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冷凍されたオシドリとチューリップ人の王国

趣味で書いている小説用のブログです。

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星への道〈未知〉


 水盆の小屋を出ると、後ろで戸板の外れるガタッという音がした。振り向くと、格子戸が歪んだ枠から半ば押し出され、今にも倒れそうになっていた。小屋は見る影もなく古びていた。風雨で斜めに傾き、屋根には草が生えている。壁は苔で暗い緑色に変じていた。
 私は次の二つの考えのうち、どちらかを選ばなければならなかった。小屋がこれほど古びるまでの間、姿かたちを全く変えていないこの私は、世界のどこにも存在していなかったということか(だとしたら、私とは何だ?)。または、小屋が古びているのはここが正しい現実世界ではないからということか、だ。
 村に向かい歩いた。道は草に埋もれ、消えていた。だが村を探すのは容易だった。消えた私を探し回る村人たちの声が聞こえたからだ。木の影から、私は寺院と人々を見下ろした。それと二重写しで、滅びた村、誰もいない、建物も半ば崩れ、自然に還りかけた静寂の村を見た。どちらかを選び取らねばならないのだ。だが、わかるのは、私にはどちらも相応しくないことだけだ。
 私とは何か。それが、私が私であるうちには知り得ぬことならば、そして私が私には思いもよらぬ存在であるならば。私が存在する不確定の世界も、私には知り得ぬ、私には思いもよらぬ様相を見せなければならない。その様相がより『下』に近いものであるならば。深層に近い層であるならば。
 人々の声が拭い去られた。
 目を閉じ、再び開けた時、私を取り囲んでいた世界が、初めに語ったあの世界に変じていた。純白の砂の上に聳える壮大なモノリス。そして、真っ白い家々のおかしな街。

 私はあの少女を己自身として取りこんで以来、私ではなくなったのだと思う。あの出来事以前の自分をとても遠く感じる。昔の出来事を話す時、当時の自分の言動を他人の言動のように感じた経験は誰にでもあるだろう。ちょうどその具合だ。だから私はこの長い旅を淡々と物語ることができた。傷つけたことや傷ついたことについて何とも思っていない。全ては他人事になった。私は私を他人にした。
 旅と旅路と出会った人々は、私をこのように変えた。
 では、私は彼らを変えただろうか? 死と死の苦痛以外の何かを与えることができただろうか? そうであれば良いと思う。

 私は全ての家を覗いて回った。戸と壁の、壁と床の見分けすらつかない、人を拒む白さ――なめらかな無。調べ終えた家の戸には、ナイフで印を刻んだ。
 いくつかの家からは、何らかの気配を感じたりもした。気配はとりとめもない記憶を私に授けた。暖炉、コークス、森、飴、櫂。ミソサザイの記憶を見つけた。幼い子供の頃、あの山中の寺院から、高僧の使いが来た。使いは彼女に跪き、お迎えに上がりました、と言った。その日が、彼女の人生を変えた最も重要な日だったのだろう。明瞭な記憶を得て、私は私の中に彼女の存在を感じた。
 彼女の、自分自身を知ろうとする意志は強かった。意志を支える知性を持っていたからだ。頭が悪くて意志が強い人間というのはいない。彼女は今も私と共にあり、私は彼女だ。
 正解となる家を見つけた時、予想に反してそこに私の記憶はなかった。ただ床がないだけだった。床下の空間や、家の基礎といったものもなかった。もう何も思い出さなくていいのだ。そのことがどれほど私を安堵させたか、語る言葉はない。床の代わりに大きな穴があった。その深さは全く見通せず、通じる先などわかるべくもなかった。
 それこそが正解で、それこそが未知だった。私は体を前に倒し、身を投げた。最後の道。

 話はこれで終わりだ。私からはもう語らない。私について人から語られる日を待とう。
 最後に一つだけ、落下のさ中、産道のごとき深い闇の中で聞いた声について述べておこうと思う。
 声は私にこう言った。

『おめでとう。旅は、じきに終わる』





〈完〉


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星への道〈相克〉


 私は水盆に背を向け、光に染まる格子戸の外に出た。景色はひどくぼやけていた。万物が混沌とした灰色で、地面さえなかった。
 私は地面を想像し、現れよと願った。果たして馴染みのある、私の惑星、私の国、その均質化された文化と文明の産物たる風景が現れた。石畳の町と、石造りの家々。どの壁も、どの窓も、花で飾られている。空が青空になっており、天球儀に覆われていないこと以外、おかしな点はなかった。
 私は馬車道に立っていた。馬車道の交差地点は広場になっており、その中央に、ほころび始めた桜の木があった。
 フクシャだ。
 人々の装いだけは統一感がなかった。おそらく地球のあらゆる時代、あらゆる地域の衣装をまとった人々が存在しており、ほとんどが私には馴染みの薄いものだ。
「旅人さん!」
 後ろからミソサザイの声がした。私は振り向く。私の知っているミソサザイではなかった。白い長いスカートに赤いジャケット、その下にブラウスの襟が見える。髪は短髪で、ハンドバッグを下げていた。
 それは君の文明と地域にあるべき装いではないな。私は言った。それにしても、見事な変わりようだ。
「あなたの記憶から出てきた服をかき集めたの。私、私の文化ではあり得なかった振る舞いだってできるよ」
 腕を、私の腕に絡めてきた。
 一緒に歩きましょう、とミソサザイは言った。「恋人同士みたい」私は君の恋人にふさわしい存在ではない。私は見かけほど若くはないからな。「それはあなたがバカじゃないからよ。バカじゃないから若く見えるの」バカは若く見えないのか?「そうよ。知らなかったの?」
 相変わらずおかしな娘だ。
「私とあなたが恋人同士だとしても、ここでは変なことじゃないわ。誰だって自分自身が好きだもの。本当はね。だからここで私たちを変な目で見る人はいない。みんな私だから」
 ミソサザイは腕を広げた。
「でも、安心して。全員私の支配下にあるわ。私が主人格。彼らは私の深層に組みこんだ」
 どの自分になるも自由自在ということか。
「ええ。どのように扱うのも」
 では、全員が〈この私〉の潜在的な敵か。
 ミソサザイが眉を寄せた。
「ひどいことはしないで。絶対に殺してはだめよ。それは他殺ではないから。ねえ、どうして自殺がいけないことか知ってる?」
 ミソサザイは、消すね、と言った。
 すると、本当に全ての人の姿が消え失せた。
「静かになったね。二人でお話しましょ」ミソサザイが腕を解いた。「どうしてあなたは上を目指すの? 下を目指すというのは、上を目指すためなんでしょう?」
 大人の事情だ。ところで君は消えないのか?
 ミソサザイが消えた。途端に世界が色褪せた。空も、花も、木も、鳥も、御影石のように黒ずんだ。
 私は一軒のホテルの前で立ち止まる。その入り口の扉には、憎しみをこめてこう書かれていた。
『売春婦の息子は帰れ』
「あなたに幸せな記憶はないの?」腹の中から脳へと、ミソサザイの声が届いた。「探すわ。あなたの中から」
 私の中から出ていけ。そう念じる。だが声は体内から語りかけ続けた。
「駄目。人格を手に入れるまで出ていってあげない」
 よかろう。
 ならば追い出してやる。
 私は最適な記憶を並べ、抜き取り、拡張する。フクシャの街に投射する。
 空から色が戻った。透き通る藍色の、明けの空。白く光を放つ天球儀。芽吹き始めた木々と、咲き誇る花々。
 炎。
 フクシャの街は燃えている。
 その火を兜と胸鎧と手甲に宿し、揺らめかせながら、兵士たちが駆けてくる。救世軍の兵士だ。その数は、十は下るまい。私は将校の軍服を着ている。鎧の類はない。サーベルを抜き、自分から敵兵の中に突っこんでいく。敵たちの剣のきらめきの中に飛びこみ、殺戮の舞いを踊る。
 驚きの悲鳴が体内で起こり、ミソサザイが実体を得て私の前に現れた。兵士が消え、炎も消えた。
「なんて恐ろしいことをするの!」
 抗議する彼女に肩をすくめる。君の中には、兵士だった君もいたんじゃないのか?
「その私は、こんな無謀な戦い方はしなかったわ」
 私はサーベルの切っ先をミソサザイに向けた。だが何もせず鞘に収めた。ミソサザイは言う。殺さないのね。賢いわ。さすが私。
 街に人が戻る。
 男。女。子供。大人。老人。一人の人間の中にある、無数の人格。花。風。鳥。虫。石。木。麦。一人の人間の中にある、無数の天性。
 それらが一斉に嘆きの声を上げる。悲鳴のように。一人の中でせめぎあい、鍔迫り合わなければならぬことを嘆いて。
 目的を果たせば、私はもう争うまい。
 だがまだ果たしていない。
 再び色が消えた。人も消えた。声だけが残った。
「私はあなたが死んでも悲しくないわ。私が生き続けるのなら、あなたが生きているのと同じことだもの」
 家が消え、空が消えた。花が消え、地面が消えた。崩れ去った世界が、私を中心に再構成される。
 トレブレニカだ。
 幽霊館。
 私はその廊下を駆け抜ける。毒の包みを携えて、亡霊のようにさまよう黒髪の女を私はすれ違いざま斬り伏せた。
 窓から飛び出す。視界が灰色に染まり、着地と同時に次の世界が現れた。孤児院だ。職員たちが、打ち据えるための棒を手に、子供たちを菜園で働かせている。私は職員たちを斬り刻み、進む。
 記憶の中の影たちに、一言だって話をさせる気はない。記憶を人に渡しもしない。私自身、いつまでも覚えておくつもりはない。
 もう弱かった頃には戻らない。卑屈だった頃には、自分を嫌っていた頃には戻らない。歪められ、支配され、憎みながら生きていた頃には戻らない。そんな思念が私の中に流れこんできた。ああ、これが、私の人生だったのね。遠い異星の私の。辛く、暗かった。戦いの中でしか、生きていけなかった。そしてそのように生きるのが、〈この私〉の天性だった。
 あなたは黒曜石、と、私は旅人に語りかけた。あなたはスズメバチ。あなたは桜。あなたはツバメ。あなたは土。私がかつてそうだったように。
「違う」と、旅人が答えた。「私は剣士で、私は戦士だ」
 だったら、私が剣士で、私が戦士だったのよ。かっこいい! かっこいいわ! 孤独に、高潔に、冷徹に、気高く、闇を裂く戦士!
「全ての力を行使する」旅人は思念を送った。「体力。知力。精神力。生命力。全ての力を解き放つ」声に出されなくても私には聞こえた。人は言葉でできているものね。「私が、私になるために」
 ねえ、旅人さん。記述者に出会うのって、どんな気分でしょうね。剥き出しの天性になって、記述の力で固定されるのって。それでもまだ欠けている部分を、最後にその記述者から奪い去る気分って。全てが終わった後に、真の自己を生きる気分って。
 ねえ、私たちの物語は、どのような視点で語られるべきだと思う?
 再びフクシャの街に戻った。馬車道が交差する地点、桜の木の下で、少女と男が向かい合う。
「私、あなたと一つになってわかったよ。あなたが旅をする理由」
 少女が腕を広げた。
「高いところに行けば見つかるものね。星の高みで見下ろせば、見つけて、導くことができる。恋人を――」
「子供には関係ない」
 男はゆっくり、しかし鋭く言葉を遮った。少女は身震いした。その目は陶然たる光で濡れていた。
「かっこいい……かっこいいよ! 私!」
「埒が明かないな」男はサーベルを手にしたまま肩を竦めた。「勝負のルールを明確にしよう。私は思うのだが、星とは不動のものだ。不動の導き手だ。そうあるべきだと思わないか?」
「ええ」
「ならば」
 男は頷いた。
「こうしよう……」
 地響きが聞こえた。少女は辺りを見回すが、地響きをたてるものの正体は見いだせなかった。男は言葉をしめくくる。
「最後まで平常心を保っていられたほうが勝ちだ」
 男はサーベルを鞘に収めた。掛け金を留め、少女に歩み寄り、真っ黒い目、何の感情も浮かばぬ目をして少女の手を取った。
「私もだ」
「何?」
「私も――」
 地響きが大きくなる。振動が足の裏に伝わる。
 少女にはまだ地響きの正体がわからない。
 男は少女の背に右腕を回し、胸に抱いた。
「――君が死んでも悲しくない」
 次の瞬間。
 巨大な剣が二人の体を串刺しにした。
 少女が体を仰け反らすのを、男は感じた。奥歯に力をこめ、呻きを殺す。
「あっ――」少女は耐えていた。大きく開かれた口からは、血と微かな声しか出てこない。「あ――あ――あ――」
 剣がゆっくりと動いた。
 二人の足は地面を離れる。
 男は意識を保っていた。少女もまた。
 炎が煽る。熱風が二人を包む。
 いつしか、男は左手に、弩を持っていた。引き金に指をかけている。男は口を開く。彼は全く、全く、動じていなかった。剣の持ち主、黒い巨人が、二人を串刺しにした剣を高く掲げる。燃え盛る目が二人を見上げていた。
 男は左腕を動かした。
 宣告する。
「――俺の勝ちだ」
 引き金を引いた。
 火薬の仕込まれた太矢が、巨人を包む業火に吸いこまれていく。
 爆炎と爆風が、少女と男に襲いかかる。
 死にかけた少女が、無音の絶叫を放った。男の腕の中で、少女が死んでいく。焦げていく。
 男は生きていた。
 それでも生きていた。
 喉を焼く熱風の中に、涼しい風を感じていた。
 目を焼く光の中に、優しい夜闇を感じていた。
 男は壊れた体で息を吸う。壊れたことを信じずに。
 少女に聞かせた。
 運命に聞かせた。
 旅路に聞かせた。


「我が名はマグダリス!」


 熱が去る。光が去る。

 私は冷たい空気を吸う。目を開け、夜明けの光を見る。水盆のある小屋にいた。壁にもたれて眠っていたらしい。
 私は立ち上がった。体のどこにもけがはない。水盆の台で、ミソサザイが持ってきた蝋燭が燃え尽きていた。彼女自身のように。
 水盆を覗きこんだ。
 夜明けの光と、私自身の顔が映っていた。
 踵を返す。
 私は水盆に、永遠に背を向けた。


星への道〈本性〉


『心配した』ミソサザイは寄ってきて、水盆の横に燭台を置いた。『あなたってば、好戦的で、見てられない戦い方をして、自分から罠に飛びこんでいくんだもの』
 心配したのは私も同じだ。
 人からツバメに、ツバメから人に姿を変えた娘に、そう言ってやった。
 今まで君はどのような状態にあった? 君は何者だ?
『私、自分を集めてきたの』
 ミソサザイの色白の顔が、蝋燭の火を映していた。その瞳にちらつく影に、私は一羽のツバメを見た。ツバメは風の上を滑り遙かな海を渡る。私は陶器を見た。私はスズメバチを見た。
『私が話したことを覚えてる?』瞬き一つで、ツバメも陶器もスズメバチも消えた。ミソサザイの目が真っ黒になる。『すべての世界のすべての自分が一つになれば、神になるって』
 君は神になるのか?
『ええ。あなたを集めて』
 光が水のように広がる目を見つめながら、私は言葉の意味を吟味する。それから言った。
 私は君ではない。君が私を自分として集める、という行為は成立しない。
 ミソサザイは微笑みながら首を横に振った。
『いいえ。私はあなた。だから出会った。一つになるために。神が出合わせ給うた。私はあなたに会うことを、あなたに会う前から知っていた』
 神託によってか?
『ええ。神託に誤謬はない。偶然もない。この世界を裏返せば私はあなたになる』
 ミソサザイが瞬いた。黄金に実る麦が瞳に映し出された。
『私は麦だったことがある。黒い牛がひく臼で、粉々に製粉された』
 次の瞬きで、麦の穂はきらめく槍の穂に変わる。
『私は兵士だったことがある。こことは違う時空、異なる可能性世界で、敗軍の兵として、カンネーの地に横たわった』
 再びの瞬き。
 今度は何も映さなかった。真っ黒だ。
『あなたは鋭い黒い石だったことがある。祭壇で、神官たちの手に握られ、生け贄の体を切り裂いた。神官たちがその体から心臓を取り出すのを助けた。私は過去、未来、様々な地域の私を見た。だけど遠い異星の私、あなたという私をまだ知らないの』
 彼女は口を閉ざすと、水盆を指さした。ミソサザイから注意を逸らさぬよう、私は横目で水盆を伺う。
 そこには蝋燭の火以外、何も映っていなかった。
 私もミソサザイも。
『このままではいけないわ。黒曜石の本性の人。私でもなく、あなたでもない、分かたれたままではいけない』
 君と私が同一人物だと言うつもりか? 私は言った。とても信じられないな。それで、何が目的だ?
『あなたの人格をちょうだい』
 私は首を横に振る。
 撤回しろ。
 その要求を続けるのなら、私にとっても君にとっても不本意な結果になる。
『あなたは、この旅を続けるのにふさわしいのが〈どの自分〉、どの人格かを知らないわ』
 ミソサザイは撤回しなかった。
 君は知っているのか?
『いいえ。だけど、本来の私、つまりすべての私になる私、私のすべての天性を統べる私は〈この私〉でありたいと思っている。だけど、それはあなたも同じよね』
〈本来の私〉。
 またしてもそんなことを考えなければならないのか。
 この私は、様々な要素からこの私になった。彼女も同じようにこの彼女になった。〈本来の私〉などという存在を認めたら、本質と偶有の問題を避けては通れなくなる。無数の偶有が私を〈この私〉たらしめているが、そのことが〈この私〉を〈本来の私〉とやらいうものからどれほど遠ざけているのか? または近付けているのか? この娘と私、あまりにもかけ離れて見える二つの存在のどちらが〈本来の私〉により近く、それを目指すにふさわしいか?
 検証不能の泥沼だ。そこに突き進むつもりはない。
 だが、私の旅の目的が、避けようもなくその問題へと突き進む性質のものであるならば……。
 ミソサザイが水盆に歩み寄った。
 誰も映らぬ水面を覗きこむ。
 そして顔を上げ、私を見た。真っ黒い目で笑った。
『ねえ、私と勝負しましょうよ』
 その黒さは、私と同類のものだった。
『あなたが勝ったら、私はあなたの一部になってあげる。だけど私が勝ったら、あなたを私の一部にして人格を奪う』
 ……避けて通れぬのなら、突き進むまでだ。
 よかろう。
 私は頷いた。
 すると水盆に、一瞬だけ、私とミソサザイが共に映りこんだ。
 そして、ミソサザイが本体ごと消えた。
 開いたままの戸から、突風が吹き付けた。
『あなたの名前を当ててあげる』
 風は、ミソサザイの声で囁いた。
『私を見つけて。私の本性を暴いて、黒曜石』


星への道〈夢の都〉


 私は尾根に向かって岩場を歩き続けた。
 後ろから誰かがついて来ているのに気が付いた。そう離れてはいない。私は振り返らず、気付いていないふりを続けた。
 後ろの人物が歩調を合わせてきた。足音が私の足音に重なる。警戒を続けると、不意に背後の人物が石を蹴り走り出した。
 私はサーベルに手をかけ、抜きながら振り向いた。
 誰もいなかった。
 人が倒れていたが、それは先刻私が殺した男だった。男が携えていた短い剣も、血にまみれて落ちている。
 私は前に歩き続けていたはずだ。日が西に傾き始めるまでの間……。
 だが、太陽は固定されたように頭上で光を放ち続け、男の体の周りの血はまだ広がり続けている。
 どういうことだろうか?
 私は逡巡の末、再び前を向き歩き出した。
 しばらく経つと、またしても誰かが後ろをついてくるのを感じた。誰がついて来ているかはわかっていた。
 今振り向いたら何が起きるかと私は考えた。何もせず歩き続けていたら、水もなく、食料もない岩場で、同じことを繰り返しながら、体力が尽きるまで歩かされるかもしれない。
 だが振り向くというのも果たしてどうだろう。前を行く私が急に予定調和の行動を拒否したら。後ろを歩く私と戦う羽目に陥る可能性がある。それは避けたい。もし今の私が過去の私を殺したら、もしくは過去の私が今の私を殺したら、どうなる?
 振り向くというのは、相手を(私を)刺激しすぎる。
 考えている間に、後ろの気配が歩調を合わせてきた。もうすぐ走り出すはずだ。
 私は決断を下し、立ち止まった。後ろの気配もすぐに止まった。
 それから、前を向いたまま、後ろ向きに歩き始めた。
 視界の色が変わった。
 陽が朱に色づいたのだ。
 まだ夜には早いが、太陽は西にあった。
 足許に血が見えた。私はやっと振り返った。
 血だまりがあり、死体はなくなっていた。そして、背後の追跡者も、姿を消していた。
 私はまた前へと歩いた。既に二度歩いた道だ。左手側は石礫の斜面で視界を遮られ、右手は深い崖だ。道は緩やかにカーブしている。
 そのカーブで、私はこれまで全く見えていなかったものを見つけた。
 道の分岐だ。
 左の道は石の斜面に沿った、これまで歩き続けた山道。
 もう一つ、右手側へと続く細い下りの道があった。
 肩に止まっていたツバメが、キュイキュイと特徴のある鳴き声をあげた。翼を三角形に広げ、小さな凧のように飛んでいく。私はそれを追うように、右の道へ進んだ。
 細い道だった。足場は悪くない。道の屈折点に差し掛かると、私は息をのんだ。
 数々の斜面と崖に隠されて、眼下に都が広がっていた。四方を森に囲まれた、黒い屋根の連なる、寺院を中心に栄える都。城壁も、楼もない。隠された、しかし無防備な都。
 ツバメの姿は小さな点となり、都に吸いこまれ、見えなくなった。
 そこは、ツバメになる前のまじない師、私が勝手にミソサザイと呼んでいた娘と出会う前に、夢で見た都だった。

 これもまた、何らかの理解できない現象の続きかもしれない。警戒しながらも都へと道を下り始めたのは、私はその都へ行くということを、ずっと前から知っていたからだ(あるいはそのような認識こそまやかしで、罠なのかもしれないが)。
 近付いてみればやはり、都には都を防衛する設備がなかった。見張りの兵士すらいない。二本の柱が門の役目を果たし、門からまっすぐ延びる道には、日暮れ前の賑わいがあった。立ち話をする女たちが道の左右の随所に見られる。家畜の餌を曳く荷車引きや、堆肥を担ぐ男、大工道具を携えてとぼとぼ歩く疲れた若者が道を行き交っていた。
 その人々が一斉に私を見た。
 女たちが、そそくさと雑談を切り上げてそれぞれの家の戸口に入っていく。男たちが、さも初めからそうするつもりだったように脇道に入っていく。通りには西陽が満ち、砂埃が舞うのみとなり、物音がしなくなった。
 その通りの向こうから、二人の男が急ぎ足でやって来た。私の姿を見て走り出す。この時点で、追い出されるだろうと思った。だがそうはならなかった。
 二人の内一人は初老で、お待ちしておりました、と私に言った。長旅で疲れただろうと。そして、私が間もなくここに来ることをわかっていたと。彼らは私に何も言わせなかった。ただついて来るよう言った。歓迎の準備ができていると。本当に歓迎する気があるかどうかは、都の人々の最初の反応でわかるというものだ。二人の男は左右に私を挟み、都の中へと立ち入らせた。左に初老の男。右には、口は笑っているが目は笑っていない、体格のいい中年の男。私は黙ってなりゆきに任せた。
 通りの突き当たりに、赤い門が待ち受けていた。門の左右にはどこまで続くか見極めることもできぬほど長い壁がある。寺院だ。ミソサザイに連れられて行った寺院もこれと同じ様式だった。ただ、こちらの寺院の方が規模が大きいように見える。
 門は開かれていて、見張りもいなかった。初老の男と私が門の先に進む。もう一人の男が、門の外から静かに閂をかけた。私は慌てはしなかった。寺院を囲む壁の高さは身長の二倍と少し。その気になれば脱出できなくはない。
 寺院の中にも人の気配は感じられなかった。正面の大きな木造の建物が礼拝をする場所と思われる。そこから香の煙が漂い出てくるばかりだった(香というものは、私のいた世界にもあった。ただこの世界の香は液状ではない。荒い粉末、または短い円錐状の物で、火をつけて使う。ミソサザイから教わるまで、こうした形状の香があることを私は知らなかった)。
 案内人は正面の建物には私を通さず、その横を通り抜け、大小様々な建物の間を縫い歩いた。どの建物も高く、通路は影に満ち、歩き回っていればすぐに方向感覚を失ってしまう。空が薄紫へと変じていく。私は首筋にちりちりと視線を感じた。人はいる。息を殺している。とうとう一つの建物へと私は通された。
 その建物の内部には生活感が満ちていた。階上からざわめく声が聞こえてくる。案内人は暗い階段を上り、幾つもの声を通り過ぎて、人気のない最上階にたどり着いた。窓の鎧戸は開け放たれているが、そこから見える空はもう濃い紫色で、明かりはほぼ入ってこない。
 私は廊下の突き当たりの部屋に通された。かなり暗いが、寝具が整えられ、すぐに休める状態となっているのがわかる。案内人は私に、ここで待てと言った。私は椅子に腰掛け、小さな窓の向こうで、油に浸した草の照明によって広い敷地の様々な建物が照らされているのを見た。
 長くは待たなかった。太い蝋燭を手に、老人が入ってきた。案内人の初老の男が禿げ上がっていたのとは対照的に、老人の髪は長く、蝋燭一本の光ではよくわからないが恐らく灰色をしている。同じ色の髭もまた長かった。平たい顔には太い皺が幾筋も刻まれ、眼光が鋭いわりに、全体的には穏やかな印象だった。
 燭台を丸い卓に置き、老人はゆったりした服の袖を払って私の向かいに座った。
 体調は悪くないか、まず老人は気遣った。問題ない旨答えると、頷きながら、しばらくここで暮らすようにと言った。
 旅の途上であり、この場所に長居はできない。老人はその答えに、一刻を争う旅かね、と、平板な口調で返した。
 この都にいれば、何の問題も起きない。老人は言う。続けて、都の外がいかに狂っているかを私に説く。侵略。内乱。干魃。飢饉。重税。圧政。ここには何もない、と。
 都を守る設備が何もないのは、自分たちが『狂った』侵略に晒されることはないと信じているからか。私はそう尋ねた。そうだ、と老人は答えた。
 おかしな、狂ったような体験を都の外でしなかったか。老人は尋ね返した。
 具体的には、人が動物になるなど。
 他には、誰もいないのに声が聞こえる。
 よく聞く話としては、もう一人の自分を見たとか。
 誰かが後をつけてくる気配を感じたとか。
 覚えはないかね?
 そのような経験はない。私は答える。人を狂人扱いするな。老人の目の光は動かない。信じていないのだとわかる。だが追及はしなかった。ただ一言、外から来る者は皆狂っておる、と呟いただけだった。
 最後に老人は、私の武器を預かりたいと言った。私はそれを拒んだ。それでも老人は粘った。
 人が一人殺されたのだと、老人は眉間に皺を寄せた。都の外の岩場で、男が殺された。無害な男だった。殺される理由は何もない……と。
 知らないな。私は首を横に振り、言う。私は武器を持たぬ相手に対して剣を抜くことは決してない。疑うのなら、別の相手にしろ。老人は話を変え、私の名を尋ねる。名乗るのを拒むと、名を与えようとした。私はそれも拒んだ。
 会話が途切れて夜が部屋に満ちた。ここが狂人、少なくともそう判断された人間の隔離所であることは、説明がなくてもわかる。私は狂人か? そう問うと、老人は困ったような目で、人が一人殺されたのですよ、その意味が分かりますか、と言った。それからいそいそと立ち上がる。すると階下から、喚き叫ぶ男の声が聞こえた。あれはどういう狂人だ? 老人は、日が暮れても眠りたがらない狂人だと答えた。続いて女の泣き叫ぶ声が響いた。あの女はどういう狂人だ? 彼女は新しく来た人間を(つまり私を)自分の息子だと思いこんでいる狂人だ、とのことだった。燭台を手に取る老人に、最後の問いかけをした。
 私はどういう狂人だ?
 名がないという狂気だ。
 狂人、という表現を、私に対してはしなかった。それが優しさのつもりだろうか? 
 本来ならば日暮れと同時に眠らなければならない。だが今日は特別に、粥を持ってこさせる。老人はそう告げ、出ていった。その言葉の通り、少年が水と粥を持ってきた。怯えた少年は一言も口をきかずに急いで出ていった。そして、外から鍵をした。私はその粥を食べた。夜明け前に雨音で目覚めて以来、ようやく口にする固形物だった。
 服を着替え、寝台に横になった。うつ伏せになったり横向きになったりするうちに、ようやく眠気がきた。
 浅いまどろみの中で、私は遠い声を聞いた。今どこにいるの。ミソサザイが叫んでいる。少し目覚め、また眠った。次の夢ではミソサザイがはっきり姿を現した。心配した、と言って怒り、今行くからとまた叫んだ。
 窓の鎧戸に何かが当たる音で目が覚めた。
 すぐに起き上がり、窓を開け放つ。
 星以外何も見えない。
 星を背景に、何かの影がちらちらと宙を踊る。影が小さく鳴いた。ツバメだとわかった。出てこいと促しているのだ。
 私は窓枠に手をかけ、じっと真下に目を凝らした。
 ここは五階だ。
 士官学生時代、私は毎日、着地の訓練と称して校舎の外階段の踊り場から飛び降りていた。二階、三階、四階から、最終学年では五階から。そんな酔狂な自主訓練をしていたのは私だけだ。降りられない高さではない。問題は着地点が見えないことだ。闇。闇。黒。他に何も見えない。私は没収を免れた武器を帯に差した。再び真下に目を凝らす。やはり何も見えなかったし、何度試みても同じだろう。
 恐怖心がないということはない。それでも体は覚えているはずだ。建物の五階から飛び降りるという感覚を。私は賭けた。窓枠を蹴り、宙に身を投げた。体を捻らせる。爪先が地に触れた。それを知覚するより早く、爪先から膝へ、膝から腰へ、腰から背中へと、衝撃を分散させながら地面を転がった。完璧な着地だった。痛みはあるが、ただの着地の衝撃であり、折れたり捻ったりはしていない(嫌みを言われずに済みそうだ……『五階から飛び降りるという狂気だ』)。
 チチ、チチ、とツバメの声がする。角から角へ、建物から建物へと飛び回り、私をどこかへ導こうとする。建物の反響で声の方向を間違えれば、ツバメはすぐに寄ってきて、バサバサと顔の周りで羽ばたいた。障害物の近くでは、キュイキュイという声を出した。
 私は手探りで歩いた。速度はどうしようもなく遅く、油断すればすぐ、右に進んでいるのか左に進んでいるのかさえわからなくなる。
 ジャー、という声で、ツバメが注意を促した。足下の感触が変わった。砂地が終わり、石の地面になる。寺院の敷地を抜けたのだろうか? 小枝を踏んだ。音で乾いた枝だとわかる。持ち出した火打ち石を袂(たもと)から出し、一回で火をつけた。その一回で誰かを起こしてしまったなら不運だが、すぐに私の居所がわかるということはないだろう。ツバメの影が、点のように小さな火の周りを飛び回る。前方で、再びジャーと鳴いた。爪先に何かが触れた。しゃがみこみ、火のついた小枝を近付けた。階段があった。それを慎重に上る。五段で終わった。その上の建物には鍵はついていなかった。格子戸を開けた。闇の重圧を払うにはあまりにも弱々しい火を前方に突きだした。
 何かの台が見えた。
 台の上に、大きな器のような物がある。
 水盆だった。
 そうとわかった途端に火が消えた。
 闇がのしかかってくる。
 ここに導かれたというのなら、理由があるはずだ。何かをするか、何かを見るか。だが暗くて何も見えない。
 手探りで、もう一度照明となる物を探しに行くべきか……。
『これを使うといいわ』
 若い女の声がした。ごく間近、同じ建物の中で。
 振り向いた。火が見えた。太い蝋燭だ。
 蝋燭が、燭台を持つミソサザイの笑顔を照らしていた。


星への道〈魔の山〉


 それからは、ツバメの案内で山中を歩き続けた。ツバメが私の肩から飛び立ち、鳴いて道を示す。私がその道を辿る。本当にこれでいいのかと思う道もあったが、そういう時はしばしば別の道に追っ手の気配を感じた。追っ手は二日もすればいなくなった。私は山を縦走しているのだと思う。四日間、尾根が晴れたことはない。いつも霧がかかっていた。
 私は火打ち石を拾った。川魚を焼いて食べ、ツバメは私がどかした石の下にいるざざ虫を食べた。菱形の嘴で虫を丸飲みにする姿を見て、私は疑問に思う。ツバメにどれほど人間としての意識が残っているだろう? 早朝と夕方にはいつも通り剣術の訓練をする。夜はツバメを左右どちらかの掌に入れて眠った。夢には少女ミソサザイが出てくる。ニコニコしながら、うつ伏せで寝ると危ないよ、息ができなくなるよと言う。私は、それは赤子だけだと応じる。私の方から彼女に聞くべきことがあるのだが、夢の中ではそうした大事なことは思い出されない。
 葉を打つ雨の音で目を覚ました。小降りで、木の下にいる限りは、すぐにずぶ濡れになる心配はなさそうだった。じっと待つと闇が薄れてきた。足もとが見える程度に明るくなると、肩にツバメを乗せて歩き出した。ツバメが沢の上を飛び、チチ、チチ、と鳴く。共に沢を遡った。沢の上流には、巨大な岩で囲まれたごく浅い洞窟があった。そこから沢の水が沸いていた。洞窟に入るや、たちまち本降りになった。私は洞窟の土壁に背を預けて座り、目を閉じ、体力の消耗を抑える。その内眠りこんだ。
『おれは、奴らが誰も岩陰から動かぬのを不思議に思った』
 まどろんでいると、洞窟の奥からそう声が聞こえてきた。
『槍と弩を抱え、奴らはすぐにでも戦えるはずだった。だが誰も立ち上がらなかった。無表情でおれを見るばかりだった。おれは、奴らをその場で処刑した』
 私は呼吸を殺し、神経を研ぎ澄ませて周囲の気配を探る。だがやはり、何の気配も感じられなかった。
『おれは他の兵を率い、歩いた』
 乾いた木の枝が手許にあった。火打ち石を鳴らす。
『そのうちに、一匹の猿が、自分の影に襲いかかり、食らおうとしているのを見た。しばらく進むと、おれは奴らが岩陰から出てこなかった理由がわかった』
 何度目かで、ようやく枝に火がついた。
『それは、あまりに自然の理に反する理由であり、出来事だった。おれは寿命を悟った』
 外の光は非常にうっすらとだが、洞窟の突き当たりにまで届いている。燃える枝を手に奥へ進み、声の発生源を探した。
『速やかに受け入れよ』
 見つけた。気配がないのもそのはずで、白骨死体だった。
『変容か破壊だ。変われなければ壊される』
 動物に食い荒らされたようで、骨はあちこちに散乱していた。衣服はカビと苔に覆われ、自然に還りかけている。
 人が鳥になるくらいだ。死体が喋ることもあろう。
『起きること全てに意味がある。だが全ての起きることに意味を求めるな。それは道ではない』
 そして頭蓋骨はというと、割れた後頭部から右目へと貫通し、シダ科の植物が生えていた。
『道とはどこかに通じているべきものだ。願わくば目的地に。そうだろう?』
 屈みこんで目を凝らせば、小さな虫たちが、茶色く汚れた頭蓋骨の中で蠢いている。
『おれは狭い道を歩いた』
 声は続く。
『意味と狂人の道を』
 私はすぐに立ち上がり、頭蓋骨から火を遠ざけた。だが声は、私の行動に対しても何ら変わらず、単調に続いた。
『歩き続けた。出口がないことには気付いていた。罠に落ちたのだと。それでも出口を探す以外、どうすべきだったというのだ?』
 頭蓋骨に背を向け、遠ざかる。外は雨の幕で白く、止む気配はない。
『今すぐ外に出ろ』
 私は洞窟の出入り口で振り返る。
『ここにいてはいけない。出るんだ。早く』
 木の枝を、溜まった湧き水に投げ入れた。火はたちどころに消え、煙が僅かに立った。
『さあ。大変なことになるぞ』
 腕を上げ、ツバメに指を突き出す。地面にとまっていたツバメはすぐに飛んで指に止まった。
『出るんだ』
 ツバメは私を凝視する。私は見つめ返す。尋ねた。私は狂っているのか? 
『出なければいけない』
 ツバメは鳴かず、羽ばたかず、首を傾げもしない。ただ私を見つめ続ける。
『早く出ろ。間に合わなくなる』
 初めて声に苛立ちが混じった。
『出ろ!』
 直後、紫がかった閃光と轟音が同時に起きた。洞窟のすぐ外の木に雷が直撃し、燃え上がった。顔にびりびりと余韻が伝わる。火に包まれた大枝が地面に落ちてきた。木は表面を黒焦げにしながら燃え続けている。雨が火を消すだろう。声は二度と聞こえなかった。
 何故、声は私を殺そうとしたのだ?
 何故、ツバメはあの時ばかりは何もしようとしなかったのだ?
 私に意味はわからない。
 今でもわからない。

 雨がやみ、ぬかるんだ道を再び歩き始めた。青空が見え、日が差して、木の葉の陰影を土につけた。
 植生が変わった。
 森が終わり、草や花が這うのみとなり、その後岩場となった。
 誰かが喋った。
 突然であったのと、低く呟くような声だったため、何と言ったかわからなかった。私が歩くのに合わせてついて来る。
『やめなさい!』
 声がヒステリックな女の声に変わったので、急に聞き取れるようになった。
 何より、知っている声だった。
『そんな生まれの人なんて、どういう病気を持ってるかわからないじゃない! 梅毒をうつされたらどうするの!』
『性病検査を受けてくれたまえ』男の声に戻る。今度ははっきりと聞こえた。『医師の診断書を提出するんだ。それまで娘との交際を許可するわけにはいかん』
 私は振り向く。私の影が、大きく両腕を広げ、身振りを交えて話していた。
『それくらいは当然許されるべき要求だ。侮辱だと思ってもらっては困る』
 岩陰に入った。私の影が岩陰に溶けこむと声は消え、岩陰から出るとまた始まった。
『――愛しているならできるだろう。できないというのなら、所詮その程度の愛ということだ。医者なら今すぐ紹介する。答えてもらおうじゃないか。できるか? できないか?』
 ツバメは怒ったようにチチ、と鳴き、ジャー、と警戒音を発すると、肩から飛び立った。何かを攻撃しに行ったようだ。
 私は影と声を無視し、歩き続けた。
 霧が見えてきた。霧の中に入ると、声は聞こえなくなった。
 ツバメはなかなか帰ってこない。霧で見失ったのだろうか?
 霧の向こうにぼんやりと、人の影が見えた。
 私は先行者と歩調を合わせながら観察した。
 距離が近付くにつれ、はっきり見えてくる。
 黒い髪を腰近くまで伸ばし、一本の三つ編みにしている。黒く汚れた服。左の腰に剣。右の腰は、よく見れば帯が膨らんでいる。補助の武器を隠しているのだろう。その肩幅。その姿勢。その装い。
 それは、間違いなく私だった。
 距離は十歩といったところだろう。
 殺そう、と思った。私は私一人いれば十分だ。
 右手をサーベルの柄にかけ、左手にナイフを持つ。緊張を殺すのに必死だった。私が襲いかかってきたら、私は勝てるだろうか? 確実に殺すなら不意を突くしかない。どうしたら私は私の不意を突けるだろう。あるいは私のことだから、背後の私の存在にはとうに気付いているかもしれない。どちらかの手にナイフを握っていて、刃を手首に押し付ける形で隠しているかもしれない。
 歩調を速める。考えろ。私の死角を。私が気を取られる場所を。私の意識が回っていない場所を。
 石を蹴った。
 サーベルを抜き、飛びかかる。
 前の私が身構えるのを見た。
 私は素早く振り返り、真後ろを攻撃した。
 死角。意識の回っていない場所。背後こそそれだからだ。
 サーベルが人体に深々と突き刺さる感触があった。私が別の何者かに刺されたり、斬られることはなかった。
 修行者だろうか? 痩せた男だった。短い剣を握っていたが、石の上に落とした。飛び出した目で私を見つめ、血を吐き跪く。私は男の胸からサーベルを抜いた。
 男が伏すと同時に、嘘のように霧が晴れた。太陽が私の影を作ったが、影はもう喋らなかった。
 さまよっていたツバメが私を見つけ、肩に止まり鳴きわめいた。


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