡らせたのだが」先ほどの老婆、キシャになった老婆が歩いてきた。「どうしてこんな破れかたをしたんだか」
「先生! いらしてたのですか!」
この老婆が、結界修復に呼ばれた言葉つかいらしかった。
「さて」その老婆、決して化生に狙われぬ人ならぬ存在は、皺だらけの顔をさらに皺だらけにしてテスに微笑みかけた。頭を覆う青いスカーフを、化生の腕をくぐり抜けてきた風が撫でた。風が、化生によって生臭く穢されているように思え、テスは嫌な気分になった。「守ってくれるかね、若いの?」
テスは返事をせずに走り出した。飛んで屋根に上がり、屋根の傾斜を走り続ける。屋根と屋根の間隔が開いているところは、風の助けを借りて飛び越えた。
空中をかき回す二本の腕は、距離が縮まると、テスという餌に気がついた。動きが止まる。テスは化生の真下にある家の屋根に飛び乗り、左側の掌に向けて、両手で銃を構え、撃った。
銃弾を浴びて、掌がひらひらと踊る。指や関節の部分に、何か白いものが見えた。歯だ。先ほど悲鳴をあげたものは、あれに食われたのだろう。
二本の腕が揃ってテスに伸びた。
蚊でも叩くかのように、左右から掌で挟もうとする。
真上に跳び上がって避け、手首に向けて立て続けに連射する。地面に体を接していない状態で銃を撃つと、かなりの反動を体に受けることになる。肩に痛みを感じ、顔をしかめた。
化生の腕が、一瞬で、二本とも視界から消えた。
屋根の上に着地しようとしたテスは、嫌な予感に打たれて素早く大気を蹴った。舞い上がった体の下を、再び現れた真っ黒い腕が薙ぎ払った。
右足の下に足場があることを想像し、それを蹴る。大気が白く濁り、実際に足場を与えた。跳びあがった状態で頭を中心に回転する。頭が下に、足が上になった体勢で両腕を伸ばし、下に見える化生の手の甲に向けて銃を撃ち続けた。
回転が終わり、再び足が下になると、大きく横に跳んだ。それを追って、隠れていたもう一本の腕が空を切った。
テスが屋根に着地すると、二つの掌が屋根の上を這い、テスを探した。隣家の屋根に飛び移ると、黒く大きな両手はその家の屋根をぐしゃりと押し潰した。
「私の家が!」
誰かが憤りをこめて叫んだ。
辻で、言葉つかいの老婆が木の杭に文字を書きこんでいく様子が見えた。
「どうしてくれるのよ、よそ者! 私の家が壊れたじゃない!」
「ざまぁみろじゃん!」アミルダの声。「あんた、あたしの家の栗の木に火ぃつけたことあるじゃん。バチが当たったんだよ!」
テスは更に化生を撃ってから、ひとり言を呟いた。
「その性格は、もともとか……」
「冗談じゃねえ! 俺の家の屋根から下りろ!」
怒りの声が、辻から屋根の上のテスに突き刺さる。そのテスを追い回す腕について、老婆がこう語るのが、空を切る音や銃声の合間に聞こえた。
「たぶん、あれはもう、形喰いになるねぇ」
「先生、形喰いになったらどうなるんですか?」
「彩喰いは、記憶を持つ生き物全てを食う。形喰いは……」
大きく振られた化生の拳が、テスが立つ家の壁の一面にのめりこみ、破壊した。足許が崩れ、すぐさま後ろに後退し、別の屋根へと避難する。
「……形喰いは、形ある全てを食う」
「形あるすべて? じゃあ、家も? 村も?」
「そうとも。どこにも逃げ隠れできんぞ?」
「冗談じゃない! なあ、あいつを退治してくれ! 退治してくれよぉ!」
最後の言葉が自分に向けられるのを感じながら、テスは戦い続けていた。腕は痺れ、肩には感覚がなく、銃を撃てば痛みが走る。構わず撃つと、銃を持った両手が顔の前に跳ね上がってきた。
「先生! あとどれくらいで終わるんですか! 早くしないと俺の家まで壊されちまう!」
「もうちょっと、もうちょっと」老婆の声には全く急いだ様子がなかった。「おおい、ちょっと、その腕を結界の外に引っこませてくれんかね! その隙に閉じるでねえ!」
どうやら、作業は仕上げの段階に入っているようだ。
振り回される腕を空中で回避したテスは、着地すべき家の屋根が破壊されていることに気が付いた。やむなく路上に降りる。道を走り抜け、まだ壊れていない屋根の上に飛び乗り、すぐに化生の注意を自分に引きつけるべく銃を撃った。体が大きくよろめいて、銃を落としそうになる。
「あいつもうヘロヘロじゃねえの」
数人の嘲笑が、すぐ近くで聞こえた。テスは再び屋根の上を跳び、化生に近付いていく。その人達を守るために。
戦いのさなかだというのに、悪魔めいた疑問が頭に浮かんだ。
どうしてこの人達を守らなければならないんだろう、と。
腕の一つが、屋根の上から辻へと伸びた。やはりそれを見ると、銃を構えずにいられなかった。もう撃ちたくない。それでも自分は撃つのだと、テスにはわかっていた。人が食われるのは見たくない。それは恐怖、しかも深い懺悔を伴う恐怖だった。太陽の王国、または夜の王国での経験に起因しているのだろう。撃ちたくない。でも撃つ。でも、もう撃てない――。
『マリステス!』
誰かが頭の中で叫んだ。
夢の男。
あの温かい気配が背中に触れた。背後から、肩に、腕に、そして指先にまで、温かさが広がった。痛みを吸い取り、庇い、支えるように。
声に打ち払われて、邪魔な思念が消えた。
頭の中も、目の前も、真っ白になった。その時、テスにはわかった。
夢はあくまで夢であり、非存在ではない。夢は夢であるがゆえに、妄想でも幻覚でもない、と。
気付いた時には化生が消えていた。それで、自分が銃を撃ち終えたことを理解した。見上げれば、二つの掌はずっと上のほうで何もない場所を撫でている。それが結界の表面、村を守る、修復された天蓋なのだ。掌は、結界を押し、壊そうとしている。不安を誘う光景だった。
あっ、と誰かが叫んだ。
「先生! しっかりしてください!」
老婆が、作業をしていた辻で横ざまに倒れていた。胸にしっかり抱えていた書物は消えていた。老婆を抱き起こした男が脈を取り、震える声で告げた。
「死んでる……」
たちまち、近くの村人が集まってきた。
「ああ、先生、心臓が弱ってたから……」
結界修復の負荷に耐えられなかったのか、またはキシャ、あるいはあの書物の憑依に耐えられなかったのか、テスにはわからないし、両方かもしれない。緊張が解け、急に体が重くなった。
結界はようやく一個、しかも村人たちと修復師の最初の契約にはなかったであろう、壊れたばかりの一個が直されただけだ。だがもう修復師はいない。
体の重さに耐えて路上に下り立ち、辻へ歩いていくと、様々な目、とりわけ気まずさと、媚びるような目がテスを出迎えた。だが、テスへの期待を明確に声に出す者はいなかった。
テスは銃をホルスターに収めた。
「じゃあ、契約終了ってことで……」
彼らに背を向けて、村の出入り口に歩いて行く。背後で低いざわめきが生じた。
「あの野郎がさっさと片付けねぇから、先生が……」
立ち去るテスの足許に、中年の男が呪いをこめて唾を吐いた。
「こんなやり方じゃもう駄目なんだ」背後で別の誰かが言う。「これからは、自分たちで何とかしないと……」
「自分たちで? できるわけないだろう!」
アミルダの横を通り過ぎる時、彼女は忌々しげに舌打ちした。
数々の声が後ろ指をさす。
「俺の家を直していきやがれ」
「役立たず」
テスは完全に村を出るまで、足を止めなかった。
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(※本文中の引用は『新約聖書 原文校訂による口語訳 (フランシスコ会聖書研究所 訳注)』より)