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冷凍されたオシドリとチューリップ人の王国

趣味で書いている小説用のブログです。

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蟹好きの人は読まないほうがいいかもしれない、元警官のAさんがカニを食べなくなった理由

忘年会シーズンになると必ず思い出すお話。

以前働いていた職場に、元警察官のAさんがいた。
その人の所属はラーメンの具材を連想させる名前のN海峡で有名なT島県だったのですが、ある日、海から人が上がってこないという通報が入ったんですね。
橋からの飛び降りだったか海難事故だったかはっきり思い出せないのですが、まあとにかく現場に駆け付けたら、ちょうど消防も到着したところだった。

今もそうなのかは知らないのですが、警察と消防は仲が悪かったそうで。
どちらかが先に着いて準備を始めていればよかったのですが、間の悪いことに同時に着いてしまったんですね。
それで案の定、「警察が行け!」「消防が行け!」の押し付け合い。
雄大な大自然及び大乱闘殴り合いブラザーズ開幕の予感を前に現場は緊張に包まれる!
そして、経緯はともかく一番新入りのAさんが先発で海に潜って行方不明者を探すことになった。

行方不明者が消えた地点にボートで乗り付け、海に飛び込む。
海の中って全然視界が効かないそうですね。
とにかく上から見下ろすほど中はきれいなもんじゃない。
ライトで照らすと水は緑色。
なんだかよくわからない白い塵のようなものが、視界一面をざーざー流れていく。
耳もとでゴーゴーと低い音が鳴り続け、うるさい。
でもって寒い。やたらと寒い。
いつ何どき何が現れるかわからない怖さだ。
こんな場所で死体なんか見つかるわけがない……と思いながら海底まで沈んでいくと、少し先の岩のそばに、何か人間らしきシルエットのものがある。

……見つけちゃったよ…………。

そう。ものすごい確率で、この人は一発でご遺体を見つけたわけですね。
ただ一つ気になることがある。
そのご遺体、まるで金粉をまぶしたようにキラキラした光に包まれているのだ。
何だろう、と思いながら近付き、ライトでまっすぐ照らしてみると……。

蟹がぎっしりご遺体を覆いつくし、その肉をちぎっては口に運び、ちぎっては口に運び、を繰り返していた。
光っていたのはライトを反射する蟹の目だったのだ。
そのとき、蟹の光る目が一斉にAさんのほうを見た。少なくともAさんはそう感じた。

ゴボオッ!!!

自分の口から大量の泡が出ていくのがわかる。
酸素の残量を示すメーターがものすごい勢いで減っていく。
恐慌に駆られて海面に飛び出し、ボートの上の上官に取り乱しながら報告する。
「み、み、み、見つけました!」
しかし、見つけたからと言って褒めてもらえる世界ではない。
「何ぃ? 見つけたならお前、どうして拾ってこないんだ!」
「だって、だって、蟹が死体を食べてるんです!!!」
「バカモーン!」拳骨が落ちた。「だったらなおさら早く拾わんかい!」

それ以来Aさんは、絶対に蟹を食べないそうだ。
なんていうか……人が絶対にやりたくない仕事をしてくれる人がいるから世の中は回っているんだなあ、と思ったお話です。


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『いのり☆フェスティバル』こといのフェス名古屋に行ってきました。

キリスト教のイメージって、どんなだろう??

ポジティブなイメージだと、アニメやマンガ、ゲームなどのサブカル分野で目にすることが多いですよね。
直近の出来事で個人的に印象に残っているのは、去年の10月からテレビ放映されて大ヒットしたアニメ「おそ松さん」のファンアートで、天使や悪魔、神父や修道女の衣装を登場人物に着せたイラストがツイッターで流行したこと。
私はこのアニメを見ていないのですが、ツイッターで『#宗教松』と検索すると、いろいろなイラストが出てきます。

「おそ松さん」自体は宗教を扱ったアニメではないと思うのですが、やはり、キリスト教を思わせる装束は着せて可愛い、かっこいいと思えるものではあります。そうですね! 私も教会に行ってて思います。神父様が使ってらっしゃるカソック(スータン)やストラや祭服。あれを着たらどんな人でも7割増しくらいでかっこよく見えること請け合いです(※おい、失礼だぞ)。

例に挙げた「#宗教松」のタグの件でもう少し話を続けさせていただきます。
こちらの検索を試していただいた方はじきに気付くと思います。『宗教』、とあるのだから、仏教や神道をベースにしたイラストがあっても良さそうなのですが、これが不思議と見つからないんですね。探せばあるかもしれませんが、少なくとも私は見たことがないんです。
なので、サブカルチャーの分野のみでモノを言わせていただくならば、『宗教的なもの』と言われれば、教会、十字架、神父や修道女などの『キリスト教的なもの』が多く連想され、キリスト教そのものはともかくとして、この『キリスト教的なもの』はわりあい好意的に受け入れられているのでしょう。



さて、この次からが本題です!



キリスト教教会・団体・サークル、その中でも特に若者をメインターゲットに据えたフリーマーケット、教会版コミケこと『いのフェス』が名古屋で開催されました!

赤を基調としたイケメン天使のアニメ風イラストが目を引くこのフライヤー、キャッチコピーは『天國無双』。恐らくは大ヒットゲーム『戦国無双』シリーズを意識したものでしょう。ちなみに戦国無双がどういうゲームかといいますと、戦国武将を操作して敵の陣地に突入し、兵も将もばっさばっさと斬り捨てていくアクションゲームです。
で、天國無双。いいねえ! この溢れ出る「み国の平和とは何だったのか」感! 大好きだ!

実際に行ってみると、教会版コミケと謳うだけあり、聖書を題材としたコミックやイラストの同人誌、ボードゲーム、書籍やポストカードの展示・販売があり、見ているだけでも楽しかったり(´ω`*)

今回の出展者の中には私が通っている教会の斜め向かいにある女子修道会も含まれており、メダイやロザリオブレスレットなどを販売していました。
その隣でご夫婦で出展されていたのが、横浜からいらした『にこらす本舗』さん! 見ているだけでほっこりするような幸せオーラを放つ、素敵なお二人でした! 天使や聖職者をビーズで描いたアート作品やオリジナルステッカーを販売されていたほか、聖公会のプレイヤーロープ製作の実演をされてらっしゃいました。プレイヤーロープというのを目にするのは初めてだったのですが、これは聖公会版のロザリオのようなもの(ロザリオは、平たく言うと数珠に似た道具。紐に木やビーズでできた珠が通されており、聖母マリアへの祈りを一回唱えるごとに指を隣の珠に移動させることで、何回祈ったか数えられるんですね。ちなみにカトリックのみで使われます)。
そのプレイヤーロープをにこらす本舗さんと一緒に作ることもできたのですが、私はステッカーのみ購入して退場。会場を出てから後悔しました。つ、作ればよかった……。

他にもワインや石鹼を販売する『社会福祉法人ラルシュかなの家』さん、お寺を経営するボードゲームを展示された『ようがくじ「不二の会(ぷにの会)」』さんなど、教派や宗教を超えた人々が集まり様相はなかなかカオス。二時間くらいしか会場にいられなかったのですが、濃い空気を堪能するには十分でした。

さて、そんなポップでカオスで濃ゆいイベントだったわけですが、メインターゲットの若い層の入場者の状況はと言うと……うーん……正直厳しいところがあると言いますか、私はギリ20代なわけだけど、他に10代20代の一般来場者は見かけなかったような……。

たぶん……まあ何ていうか……一般来場者なので気安く無責任なことを言ってしまいますが、若い人はおしゃれなとこしか入らないってことが一つ言えると思うんですよね。
実際に行ってみたら会場が殺風景だった、ていう場合のみならず、いのフェス公式サイトの画像や動画からも会場の無機質さが伝わってきてしまう。
特に今回の会場は、ビルの10階の会議室という点で、集客が絶望的に不利だったのではないかと思う。あれでは目的をもって来た人しか来ない、という状況でも仕方がない。
ビルの一室ではなく、通りに面した貸し切り可のカフェやなんかを借りれれば、また違ってくるのではないかと思うのですが……それなら殺風景にならないように内装に凝る手間も省けるし……難しいかな……。
せっかく面白い人たちが集まっているのに、その点もったいないなあと。

キリスト教的なものは受け入れられている状況ではあるのだから、内輪の世界じゃないよ! 勧誘とか一切ないよ! 誰でも通りすがりに気軽に入ってOK!というところを明るく打ち出していければいいな、というのが会場に足を運んだ上での感想でした。来年もあまり遠方でなければ行きたいな!


私の教会の助任司祭が亡くなられた。

まあ、タイトルの通りの内容の日記です。

私が今年春から通い始めた教会の神父様が1名、10月30日に74歳で帰天されました。
長い間、難民受け入れ問題で戦ってこられた方でした。
祖国に帰ったら殺されてしまう。だけど日本は難民認定の審査が異常に厳しく、尊厳をもって安心して暮らしていくことができない。
そういう人たちのために戦っておられた。

キリスト教界にあって「ホトケのような人だった」と言われるその神父様が激怒されたことがある、と、葬儀ミサで司教様がお話ししてくださいました。
それは、日本に逃れてきた難民の方が指紋登録を要求されたとき。
苦しんでいる人々を更に圧迫するのかと、行政に対してかなり怒りを露わにされたようで。
弱い立場に置かれた人のために怒る人でした。
(※外国人の品位を傷つける行為であるとして、日本では2000年に、外国人登録法による指紋押捺制度は一旦廃止されました。ところが翌年の同時多発テロからまた風向きが変わり、2007年に施行された改正入管法によって、制度復活となりました。)

もとから神秘的なものに惹かれる傾向が強かった私に、そうではなく、目の前にいるたった一人の人、苦境に立たされたその人のために行動するという信仰のありようもある、と気付かせてくださった神父様でした。

式の後にシスターさんとお話しした際、こう言われました。
「天の国に入ったからといって、そこで安穏と生活するわけじゃなく、心配があったら見に来たり、誰かを力づけてくださる。そういう聖人の話がある」と。

だとしたら、人は死んでいなくなるのではない。ずっといるために、いなくなるのだろう。
そう思った葬儀でした。

平日にもかかわらず、たまたま異動に伴う休暇によって参列できた巡りあわせに感謝します。


他人に個性がないならば、自分にも個性がない。

忙しい時期には小説を書く時間など日に四十五分でも作れればいいほうで、私は始業時間より随分早く職場に行って社員食堂で小説を書いている。そこが一番緊張感をもって書ける場所なのだが、食堂のスタッフが朝早くからテレビをつけていて少々うるさいのが難点でもある。

それで先日、ポメラで小説を書きながら民法のニュースを聞くともなしに聞いていると、気になる二つのニュースが耳に入ってきた。
一つは千葉県で自称主婦(何故こんな変な肩書きになったんだ?)の女性が通り魔的犯行を行ったというニュース。
もう一つは大阪でひきこもりの男性が民家に押し入り、一家四人を殺傷したというニュースだった。
生じた結果の深刻さからまあ当然かもしれないが、大阪の事件の報道に比重が置かれるようになり、自称主婦の件はあまり報道されなくなったように思う。ただ、「襲う相手は誰でもよかった」という種類の別々の犯行が半日以内に起きたという点が非常に印象的だった。

「誰でもいいから殺したかった」という犯罪行為自体は目新しいものでないにしても、普通の感覚では、「殺したい」「包丁をもって襲撃したい」と思うとき、その対象は自分にそう思わせた人物に向かうのではないだろうか。
例えば引きこもりの人なら「オレを引きこもりに育てた親が憎い」とか、精神疾患のある人なら「私をこの病気にさせた家庭/職場/学校の奴らが憎い」とか、その正当性はともかくとして、心はそのようによく知っている、身近な他者へ向かうものだと思う。
ところが責任能力が問えるかどうかさえあやふやなレベルで『病んで』しまうと、どうやら心は目の前にいる身近な他者をすっとばして、漠然とした概念としての他人、つまり全く知らない赤の他人に向かってしまうものらしい。

それにしても殺しておきながら「誰でもよかった」とは凄い言い草だが、考えてみれば「誰でもいい」とは「(自分の悪意の対象となる)その人物に個性など必要ない」ということだ。個性が必要ない、ということは、その人は存在しなくてもいい、ということでもある(殺人者が「殺すのは誰でもよかった」と言うのと、ブラック企業の上司が「お前の代わりはいくらでもいる」と言うのは根っこの部分で繋がっていると思う)。

憎い相手を殺したということならば、「相手の個性から発露される発言・行動などによる結果を承服できずに犯行に及んだ」ということでもあるから、かなり間違った行為ではあるものの、前提として相手に個性があることを認めている。自動的に、相手の個性から生じた結果を承服できない自分の個性も自分で認めていることになる。

では、殺す相手に個性を認めていないとなると、殺した自分に対しても個性を認めていないことにならないだろうか。
自分と他者との間に、自分とその他者との関わり合いから生まれた感情が置かれないというのはそういうことだ。
感情が置かれぬままに、殺人という行為がなされた。その点が、非人間的な犯行であると思わされる理由だろう。

知っている人に対してであろうが、知らない人に対してであろうが、他人に個性があることを否定するとき、自分の個性をも否定することになる。そういう個性の否定が人の心に広まったとき、社会は大混乱だろうなあと思ったおはなしです。


改宗した結果殺害された男性の話を聞いた。

 私の教会の神父様がなさった話。

 数年前、中東の某国から来た一人のイスラム教徒が、今私が通っている教会でキリスト教に改宗した。
 中東の国々の中には、イスラム教以外を国教として認めていない国がある。
 改宗は命がけの行為だ。

 司教様を交えて話し合いをしたが、本人の改宗の意志は固く、結局、洗礼を施して彼はキリスト教徒になった。
 その後彼は祖国に帰った。
 少しして、彼が投獄されたという情報が入ってきた。
 そこで、カトリック教会としてさる国際的な人権団体に「信仰を理由に拘束された人がいる、この人が今どうしているか調査してほしい」と依頼した。
 回答は、「その人はもう亡くなっている」というものだった。

 殺されることがわかっていても改宗したかった、キリスト教に希望を置きたかったのだろう。

 たぶん、こういう話をしたらちょっと引いちゃう人のほうが多いと思う。
 自分が殺されるとわかっていても改宗するなんて、宗教ってなんなの? 理解できない。
 というのが一般的な反応だろう。
 
 どうして彼が改宗の道を選んだかは私には知りようもない。
 ただ、その人生は苦しみに満ちたものだったと思う。
 祖国が荒れ果てて、いられなくなり、日本に来た。聞いた話からわかるのはその程度のことだ。
 苦しんで、苦しんで、もう一度希望を探した結果が改宗だったんじゃないだろうか。

 人間にはどうしようもなく暗い一面がある。
 明るいほうを見て暮らしていても、ある日いきなり暗いほうを見せられる。
 暗いほうを見て、見続けて、だけどもう一度明るいほうを見たい、希望を持ちたい……そういうときに、もう一度明るいほうを見ようとするには勇気がいる。
 明るいと思うほうを見ても、それはもう無いのではないか。幻だったのではないか。探しても見つからないのではないか。より深く絶望するだけじゃないか。
 それは恐怖だ。
 だから、人間や世界の明るい面と暗い面の両方を知ってなお明るい面を信じ、明るく生きるには勇気がいる。
 その勇気を与えるものが宗教であり、信仰なのだと思いたい。
 人と人とを争い合わせて命を奪うものではなく。


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