どうやら本格的に書けない時期のようですね。
一日十分くらいは書いているのですが、このペースではいつ書き終わるかわからないので、予告の日付の表示は下げさせていただきます。
ただ、それだけでも寂しいので、代わりの記事を書こうと思います。
20代の女性芸能人が『幸福の科学』という宗教団体に出家して話題になっていますね。
ツイッターで話題を追いかけてみたのですが、出家それ自体と同じくらいに女性芸人の所属企業のブラックぶりが大変センセーショナルであり、『幸福の科学』や宗教そのものに嫌悪感を持つ人もわりかし同情的な発言をしています。
「幼いころから宗教で洗脳されているので抜け出せない、かわいそうな被害者」という見方ですね。
『幸福の科学』ないし宗教が悪、という前提のお話です。
「宗教は悪か」という話になりますと、私自身が宗教の信者なので偏った発言しかできませんから、
「成人済みで自覚的な信仰を持った二世以降の信徒をかわいそうな被害者と呼べるのか」という話をしたいと思います。
これについては思うところがありまして、私の教会には隠れキリシタンの末裔が結構いるのですが、戦国時代からそういう家系なだけあって、宗教教育に熱心なご家庭も珍しくないのですね。
「子供の頃、行きたくもないミサに強制的に連れていかれるのが嫌で仕方がなかった」と言う人もいる。
洗礼と初聖体を終えたらそれきり教会に来なくなる子供も多いと。
ただ、大人になっても洗礼を受けた信徒として教会に来続けている人は、人生のある時点で自ら信仰の道を選んだことになる。
私は二世信徒ではなく、色々とのっぴきならない事情の中で四苦八苦するうちに神と出会い、洗礼に至ったわけですが、この「自ら信仰の道を選ぶ」とはどういうことかと言いますと、「自ら弱みを抱え、それを晒す」ということです。
現代日本においては自覚的な信仰を持つ人間のほうが少数派であり、宗教はいかがわしいもの、危険なもの、何となく近寄らないほうがいいものと見る向きも強い。
つまり信仰を宣言するには、世間一般から「いかがわしく、危険で、何となく近寄らないほうがいい感じがする人」と見られる覚悟も自動的に必要となると。
また、神でも仏でも守護霊様でもご先祖様でもなんでもいいのですが、霊的で超越的な存在を確信し、それに縋る行為自体が、「自分には解決できない問題がある」という自認を前提としているものです。
これは今の時代の自己責任の空気とは相容れない考え方であり、ここから「宗教をやってる人=弱い人」という発想が出てくる。
この点において伝統宗教も新興宗教も違いはないと私は考えているのですが、神だの霊だのいう非科学的なものの実在を確信している時点で、何教だろうと十把一絡げで「あちら側の人」、というのが世の中の平均的な見方でしょう。
(少し無駄話を。
では宗教の信徒は奇異の目で見られるばかりで、自分たちの側に問題はないのか、と言われるとそうとも言い切れないわけですね。
自分の宗教を布教したいあまり人の弱みに付け込んだり、脅したり、相手の大切にしているものや価値観・人生観を否定したり、という行為は残念ながら珍しくない。
よく街中で「悔い改めなさい!」という余計なお世話なテープを流しながら車を回している団体がいますが、まあ、多かれ少なかれあれと同類と見られることも我慢しなければならないわけです。)
ところで、このようにおかしな目で見られがちな少数派である信仰者の道を、そうとわかっていながら進むと決意した人を、誰が「かわいそうな被害者」と言えるのでしょうか? しかも、とっくに分別のつく歳になっている大人をです。
私には偽善者のおためごかしにしか見えないのですが、どうなんでしょうね。
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