水盆の小屋を出ると、後ろで戸板の外れるガタッという音がした。振り向くと、格子戸が歪んだ枠から半ば押し出され、今にも倒れそうになっていた。小屋は見る影もなく古びていた。風雨で斜めに傾き、屋根には草が生えている。壁は苔で暗い緑色に変じていた。
私は次の二つの考えのうち、どちらかを選ばなければならなかった。小屋がこれほど古びるまでの間、姿かたちを全く変えていないこの私は、世界のどこにも存在していなかったということか(だとしたら、私とは何だ?)。または、小屋が古びているのはここが正しい現実世界ではないからということか、だ。
村に向かい歩いた。道は草に埋もれ、消えていた。だが村を探すのは容易だった。消えた私を探し回る村人たちの声が聞こえたからだ。木の影から、私は寺院と人々を見下ろした。それと二重写しで、滅びた村、誰もいない、建物も半ば崩れ、自然に還りかけた静寂の村を見た。どちらかを選び取らねばならないのだ。だが、わかるのは、私にはどちらも相応しくないことだけだ。
私とは何か。それが、私が私であるうちには知り得ぬことならば、そして私が私には思いもよらぬ存在であるならば。私が存在する不確定の世界も、私には知り得ぬ、私には思いもよらぬ様相を見せなければならない。その様相がより『下』に近いものであるならば。深層に近い層であるならば。
人々の声が拭い去られた。
目を閉じ、再び開けた時、私を取り囲んでいた世界が、初めに語ったあの世界に変じていた。純白の砂の上に聳える壮大なモノリス。そして、真っ白い家々のおかしな街。
私はあの少女を己自身として取りこんで以来、私ではなくなったのだと思う。あの出来事以前の自分をとても遠く感じる。昔の出来事を話す時、当時の自分の言動を他人の言動のように感じた経験は誰にでもあるだろう。ちょうどその具合だ。だから私はこの長い旅を淡々と物語ることができた。傷つけたことや傷ついたことについて何とも思っていない。全ては他人事になった。私は私を他人にした。
旅と旅路と出会った人々は、私をこのように変えた。
では、私は彼らを変えただろうか? 死と死の苦痛以外の何かを与えることができただろうか? そうであれば良いと思う。
私は全ての家を覗いて回った。戸と壁の、壁と床の見分けすらつかない、人を拒む白さ――なめらかな無。調べ終えた家の戸には、ナイフで印を刻んだ。
いくつかの家からは、何らかの気配を感じたりもした。気配はとりとめもない記憶を私に授けた。暖炉、コークス、森、飴、櫂。ミソサザイの記憶を見つけた。幼い子供の頃、あの山中の寺院から、高僧の使いが来た。使いは彼女に跪き、お迎えに上がりました、と言った。その日が、彼女の人生を変えた最も重要な日だったのだろう。明瞭な記憶を得て、私は私の中に彼女の存在を感じた。
彼女の、自分自身を知ろうとする意志は強かった。意志を支える知性を持っていたからだ。頭が悪くて意志が強い人間というのはいない。彼女は今も私と共にあり、私は彼女だ。
正解となる家を見つけた時、予想に反してそこに私の記憶はなかった。ただ床がないだけだった。床下の空間や、家の基礎といったものもなかった。もう何も思い出さなくていいのだ。そのことがどれほど私を安堵させたか、語る言葉はない。床の代わりに大きな穴があった。その深さは全く見通せず、通じる先などわかるべくもなかった。
それこそが正解で、それこそが未知だった。私は体を前に倒し、身を投げた。最後の道。
話はこれで終わりだ。私からはもう語らない。私について人から語られる日を待とう。
最後に一つだけ、落下のさ中、産道のごとき深い闇の中で聞いた声について述べておこうと思う。
声は私にこう言った。
『おめでとう。旅は、じきに終わる』
〈完〉
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